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龍昇編
6、春蘭と松雲-3
しおりを挟む「雪華。お前、近々薫風楼に行く予定があるか?」
「は? いや、ないが……」
十二の月も、もはや下旬。任務もなく、雪華がなんとはなしに依頼書を読んでいると突然松雲に声をかけられた。
今のところ、用事もないし薫風楼に行く予定はない。そう答えるかたわらで、ある男の顔が自然と脳裏に浮かぶ。
(年末で忙しいはずだ。文も来ないし……。――って、なに考えてるんだ私は)
来ないのが当たり前なのに、むしろ望んですらいなかったはずなのに、今の思考はなんだ。内心で狼狽すると、松雲は小さな溜息をつく。
「そうか……。行く予定があるなら、ついでに春蘭にこれを届けてもらおうと思ったんだが」
「……? 髪飾りか?」
松雲が手にしているのは、彼にはあまりに不釣り合いな可憐な雰囲気の歩揺だった。雪華が覗きこむと、松雲はうなずく。
「ああ。前に受けた依頼で職人とちょっと知り合ってな。いい人はいないのかと勧められて、断りきれなくてな……一つ買ってしまったんだ」
「そうか。可愛いな、春蘭によく似合いそうだ」
雪華ぐらいの歳の女が使うには少し若すぎる意匠だが、少女といって差し支えない春蘭が使うにはちょうどいいだろう。何より主張しすぎない色や形が彼女の性格によく合っている。
「それにしても、春蘭のこと可愛がってるんだな。春蘭もお前のこと、元気かとかよく聞いてくるし――。…………」
そこまで言って、はたと気が付いた。松雲が特定の女をここまで気に掛けることなど今までなかった。雪華は眉を寄せるとおそるおそる年上の部下を見上げる。
「え……。お前まさか、惚れてるのか?」
「は? ……まさか。歳が違いすぎるだろ。正確にはいくつか知らんが、あの子から見れば俺なんてオヤジだろ」
「いや、そこまでは思わないが……」
――良かった、違った。三十路の同僚が十代の少女にご執心とはさすがに考えたくない。
松雲は髪飾りに目を落とすと、小さく苦笑を浮かべる。
「俺な、昔、妹がいたんだよ。先の戦で死んじまったけど。大人しい奴で、春蘭を見てると少し重なるだけだ」
「そうなのか……」
初耳だった。朱朝討伐の変に巻き込まれたなら、自分と出会う直前に妹を亡くしていることになる。雪華も当時は幼くて混乱していたが、まったく気付かなかった。
十三年もの時を経ているからか、松雲の苦笑は痛みと言うよりはすでに懐かしさすら感じさせるものだった。だから雪華も、あえて軽口で返す。
「私もお前の妹的存在だったんじゃないかと思うんだが、髪飾りを貰ったりとかそんな風に優しくしてもらった覚えはあまりないぞ。……まぁ、航悠よりはお前の方がよほど優しかったが」
「妹は大人しかったって言っただろ。お前は俺たちと出会ったときから、ふてぶてしかったじゃないか。残念ながら妹には似てないな」
「……事実だが改めて言われると腹が立つな」
「はは。それにお前には、優しくすると逆に警戒されたからな。……まぁ、これでも何かと心配はしていたんだが」
たしかに、胡黒耀に裏切られ、航悠や松雲に出会ったばかりの頃は周りの者すべてを警戒していた。
今だって、龍昇に再会して警戒していたはずなのに――いつの間にか、それが緩んできている。その心境の変化を思い、遠い目をした雪華に松雲が呼びかける。
「雪華?」
「あ、いや、何でもない。……せっかくなら、春蘭に直接届けてきたらどうだ? 稽古や宴席に出ていなければ少し会うぐらいできるだろ」
「そうだな。そうすることにするよ」
雪華の温厚な兄貴分はうなずくと、朴訥な笑みを浮かべて髪飾りを懐にしまい込んだ。
その日の昼下がり、薫風楼にて。格式と歴史を感じさせる壮麗な正門をくぐった春蘭は、通りの向こうからちょうどやってきた人影に目を見張った。
「――あ。松雲様……」
名をつぶやくと、のんびりと歩いてきた松雲が手を上げる。急な来訪への胸の高鳴りを抑えて春蘭が出迎えると、松雲が目の前に立った。
「ああ、ちょうど良かった。……っと、どこか行く予定だったか?」
「あ、はい……。藍良姐さんに頼まれて、ちょっとお使いに――」
「そうか。じゃあ、あまり引き留めたら悪いな。……これ、お前にやるよ。良かったら使ってくれ」
――どうしよう。話をもっとしていたいけれど、急ぎで頼まれた用事がある。もどかしい思いで告げると松雲が懐から突然何かを差し出し、春蘭は目を丸くする。
「え――。髪、飾り……?」
それは、薄紅の花が何輪も重ねられた歩揺だった。先端から小さな珠が連なり、きらきらと輝きながら揺れている。
手のひらに握らされたそれをまじまじと見つめ、春蘭は慌てて松雲を見上げる。
「え。こんな素敵なもの、頂いていいんですか? 値の張るお品なのでは――」
「いや、職人から買ったからそうでもないんだ。……って、言わない方がいいのか、そういうことは。他にあげる相手もいないからな。でも薫風楼の妓女見習いが使うには、少し地味だったかもしれないな」
少し照れくさそうに告げて、松雲が頭を掻く。春蘭は即座に首を振ると歩揺を握りしめて力説した。
「そっ、そんなことはありません! ……これ、すごく手が込んでますよ。腕のいい方が作られたんですね」
たしかにぱっと見は若干地味に見えなくもないが、日々先輩妓女たちの高級な装飾品を見ている春蘭には、それが一流の腕を持つ職人の手によるものだとすぐに分かった。
そんな品を松雲が自分に贈ってくれたことに、抑えきれない喜びが沸き上がる。頬を紅潮させ、春蘭は上目遣いに松雲を窺う。
「その……松雲様が、見立てて下さったんですか?」
「え。ああ……まぁ。俺はあまりこういうのは得意じゃないんだが……あまり派手じゃない方が、春蘭に似合うかと思って」
「……っ」
唇が緩んでしまうのが恥ずかしい。春蘭はうつむくと手の中の歩揺を持ち上げ、結った自分の髪に挿した。鏡がないのでちゃんと付けられたか不安だが、精いっぱいの笑みを浮かべて松雲に見せる。
「に、似合いますか?」
「ああ。可愛いよ」
「っ……」
笑顔でさらりとそんな風に言われ、一気に耳まで熱くなった。真っ赤になった春蘭にはまるで気付かず、松雲は妓楼の正門を見てつぶやく。
「おっと……悪いな、引き留めてしまった。お使いに行くところだったんだよな」
「あ、は、はい。あの、ありがとうございました……!」
そそくさと立ち去ってしまいそうな背中に慌てて声をかけると、松雲が振り返る。松雲は手を上げ、穏やかな瞳で告げた。
「ああ、じゃあな。……あ、そうだ。良いお年を、春蘭」
「はい…! 松雲様も、良い新年をお迎え下さいませ…!」
手を振ってその背を見送り、春蘭は再び歩揺を手に取るともう一度じっくりと眺めた。花びらの向こうに今しがた見た彼の姿が重なり、うっとりと声が漏れる。
「可愛い……」
――想いが、日増しに強くなる。彼はきっとそんなことまったく思ってないのに。自分がそんなことを思える立場でもないのに――
「……好きになっては、駄目なのに……」
歩揺をきつく握りしめると、手の中の珠がしゃらりと乾いた音を立てた。
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