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還る者

海辺の町へ

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 翌朝。レイラが起きてくると、レムは窓辺の席でただずんでいた。いつも読んでいるブリチェスター・ウィークリー・ニュース紙も今日は机に伏せられている。
「おはようございます、お兄さま。ご機嫌はいかが?」
 気の利く少女が敢えていつも通りの挨拶をしてみせると、レムは穏やかな表情で振り向いた。
「おはよう。レイラ。もちろん最悪の気分だよ。だけどもう大丈夫。切り替えるだけの時間はあったからね」
 平気な顔で言ってのけるレムの様子に、レイラは安心を覚えた。少々不遜にすら思えるその態度こそが、いつも見てきた『お兄さま』の姿だったからだ。
「そうでしたの……朝食はもう済ませまして?」
「いや、まだだよ。キッチンでマリアが準備してくれているはずだ。一緒に食べようか」
 レムの言葉にレイラの顔はパッと笑顔になる。
 昨日はどうなることか不安で仕方なかったが、考えすぎだったのかもしれない。十二歳らしい、少し能天気な気持ちでレイラは朝食を受け取りに向かった。

「それで、結局あの本には何が書かれていましたの?」
 レイラが何気ない気持ちで放った質問に、レムの表情は曇る。
「あっ、申し訳ありません。その、話したくない内容であれば全然……」
「……いや、少し話しておこう。今回の捜査に関係がないとは言えないからね」
 そう前置きして、レムはフォークを置いた。言葉を選び少しずつ話し始める。
「『星と深海の父』について、具体的な記述は無かった。もしかしたらそれが出てくる前に僕が本を閉じてしまっただけかもしれないが……」
「途中で読むのをやめてしまわれたのですか?」
 その疑問に、レイラは深く頷く。
「うん。内容が難解であったから今日中に読み終わることは難しいと判断した……それになにより、とてもじゃないが読んでいたいと思える本ではなくて、ね」
「そうでしたの……」
「それで、『星と深海の父』という言葉はでてこなかったが、それと判断してもおかしくない存在については書かれていたよ」
「本当ですか!」
 その情報にレイラは驚いた。昨日レムが、欲しい情報はなかったと言っていたからだ。
「ああ、本当だよ。だけど、そこからアーネストの行方を推測できそうな情報は得られなかった。まったく、骨折り損とはこのことだね」
 レイラはまだ幼いが、同年代の中では頭ひとつ抜けて聡い少女であった。だから、軽口を叩くレムの笑顔が作り笑いだと、昨日の憂いは杞憂などではなかったのだと、レイラは悟っていた。
 本当は聞きたい。何が書いてあったのか、何がそこまでレムの笑顔を曇らせるのか。
 しかし、それをすることでレムに不快な思いをさせてしまうことも、レイラは理解していた。
「そうでしたの。それでは今日も地道に聞き込みですわね。頑張りましょう、お兄さま」
 だから、そう言って笑ってみせる。尊敬する『お兄さま』を安心させるために。憂いの色など感じさせない、十二歳の少女らしい笑顔で。


「しかし、アテもなく聞き込みをするというのも中々上手くいかないものだね」
「そうですわね……流石に少し疲れてきましたわ」
 二人がそうボヤいたのは、聞き込みを始めて三時間程経った頃のことだった。
「ロウアー・ブリチェスターで孤児の人攫いがあったかもしれないことは分かったけど、それはまた別の事件だろうしな……」
「それはそれで気にはなりますけどね」
 聞き込みをしていたのはブリチェスター大学の周辺。人通りも多いため目撃情報もあると踏んだのだが、どうやら見通しが甘かったようだ。
「仕方がない。駅で聞き込みをしよう。もしかしたら街を出ているかもしれない」

 向かったのはブリチェスター中央駅。商業都市であるブリチェスターに相応しい、程々に立派な駅舎は地元住民の自慢となっている。
「すいません駅員さん、少しお伺いしたいのですが……」
 駅舎にてレムが若くて随分と細身の駅員に声をかけるも、駅員は一瞥したのみで興味の視線を向けてはくれなかった。
「まあ! なんですの、あの駅員。お兄さまが話しかけているというのに……!」
「落ち着いてレイラ。駅員さんは悪くないよ。僕の質問に答えたところで利益なんてないからね。だから……」
 レイラが鞄を探る。取り出したのは五枚の一ペニー銅貨であった。
「駅員さん、これでどうかな。少しお話するだけなら充分すぎる報酬だと思うけど」
 光るものを差し出すと駅員はそれを受け取り、仕方がないと言わんばかりに口を開いた。
「それで、なにが聞きたいんだ?」
 金によって態度を変えた駅員にレイラは軽蔑した眼差しを向けたが、レムはそれに構わず話を進める。
「体の大きな、それでいて様子のおかしい男をここ数日で見た覚えはありませんか?」
「そう言われても、駅の利用者なんていくらでもいるからなぁ……ん? 待てよ。様子のおかしな大男、いたなぁ」
 意外にもアタリを引いたレムは声のトーンをひとつ上げた。
「本当かい! いつ、どこに向かったかはわかるかな?」
「それがアンタらの探してる男かどうかは知らねぇが……そいつなら何人かの子供を連れて、たしか港町の方へ向かったよ」
「港町? それはまた随分と遠いですね。街の名前はわかりますか?」
「ああ。切符を見たからな。奴が向かったのは……」


「この寂れた港町というわけだね」
 その日の夜、レムとレイラ、そしてジジは海沿いの町の駅舎にいた。
「なんで俺までこんなとこ来なきゃいけねぇんだよ……」
 ようやく店に戻ってきていたジジはなんとも不服そうにボヤく。レイラがそれを睨むが、ジジはもちろん知らん顔だ。
「仕方ないだろう? 僕だって君みたいなナンパ男を連れてきたくはなかったが、相手は大の男だ。何も無いとは限らない」
「まあそうかもしれんが……仕方ねぇなぁ。そんでこれからどこに行くんだよ」
「聞き込みしかないが……この時間だと人通りは多くない。寂れた町とは行ってもパブの一つくらいは探せばあるだろう。そこで聞いてみよう」
 そう決めて駅舎から出ると、田舎らしい暗闇がそこらじゅうに蔓延っていて、灯りのついている家屋はそう多くない。そのため、一クォーターとしない内にパブを見つけることができた。
 レムが重たいドアを開けると、店中の視線が集まった。しかも、レムが男装の麗人と見るやいなや、好奇の目を向けてくる者がほとんどだ。
「いらっしゃい。おや、見ない顔だね。この町にお客さんかい? 珍しいこともあるもんだ」
 軽薄そうな店主が声をかけてくる。レムは野暮な視線を気にすることなく中に入っていった。
「よそ者三人だ。少し訊ねたいことがあってね……折角港町に来たんだ。おすすめの魚介類ってあるかい?」
「それなら良い牡蠣が入ってる。食べていきな。飲み物はジンでいいか?」
「いや、ひとつは紅茶で頼む」
「あいよ」
 割と話の通じそうな店主で良かったと、レムは木くずの出た椅子に腰掛ける。
 ジジとレイラは、周囲に少々威嚇的な雰囲気を出しつつそれに倣った。
「二人とも、それじゃあ知ってることも教えてくれない者だよ。あまり警戒心を煽るのは感心しないな」
「ですがお兄さま……!」
 レイラが食い下がろうとすると、レムは彼女の唇に人差し指を優しく押し当てた。
「僕は気にしないよ。どうせ長い付き合いになる人達じゃあない。一々腹を立てるのも疲れるし、その程度で僕の誇りは失われないさ……だけど、ありがとう。レイラ」
 レムにそこまで言われては、レイラも騒ぎ立てるわけにはいかない。納得はいかなかったが、ここは渋々引き下がった。
「はっ。随分と賢いじゃねぇか、レイラ」
「そりゃあ、英国紳士かつ探偵だからね。どこぞの間抜けなイタリアンよりは賢いだろうよ」
 軽口を言い返すとジジはムッと顔を顰めてみせたが、不服そうな顔のまま黙り込み、それ以上なにか言うことはなかった。
「ビーフ・アンド・オイスターパイに飲み物だ」
 店主がそう言ってパイ料理とジン、レイラには紅茶を差し出す。
 港町なのだからてっきり生牡蠣が出てくると思っていたジジはより一層眉を顰めて、乱暴にそれを口にした。
「それで? 聞きたいことってのはなんだ?」
「人を探しているんだが……少しばかり様子のおかしな大男を見なかったかい? そいつはどうやら数人の子供を連れてるらしいんだけど」
 訊ねると、店主はまるで牛程に大きな虫でも見たような顔をして口を開いた。
「ああ。そいつなら見たよ。ボロっちい布切れみたいな服の子供を何人か連れてた」
 マスターの言葉に、レイラがハッと顔を上げる。
「ボロ布を……? まさかお兄さま……!」
「……そう考えるのが妥当だろうね。ところでマスター、そいつが今どこにいるかはわかるかい?」
「海の方に行くって言ってたよ……心中ならやめとけって、俺は言ったんだけどな。奴さん、話にならんかったよ! アンタらがどうしてあいつを追っかけてるかは知らんが、諦めな。あれはイっちまってる奴の目だ」
 店主は確信を持って言い放つ。どうにもアーネストを狂人と信じて疑っていないようだ。
「海……ですか。ありがとうございます」
 レムは店主にお礼のチップをいくらか払い、二人と顔を見合わせると急いで食事に口をつけた。
 寂れた港町のビーフ・アンド・オイスターパイは、あまり味がしなかった。
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