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35.暗雲
しおりを挟むそれから数日後、昼食の配達業務をおおかた終えた有那は海渡を保育所からピックアップしたあと、タンデムで騎乗して最後の配達先へと向かった。
今日は珍しく、遅い時間を指定してきた配達先があった。馬をローレルの店に返してから保育所に行くと遠回りになるため、先に海渡を迎えに行ったのだった。
「どう? かーちゃんめっちゃ上手くなったでしょ」
「うん。すごい。オレもまた馬のりたい」
「今度休みの日に借りて乗ってみよ。……あ、ユンユン誘ってピクニックとかもいいね!」
二人乗りしながら手綱をさばくと、ほどなくして目的地に着いた。少し離れたところにある街路樹に馬を繋ぎ、有那は海渡を連れて配達先の門をくぐる。
そして無事に本日最後の受け渡しを終えて戻ってきたとき、事件は起こった。
「――あっ!」
街路樹に巻き付けたロープをほどき、手綱を掴んで馬に乗ろうとした瞬間、背後から何者かにタックルされた。
有那が前方に倒れ込むと手綱が奪われる。見上げると、見知らぬ男が素早く馬に飛び乗った。
「えっ……。――どっ、泥棒! ……カイト、離れて!! 早く! 絶対出てくんな!!」
「かーちゃんっ!」
――馬泥棒だ! 繰り返し情報を伝えられていたので、有那は瞬時に後方にいた海渡へ叫んだ。
泥棒だなんて、何をされるか分かったもんじゃない。それに万が一馬が荒っぽく走り出したら蹴り飛ばされてしまう。
海渡が路地裏に走っていくのを横目に見ながら、立ち上がった有那は騎乗した男の脚を掴んだ。
「ちょっと! 降りてよ! これあたしの馬なんだけど!」
「ちっ……!」
『被害に遭ったら、抵抗せず馬は手放せ』――ローレルとユンカースはそう言った。だがいざその現場に遭遇すると、頭に血が上った有那は思わず犯人に立てついてしまった。
太ももにまとわりつく有那を馬上の男が振り払おうとする。有那が火事場の馬鹿力で引っ張ると男が滑り落ちそうになり、背後を振り返った。
「――来い!!」
(えっ。なに――。二人目!?)
馬上の男の大声に有那は目を見開いた。振り返ると、背後からもう一人男が現れ有那に向かって走ってくる。
(やば――)
脚を離し、有那は海渡が逃げたのと逆方向に走り出した。捕まったらヤバいと本能が警告してくる。
だが男の足は有那よりも早く、背後から羽交い絞めにされると強い力で引っ張られた。
「――ッ! は、な、せ!! ふざけ――っ、このクソ野郎……っ! 触んな!!」
「ちっ……。うるせえ女だな! ちょっと黙ってろ!」
「もごーっ!!」
口を手のひらで塞がれ、暴れながらも再び馬の元まで引きずられる。あとから来た男が海渡に気付いた様子はない。
こんなときに限って、通りには誰もいなかった。先ほどの届け先の客が異変に気付いて出てきてくれないかと思ったが、願いも虚しく静まり返ったままだ。
(せめてカイトだけでも逃がさないと……!)
馬上の男に合流すると有那の口を塞いだ手のひらが外される。
その隙を見逃さず、声を出そうと大きく口を開いた瞬間。布を口に押し当てられて有那はそれを吸い込んでしまった。ツンとする刺激臭が鼻を刺す。
(オエッ、くさっ! ――あ……)
瞬間的にえずきそうになったその直後、ぐらりと思考が回り――有那の意識はブラックアウトした。
「かーちゃん……。かーちゃんっ!」
有那が馬に乗せられ連れ去られた直後、海渡は恐る恐る細い路地から顔を出した。
言いつけ通り、絶対に見つからないよう身を潜めていた彼は有那の罵声、そしてそのあとの突然の静寂と走り去る蹄の音に事態を察し、地面に崩れ落ちる。
「あ……、あっ。うえ……っ、うえぇえええん! ……ひぐっ……!」
有那が悪い奴らに連れていかれてしまった。その恐怖と、自分だけ逃げて母を守れなかった悔しさに海渡は泣き出した。
有那の荷物だけが残され、それを拾い上げるとしゃくり上げながら鼻水を流す。
「かーちゃん……! うえぇ……ひっく。ここ、どこぉ……。ユンユン……、ばーちゃん……! ユンユン…ッ!」
――いーい? 迷子になったら、そこから動かないんだよ。でも誰もいなかったらちょっとだけ歩いて、大人の人に言うの。かーちゃんを探してって。
「あ……。かーちゃん、探さなきゃ……」
いつかスーパーで迷子になったときに有那が言っていた言葉を思い出す。海渡は有那の荷物から地図がはみ出しているのに気付くとそれを広げた。
――あの上の方のタイル。角にある建物には、必ず通りの名を示す銘板がついてるんです。
交差しているのがタスクント通り――我々のアパートが建つ通りです。
「角のたてもの……。――あ。あった」
いつか、ユンカースが地図のことを教えてくれた。角に立つ建物を見上げると、上の方に文字が刻まれたプレートがついている。
海渡は目を凝らしてそれを確認すると、地図に書かれた文字と照らし合わせる。
「コ、グ……コ、コ……。……これ?」
海渡は一つ一つの文字は読めるが、単語まではまだ読めない。一軒だけでなく近くの角の銘板も確認すると、ようやく自分が今いる位置が分かった。
それからアパートのあるタスクント通りを地図上で探す。
「タ、タス……。……こっちだ。あっ、丸つけてあった」
アパートには赤丸がつけられていた。有那の筆跡で周りに何か書き込まれている。
たぶんそれほど遠くない。涙を袖で拭くと、海渡は地図を見ながら走り出した。
「ユンユン……ッ。ばーちゃん、レーゲンさん……っ」
何ブロックか進むと、いつしか見覚えのある通りにたどり着いた。そこからは確信をもってアパートまで走る。
あと少しでアパートに着くというそのとき、海渡は横から来た人とぶつかりそうになり、その腕に抱きとめられた。
「えっ……。カイト!?」
「ユンユン……!」
――その日ユンカースは早番で出勤したため、夕方前に帰路についた。
先日寄ることができなかった花屋に寄り、店員のアドバイスを聞いて小さな花束を作ってもらった彼はそれを片手にゆっくりと街を歩いた。
この時間なら有那たちも帰ってきているだろう。有那はミネルヴァの手伝いがあるだろうが、海渡だけ連れ出してもう一度街に出たり、遊んだりしてもいいかもしれない。
そんなことを考えながらアパート手前の角を曲がると、小さな弾丸が腕に飛び込んできた。
「走ったら危ないですよ。……あれ、アリナさんはどうしたんですか?」
「ユンユンッ! か、かーちゃんが……っ! たすけて……。かーちゃんをたすけて!!」
「え――」
「うわぁあああん! だずげで~!!」
ユンカースの顔を見るなり、海渡は声を上げて泣き出してしまった。通行人がぎょっと振り返り、海渡を抱きかかえるとユンカースは慌てて食堂へと駆け込む。
ただならぬ雰囲気にミネルヴァが厨房から出てきた。
「どうしたんだい」
「ばーちゃん! ばーちゃあああん!! うぇええええん」
海渡は泣きべそ顔のままミネルヴァの胸に飛び込んだ。ミネルヴァは動じた様子もなく海渡を抱きしめると、幼子を落ち着かせるようにその背中を撫でさする。
ヒックヒックとしゃくり上げた海渡はようやく声を出せる状態になると、泣きながら訴えた。
「か、かーちゃんが、馬と一緒に悪いやつらに連れてかれて……っ!」
「……!!」
海渡から切れ切れに事の詳細を聞き取ったユンカースとミネルヴァは即座に立ち上がった。ユンカースは自室に戻って慌ただしく支度を整えると、海渡をミネルヴァに託す。
「僕はこれから城へ向かい、陛下に判断を仰ぎます。すみませんがミネルヴァさんは自警団に連絡をしてください。最悪、城の動きが遅くても自警団の方が早く動いてくれるかも――」
「ユンカース、これを持っておいき。王に直接見せるんだ」
「……? はい」
小さく丸めた書状のようなものをミネルヴァがユンカースに投げてよこした。今書いたらしいそれはインクが滲んでいたが、中身を確認している時間はない。
ユンカースは急いで出ようとして、はっと踵を返すとミネルヴァと手を繋いだ海渡の前でひざまずく。
「君はここでミネルヴァさんと待っていてください。必ず、お母さんを連れて帰りますから」
「ほんとう……? ほんとに、かーちゃん帰ってくる?」
「大丈夫です。僕、こう見えて結構えらい人たちと知り合いなんです。その人たちの力を借りれば必ず取り戻せます」
幼子を安心させるように力を込めてうなずくと、ユンカースは海渡の頭を撫でた。そして立ち上がると外へと駆け出す。
ユンカースが落とした花束を拾い上げると、ミネルヴァは鋭い眼光で空を見上げた。
アパートを飛び出したユンカースは、城へと向かう前にローレルの馬車屋に足を向けた。馬の脚が欲しかったし、共に盗まれたのは彼の馬なので無関係ではない。
全速力で駆け、息を切らしながら道を行くユンカースに通行人がぎょっと振り返る。
(アリナさん……! 絶対に連れ戻す! 頼むから無事でいてくれ……!)
馬泥棒の危険は一度ならず伝えていた。有那も「気を付ける」と言っていた。それなのに、まさか有那自身が連れ去られるなんて思いもしなかった。
いったん、馬での商売を辞めさせれば良かったのか。だがきっと有那は納得しないだろう。事業が軌道に乗ってきて、あんなに生き生きしていたのに。
(王都の見回り強化を、もっと陛下に進言すれば良かった。しばらくは一人で馬を使わせずに配達する方法だって、考えればあっただろうに……!)
悔やんでも今さらだ。考えるならもっと建設的なことを。一刻も早く有那を助け出すために。
馬車屋に駆け込んで店の扉を開くと、タバコをふかしていたローレルがぎょっと腰を浮かせた。
「どうした、兄ちゃん。ボロボロじゃねーか」
「う、馬を貸してください……! あと人手を……っ」
ユンカースの短い説明にローレルは立ち上がると、機敏に動き始めた。
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