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航悠編

20、安らぎは遠く

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 藍良の見舞いを受けたその日の夜、私室の扉を叩く音に雪華は顔を上げた。入室を許可すると、飛路が顔を覗かせる。

「雪華さん、ちょっと。……また地図見てたの? そろそろ寝た方が――」

「そろそろ、そうしようかと思ってたところだ。どうしたんだ? こんな遅く」

 今夜もまだとこに入る気になれず、雪華は相変わらず明日以降の計画を練っていた。暗い方向に沈みかけていた思考を悟られぬように、目元を和らげる。

「藍良さんがさ、帰ったあとにお茶届けてくれたんだ。疲れに効くんだって。あんた、どうかなと思って」

「わざわざ淹れてくれたのか? 悪いな、頂くよ」

「うん」

 飛路が手渡してくれたのは、器に入った花茶だった。温かな湯気とほのかな芳香が、優しく頬をくすぐる。

「……美味いな。お前も飲んだのか?」

「うん。……藍良さんて、いい人だな。青竹が惚れるのも分かるよ」

「お前も惚れたか? 自慢じゃないが、私の親友は相当難易度が高いぞ。ああ見えてかなり厄介な女だ。その分最高の女でもあるが」

「惚れないよ。……大事な人、他にいるし」

「それは初耳だ」

 にっと笑った飛路が肩をすくめる。久しぶりに見る生意気な表情に、ふと初対面の時を思い出した。
 もうずいぶん昔のことのように思う。雪華と、飛路と、それから航悠が――

「…………」

 思考をあの日に飛ばすと、どこからかカチャリと小さく高い音がした。続けてカタカタと、断続的に何かが鳴っている。
 何だろうと手元に目を落とし、雪華は目を見開いた。手にした茶器が、細かく震えている。

「……っ」

 違う、茶器ではない。……自分の手が、震えているのだ。

「…………」

 動揺を悟られぬよう、そっと卓に茶器を置く。隣に腰かけていた飛路が、いまだ細かく震える雪華の手を軽く握りしめた。
 温もりが伝わり、ほっとするのと同時に恥ずかしさを覚える。

「……悪い。こんなはずじゃ……」

「ううん。……あの、さ……頭領、大丈夫だよ。絶対、大丈夫」

 飛路は雪華の手を握ったまま、静かにつぶやいた。手元に視線を落とし、ためらいがちに口を開く。

「前にさ、あんたが任務で薬吸いこんで、倒れたことあったじゃん。あの時さ……頭領、すごく怒ってたけど……それ以上に、すごく不安そうだったんだ」

「……?」

「あんたは覚えてないかもしれないけど、すっごい剣幕で怒鳴ってさ。……あの人のあんな姿、初めて見た。つーか、マジでおっかなくてビビった。でも……この人はあんたのこと、本当に心配なんだなって分かった。そんな人が、あんたを置いて、どうにかなるわけないだろ?」

 手の力を少し強め、飛路が優しい眼差しで見上げる。雪華に言い聞かせるように、年下の青年はゆっくりと告げた。

「だから大丈夫。大丈夫だよ……」

「……ああ」

 優しい温もりと強い言葉に、ふいに泣けてきそうになった。それを誤魔化すように手を解いて、もう一杯茶を飲もうとするとくらりと視界が回る。

(あれ……?)

 強制的にまぶたが下りてくる。抗おうとするが、意思に反して体から力が抜けていく。

「飛路……ごめん。私、なんかすごい眠…い……」

 ちゃんと最後まで言えたかどうか。雪華はあっという間に卓に突っ伏し、否応なしに真っ暗な眠りへと引きずり込まれていた。


 さらりと髪が撫でられる。抱き上げられ、寝台へと下ろされる。
 その腕は優しいが――雪華の知っている無骨なそれとは違う。

 幼い日に。悪夢で飛び起きた朝に。そして事あるごとに慰めてくれたあの腕は……今はないのに。

(……航悠……)

 声が聞きたい。何をしてくれなくてもいい。ただそばに居てくれるだけで、自分は――

「…………」

 眠りに落ちながらも目尻に水滴が浮かび、それが一筋だけこめかみへ伝っていく。
 その光景を痛ましげに視界に収め、飛路はそっと毛布を雪華の肩までかけてやった。

「おやすみ、雪華さん。……ごめんな。こんなことしか、できないけど……。あんたはあんたが思うほど、強くないんだよ……」





 灯りを消して飛路が雪華の部屋から出ると、廊下で松雲が待っていた。今現在、組織で一番状況を把握していて一番落ち着いている三番手の男は静かに口を開く。

「……眠ったか?」

「はい。……思った以上の効き目で驚きました。藍良さんに貰ったとはいえ、悪いことしたな……」

「気に病むな。今のあいつには必要なものだ」

 ねぎらうような松雲の苦笑にも、飛路の心の陰りは晴れない。松雲は小さく溜息をつくと閉じられた扉に目を向けた。

「驚いたか」

「……はい。あの人、ずっと冷静で――。取り乱したのだって、荷物が届いたあの時だけで。任務も正確にこなすし、オレすごいなって思って。結構平気なのかなって思ってました。でも藍良さんから話、聞いて……本当はこんなにもろくなってるなんて、思いもしなかったです」

「意地張るからな、あいつも。部下に不安な顔なんて見せられないんだよ。お前にも、できれば気付かれたくなかっただろうな」

「頭領だから……ですか。あの人が特別だから、あんなに――」

「……そうだな。ずっと隣で生きてきたんだ。空気みたいなもんだが、その分突然いなくなると喪失感も大きい。支えてやりたいが……それが本当にできるのは、俺らじゃないんだ。残念ながらな」

 雪華を心から心配する松雲の眼差しに、飛路は痛いほど同調する。
 支えてやりたい、支えになりたい。でも今彼女が求めているのは、ただ一人の男の存在だけだ。

「……松雲さん。頭領、絶対に見つかりますよね」

「あ? ……ああ。あいつはそう簡単にはくたばらないよ。世のモテない男どもの憎しみを一身に受けてるからな」

 みずからを鼓舞するように松雲に問いかけると、松雲もまた力強くうなずく。飛路はもう一度、決意と願いを込めてその言葉を口にした。

「絶対、帰ってきますよね。……雪華さんにもう一度、返してやりたいよ……」


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