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航悠編
終、果てなき世界
しおりを挟むシルキアとの戦の終結から半年が経ったある秋の日。陽連一の妓楼、薫風楼の裏門から一人の女が足を踏み出した。
上品な藤色の衣をまとった女は派手な歩揺も肢体を強調する着付けもしておらず、一見すると玄人の妓には見えない。だが地味な化粧をしていても磨き上げた美貌は隠しようもなく、道行く男たちの中にはそれが薫風楼の看板妓女だった藍良だと気付く者もいた。
ちらちらと向けられる視線を泰然と受け流し、堂々たる態度の藍良は一人で花街を歩く。
どこの貴族か豪商に身請けされたのかと男たちがその後ろ姿を見守っていると、花街の終わりでひょろりと背の高い男が待っていた。
どこぞの富豪の下男が迎えに来たのか――その細い男と連れ立って歩き始めた藍良を、男たちは惜別の想いで見送った。
――その男が、まさか本当の『旦那』になるとは思いもせずに。
「お勤め、お疲れさんっした。……いいんすか? 馬車ぐらい用意できたのに」
「いいのよ。だって、節約しなくちゃでしょ? さて今日からのあたしの家はどこかしら。もちろん絹の布団が準備されてるのよね?」
「すいやせん、綿です。あ、でもめちゃくちゃ値切って質のいいやつ買っときましたから」
明るい笑みで答えた青竹に、藍良もまた飾らない笑みで返した。
それからさらに、半年以上の月日が流れた。
「藍良せんせー。書き取り、おわったー」
「あら、早いのね。どれどれ……うん、綺麗に書けているじゃない。読み書きって本当に大事だからね」
覚えたての文字をいくつも紙に記してきた女の子に微笑むと、彼女ははにかむように笑う。すると、その隣に座っていた男の子がドタドタとやってきた。
「せんせーせんせー! オレも書けた! せんせーへのこいぶみ!」
「あらぁ。あたしにくれるの? ……ふふ。ここ、字が間違ってるわよ。また直して持っていらっしゃい」
「せっ、先生! おれも書く……!」
室内にいた男の子たちがいっせいに色めき立った、そのとき。スパンと扉を開けて、細い目のひょろ高い男が二階から降りてきた。
「――おら、ガキども。次は算術の時間だ。とっとと席に戻れ! つか、散れっ!」
「えー! 早ぇよ青竹せんせー。藍良せんせー取られたからって、しっとするなよなー」
「嫉妬じゃねえよ。お前らのモンでもねえっつの。ほらガキども、宿題ちゃんとやってきただろうな」
「ちぇっ。糸目のくせにさー。それでホントに見えてんのかよ」
「糸目じゃねえよ。ちゃんと見えてんだよ」
宿題を回収して課題を配った青竹が、正面の文机に腰を下ろす。藍良が道具を片付けると青竹は深い溜息をついた。
「……くそ、猿みてーな顔しやがって。誰かを彷彿とさせるな。これだからガキは嫌なんだ」
「ふふ。……でも青竹君の教え方、親御さんにも好評よ? 算術だけじゃなくて、お店での値切り方まで教えてくれるって」
「はぁ。まぁ、勉学なんて実戦あるのみですから。頭でっかちに知識だけ詰め込んでも、使えなきゃ意味ないっすよ。だからって恋文書くのはどうかと思いますけど――。……って、なんすか? それ」
文机に置かれた見慣れぬ文を青竹が指し示す。藍良は萌黄色のそれを青竹に手渡した。
「雪華から文が来たのよ。今、北奏にいるんですって」
「へー。どれどれ……」
――拝啓、史藍良どの
藍良、元気か?
陽連はそろそろ暑くなってきた頃だろうか。
去年の今頃は陽連も何かと物々しかったが、今はすっかり落ち着いたんだろうな。
そういえば薫風楼での勤めを完済して、城下に私塾を開いたんだってな。
今まで読み書きを習えなかった妓女や、街の子たちに手習いを教えていると聞いた。
藍良はすごいな。私には思いもつかなかった。
こつこつお金を貯めて、夢を実現したんだな。やっぱりお前は尊敬すべき悪友だ。
それはそうと、正真正銘の旦那になった青竹も元気か?
あまり腕っ節は強くないが、商才はあると思うからこき使ってやってくれ。
戦から帰ってきて最初に聞いたときは驚いたが、なかなか似合いなんじゃないかと思う。
糸目だが、情は深いぞ。まぁそんなことは、私よりもお前の方が分かってると思うけど。
私は今、陽連の北、北奏に滞在している。航悠の故郷にもほど近いところだ。
何もないところだが、緑の草原が大地の果てまで続くさまはかなり壮観だ。お前にも見せてやりたい。
「『この夏には、陽連にいったん戻る。そうしたらまた、共に――』」
「あっ! こら、読むな。返せ!」
――時間は少し、さかのぼる。
草原の天幕前で文を書いていた雪華は、背後から近づいた男にそれをひょいと取り上げられて手を伸ばした。半袖姿の航悠は手をさらに上げて文を青空に掲げる。
「こんな外で文書いてるお前の方が悪い。なになに、『航悠は今日も男前で――』」
「一っ言も書いてないぞ、そんなこと。いいから返せよ、あと少しなんだ」
文を取り返そうと航悠に迫ると、自然と距離が縮まる。悪びれず笑う航悠に手刀を叩きこもうかと思ったそのとき、梅林が彼方からまっしぐらに駆けてきた。
「姐御ー!! あっちに湖がありましたよー! 一緒に行きましょうよぅ!」
「ああ航悠。若いもんが探してたぞ。仕事ほっぽって逃げ出すんじゃない。あとで行けよ」
通りすがりの松雲からも声をかけられ、はたから見ればいちゃついているようにしか見えなかった二人の距離はすっと離れた。頭を掻いた航悠が小さな溜息を吐く。
「お前ら……少しは気を遣えよ」
「なに言ってんすか! 遣ってますよぅ。頭たちが寝る天幕からは相当離れてオレらの天幕立ててるじゃないっすか! でもたまに姐御の声が聞こえてきて、オレら悶々――」
「あうっ!」
「それ以上言うな!」
口を尖らせて不平を漏らす梅林に、雪華は赤面で拳を喰らわせた。小柄な部下は、理不尽に殴られた頬を押さえてニヤニヤと笑う。
「あーい。……姐御からの鉄拳……へへ。じゃ、待ってますから!」
軽やかな足取りで梅林が行ってしまうと、航悠が呆れた笑みで見送った。
「あいつも懲りないなぁ……。ありゃもう性分だな。被虐趣味だろ」
「……黙れ」
「まぁ大声上げるお前が悪い――、と、おっと」
「…っ!?」
振り上げた拳を難なく受け止められ、ひょいと足元を掬われた。操り人形のように背中から草原に柔らかく着地させられた雪華は、四つ這いになった航悠に動きを封じられた。
青い空が陰り、航悠の顔が落ちてくる。
「……甘い。まだまだだな」
「……!」
陽連から遠く、北の大地を駆ける風はまだ涼しい。その風に乗って、男の吸う煙管の白檀のような香りが触れられた唇から鼻先を通り抜けた。
「さてと。じゃ、ちょっくら一駆けしてくるか!」
緑の草原に、二頭分の蹄の音が響き渡る。
この男と一緒なら、どこへでも行ける気がした。
この果てなき空の下。遠く、どこまでも――
-完-
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