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飛路編
25、一陣の風
しおりを挟む翌日。周副将軍は、約束通り皇帝の親書を持って現れた。人目につかぬ天幕内で雪華はそれを受け取ると、懐に収める。
「護衛と交渉人を兼ね、陽連から馳せ参じた孫文官を同行させます。文武両道の男ですので、お役に立てるかと思います」
「分かった。細かいことは彼に任せる」
「今回のことは、軍の独断でございます。我らはのちに、主上より厳罰を下されるでしょう。死罪を賜るのも、覚悟の上でございます。されど、こうすることしかできませんでした……。香紗様には、合わせる顔もございません」
頭を深く垂れ、陳謝する副将軍に雪華は短い溜息をついた。
「もう合わせてるだろ。……そう悲観するな、死にに行くみたいだろ。私は生きて戻るつもりなんだ。勝手に殺すな」
「そうそ。こいつのしぶとさは筋金入りだからよ。せいぜい、戻ってきたあとに要求される対価のことでも考えてろって」
こんなときでも、笑って送ろうとする航悠の態度が今はありがたい。外に出て馬にまたがると、親書をもう一度取り出して確認した。
(飛路は……来てくれなかったな。どこかで不貞寝でもしてるのか……)
「じゃあ、行ってくる」
馬を促し、歩み出そうとした――そのときだった。
「――雪華さん!」
「え…?」
鋭く呼ばれて振り返ると、高台から駆け降りてきた人馬が外に出ていた仲間達を巧みに避け、雪華に向かってくる。まるで、一陣の風が吹いたかのように。
馬にまたがった飛路が、速度を落とさないまま雪華とすれ違い――
「……! 飛路…!?」
――雪華の手から、親書を奪った。そしてそのまま雪華から遠ざかる。
「飛路! 待て……!!」
通り抜けた風から一拍遅れて、髪が宙を舞う。手を伸ばしても、もうどうしたって届かない距離で飛路は振り返って笑った。
「オレが行く!! 雪華さんはそこで待ってて!」
「なっ…!」
「オレは――宗飛路。大将軍・宗飛天の息子だ! 皇族を守り、国を安定へと導くが宗家の誇り。必ず、任を果たしてくるから!」
「飛路…! 馬鹿、戻れ……!!」
小憎らしいほど、晴れやかな笑顔だった。
馬に鞭をくれると、飛路はますます加速する。我に返ったように孫文官がそれを追いかけ、人馬の姿はあっという間に見えなくなった。
「あの、馬鹿……!」
『自分が傷付くのもそれは怖いけど……オレは、あんたが傷付く方が怖い。オレの手の届かないところで、あんたが怪我をしたり、まして命を奪われたりしたら……それこそ、生きていけない』
「私だって……!」
なんのために、自分が引き受けたと思って――
「勇猛果敢な宗将軍の再来……か。なあ、副将軍さんよ。宗将軍てのはあんなだったのか?」
「……ああ。私も当時は下っ端にすぎなかったが……伝え聞いた豪胆さは瓜二つだ。あれが、武の名門の血――」
「その名門のお坊ちゃんを、お前はどうする? なあ、あねさん女房」
「決まってるだろ…!」
呆然とした周副将軍や部下たちと、相変わらずの薄笑いな航悠。男たちに囲まれ、雪華は憤然と口を開いた。
「宗飛路殿。シルキアの陣に直接向かうと、妨害が入るやもしれません。迂回して本陣を目指しますが、よろしいか」
「ああ。あんたに任せる。確実に届けられる道を選んでくれ」
一方、雪華と別れた飛路は国境のすぐ奥で隊列を組むシルキアの陣ではなく、その横への林道へと馬首を向けた。
シルキアにも停戦交渉の噂は広まっているのだろう。昨日まであれほど果敢に攻め込んでいた軍勢に、今日は勢いが見られない。
だが油断は禁物だ。戦はまだ続いている。上層部が使者を受け入れることを決定しても、それが兵たちにまで伝わっているとは限らない。
最終的な目的地は同じだが、馬鹿正直に陣に突っ込んでは途中で討ち取られる可能性も高く、飛路たちは林道から最短距離で本陣に入る道を選んだ。
『飛路…! 馬鹿、戻れ……!!』
(――雪華さん、ごめん)
馬上から必死に手を伸ばしていた、雪華の顔が浮かぶ。
こんな不意打ちみたいなやり方は、本意ではなかった。けれどどうしても、彼女を行かせることはできなかった。
罠かもしれないという恐怖は当然あった。捕らえられ、死ぬかもしれないとも薄々勘付いていた。雪華もきっとそれを分かっていた。
(でも、それが皇女として最後に与えられた役目だったとしても――雪華さんが生きてなきゃ、オレにとっては意味がない。皇女としてのあんたが死んでも……雪華さんさえ、生きていてくれれば)
死が怖くないとは言わない。この数日の戦の間だって、本当はずっと怖かった。
航悠にならって、飛路はこの戦で初陣を飾った。本来なら胡朝に味方する戦いからは隔絶されたはずのこの人生で、国のために戦うことを選んだ。それは、正規の武人としてではなかったけれど。
容赦なく敵を斬り倒す航悠のそばで、飛路もまた生まれて初めて自らの手を血に染めた。そうしなければ、自分が殺されていた。
武門の男としての高揚感や使命感なんて、まるでなかった。ただ、死に物狂いで向かってくるシルキア兵に相対する恐怖と、虚しさしか感じられなかった。
それでも戦い続けたのは――自分の後ろに、雪華がいたからだ。父母が、民が、そして雪華が生まれ、生きた斎が、背後にあったからだ。
愛しい者たちを守るためには、戦うしかなかった。
(父上もこんな気分だったのかな……)
「でもオレ、武人は向いてないみたいです。敵でも、人を斬るのは……やっぱり嫌だよ」
「……飛路殿? 何か?」
「いや、なんでも。しっかし狭い道だな。落馬しないようにしないと」
馬たちの歩みは、急峻な坂に差し掛かっていた。枯木の枝が行く手をはばみ、馬の足をさらに遅らせる。そのとき、背後から何かの音が聞こえた。
「―― ―― …!!」
「え……」
「いかがしましたか? 急がないと――」
「いや、なんか声が聞こえたような――」
耳を澄ませると、一拍遅れて声が――飛路が聞き慣れたあの声が鼓膜を貫いた。
「飛路――!!」
「――やっぱり! 雪華さん!?」
背後から雪華の叫び声が届いた。聞こえた声に強く体をひねると、急激な重心移動に驚いたのか馬がブルブルと暴れる。
「わわっ! どう、どう……!」
それをなだめるために身を伏せると、頭上をヒュッと鋭い風切音が通り抜けた。
「馬鹿! 伏せてろ…!!」
「え――」
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