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十の月
1、雪華の恋愛観
しおりを挟む頬を撫でる風が、冷たく感じられるようになってきた。それでも日中は穏やかな気候になることが多く、最も過ごしやすい季節の街を雪華は上機嫌で歩いていた。
……さっきまでは。
「なぁ雪華。どうしても駄目なのか? あんた、男いないんだから試しに付き合ってみてもいいだろ」
「…………」
仕事からの帰路についていると、花街まであと少しという道ばたで顔見知りの男に呼び止められた。
あくまでも「顔を知っている」だけの間柄で、親しい男でもなんでもない。そんな男に、もう何分も足止めをくらっていた。
「あの航悠って頭の男とは、なんでもないんだろ? あんたもいい歳なんだし、少しは相手を――」
「…………」
べらべらとまくし立てる男に聞こえるよう、大きく息を吐き出す。それでも男の声はやむことがない。
真剣な表情で話してきたから、仕方なく付き合ってきたが――そろそろ限界だ。馴れ馴れしく肩に触れようとした男の手を払い、雪華は剣呑な眼差しで男を見やった。
「何度も言うが、あんたと付き合う気はさらさらない。正直、追ってこられるのは迷惑だ。金輪際、声もかけないでほしい」
「なんだよ……いいだろ、付き合うぐらい。こないだ賭博で稼いだから、なんでも買ってやる。だからそんなこと言わずに少しだけ――」
「触れるな」
再び触れてこようとしてきた男の手を、今度は少し強めに払いのける。さすがに男も怒ったのか、見てくれだけはまあまあの顔に血が上った。
「あんた……何様だよ。俺がこれだけ言って……!」
こんな道ばたで逆上されては、注目が集まって迷惑だ。すでにちらちらと向けられている好奇の視線に辟易し、雪華は冷静に男の目前に三本指を立てる。
「……? なんだよ」
「いいか。私があんたと付き合いたくない理由を、これから三点にまとめて話す」
「……は?」
「一つ。私は今、誰とも付き合う気がない。あんただろうが他の男だろうが、言い寄られてもすべて断っている。その気もまったくない。……二つ。あんたと付き合ったところで、私にはなんの得もない。時間の無駄だし、あんたから何かを得たいとも思っていない。欲しいものは自分で獲りにいく主義だ」
「……っ」
冷えた視線を受け、男の顔がどす黒く染まっていく。最後のとどめを刺すように、雪華は口を開いた。
「三つ。あんたは私の好みじゃない。あんたも付き合ってみれば、私のことなんて好みじゃないと分かるよ。私は優しくも甘やかしてもやれない。それだけの情熱があるのならその熱意、他の女性に向けてくれ。……私には重い」
「て……めえ…!」
口を引き結びそう括ると、男は低いうめき声のあとに拳を固く握った。
……結局、こうなるのか。諦めとともに、雪華は衝撃を回避するべく構えを取ろうとした。だが――
「はーい、そこまで」
「……っ」
後方から突然腰に腕が回され、何者かに力強く引き寄せられた。男との間に距離ができ、男が繰り出した拳が空を切る。雪華は目を見開くと、自分を腕の中に囲い込んだ男を振り返った。
「飛路…!?」
「どうもー。……雪華さん、言葉が足りないって。火に油を注いでどうするんだよ」
「は……?」
突然現れたのは、同じく別の仕事からの帰り途中らしい飛路だ。どうやら、見られていたらしい。
とりあえず助太刀に入ってくれたようだ。その腕からやんわりと逃れようとすると、飛路は腰に回した手に力を込め雪華を後ろから抱きしめた。
「お…い、なに……っ」
『しっ。……いいから』
顔のすぐそばで低く囁く声がした。飛路は雪華の髪に頬を押し当て、呆気にとられている男に向かって告げる。
「その四、が足りてなかったね。……雪華さんは今ね、オレと付き合ってんの」
「……?」
「でもあんたの入る余地がないなんて、優しいから言えなかったんだよな。……ほんと、いい女」
せせら笑うような飛路の声に、雪華は眉をひそめる。だがすぐに状況を理解してその表情を解く。……飛路は、一芝居打ってくれようとしているのだ。
飛路が助けてくれるというのなら話は早い。乗ってしまうのが得策だろう。
「てめぇ、何もんだよ。……雪華の男ぉ? てめぇみたいなガキ、雪華が相手にするわけねーだろ」
男がひるんだように問いかける。それでも飛路は動じることなく、雪華の髪をすきながら挑発を続ける。
「だってさ。……雪華さん、どう思う?」
「そうだな……。正直、年上は好みじゃないな。いや、年下だろうとお前以外は好みじゃない。……飛路」
「マジ? ……すっげ、嬉しー」
手探りで後ろ手に首を抱え込むと、子犬のように飛路がじゃれつく。飛路は一息つくと、その体勢からは想像できないようなドスのきいた声で男に告げた。
「分かったかよ。分かったなら……とっとと消えな。それから女に手を上げんな。最低だな、お前」
「…!」
凍えるような声音に、文字通り男が凍りつく。飛路の一瞥をくらい、雪華を凝視していた男は情けなく踵を返した。
「……ちっ!」
「……ふぅ」
舌打ちして足早に立ち去る男の姿を、二人は絡み合ったまま見送った。
完全に男の姿が消え去ると、溜息とともに飛路から離れる。ずっとひっつかせてもらった青年を改めて見上げると、飛路は赤い顔をしてわずかに視線を逸らした。
「助かったよ。しつこくてな……これでいい加減、諦めるだろう」
「いや……悪い、勝手に。困ってるみたいだったから、つい。……誤解させちゃって大丈夫だったか?」
「ああ、構わん」
「……あんたがいいなら、いいけど……」
飛路がどこか苦み走ったような顔で告げる。その表情に注意を引かれたが、それよりも何かどっと疲れがきた。雪華は飛路の袖を掴むと、酒楼とは逆方向へいざなう。
「少し茶でも飲んでいかないか。なんだかくたびれた」
近くにある行きつけの茶房に入ると、雪華は茶を淹れるよりも早く干菓子を三つ平らげた。優しい甘さに緊張がほぐれ、ようやくゆっくりと茶を楽しみ始める。
「それにしてもさっき、なかなか迫真に迫っていたな。お前、意外と機転が利くんだな」
「意外とって……失礼だな。ていうかあんた、悪ノリしすぎだろ」
「悪ノリ?」
正面に座った飛路が茶杯をいじりながらぼそっとつぶやく。意味が分からず問い返すと、飛路は少し言葉に詰まったあと声を荒げた。
「いや、腕回したりとかさ……。じゃなくて! ……あんた、もう少しやんわり断れよ。あれじゃ逆上されて当たり前だろ」
「あれまで三度、やんわりと断ったさ。それでも分からないならはっきり言うしかないだろ。もううんざりだったんだ」
「だからって、自分が殴られるかもしれなかったのに……」
「あいつの拳などたかが知れているさ。十分避けられる自信はあった。……ま、当たったらその時はその時だ」
「そんな……」
投げやりに告げると、飛路が悲しげに顔を曇らせる。その表情に何か温かいものを感じ、雪華は彼の眉間に寄った皺を指でつついた。
「てっ」
「そんな顔するな。……ありがとうな」
「あんたって……ひでー女」
「そうか」
額を押さえてぼそりとつぶやいた青年に、苦笑が漏れる。飛路は茶を飲み干すと、頬杖をついて雪華を眺めた。そして淡々と問いかける。
「なあ、あんたさ……付き合ってる奴とか、いないの」
「見れば分かるだろ」
「あ……そう。ふーん。……美人なのにもったいないな。でも、昔はいたんだろ」
「そりゃあ、この歳ならな」
「でも、うまくいかなかったんだ」
「ま、そうだな。……お前まで婚期がどうとか言うなよ。航悠に言われ続けて耳タコなんだ」
「いや、言わないけどさ……十分若いし」
飛路はそう言うが、ここ斎では多くの女性が二十歳かそこらで嫁いでいくのが一般的だ。
自分など嫁き遅れもいいところだろう。もっとも雪華としては、かなりどうでもいいことではあったが。
「……さっき、好みじゃないと付き合わないって言ってたね。それって好きにならなきゃ付き合わないってこと?」
飛路は頬杖をついたまま、なおもこの話題を続けた。興味深げに細めた目で、雪華を揶揄するように見つめる。
「いや……そうとも限らないんじゃないか。身内じゃないなら、付き合ってみて初めて分かることの方が多いだろうし。別にその人に恋愛感情が抱けなくても、付き合ってみたことはある。……予想通り、うまくはいかなかったが」
「……そういう男、いたんだ」
「ま、それなりには」
十代の頃のほろ苦い経験を思い出し、苦笑する。飛路はぼんやりと雪華を眺めていたが、ふと視線を落とすとぽつりとつぶやく。
「嫌だったら、言わなくてもいいけど……なんで別れたの? あんた、口は悪いけど別にわがままとか言いそうな感じじゃないし……」
「口が悪い、は余計だ。そうだな……相手が自分に向ける気持ちを、重荷と感じてしまったからかな」
「どういうこと?」
「束縛されるのが、嫌だったんだ。付き合ってみて、恋愛感情は抱けなくても私はそれはそれでいいと思っていた。……でも、相手は違った。私のすべてを手に入れたように振る舞われて……すぐに、呆れて別れたよ。『俺のものだ』と言われた瞬間、耐えられなくなった」
「…………」
飛路が気まずげに押し黙る。雪華は手を振ると、重くなった空気を散らした。
「気にするな。昔のことだ」
杯に残っていた茶を一息に飲み干す。今夜はもう一件任務が入っている。そろそろ帰らないとまずいだろう。
「飛路。そろそろ――」
「でも、オレ……その男の気持ち、少し分かるな……」
「……?」
空の杯を手持ち無沙汰に回しながら、飛路がぽつりとつぶやいた。雪華を見ないまま、言葉を続ける。
「そいつ、それを言葉にしちゃったのはどうかと思うけど、相手を独占したいって気持ちは……少し分かる気がする。もちろんそれで相手の自由を奪うなんてのはやっちゃいけないことだけど……好きだったら、その人の心も欲しいってきっと思う。それで、自分のことたくさん考えてほしいって思うよ。本当に好きだったら……そう考える奴って結構多いんじゃないかな」
「…………」
低い声で吐露されたその言葉に、雪華は目を瞬いた。我に返ったように飛路が慌てて立ち上がる。
「――って、なに言ってんだろうな、オレ。はは……青臭いよな」
「いや……いいんじゃないか。今さらだが、少しは当時の奴の気持ちが分かったような気がした。……お前に愛される女性は、幸せだな」
正直な感想を告げると、飛路はなんとも言えぬ笑みを浮かべた。
こういった話を真面目にしたのは久しぶりだ。雪華も立ち上がると、飛路に問いかける。
「お前、誰か好きな相手でもいるのか?」
「え。……いや、いないけど……」
「そうか。……ま、何かあったら相談ぐらい乗るぞ。大した回答はできないかもしれんが、一応これでもお前よりは長く生きてるからな」
「大して変わらないじゃん……。ていうかあんた、ほんとオレのことガキだと思ってるだろ」
「年下なのは事実だろ」
「事実だけど……一応オレも男なんですけどね」
「知ってる」
「いーや。分かってないね、絶対」
ぶすっとした顔で飛路が嘆息する。だがすぐににっと笑うと、軽い口調で続けた。
「でも、あんたのことはちょっとだけ分かったような気はするよ。まだ詳しくは分かんないけど」
「私のことなど知っても仕方なくないか?」
「そんなことないよ。オレはあんたのこと、知りたいけどな。……もっと」
笑みを深めると普段の快活な印象が一変し、男を感じさせる顔が現れる。その変化をじっと眺めていると、気を良くしたのか飛路はくしゃりと相好を崩した。
「なーんつって。……ちょっとドキッとした? 今」
「いや……。いい顔をするなとは思ったが」
「あ、そ……。動じない人だな、ほんと。じゃ、またあとでね」
拍子抜けした顔で、飛路が伸びをしながら出口へと向かっていく。
雪華が払うつもりだった勘定をさっさと済ませると、飛路は蒼月楼に向けて歩いていってしまった。
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