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25.祝杯
しおりを挟むウーマーイーツ開業初日が一定の成功を収め、有那は上機嫌で夕飯を食べ終えると海渡と湯あみにやってきた。
1階にある洗面所で大きなたらいに湯を張ると、海渡を座らせて頭を洗う。泡を流し終えると次は自分がたらいの中に入った。
「あ~。労働のあとのシャンプー最高~。これで湯船があれば完璧なんだけど」
シャンプーのあと、レーゲンに教えてもらった香油をつけると栗色の髪がトゥルンとまとまる。こちらに来てから若干痛みかけていた有那の髪は、ケアを再開したおかげで元の輝きを取り戻していた。
たらいから出て髪と体を拭いていると、海渡が「あ」と声を上げる。
「パンツ忘れた……。とってくる!」
「え? ……あ、ちょっ! フルチンで外出ちゃ駄目だって!」
食堂は通らないとはいえ、素っ裸で子供を走り回らせるのは自分の良識を疑われる。有那が慌てて追いかけるが、海渡は素早く扉を開けて走って行ってしまった。
扉を閉めようと近付くと、向こうから勢いよく誰かがやってくる。
「何事ですか!? ――あ」
「……あ。ユンユン」
「っ!?」
ちょうど帰宅した直後、素っ裸の海渡に驚いて洗面所にやってきたユンカースは、タオル一枚ひっかけただけの同じく素っ裸の有那に遭遇して目を見開いた。
「すっ……、すみません!!」
バン、と勢いよく扉が閉められ、その風圧で有那のタオルが吹き飛んだ。
有那は床に落ちたタオルを拾うと、やっちまった……という気分で髪をガシガシと拭いた。
数分後、着替えた有那が洗面所のドアを開けると、廊下でユンカースがしゃがみ込んでうなだれていた。有那に気付くと、ユンカースは立ち上がって深く頭を下げる。
「すみませんでした! 決してわざとでは……!」
「あ、うん。それは分かってるから……ていうかゴメン、あたしが油断してた」
「いえ、僕も悪かったです。先に声を掛けておけば……。どうお詫びをしたらいいか――」
ユンカースの態度から見るに、これはしっかりばっちり見られたらしい。
これがなんとも思っていない男だったら、「ラッキースケベじゃーん。見物料出しな」とからかって終わりなのだが、なにせ相手はユンカースだ。
放っておいたら土下座でもしそうな彼の頭を見下ろし、有那はふぅと腕を組む。
「そういうの、別にいいから。事故なんだしお互い気にせず――」
「あなたが良くても僕が気にします。不可抗力とはいえあんな――」
ユンカースが言葉に詰まり、代わりにその首筋が赤く染まった。「あんな」のあとに続くであろう光景を想像し、有那もまた顔が赤くなる。
「あ~。じゃあ、さ。お詫びするなら、あとで中庭に来て。カイトが寝たあとに」
「は? なんで――」
「いいから! あたしにお詫びしたいんでしょ? 約束だからね」
めっと念押しすると、ユンカースの横を通って有那は3階へと上がった。残されたユンカースは困惑した頭でそれを見送った。
その夜、海渡を寝かしつけて1階に降りてきた有那は静かに中庭へと入った。
ベンチでは約束通り、私服に戻ったユンカースが手持ち無沙汰そうに待っている。
「ユーンユン。お疲れ~」
「アリナさん」
ユンカースの横にどっかりと腰かけると、有那は持ってきた酒瓶とグラスをテーブルに置いた。ユンカースは困惑顔で今一度頭を下げる。
「あの、本当に申し訳――」
「それはもういいから。謝るよりも、あたしの祝杯に付き合ってよ」
「祝杯?」
「そ。ウーマーイーツ無事開業の祝杯!」
有那はにっと笑うとワインのコルクを開け、二つのグラスに酒を注いだ。ユンカースが困惑しながら有那を見る。
「でも、あなたお酒は駄目なはずじゃ――」
「今日解禁する! ……解禁したいんだ、もういい加減。ユンユンとなら……飲んでも平気、でしょ?」
「…………」
過去のトラウマからなかなか踏み出せなかったことだが、今この時に、彼と同じ時間を共有したいと思った。有那が見上げると、ユンカースはグラスを手に取り小さく目を細める。
「もちろんです。……開業おめでとうございます、アリナさん」
「ありがと。……乾杯!」
チンとグラスを触れ合わせ、有那はぐっとワインを飲み干した。ふわっと特有の芳香と熱さが喉を突き抜け、有那は身悶える。
「……っ、かーっ!! これだこれ! 生きてるってカンジー! あたしビール派だったけど、ワインもいいね!」
「あの、お静かに……。久しぶりならゆっくり飲んだ方がいいですよ」
「うん分かってる。あー、美味しい~。やっぱ気分いいときに飲む酒はサイコー」
「ふ……。酒飲みの台詞ですね」
ユンカースが小さく苦笑し、有那はますます気分が良くなった。少しずつだが、笑顔が見られるようになってきた。それは自分だけの特権か。
ふわふわした気持ちでお互い黙ってグラスを傾けていると、ふとユンカースが口を開いた。
「今日……どうでしたか。問題ありませんでしたか?」
「うん。予定してた道が通れなかったりでちょっと時間はかかったけど、大丈夫だったよ。明日以降の注文も取り付けたし」
「そうですか。良かったです」
「最後にユンユンにも会えたしね! なんかホッとしちゃった」
ニコッと笑うとユンカースが眼鏡を押し上げる。その分かりやすい照れ隠しに有那は瞳を閉じた。
「帰ったらミネルヴァさんにも聞かれてさー。……あたし、誰かにあんなに心配されたの初めて。なんか、お母さんみたいで安心する」
「お母さん……ですか」
「うん。ていうか、このアパートみんなで家族みたいじゃない? ミネルヴァさんがお母さんで、レーゲンがお兄ちゃん…? いやお姉ちゃん? まあどっちでもいいか。で、あたしとユンユンが妹と弟。そんでカイトが孫」
「弟……」
いい気分の有那は、ユンカースの声音がわずかに翳ったのに気付かなかった。目を閉じて微笑みながら続ける。
「あたし……親が親だったから、こういうの憧れてた。まさか違う世界で叶うなんてびっくりだけど。ここに住めて良かった~」
「そうですね……。僕も、このアパートは居心地がいいです」
「ね」
静かな沈黙が心地よく、二人はゆっくりと杯を進めた。有那は思い出したように「あ」とつぶやく。
「そうだ、あたしユンユンに言いたいことあったんだった」
「え……なんですか?」
「前にカイトを保育室に迎えに行ったときさ、くっついて離れない女の子がいてさー」
有那は以前、海渡が保育室で女の子に別れを惜しまれて、殺し文句と共に説得した話を伝えた。ユンカースに話したかったのだが、その直後に口論になったため言えずじまいだったのだ。
「カイト……すごいですね」
「ねー。将来絶対モテるよねー。モテ男はいいけどクズ男にならないようにしないと」
予想通り感心してくれたユンカースにうなずくと、有那は星が瞬く夜空を見上げた。
思えば海渡が産まれたのも星が綺麗な夜だった。産後ハイの興奮した気持ちで病室の窓から空を見上げたのを覚えている。
「カイトの名前ね……あたしがつけたんだけど、『海を渡る』って意味なんだ」
「そうなんですか」
「うん。あたし、外国に行ったことないからさー。憧れて……。カイトと外国、行きたかったなあ。あとはいつか広い世界に出てくれるといいなって」
「……いい名前ですね」
ぽつりと告げた有那にユンカースが相槌を打つ。有那は遠い空を見上げながら続ける。
「あたし、ろくに勉強してこなかったのに名付けの時だけはめちゃくちゃ辞書調べたの。カイトって、外国の言葉だと凧って意味もあって――それもいいなって」
「色々な意味があるんですね。興味深いです」
「うん。……でもこないだみたいなことがあったら、『ああ、いつかこの子も誰かと一緒に飛び立っていっちゃうんだなー』って思って……あたし、なんか急に寂しくなって……。う、うーっ」
「えっ。……ちょっと、アリナさん!?」
話しているうちに星空が滲み、有那はポロポロと泣き出した。楽しかった気分が一気に寂しさに引きずられる。
「あたし、親離れできるかなぁ~。カイトにウザいって言われないかなぁ~。うえぇ……」
「ちょっ……あなた、泣き上戸なんですか!? 面倒くさいな、この人!」
「そうじゃないけど、なんか寂しくなっちゃって~!」
べしょべしょと泣きじゃくる有那にユンカースが困惑して固まる。彼は戸惑いながらそろそろと手を伸ばすと、有那の背中をそっとさすった。
久々のアルコールで感情の起伏が激しくなった有那は、その優しい手つきにまたポロポロと涙をこぼした。
「ごめん……これじゃあたしがウザいよね」
「いえ、別に……。あなた以外と泣き虫なんですね」
「泣き虫って言うなぁ……」
遠慮がちに背中をさすられ続けると、次第に激情が収まってくる。小さく深呼吸を繰り返す有那にユンカースが静かに告げた。
「……僕がいるじゃないですか」
「え……?」
「カイトが巣立っても、あなたが中年になっても――僕がいますよ。僕はずっと、ここにいますから」
「…………」
有那は涙の残る目でユンカースを見上げた。彼はひどく真剣な眼差しで有那を見つめている。
言葉の意味を理解して有那の頬がさっと染まると、ユンカースは熱っぽく繰り返した。
「僕がいます。……あなたは一人じゃない。一人にはさせない」
「ユンユン――」
「それに。カイトだってまだあと何年も一緒ですよ。思い出なら、いくらでも作れる」
星明かりの下でユンカースが微笑し、有那は操られたようにコクンとうなずいた。ユンカースは有那の背から手を離すと静かに続ける。
「気付いてないみたいですけど、ここだってあなたから見れば外国ですよ。……一緒に来られたじゃないですか。カイトと」
「あ……。ほんとだ――」
ユンカースの言葉に有那は目を瞬いた。
まったく異なる国、異なる文字、異なる生活。海渡とやりたかった「特別」を、今まさに体験している。
「あは……。気付かなかった。外国どころか異世界に来て、しかも住んで生活して新しい仕事始めちゃってるって、あたし結構すごいね?」
「そうですね。あなた結構すごいですね」
「へへっ……。そっかあ、そうだよね。思い出なんて、これからいくらでもここで作れるもんね!」
今泣いたカラスがなんとやら。有那がへへっと笑うとユンカースはようやくほっとした表情になった。
再び静かに酒を飲み始めた彼を、有那は横目で見つめる。
端正な顔が、星明かりに照らされてどこか憂いを帯びて見えた。グラスを掴む指は意外に男らしく、しかしその指から紡がれる文字は有那から見ても流麗で。
暗い金の瞳は時に呆れながらも有那をいつも心配してくれる。ため息を吐く唇も、本当は全然冷たくなんかなくて――
(まつげ長いなあ……。喉仏、綺麗だな……)
もっと近くで見たくて、顔を近付ける。ユンカースが気配に気付いて振り向くと、有那は瞳を閉じて唇を重ねた。
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