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飛路編
17、初心者の葛藤
しおりを挟む明け方、雪華の部屋からそっと抜け出ると、まだ暗い廊下で飛路は頬を覆ってずるずるとしゃがみ込んだ。
(うぁあああ……! オレ、とうとう――)
たった今まで、雪華と一緒にいた。雪華の寝台で眠りにつき、朝に彼女の部屋から出てくるわけにはいかないから、眠る雪華を残して部屋を出てきた。
火照る頬を押さえ、飛路は初めての夜を思い返す。
(……すげー良かった。雪華さん、めちゃくちゃ綺麗だった。優しくって、可愛くて――マジで、やばかった)
その体温や、触れた肌の柔らかさや、匂い、声、表情――まだ生々しく、けれどどこかふわふわと現実味もない記憶に、体がいつまでも火照る。
自室に帰る前に冷気を吸い込んで少し頭を冷やすと、静まりかえる雪華の部屋をそっと振り返った。
――触れることなど、叶わないと思っていた。
彼女は自分にとって神聖な人で、触れてはいけないのだと思っていた。
けれど今夜、その禁忌を犯し――禁忌という名で押さえつけていた自分への戒めを解き放ち、飛路は朱香紗ではなく、李雪華その人に触れた。
包み込むように飛路を受け入れてくれた彼女にもう一度深く心の中で頭を下げ、飛路は静かに自室の扉を開いた。
「お帰りー。遅かったな」
「ひっ!?」
てっきりみな寝静まっていると思ったのに、低く声を掛けられて肩を波立たせた。見ると、蝋燭に火を灯して同室者の青竹が起き上がっている。
壁にもたれて寝台の上に座り込んだ青竹は、書物を手にして細い目を飛路へと向けた。
「あ……。お、起きてたんだ……」
「いや寝てたけど、小用に起きたらこいつのいびきがうるさくって。寝付けなくなってイラついてたとこ」
「ああ……うん……」
青竹が顎を向けた先には、もう一人の同室者である梅林が軽くいびきをかいて寝ていた。
いびきだけならまだ可愛げがあるが、時折寝言までうるさいのは飛路もよく知っている。今も――
「ううーん……。アネゴ~……。そんなに、食べられません…ってぇ……。……ふへへ……」
「……ほらな。ああもう、うるせーな梅猿」
「……だね……」
幸せそうな顔で寝がえりを打つ梅林は、よだれを垂らしている。……いったいどんな夢を見ているのか。
少しの興味と微妙な嫉妬を抱きつつ、その布団を掛け直してやると青竹がぼそっとつぶやいた。
「……飲み?」
「え――。あ、う、うん。友達と飲みに行ったら、つぶれちゃって。さすがに徹夜はまずいと思って、仮眠しようかと――」
「ふーん」
部屋にいなかった理由を問われ、しどろもどろで嘘をつく。青竹は特に疑問も持たなかったのか、また書物に視線を落とすと部屋には沈黙が落ちた。
自分の寝台に潜り込み、目を閉じようとして――飛路はふと、動きを止める。
「あの、さ……」
「あ?」
「あ……。いや、何でもない」
口を開いたはいいが、途中で恥ずかしくなって首を振る。すると青竹が、細い目を飛路に向けた。
「なんだよ。途中でやめんなよ」
「いや……たいした話じゃないし……」
ぼそぼそとつぶやくが、青竹の追求の視線は外れない。
……どうしよう。青竹は年上だし――結構頭もいいし、思いきって聞いてみたい気もする。
(いいや! 聞くは一瞬の恥だ……!)
「あ、のさ……。あんたの、その……初…体験のときって、どんな感じだった……?」
「……は?」
尻すぼみに質問を投げかけると、青竹はうっすらと目を見開いた。
「……どんなって」
「いや……その、今日仲間うちでそんな話題になったからちょっと聞いてみただけで……。――あっ。まさか、まだなんてことはないよな…!?」
「あるわけねーだろ。殺すぞ」
「……だよね」
今は薫風楼の藍良に惚れているとはいえ、青竹だって男だ。それなりに経験があるのだろう。飛路はおずおずと問いかける。
「ちなみにあんたの初めてって、誰と……。やっぱ、花街とか?」
「いや。昔の勤め先の主人の後妻。旦那が勃たないって誘われて――」
「ぶっ…!?」
ものすごい過去と言葉が出てきた。思わず大声を上げてしまい口を覆うが、隣の梅林は変わらずすやすやと眠っている。
平然と言ってのけた糸目野郎に、飛路はちらりと視線を向けた。
「それ、やばいんじゃ……」
「まぁやべーよな。バレたらぶっ殺されてたかもな。でも誘ってきたのあっちからだし、すげー乳でかかったし、俺も若かったからホイホイされて」
「ああ……やっぱあんた、巨乳好きなんだ……」
「やっぱって言うんじゃねえ。……まぁ初めての相手としちゃ良かったんじゃねーの? つっても、最初はガチガチで勃たなかったけど」
「えっ。そうなの!?」
それは意外だ。感情を読ませない糸目で、なんでも飄々とこなしてそうなのに青竹にもそんな時があったのか。
……なんだか、がぜん親近感が湧いてきた。だが青竹は鼻で笑うと、「あの頃は青かった」とばかりにひらひらと手を振る。
「情けねーけどな。男なんて最初はそんなもんだろ。あとは逆に突っ走っちまうか」
「……ぅ……」
まさに「それ」をやってしまった後だけに、身につまされるものがある。内心で深く頷くと、飛路はおずおずと口を開く。
「じゃあ……その、失敗して、中で出しちゃったりとかは――」
「あ? ……それ最悪だろ。どんなに切羽詰まってても、それぐらいは男として、きっちりしねーと」
「うっ……。やっぱ、そうだよね……」
――胸に痛い。
渋い顔をした飛路に気付いたか、青竹は溜息をつくと蝋燭を吹き消し、寝台にどさりと横になる。
「ま、経験積んでくしかないんじゃねー? 相手にもよるだろうけど、背伸びしたって笑われるだけだぜ。まぁ経験豊富な人に話聞いたりすんのは、結構勉強になると思うけどな。思い込みで突っ走るのが一番最悪」
「なるほど……」
胸に刺さる部分は多々あったが、参考にはなった。飛路も掛け布に潜り込むと、青竹がぼそっとつぶやく。
「お前……副長孕ませたりしたら、頭領にぶっ殺されっからな。それだけは気をつけろよ。あの人、マジで怖ぇぞ」
「…っ!?」
――誰にどこまで知られているのか、分からないのが恐ろしい。
無言で頷くと、横から寝息が聞こえてきた。
そして数刻後。仮眠から目覚めまだぼんやりとした頭で扉を開けると、そこにいた人の姿に飛路はぎょっと目を見開いた。
「っ……。雪華、さん……」
「…………」
廊下に立っていた――いや、待ち構えていた?のは先ほど別れたばかりの雪華だった。
年上の恋人……と呼んでいいものかどうかもまだ分からない彼女は、昨夜の乱れた様子など微塵も残さず、いつも通りの凛とした姿で飛路を見つめる。
「あ……お、おはよう……」
「……おはよう。…………」
こういうとき、どんな顔をしてなんと言えばいいのだろう。
昨夜の情景がよみがえり赤い顔で飛路が挨拶すると、雪華もぶっきらぼうに返す。だがそのあとでじっと視線を送られ、飛路は困惑した。
(あれ……なんか、機嫌悪い……? え、した翌日の女の人ってこんな感じなの?)
雪華はどことなくぶすっとした顔でもの言いたげに飛路を見つめている。甘さのないその視線に、飛路の背中に冷たい汗が伝った。
(あ……! やっぱり中で出しちゃったの怒ってた!? それともオレが下手だったから…!? それとも――)
思い当たる節はいくつもあるが、どれが正解なのか分からない。ひとまず飛路は、己の過ちを認めて謝ることにした。
父・宗飛天も言っていた。自ら省みることができる者だけが先に進めるのだと。非を認めるのに早すぎることはないと。
「あ、の……ごめんなさい……」
「……なにが?」
「その……オレが色々、下手だったから……」
「…………」
雪華が目を見開く。その表情に、飛路はこれが正解ではなかったことを悟った。
「あ……違う? じゃあ、中で出したから……?」
「それはもう、いいと言った」
「え。じゃあ……言葉が足りなかった? もっと好きとか大好きとかすげー可愛いとか言った方が良かった? ごめん、オレ頭の中で何度も思ってても気が回らなくて――」
「っ……。もう十分もらった」
雪華の頬がしだいに紅潮してくる。それには気付かず、飛路は思いつく限りの自分の非を挙げてみる。
「あっ。やっぱり、オカズにしたの怒ってた……!? でも毎回じゃないから! オレ少ない方だし、もうしないって約束するから……!」
「――もういい! 朝から何を言ってるんだお前は!」
言い募ると、雪華が大声でさえぎった。見ると彼女は真っ赤な顔で怒気をあらわにしている。
飛路がしゅんと萎縮すると、雪華は大きなため息をつき、赤い顔のままぼそりと呟いた。
「……黙って出ていくな……」
「え……?」
小さな声に顔を上げると、雪華は腕を組んでそっぽを向いていた。恨みがましい口調で彼女は続ける。
「共に寝たはずなのに、朝になったら一人残されているなんて……驚くだろう。お前の部屋事情も察するが、共寝した夜に黙っていなくなるのは恋人として『なし』だ。……分かったか」
「あ……、うん」
飛路はぽかんとして頷いた。雪華は相変わらずぶすっとした顔で「ん」と相づちを返す。
飛路の胸に、じわじわと熱が込み上げた。これは、つまり――拗ねている?
(えっと、一人で残されて、寂しかったってこと……? え、なにそれめちゃくちゃ可愛いんだけど!)
そうと気付けば、飛路の起床を待ち構えていたのも、まだどこか赤いふくれっ面も、拒否を許さない命令もすべてが愛おしく思えてくる。
横を向いたままの雪華を飛路は力いっぱい抱きしめた。
「わっ!」
「おはよう、雪華さん。……昨日はありがとう。本当に嬉しかった」
「…………。ああ」
腕の中で雪華が小さくうなずく。もう一度抱きしめると背中に腕が回され、飛路はそのぬくもりに瞳を閉じた。
――と、そのとき。
「――おや、まあ。朝からお盛んなこって。……やるならほどほどにな。他の奴らの目に毒だぞ」
「「!?」」
扉を開けて姿を現した頭領の姿に、二人は慌てて飛びのいたのだった。
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