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乱世下威区編 下
顕現、天災竜王ゼヴルエーレ
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キシシ野郎、もとい那由多って名前がある俺は殺る気満々の当主殿とは裏腹に、クソほどやる気が湧いてこなかった。
重スラム地域でツムジとともに孤児を囲っていた頃、まだ年端もいかないガキどもの我儘に付き合わなきゃならなくなった、虚しさと面倒くささが入り混じる感情が横たわる。
執事殿にも当主殿にも言ってやったが、俺には暴閥の考えていることはまるで分からない。
明らかに勝敗が明確なのに戦い続けるところとか、瞬殺されるのが分かっているのに実力差がありすぎる相手にも果敢に挑むところとか。執事殿に挑んで瞬殺された中威区の暴閥当主といい、目の前で案の定八つ裂きにされている流川の当主といい、平然とした顔で格下を虐殺せしめた執事殿といい、どうして命ってもんを粗末に扱えるのだろう。
命だぞ。人生でたった一つしか与えられない、唯一無二の尊いもの。それ以上に大切なものなんて存在しないと豪語できるぐらい、何ものにも代えがたいものなのに。
「嗚呼。ほんと、わかんねーよ……」
時間を止めながら小声で呟く。
俺の剣、刃渡り七十センチメト程度の半透明な刀身を持つ剣―――那由多は、カラクリこそ分からんが物体の運動を操作できる。
加速、停止、逆行。いずれかを自分の意思で選択して、物体の運動を自在に決めることができるのだ。
当主殿が放った煉旺焔星とかいうクソ危なっかしい火の玉も、体の内側から全方位に霊力を噴射して部屋ごと俺を焼き尽くす荒技を氷属性に逆転させて跳ね返せたのも、全部那由多って剣のお陰である。
詳しくはどういうカラクリになっているのかは持ち主の俺も知らない。だが長年使ってきてそういう性質を持っているとしか言いようがないのだから、そういう代物なんだと理解して受け入れている。
「まあそんなことよりも、だ……どうするか、なぁ」
力押しで突撃してくる当主殿を紙一重で避けながら、考えを巡らせる。
当主殿はフィジカルこそ化け物だが、持ち前の回避能力や那由多(なゆた)の物体運動操作に対応する手段はないらしく、その全てが致死攻撃に等しい当主殿の猛打が、命を刈り取る様子はない。
このまま避け続けて相手の消耗を待つのが、負けを認めない駄々っ子への勝ち筋ってもんだが、当主殿のフィジカルは今まで戦ってきた敵とは次元が違った。
「あぁ、クソが!! 当たらねえ!!」
苛々が目に見えて増してやがる。
当主殿は、やはり流川本家の当主。フィジカルはもはや人のそれじゃあない。部屋の中を超高速で、それこそ空へ投げたボールが地面に落ちるよりも遥かに速い速度で動きながら、部屋の地形を変えるぐらい大暴れし続けているのに、息の一つ切れる様子がない。
今まで戦ってきた奴らなら、もう息切れしてもいいぐらいなのだが、当主殿はケロッとしてやがる。単純なパワーもそうだが、スタミナも化け物らしい。
「このままだと、俺が先にバテるなこりゃ」
キッシシ、と癖になっちまって抜ける様子がない笑みが溢れた。ちなみにこれは苦笑いだ。
一応、スタミナの消費を最小限に抑えるために可能な限りその場から動かず避けているが、当主殿も対応力は高いようで、そろそろ動きを最小限に意識して避けるのが難しくなってきていた。
「つってなぁ……相手、不死身なんだよな。死なない奴ってどう倒せばいいんだ?」
素直で素朴な疑問を、誰に聞こえるでもなく放つ。答えてくれる奴がいるのなら、答えてほしい。
死なない奴ってどう倒す。死なないってことは、単純に言えば倒せない、殺せないってことなんだが、それって普通にズルくないだろうか。
戦ってみた感じ、全方位霊力噴射を跳ね返したときに矢鱈と苦しんでいたから、氷属性あたりが弱点なのは分かったが、その弱点を突いてももがき苦しむ程度で、もう今となっては全快している。
部屋を覆い尽くすほどの猛吹雪、半袖短パンで晒されたら凍傷の一つや二つしてもおかしくないはずだが、見る限り怪我の一つもしていない。つまり弱点を突いても一撃で倒し切らない限り、結局弱点が弱点になり得ないってことだ。
うん、ズルい。ズルすぎる。
「そんなんありか、よッ」
そろそろ目に見えるレベルで精度が上がってきた。自慢じゃないが、自分は回避にだけは無類の自信があったのだけれども、既に命の危機を感じるぐらいには攻撃が当たりそうで恐怖を禁じ得ない。
このままだとジリ貧だ。
「あーぁ。本当ならこうなる前に逃げるんだがな……どうしてこうなっちまったのか」
キッシ、と息が溢れる。歯と歯の隙間を縫う吐息が、心なしか小さく掠れる。
そう、本来の俺ならこうなる前に全力逃走している。勝ちを認めない上に不死身、フィジカルはパワーとスタミナともに化け物。人並はおろか人って種族から外れちまった怪物と、ダンスを踊るほど俺はもう若くない。死にたくはないし、さっさと行方を暗ますのが今までの俺だったのだが。
「無理なんだよなぁ、今回ばかりはよ」
ほんの少し前、擬巖と交わした約束を思い出す。
テンイマホウとかいうクソ便利な魔法で脱兎をかましやがった執事殿に踵を返し、同胞が匿われているであろうフロアへ足を運んだ。そこでは案の定、もはや人として生きることを諦めた同胞が、ただの壊れた機械みたく働かせているという地獄絵図が広がっていた。
クソが、と思った。なんでだよ、と怒りを燃やした。力がありながら、それだけの財もありながら、どうして、と。そのとき、擬巖は俺に頼み事をしてきやがった。
「オメェには、流川の当主を討ってほしい」
最初は言っている意味がわからなかった。多分「はぁ?」とか間抜けな声を言った気がする。
そりゃそうだ、下威区で腐っていただけの俺が、それもツムジを殺した怨敵である擬巖の頼みを、なんで聞かなきゃならないのか。第一、流川の当主って、この世界で最強の存在じゃないか。俺に死ねって言ってやがるのか。
憤りは収まるどころか、火を吹いて荒れ狂った。
「そう喚くな。お前にも利がある話だ。よく聞けよ」
擬巖は俺の怒りなんぞ知ったこっちゃねーと言わんばかりに、大暴閥の当主らしく横柄に話を進める。
曰く、擬巖の目的は流川の倒幕である。打倒流川。その目標を掲げ、遥か西にある任務請負機関本部を傘下に収めるため、まずは支部を陥落させる作戦を決行した。それは流川を倒すための駒を集めるためであり、今の請負機関の連中を傘下に収められたなら、それも可能になりうると考えたからだった。
しかし、結果は失敗。
東も西も陥落できず、手持ちの駒が増えるどころか減るというなんとも散々な結果で終わってしまった。
「はっきり言うぜ。オメェは俺より強ぇ。真正面から戦えばオメェが確実に勝つだろうぜ」
「はぁ? 冗談だろ」
「ンなわけあるかよ。本当にそうなのさ。実際、もう俺ぁ先が長くねぇしよ」
「……どういうことだよ」
曰く。万策尽きた擬巖は、虎の子である腹心から更に驚愕の事実を聞かされた。それは西支部との戦いの中に、花筏の巫女、その当主と思われる人物と敵対してしまったというのだ。
「目をつけられた可能性がある以上、カチコミかけられる前に攻める必要があるのさ。本当は真面目に準備し直したかったがな……」
ため息がマイク越しに鼓膜を大きく揺らした。顔が見えないから実際のところ演技なのかどうかが分からないが、言っていることが本当なら、かなり切羽詰まった状況なんだと思う。
花筏の巫女といえば、ツムジから聞いたことがある。流川と双璧を成す、人類最強の一角。かつて武力統一大戦時代に流川と引き分けたとされる武闘派の巫女衆だと。
下威区から遥か北方に住まう彼女らは、大戦時代が終わった後、人里離れた山奥でひっそりと暮らしているという。俺は当然この目で見たことはないが、同じ八暴閥の擬巖ですら恐れるぐらいだ、想像絶する化け物なのは確かだろう。
「……それで? 俺としちゃあ、そんな危ねー橋、渡る気が起きねーんだが?」
とりあえず事情は分かった。それで首を縦に降る気なったかと言われると、そんなことは全くない。むしろ逆に面倒事の匂いしかせず、関わり合いにならない方がいいとすら思える。
武ノ壁を支えていた魔道具は執事殿が破壊してくれたし、俺としてはもうここにいる理由があまりない。強いて言えば、心を壊してまで強制労働させられている同胞たちを解放したいくらいか。
「バカだな。流川を殺らなきゃ、オメェら下威区の奴らが笑って過ごすなんざ夢のまた夢だぞ」
言葉の節々に入り混じる、乾いた嘲笑。伊達に虐られた人生を送っちゃいない。馬鹿にされるのは慣れている。
「そりゃあ擬巖が滅びれば、オメェらは下威区から解放されるだろうな。だが、その後はどうする? 俺以外にも暴閥なんざ腐るほどいるんだぜ?」
「それは……」
反論しようとしたが、何も答えられなかった。
確かに擬巖が流川に討たれれば、俺たちは下威区の呪縛から解放される。それは俺たち同胞全てが願っていた一つの悲願だ。
でもその後、中威区で円満に過ごせるかと言われると、そんなことはないだろう。
擬巖ほどじゃないとはいえ、中威区にも小規模の暴閥はいる。むしろその小規模の暴閥の方が同胞を食い物にしていると言ってもいいぐらいだ。
流川が擬巖を倒し、俺たちは解放される。でも流川はきっと、俺たちを助けてはくれない。下威区の呪縛から解き放たれ、新天地に胸躍らせる俺たちがまんまと中威区暴閥の罠にかかり、食い物にされる様を傍観する立場を貫くだろう。
いや、きっと傍観すらしないかもしれない。流川にとって俺たち下威区の奴らが死のうが生きようが、純粋に興味がないのだから。
「少なくとも、``法王``はオメェらの存在を認めねぇだろうな。確実に粛清されるぜ」
見下すような笑いが鼻につく。自分が馬鹿にされるのは構わないが、同胞は蔑まれるのは気分の良いものじゃない。
``法王``といえば、上威区を牛耳る三人の大領主―――上威区三大帝の一柱。ツムジの話じゃ、上威区でもトップレベルで強者至上主義者であり、熱心な流川信奉者だと聞いた。
つまり結局、武ノ壁を壊したところで俺らが望む平和な世界ってのは、束の間のぬるま湯でしかないってわけか。
思わず肩を竦めた。竦めずにはいられなかったってのが正しいと思う。
武ノ壁の破壊、それは下威区スラムに生きる同胞たちの悲願だった。それを達成すれば、まだ見ぬ自由が待っている。下威区を行脚していたツムジでさえ、その未来に胸を膨らませていたほどだ。
でも結局、その先にあるのは灰色のぬるま湯。文字通り下威区からは解放されるが、結局は狩られる運命にあることに変わりない。
弱肉強食。耳が腐るほど聞いてきた忌々しい四文字が、もはや呪詛のように思えてくる。
「だからこそ、オメェは流川を討て。俺はこれから、流川に挑む」
擬巖は妙に凛としていた。嫌な予感が胸中に横たわる。
「苦虫噛み潰して思わず飲み込んじまったみてぇな顔すんじゃねぇよ、暴閥ってのは、そんなもんさ」
「……だからって、捨てるこたぁねーだろ」
「宣戦布告しちまった以上、もう後戻りはできねぇよ。殺るか殺られるか。それだけだ」
奥歯を噛み締める。胸中に横たわる嫌な予感は、蛆臭い不快感に姿を変えた。
「おそらく俺ぁ、流川にゃ勝てねぇ。まあ、やれるこたぁやるがな。もし俺が討たれたら、俺の後を継ぐといい」
「……暴閥なんざごめんだね」
「バーカ、擬巖を継げって話じゃねぇ。オメェが王になるんだよ。流川を倒して、な」
意味が分からず、はぁ? と間抜けな声を出しちまう。
マジで意味がわかんねえ、何がどうしたら俺みてぇなボンクラが王になるんだか。俺はツムジもブルーも、囲っていたガキたちも何も守れなかった、ただの逃げ腰野郎だってのに。
「いいか、今人類世界を支配しているのは流川と花筏だ。武ノ壁をブチ壊しただけならオメェらは結局食い物にされるだけだろうが、流川を落とせば話は変わる」
「どう変わんだよ」
「簡単な話だ。この世界は弱肉強食、強ぇ奴が弱ぇ奴を支配する。オメェが流川を倒すってこたぁ、今度はオメェが人類世界にて最強ってことになるのさ」
「馬鹿言うな。ンなもん結局弱者を食い物にする側に回るだけじゃねーか」
「だったらオメェはそうしない支配者になりゃあいい。流川を倒せれば、オメェが王なんだ。王のオメェが理想とする世界に作り変えられる特権を得られるんだよ」
俺の思考が、止まった。
流川を倒せば、俺が王。人類世界を支配する新たな王として、世界に君臨できる。
王なんて、弱者を食い物にするだけの蛆野郎としか思ってなかったけれど、言われてみれば、俺たち最底辺が王になれたなら、俺たち最底辺が理想とする世界を創れる。ツムジが言っていた、みんながみんな笑い合える幸せな世界が創れる。
今の世界は流川が創った、なら俺たちがその流川を倒せば―――。
「じゃあ改めてオメェに託す。流川を……流川本家の当主を討て。そして、オメェが王になれ。この現代人類世界を統べる、新世界の王に……」
その言葉を経て、今に至る。擬巖の予想通り、奴は討たれ、俺が奴の遺志を継いだ。
擬巖を許したわけじゃない、志は同じだったとはいえ、流川を倒すただそれだけのためにツムジや同胞を食い物にした事実は変わらないし、仮に生き残っていたとしても、俺と擬巖はきっと道を違えただろう。
それでも奴の遺志を継いだのは、ツムジが抱いていた夢を叶えるため。みんながみんな笑い合える世界を創るため。王なんて弱い奴を踏み躙るだけの悪党だと思っていたけど、王になった奴が自分の思い描く世界を創れるというのなら、話は変わる。
「でも、そーだな……そーすると……」
王になる。流川を倒すとは、新たな王として君臨するということ。だが倒すってことは流川の当主を殺さなきゃならないってこと。
正直、ツムジや俺たちが夢見た世界のためとはいえ、それでも人の命を奪う行為はしたくない。どんな野郎であれ、どんな人生であれ、命ってのはただ一つしかないし、ただ一つしかないからこそ何ものよりも尊いものだ。
理想だのなんだのと命を奪うことをいくら美化したところで人殺しは人殺し。尊い犠牲なんて思わない、犠牲なんてものはどんな形であれどんな経緯であれ、犠牲は犠牲でしかないんだ。
それでもきっと、その思いは当主殿には届かないだろう。
敵わないと分かっていて瞬殺された中威区暴閥の当主たちのように、死ぬのがわかっていながら当主殿に挑んで死んだ擬巖のように、暴閥の戦いはお互いどっちかの生死でしか終わらない。俺が言う半殺しじゃ、きっと当主殿は諦めてはくれない。
それに当主殿が生きている限り、流川は決して滅びない。そうなれば同胞たちがずっと、虐げられる未来だって変わらない。
「嗚呼……」
きっと誰にも聞こえない嘆息が漏れる。
殺し方が浮かんだ。浮かんじまった。死なない奴を殺す、ついさっきまでそんな理不尽なと思っていたが、俺が今振るっている剣―――那由多ならきっと殺れてしまう。
もしやるとなったら那由多とは今生の別れになってしまうが、ツムジの形見―――旋風は、きっと亡き相棒のことを想い続けてくれるだろう。
ツムジがどんな理不尽や悲劇を前にしても、俺やブルーのことを想い続けてくれたように。
「じゃあ、いくか」
那由多を構える。
本音を言うなら浮かんで欲しくなかったが、人生ってのは本当にままならないもんだ。浮かんで欲しくないときに閃きってのは舞い降りるし、ここぞってときには音沙汰一つ起こさない。
御伽話の主人公ならきっと誰かが死にかけているときに都合よく助けられる策が閃いて、運良く敵をやっつけられたりするんだろうが、ツムジがいなくなったときは何もできず、ブルーと道を違えたときは別れの言葉一つもかけてはやれなかった。囲っていた孤児たちだって、都合よく天啓が降りてくれたならと恨まずにはいられない。
今回だって、半殺しにしたかった相手を確実に殺す策が舞い降りてきやがった。どうせ舞い降りるなら、死なない上に負けを認めない駄々っ子を、半殺しにして黙らせる策が降りてきて欲しかった。
「……いや、そんなもんか……人生なんて」
「さっきからなにぶつくさ言ってやがる……」
独り言に反応されたことに、少しばかり驚きつつも、気づけば声が大きくなっていたのかとすぐに興味を失う。
息は切らしていないようだが、当主殿の髪は汗でじっとり濡れていた。考え事ばかりしていて意識していなかったが、辺りを見渡すと俺の周りの地形が様変わりしていた。
戦う前はきちんと舗装された無地の部屋だったのに、今じゃ穴ボコだらけの荒野に成り果てている。
一体どれだけの攻撃を試され、回避したのだろう。回避なんてやりすぎて呼吸と同じぐらいの意識しか向けないから、周りで何が起こっていたのかよく思い出せない。
「今度こそおわりにしよーかなって」
那由多を構えたまま、出まかせを放つ。一文字も合っちゃいないが、本音だし間違いじゃあない。
この下らない戦いを終わらせたい。それは戦う前からずっと胸に秘めていたことだ。
「ふざけるなよ……俺は、まだ」
「悪いな。アンタがどう言おうと、俺が終わらせたいんだ」
本当はしたくない。たとえ下威区とかいう糞と蛆の掃き溜めみたいな場所を作り、長きにわたって同胞を苦しめることになった元凶だったとしても、一人の人間として生きているのなら。
「終わりだ、流川澄男ッ」
何の捻りもない、ただの突貫。剣を槍のように構え、疾駆する。
槍じゃないから本来の使い方には程遠いだろうが、元より剣豪でもなんでもない俺に、使い方なんて関係ない。
「馬鹿が! そんな突撃で俺が死ぬとでも……」
そうだろう、アンタなら。死ぬわけがない。アンタは不死身だ。首を切り飛ばしても死ななかったアンタなら、剣で串刺しにした程度じゃ実質無傷だろう。
「俺の持っている剣が、``那由多``じゃなけりゃーなッ」
当主殿は予想通り真正面から凶撃を受け止めた。普通なら回避しなきゃ確実に死ぬ攻撃。
ものの見事に、那由多は心臓を貫いた。当主殿の口の端から血が滴るが、奴は笑っていた。痛くも痒くもないからだ。でも那由多の本領は、ここからである。
「な、に……? なんだ、ンだこりゃあ!?」
当主殿の叫びが鼓膜を縦貫し、三半規管をどついた。刺された部分から色を失っていく当主殿の体。鮮やかな無地は虚ろな灰へと表情を変えていく。
「身体が、動か、な……!?」
「アンタ、死なないんだよな。むしろ死ねた方がマシだったかもしれねーよ」
「おま、な、にを……」
まあ自分のおかれている状況を、何の説明なしに理解するのは流石に無理だと思う。
だが、説明する気は起きなかった。嫌がらせとかじゃなく、単純に人に理解できるだけの説明をする時間が残されていないんだ。那由多って剣で、当主殿という名の物体の運動を止めるって、どうやったら伝わるだろうか。正直何言っても無理だと思う。
アンタだけの時間を止めた、っていえば納得してもらえるだろうか。
「クソが……!! 嫌だ、俺はまだ……御玲を助」
那由多は無慈悲だった。当主殿の遺言を待つことなく、時の狭間へ容赦なく突き落とす。
始まりは派手だったが、終わりは呆気ない。いつだって終わりは無感動に無感情に、突如として静寂が横たわる。今更始まったことじゃないから驚きもしないが、これで俺は王になれたのだろうか。
「実感ねーな……」
まあ王なんて何するか分からんから、まずはブルーを探してアイツに丸投げして―――。
―――``小僧``
思わず、那由多をそのままに後ろへ大きく飛び退いた。
直感が全力で危険信号を発している。寒気が身体を縦貫し、鳥の肌が全身を駆け巡る。まるで心臓を鷲掴まれたかのような不気味な感覚は、蛆を食わされたときの不快感とは比較にならないほどに邪悪だ。
―――``時間ヲ止メラレル程度デ、自惚レルナ。ソノ程度、痛痒ニ値セヌワ``
邪悪な声音は、当主殿から発している。だが明らかに当主殿の声音じゃない。
吐き気を催すほどの威圧感。当主殿とは歳は近しいと思うが、この声音は壮年の男を思わせるぐらいコクがある。身の毛もよだつぐらい、邪な。
―――``ダガ感謝セネバナルマイ。小僧ノオ陰デ、ヨウヤク現世ニ顕現デキルノダカラナ``
刹那、当主殿を覆う虚ろの帳に蜘蛛の巣が張った。那由多を中心に、今にも粉微塵になる瞬間のガラス窓の風景が映る。蜘蛛の巣は徐々に大きくなり、そして。
灰色の窓ガラスは打ち砕かれ、当主殿は色を取り戻した。
「オオ……久シい。コの感覚、物質体デ現世に君臨するノハ、数億年ぶりニなるカ」
色を取り戻したが、その色は暗い。身体から暗黒の靄を漂わせる当主殿は、手を閉じたり開いたりしながら、左右の手を交互に眺める。更に言うなら、声にかかったエコーも薄くなっていく。
「せめてもの礼だ。苦痛のない死を与えてやろうぞ」
外見は当主殿だ。さっきのさっきまで戦っていた、流川本家の当主殿。だが纏う雰囲気は、邪悪そのもの。
擬巖が纏う闇よりも黒く、粘り気のある不気味な靄が、妖しげな気を放って俺の肌を舐め回す。
よく見れば眼球が黒く染まり、虹彩は血のような赤色、瞳孔は濁りのない金色に様変わりしている。
考えなくとも分かる。当主殿の別物の、理解の範疇を遥かに超えた化け物。本当の意味での人外が、そこにいる。
「キッシシ。礼してくれるんじゃねーのかよ」
「不服か? ならば舞え。我はこの肉体の心地を確かめねばならぬ」
「その前にその剣を返してくれねーかな? どうせ死ぬんならせめて遺品にしてーし」
平静を装いながら、手を差し伸べる。冷静に対応しているが、無限に湧き出る脂汗で身も心も溶けてしまいそうだ。
ちなみに、これは嘘である。死ぬつもりなんて毛ほどもない。俺が戦う相手はあくまで流川本家の当主殿であって、当主殿の皮を着た得体の知れない化け物じゃない。何が起こったかは分からないが、当主殿じゃない何かが当主殿の身体を借りているので、全力逃走を選択したまでである。
当主殿は俺を逃さないと言った、ならきっと、いずれ、いつか、戦うことがあるだろう。そのときに改めて再戦すればいい話。正体の知れない化け物に成り変わった今、いよいよ戦う理由が見当たらない。
「馬鹿め。考えが透けて見えるわ」
エコーが消えて尚、声質は邪悪だ。臓腑の奥底を掻き回すような不快感が心の逃げ場を黒く塗り潰す。
「返して欲しくば、武威を示せ。お前がただの弱小種でないことを証明するのだ」
歯の隙間から嘆息が漏れる。分かっていたが、タダで返してくれるわけがないか。
印象からして分け隔てなく菓子を贈り同じ円卓で食べるような騎士道精神を持っているように見えないし、むしろ平気で他人を踏み躙り、人からあらゆるものを奪うことに抵抗がない悪意すら感じさせる。
下威区スラムにいた悪食な連中なんて、目の前の化け物と比べたら可愛らしい小動物だ。
「心臓に刺されたままじゃ戦いにくいだろ。な?」
「御託はいらぬ。来ないのなら我からいくぞ」
だめだ、話にならない。戦う気満々すぎる。
「いやさ、その前に名前を教えてくれよ。アンタ、当主殿じゃないだろ」
質問を投げつけたが、名前にこれっぽっちも興味ない。これは時間稼ぎだ。殺る気満々なところ悪いが、とにかく戦いたくない。相手が違うのが丸分かりだし、戦うだけ無駄なのは考えるまでもないことだ。
「我が名は煉壊竜ゼヴルエーレ。この世に、災厄と破壊を、与える者」
意外にも、ただの時間稼ぎに乗ってくれた。正直無視して突撃でもしてくるもんだと思っていただけに拍子抜けだが、それよりも。
「……竜?」
その一文字、その単語。時間稼ぎのつもりが、その言葉一つに意識が集約される。聞き間違いだろうか。もし合っているなら人でもなんでもないことになるのだが、きっと違うだろう。だって竜なんて。
「信じられぬ、という顔だな」
思わず、身構える。ポーカーフェイスには自信があるし、日頃から飄々としている自覚はあったから、こうもあっさり見透かされるとは思わなかった。
でも無理もないだろう。同情してくれる奴がいるならいてほしい。
竜。ツムジから名前ぐらいしか聞いたことがなかったが、人間を一瞬で葬り去ることができる超級の化け物だと教えられた。戦うことはおろか、会うことすら一生ないと思っていたのに。
「……冗談だろ」
「そう思うなら、試してみるがいい」
大きく肩を竦める。どう転んでも戦いを回避する道はないらしい。
竜との戦い方なんて分からないし、逃げ方だって分からない。魔生物ならまだなんとかなったが、ゼヴルエーレさんは喋っているし、知恵の一つや二つはありそうだ。逃がしてくれるとは到底思えない。
「……やるしかねーってのかよ」
歯の隙間から漏れ出る笑いに嘆息が入り混じる。
那由多は相手の心臓に刺さったまま返してくれないせいで使えないが、短剣である旋風と切り札が一つ残されている。
那由多があるからと温存しておいた切り札。相手が人智を超えた化け物なら、出し惜しむ余裕はきっとない。どうにかして逃げ仰るぐらいはしたいところだ。
「愚かな。舐められたものよ。弱小種如きが、我に謀とは、なッ」
「ぐぶッ」
腹に衝撃が縦貫する。現状を把握する暇すらなく、されるがままに大きく後ろへと吹っ飛んだ。
背中を壁に受け止められ、乾いた呻き声が漏れる。背中の痛みと内臓へのダメージで、今にも落ちてしまいそうだ。
「やはり具合が良い。佳霖め、生きていたなら褒美の一つでもとらせてやったものを」
ダメージで動けない俺とは裏腹にゼヴルエーレさんは余裕綽々だ。右手を閉じたり開いたりして、手の調子を確かめている。
「何をされたのか、理解できんようだな。そういえば、現代の弱小種どもは転移魔法も碌に使えんのだったか」
またか、テンイマホウ。あの気がついたら全く別の場所に移動しているやつ。確かに気づいたら腹パン喰らわされて壁にぶち当てられて、なんで見切れなかったんだとダメージで意識が朦朧とする中、疑問符に理性が蝕まれていたが、魔法による瞬間移動なら納得がいく。
いくら回避に自信があるって言ったって、瞬間移動する奴の動きは流石に見切れない。予備動作、それがなくとも視線の向きぐらいは分からないと無理だ。
「さて、次は……」
ゼヴルエーレさんの右腕が炎に包まれる。それもただの炎じゃなく、光を一切通さない、黒一色の闇の炎。
なんなのかよく分からないが、仮に呼ぶとしたら黒炎というべきか。黒炎はみるみるうちに右腕へ集約され、右腕は真っ黒に塗り潰される。
「小僧の生存本能に期待しよう。簡単に死んでくれるなよ」
悪どい笑みを浮かべたと思いきや、また消えた。苦痛なき死を与えてやるとか言っていたのに、思いっきりぶん殴った挙句死んでくれるなよとか矛盾も甚だしい。死なせる気がないなら逃がして欲しいのだが、相手からその気がまるで感じられない。
「くそッ」
出し惜しみしてられない。寿命を縮めることになるが、使わなければ状況は悪化の一途を辿るだけだ。
できるなら長生きしたいのに、そんな細やかな願いですら、奴にとっては我儘なのか。
時が止まる。那由多は刀身が触れたもののみしか操作できないが、切り札は違う。
巷じゃ超能力と呼ばれるそれは、俺以外の世界の全ての運動を停止させる。何を言ってんだお前はと思われても仕方ない。俺だってそう思う。だがこれは事実だ。
実際、世界から音という音が消え、空気の脈動が消え失せたのだから。
「じゃあな、那由多……」
本当なら取り返したいが、命あっての物種だ。損失は決して小さくないし、なんなら半身を失った気分ですらあるけれど、命と比べたらまだ取り返しがつく。
長い間、付き添ってくれた相棒の一つに別れを告げることになるとは思わなかったが、いつかは別れることになると思えば、悲しみも緩和されるってもんだ。
―――``二度も言わせるな、小僧``
頭が真っ白になった。その後に押し寄せるのは、思考の渦。
今の声は何なんだ。聞いたことがある気がするが、そんなはずはない。だって今は、世界の全てが止まっている。俺以外の全てが。つまり俺以外の誰かの声が聞こえるはずがない。
そう結論づけたいが、つい昨日の出来事を思い出した。
「お前もかよ……!」
流川の領土に侵犯せざる得なかった昨日。命からがら防衛網を潜り抜け、使いたくなかった切り札を連発して満身創痍の中、例年稀に見る全力逃走を試みたあの日。
どこからともなく現れた長身のねーちゃんが、作り出した余白の世界を突き破り、俺を拘束したのだ。
俺以外の全てが停止する余白世界が破られたことは、昨日のあの瞬間まで一度たりともなかった。どういうカラクリか分からないが、自分以外が止まるはずの世界をまるで窓ガラスを突き破るみたいにぶっ壊してくるなんて、意味が分からないことこの上ない。
あんな非常識、もう二度と出てくることもないと思っていたのに。
「超能力だぞ……?」
「``超能力``、か。そうか、そうだったな」
余白世界が、無惨にも砕け散る。問答無用で全てを停止させる世界が、なすすべなく呆気なく。俺が作り出す余白は、こんなにも脆かったのかと非難したくなるぐらい、その死に様はあまりにもあっさりしていた。奥歯を強く噛み締める。
「お前たち弱小種は、この力を``超能力``などと呼ぶのだったな。世が違えば読み方もまた異なるということか」
「……何の話だ」
「小僧。今の力、``超能力``と言ったな? 本来その力は、弱小種たる小僧どもの身には余る力なのだ」
「だろーな。問答無用の時間停止なんざ、使われた側からすりゃあ堪ったもんじゃねーだろーよ」
「我らの世において、それはこう呼ばれておる。``竜位魔法``とな」
ドラゴ、マジアン。強そうな響きだ。いわゆるドラゴンが使う魔法的なやつだろうか。全然想像つかないが、化け物が使う自然災害って理解でいい気がする。
「元より小僧どもヒューマノリア人は、我の血を継ぐ者ども。竜位魔法に覚醒するのも合点のいく話であろうな」
「……ん? ちょっと待て」
無礼を承知で話を遮る。案の定ゼヴルエーレさんは眉をしかめるが、ここはドラゴン様の機嫌を多少損ねてまでも、はっきりさせておいた方がいいと思う。
「俺たちがアンタの血を継いでる……? 親の顔なんざ知らねーが、俺は人から生まれたぞ。多分」
さりげなく、さも当然と言わんばかりに言い放たれたゼヴルエーレさんの言葉には、人間として異を唱えておかないとダメな気がした。
俺は下威区スラム育ちだ。生まれも育ちも下威区であり、下威区の外の世界は見たことがない。俺の知識の九割以上はスラムの同胞の中でずば抜けて博識だったツムジからの受け売りだ。
この目で見れるなら、もっと早くから世界中を行脚していただろうが、生まれてから今までずっと下威区の住人だった俺が、今更になって人外の子と言われても納得できるわけもない。
確かにスラムで生まれ育った連中はほとんど自分の親の顔なんざ知らない。俺もどこの誰の腹の中から生まれたかなんて知らないし、物心ついた頃にはツムジが母親みたいなもんだったから、本当の親なんていないようなもんだが、それでも人外の親ってわけじゃない。
別に生まれてから今日まで人外の兆候があったわけでもなし、使える能力だって生きるのに必死こいていたら後天的に身につけたものばかりだ。ドラゴンが親なら身体のどこか、見慣れない鱗に変えられてもおかしくないはずだ。
「そうではない。小僧を含め、この大陸に生まれ落ちた者全てが、我の血肉より生まれた者どもなのだ」
馬鹿を見るような目で見られるが、俺はおそらくその馬鹿なのだと思う。
俺を含めた全員が、ゼヴルエーレさんから生まれた。スケールがデカすぎて、何を言っているのかさっぱりだ。
「かつて我は、最果てにて戦を起こした。その戦は黄金の竜と呼ばれた忌々しき竜に終止符を打たれた挙句魂と肉体を三つに分たれたが、運は我に味方した」
別に聞いちゃいないが、勝手に語り始めたので耳を傾けることにする。興味なんてないが、どうせ急かしても死ぬまでの時間が短くなるだけ。相手が調子良く一人語りしている間に、少しでも生き延びられる策を練った方が得策だ。
策を考えながらも、ゼヴルエーレさんの話は雑談程度には聞いていた。ゼヴルエーレさんは、三つに分たれた魂と肉体のうちの一つで、いわば本来の自分の分身体。
残りの二つは辺境の大陸を肥沃な土地にするため、その養分として黄金の竜、フェーンフェンさんなる竜に消費されてしまったらしい。
その養分となった魂と肉体は、長い年月を経て生命体を芽吹かせた。その最終地点が、今の人類だという。
「ゆえに小僧を含めた全ての生命は、我の一部。我より生まれ、我へ還る宿命にある」
スケールがデカすぎて、途中で脳みそのリソースを切ってしまったが、だから死ねと言われて死ぬ馬鹿はいないと思う。元々の話をされたところで、今の俺には関係のないことだ。
第一、そんな御伽話みたいなのを聞かされて尚更生き延びたい欲望が増したぐらいだし。
「しかし下らぬ。我の話を遮らぬことで時間稼ぎをしておるようだが、無駄な謀だ。どこへ逃げようと我の竜位魔法からは逃れられぬ」
小さく舌打ちする。興味のない話にわざわざ耳を傾けたのに、徒労に終わってしまった。人外で頭も回るとか、ただのズルじゃないか。
「勝手に俺の運命を決めないでくれねーか。俺は生きる。アンタが御伽話に出てくるよーな、クソやべードラゴンだろーと関係ねー。ぜってー生き残ってやるさ」
「好きに足掻くがいい。何をしようが等しく無意味で、等しく無価値だ」
生きようとしている奴に投げかける言葉じゃないと思う。アンタもそうなのかよ。
強い奴はいつもそうだ。俺たち弱者に生きることの無意味さと、足掻くことの無価値さを押しつける。
確かに下威区の連中はすぐ死ぬ。強者に蹂躙されなくても、大多数が飢え死にする。放っておいても死ぬのだから、そりゃ強い奴からしたら生きるだけ無意味、さっさと死んだ方が幸せだと考えるのも理屈ならわからなくもない。そう、理屈なら、だ。
「なあ、アンタもそうなのか」
どうしてだろう。問うたところで嫌な答えしか返ってこないのに。傷つくのが自分だけなのは、わかり切ったことなのに。
「弱者は死ぬべきか否か、だな? 弱小種が思索を巡らせるに相応しい、実に下らぬ問いだ」
見透かされた。当主殿がどうして竜なんて化け物を身体の中で飼育していたのか分からないが、本人の意志とは関係なく全部筒抜けなのは恐怖を禁じ得ない。
「この世界は、弱肉強食。弱きは滅び、強きが生き残るは自然の摂理。それを受け入れぬは、いつの世も弱者のみ」
自称最果ての竜様は堂々と、何の疑問も憂いもなく、俺の気持ちもよそへ放り投げて言い放った。
いや、そもそも俺は聞く相手を間違えたのかもしれない。
「そもそも弱肉強食の摂理を創ったのは、他ならぬ我ら竜族に他ならぬ。遥か太古の昔より、我らは争いの中で生きてきた」
そしてまた自分語りが始まる。
竜は、長く生きている。この世界にて、最強の種族である。
まだ竜以外の種族が生まれるずっとずっと昔、竜たちは互いに生き残るために争い、己の生存本能を燃やして同族を食い合っていた。
弱い竜は淘汰され、強い竜だけが生き残る。そしてその強い竜もまた、同格同士で争い、食糧と縄張りの奪い合いは絶えることなく続いた。
その竜たちの有り様こそが、この世界の、ひいては流川が俺たち人類に押しつけた、弱肉強食の起源なのだという。
「どの世でも争いを嫌うは弱小種のみ。食い殺される側なのだから嫌うのも無理はないが、だからと慮ってやる義理もなし」
理屈で分かっているなら、なんで思い遣ってくれないのだろうか。だったら俺たちは、結局。
「じゃあなんだよ、俺たちは、弱い奴は……死ぬしかねーってのかよ」
「嫌なら強者になればよい。できなければ、その先にあるのは淘汰のみ」
「ふざけるなよ。俺たちだって生きてるんだ、強い奴の奴隷なんかじゃねーんだよ。弱くたって、細やかな幸せのため、その日その日を精一杯生きてる奴だっているんだ」
「それはご苦労なことだ。どれだけ生きたところで、生態系ピラミッドを登る気がないのなら、その先にあるのは滅びだけだというのに」
「それはアンタらが殺しちまうからだろ!! 身勝手な理由で、みんなみんな!!」
感情が、爆発した。執事殿に問いかけるたび跳ね返されて、積もりに積もったモヤモヤが、確かな感情となって鍋の蓋を噴き上げる。
「強くならなきゃ、その先にあるのは滅び? 馬鹿らしい!! アンタら強い奴らが俺たちを弾圧しなきゃいいだけの話じゃねーか!!」
「面白いことを言うのだな。ではお前たち弱小種に特権でも与えろというのか? 生態系ピラミッドから除外するという特権を」
「そもそも生態系ピラミッドってなんだよ……俺たちは人間だ、序列とか知ったことか!! 下でも上でも、みんな同じでいいじゃねーか!!」
「いいものか馬鹿め。何故弱小種が生態系上位種と同格なのだ。大して努力もせず、下剋上もする気のない種など、淘汰されるのが自然選択的なのは明白だろうよ」
「ああ……違う。俺が言いてぇのは、そんなことじゃねー!!」
思いがこれでもかと弾ける。もはや鍋の蓋で塞げる勢いじゃない。塞ごうと理性の鎖を持ち出しても、それごと全て吹き飛ばしてしまう。
いついかなるときも冷静さを保つことが俺の数少ない強みだったはずだが、執事殿、そしてゼヴルエーレさんとの問答で堪忍袋は既に限界だった。
「なんでなんだ!! なんでみんなと一緒に笑い合えるために力を使わねーんだ!! お前らの力は何のためにある!! 弱い奴を虐げるためか!! そんな力捨てちまえ!!」
ああ、身勝手だ。俺とツムジのエゴだ。きっと弱肉強食がルールのこの世界じゃ、俺やツムジの理想なんてただのエゴにすぎない。
でも、だからどうした。
「理不尽な力なんてな、誰も幸せにできねーんだよ!! みんなから微笑みを奪っていく!! それ以外に芸がねー!! そんな力なんかいらねーんだよ!! 弱者の淘汰? 生態系ピラミッド? それこそ下らねー!! ただみんなを殺すってだけじゃねーか自慢すんな!!」
嗚呼、止まらない。言ってることも支離滅裂な気がする。
「力が強えってそんなに偉いのか? 力が弱えってそんなに悪いのか? なあ、教えてくれよドラゴンさんよ!! なんで、なんでアンタらにとって弱い奴は悪なんだ!! 俺たちは、死ぬべきなのかよ!!」
胸が痛い。怒鳴りすぎたのか、それとも別か。気がつけば息継ぎも忘れて怒鳴り散らしていたのか、必死に肺が酸素を供給しようとしていた。視界に羽虫が飛ぶ。平衡感覚が覚束ない。
「強くなる気がないならば、淘汰されても仕方あるまい」
感情が、すっぽ抜けた。さっきまでの苛烈な熱さはどこへやら。さっきまでの話を丸ごと聞いてなかったのかと思うほどに、ゼヴルエーレさんの答えはあっさりしていた。
「二度も言わせるな小僧。弱肉強食。それはこの世界の摂理そのもの。生きとし生けるもの全てに公平に適用される、絶対的なルールなのだ」
公平、か。だとしたらその公平な決まり事はあんまりにあんまりにも残酷だ。
結局のところ、弱い奴は死ね。それは絶対に変わらない普遍のルールなのだと言い切られたようなもの。
―――``この世界はな、強い奴がルールなんだよ``―――
いつか聞いたことがあるセリフが脳裏をよぎる。
そりゃそうだ。弱い奴は淘汰されるのなら、強い奴が全てを手にし、全てを支配できる。残った強い奴が、全てを決められる。
じゃあ、生き残った僅かな弱い奴は。生まれちゃあダメな存在だってのかよ。
「クソ、が。嗚呼、クソッタレが……」
目の前が滲んだ。じわりじわりと、視界が溺れる。奥歯を噛み締める音とともに、頬を伝う液体が、虚しく床を濡らした。
「さて」
「ぐああああああああ!!」
ホント、クソだ。蛆を食わされたときよりも、糞便を顔面に塗りたくられたときよりも、ずっとずっと。
「ぎ、ぎぎぎぎぎぎぎぃ……」
「ふむ。原初の炎は使えるが、本来の姿には戻れぬか」
気がつけば、俺は宙に浮いていた。正しくは右腕を掴まれて、右腕だけで空に足をつけていると言うべきか。
ゼヴルエーレさんが掴む手から湧き出る黒い炎が、俺の右腕を焼く。身体中から大量の脂汗が止まらない。熱くて、痛くて、今にも舌を噛みちぎりたくなってくる。
「げはッ」
たとえ、ゴミのように打ち捨てられても。俺は。
「俺、は、まだ……生ぎる!!」
片腕がちぎれた。ゼヴルエーレさんに掴まれた右腕は、炭のように黒くなり、燃え尽きた木炭のように溢れ落ちる。
「闇属性系魔法``怨託``か。馬鹿な奴だ。本人が自覚しなければ無意味だというのに」
「ガッあ!!」
ゼヴルエーレさんが指先から放った黒い炎。それが俺の左眼を貫く。今まで感じたことのない痛みが脳を、身体を、全てを縦貫し、その場で蹲ってのたうちまわった。
あまりの痛さに、声が出せない。痛みに耐えるのに叫ぶリソースすら惜しいほどに、その場で転げ回りながら悶絶する。
「早く左眼を出さんと脳が焼けるぞ」
ゼヴルエーレさんの飄々とした声が鼓膜を揺らすが、熾烈な痛みが聴覚をズタズタに引き裂く。
「そうか。その余裕もないか。なら我が取り出してやろうぞ」
「ぐ……あ、や、やめ」
だがゼヴルエーレさんの力はえぐいほど強い。右目が一瞬だけ捉えたのは、左腕を掴むそれが、赤黒い鱗に覆われていたことだ。
俺は、化け物に覆い被されていた。嗚呼、クソだ。痛みでのたうち回る俺をよそに、ゼヴルエーレさんのゴツゴツした指が左目を抉る。
自分の知る語彙じゃあ例えようのない不快感。昔から蛆を食ったり、泥水啜ったり、腹壊して便を垂れ流したりと人並外れた生活を送ってきた自負はあるが、流石に眼球を抉られる感覚を生きている間に味わうことになるとは、いくらなんでも予想できるはずもない。
「ッ……ッッ……!!」
痛い。痛すぎる。なんでこんな酷い目に遭わないといけないんだ。俺が、俺たちが、一体何をしたってんだ。
「ぐ……ッ」
「理解したか小僧。これが、弱肉強食というものだ」
何かに例えるのも烏滸がましい、猛烈な痛みに苛まれる中、頭を容赦なく踏まれる。まるで打ち捨てられた生ごみを、自然に帰る寸前の野犬の糞を、踏みにじるように。
「お前が下位種で、我が上位種。お前の理想など、この世界の摂理の前には塵芥にすぎぬと知るがいい」
嗚呼。ああ、ああ。もう、なんなんだこれ。悲しみも怒りも、絶望も何もかも。その全てが可愛く見えてくる。
ツムジが夢見た世界、みんながみんなただ笑い合って助け合う世界。そんな笑顔に満ちた世界は、ただ下らない夢物語でしかないのか。弱肉強食、そんな弱い者いじめを肯定する、下らないルールより劣るってのか。
「ぞんなわけ、あるがァ!!」
胸の奥底が一気に熱くなる。消えかけていた焚き火が燃料を得て息を吹き返すように。
右腕は死んだが、まだ左腕が生きている。死んじまった奴はどうにもならないが、生きている奴が一人でもいたら、大体のことはどうにかなるもんなんだ。
左手が握るは、ツムジの形見。刀身がおよそ那由多の半分程度の短剣、旋風。その短剣を、当主殿の足に突き刺した。
当主殿は不死身だ、足に短剣をブッ刺した程度、かすり傷ですらないだろう。そもそもダメージなんて、初めから期待しちゃあいない。
刹那、当主殿の体が宙を舞う。まるで突風に吹かれたかのように大袈裟に、盛大に吹き飛んだゼヴルエーレさんは、空中で体を丸めて華麗に一回転、俺から見て遥か前方でうまい具合に着地する。
「面白い。面白いぞ小僧!」
当主殿の姿を借り、手を広げて高らかに笑う。
「右腕が朽ち、左眼が焼け爛れようと、我を前に生存本能を燃やせるとは。かつて我が肉体を滅ぼした、英傑どもすら凌ぐか!」
尚も高笑いをやめないゼヴルエーレさん。
何がそんなに面白いのか、俺には皆目分からない。ただ生きたい、生きていたいだけなのに、生きるのに必死なだけなのに。
そんな奴を虐めて、何が楽しいんだ。
「燃やせ。己の生存本能を。生存本能をぶつけ合ったその先に、新たなる暴力が生まれる。そしてその暴力の果てに弱きは滅び、強きは生き残るのだ! 暴力こそが、生の証明なのだ!」
もう、わけがわからない。暴力こそが生の証明。戦わざる得ない状況に追いやっているのは自分なのに、よく言えたもんだ。
戦いが好きなのは構わないし、無くせるもんでもないと思っているから争うなとは言わないけれど、だったら俺たちとは無関係なところで争ってほしい。
俺たちはただ、なんでもない日常を、ただ笑って過ごしたいだけなんだ。
「く、ぐ……」
左目が痛い。右腕の喪失感も半端じゃない。まだ八十年ぐらいは生きたいのに、若くして隻腕で隻眼。堪ったもんじゃあない。そのはずなのに。
「生きてりゃあ……儲けもんだ。そうだろ? ツムジ……」
ツムジからの形見、旋風を握る手に力が入る。
きっと那由多は、もう帰ってこない。左目と右腕、そして那由多も失うのはあまりに痛すぎるが、旋風があればなんとかできる。結局何も守れなかった自分だが、せめてツムジの誇りだけは、奴の墓地に。
「うおおおおおおお!!」
叫ぶ。走る。自分でもびっくりするぐらい、獣のように叫んじまった。自分は温厚な方だと思っていたが、追い詰められるとそうでもなかったのかもしれない。いつもなら、ここまで追い詰められる前に逃げるので、分かりようがなかったけれど。
俺は持ち前の足の速さを活かし、旋風を奮った。切り札は使わず、旋風だけで切り刻む。何故だかゼヴルエーレさんは棒立ちのままだったが構うもんか。逃げられないなら、倒すしかない。相手が棒立ちなら尚更だ、対応できるうちにダメージを稼いで。
「小賢しい」
「げはッ!?」
顔面から足の先まで、激痛。自分の知覚速度を遥かに凌ぐ現実の流転に理解が追いつかなくなるが、身体中を走り回る激痛が、認識速度を後押しする。
認識が現実に追いついた、俺は今、無様に踏み潰された蛙だった。
髪の毛を鷲掴まれ、足が宙に浮く。ただでさえ激痛に苛まれているってのに頭がすっぽ抜けるんじゃないかって痛みにも加勢され、声すら出せない。痛みのフルコースとか誰得だ。
「刮目せよ。これが、力だ」
痛みを堪える中で、辛うじて聞こえたゼヴルエーレさんの声。思わず反応して目を開けた。開けてしまった。思考が散り散りになる。
目の前にいたのは当主殿の皮を着たゼヴルエーレという名の自称ドラゴンだったはずだ。それは間違いない。
でも今俺の目の前に立っているのは、巨大な黒竜。
鱗は全体的に黒く、その間に赤黒い血脈が拍動する。大きさは俺よりもずっと大きい。もはや俺がただの小動物に見えるほどに、大きさの差は歴然だ。畳んでいる翼を広げれば、その差はもっと広がるだろう。
竜。言葉では聞いたことはあるが、実際に見たことは今の今まで一度もなかった。巨大で、デカい翼を羽ばたかせて飛び、各所で災害を引き起こす生き物。自然災害そのものと言ってもいい存在が、今俺の目の前にいる。
それも、ただのデカい蜥蜴なんかじゃない。蜥蜴なんて可愛さは微塵もない。圧倒的な力の権化。邪悪な暴力そのもの。
俺は今、暴力を前にしている。今まで受けてきた凄惨な虐待や弱い者いじめが全て霞むほどに、その存在は生きる暴力の塊だった。
「キッ……シシ」
これは、笑うしかない。全身が震える。脂汗が止まらない。服は既に目一杯汗を吸い、皮膚に張り付いて一体化し始めている。生存本能が、体の奥底から叫ぶ。
これは、勝てない。人が、人類が戦うべき存在じゃあない。たとえ俺が切り札を切ったとしても、その勝算は皆無だと直感が唸る。
こんな化け物が、人間なんてただの羽虫と見下す暴力が、この世界に存在してもいいのか。
「世界ヲ知ラヌ小童。オ前ノ力ナド、塵芥ニスギヌト知ルガイイ」
ゼヴルエーレは、ほくそ笑む。
塵芥、その言葉が脳裏を何度も駆け巡る。自慢するほどでもないが、それでも逃げ足に使える程度には自信があった力。実際に流川本家の当主相手には善戦できていたし、割と使えるのではと少しばかり自信がつきはじめていた。
でも本物の暴力の前には、俺の時間停止など霞む。
そもそもゼヴルエーレには、俺の力が毛ほども効かなかった。超能力の効果は絶対のはずなのに、流川本家領で戦った美人のアンドロイド然りゼヴルエーレ然り、超能力という力の権化でさえも無効化する化け物には、俺なんてただの氷山の一角、その登竜門でしかないのだと思い知らされる。
無力。その言葉が、身体に重くのしかかる。
「モハヤコレマデカ。弱小デハアッタガ、楽シメタゾ小僧。褒美トシテ苦痛ナキ死ヲクレテヤロウ」
ゼヴルエーレのクソデカい腕が迫る。
体が動かない。逃げなければならないのに、肉体が、精神が、全てが畏怖している。いつもなら反射的に逃げへの一手へ繋げるはずの身体はまったく言うことを聞いてくれない。
本体は当主殿の肉体だ、俺を押し潰せるだけの質量はない。そう何度も自分に言い聞かせてなお、俺の体は暗黒の巨体から頑として逃れようとしない。
俺は、ここで死ぬのか。いつどんなときだろうと、死だけは逃れて生きてきた。むしろ全力で逃れる努力をしてきたからこそ生きられているのだが、仮に死から逃れるのをやめてしまったら、その先にあるのは紛れもない死である。
どうして死ななきゃならない。苦痛のない死、それで俺が幸せになると、笑って受け入れると思っているのか。
苦痛があろうがなかろうが、死は死だ。それ以上の意味はなく、死を下回る惨劇は存在しない。俺にとって死こそが、この世で最も恐ろしい悲劇なんだ。
身体に電気信号を送る。足を動け、手を動け、腕を動け、声を上げろ。なんでもいい。死から逃れられるならどんな些細な動作でも構わない。
動け、動け、動け、動け―――。
「那由多」
闇が、晴れた。気のせいだろうか。もしそうじゃないなら、気のせいじゃないことを信じたい。
背中から照らされる、暖かい光。黒竜から放たれた冷たい闇が打ち払われていくのと同じく、右腕を失った痛さが、左眼を抉られた痛みが、瞬く間に癒えていく。
「お前と話したいことは沢山あるが、時間がない。手短に済ますぞ」
力強い声音。どこを見渡しても腐りかけの死体と、それを貪り食らう蛆、そして俺たちみたいな奴らを食い物にする蛆にすら満たないクソ野郎どもしかない下威区で、どれだけの絶望を前にしても最期まで希望を捨てなかった強かな志は、俺たちが匿い死んでいった孤児たちにとって、命を明日へと繋げられる唯一の福音だった。
「ツムジ……どうして」
今投げかける言葉じゃないのは、状況からして明らかだ。ゼヴルエーレに殺られそうになっている今、何故ツムジが光とともに現れたのか、その原因を追求している暇はない。
暇がないのは分かっているのに、理性とは裏腹に感情はとめどなく溢れ出す。これは、無理だ。とてもじゃないが、止められそうにない。
「泣くんじゃない。いいか、私とお前に、そう長い時間は残されてないんだぞ」
左腕の袖で涙を拭う。いつもなら右腕で拭うのだが生憎右腕とは今生の別れを果たしたばかりだった。
「私の……いや今はお前のか。その短剣、旋風から語りかけている。お前の意識と旋風、ほんのわずかに向き合っている間しか抑えられない。心して聞け」
黙って頷く。今の状況を抜け出せるなら、なんだっていい。気になることは山ほどあるが、今は打開策だ。
「まずはじめに、あの竜からは逃げられない。はっきり言って格が違う。生き残るには、戦うしかない」
「……相手はバケモンだぞ」
「知ってるさ。要は負けなければいい。私とお前で、な?」
思わず目を見開く。ツムジの笑顔は、いつだって明るい。下威区を等しく照らす、太陽のように。
ツムジと一緒に戦う。いつ以来だろうか。
まだひっそりと孤児を匿っていた頃、理不尽にスラムを焼き払いにきた中位暴閥の軍勢を、スラムのみんなで迎え撃ったときが最後だったか。
あのときは結局、俺もツムジも撤退を余儀なくされて、孤児も何人か拉致られたり殺されたり、最後は俺とツムジ、そんで右手で数えられる程度のガキだけが残ったっけ。まあ、ソイツらも体壊して全滅しちまったわけだが。
「でもツムジ、お前素手だろ。どうやって戦うつもりなんだ」
「私もそう思ってたんだがな……戦いたいのは、どうやら私たちだけじゃないらしい」
肩を竦めるツムジをよそに、言っている意味が理解できず、思わず首を傾げてしまうが、その答えはすぐに俺の目の前を通過する。
「な、何だ!?」
俺の身体を通過する、白い霧のようなもの。それは霧のように思えたが、よく見ると人のようにも思える。俺やツムジより一回り小さい、無邪気に遊び回る子供のように。
「まさか、コイツら……!」
俺やツムジの周りを、まるで戯れてくる子供のように飛び回る白い霧は、顔や姿こそわからないが、どこか知っているような気がする。ついこの間まで、泥水蛆虫啜りながら生きていた―――。
「私はやめとけと何度も言い聞かせたんだが、聞かなくてな……」
ようやく理解した。やめておけと押し留めたい気持ちになるのも頷ける。
俺もツムジの立場なら、同じことをしただろう。でもきっと、コイツらは止まらないと思う。誰が何と言おうが、この場に現れて俺たちとともにあることを願うだろう。たとえ、戦う相手が暴力の象徴だとしても。
「しかしお前、まあた厄介なのと戦ってるな。今度は竜か」
「キッシシ。それもただの竜なんかじゃねーぞ。二つ名持ちらしい」
「竜の世界の二つ名持ちか……はは、恐ろしく強そうだ」
「恐ろしく強そう、じゃなくて強いんだよ。俺たち人類が霞むくらいには、な」
違いない、とため息混じりに答えるツムジ。
武市でも、二つ名ってのは強者の中でも一線を画する実力を持つ者に与えられる。
当然生まれも育ちも下威区の俺やツムジには無縁の代物だったし、二つ名持ちと戦う場面なんぞ二回ぐらいしかなかったわけだが、竜の世界の二つ名持ちとなると、今まで戦ってきた相手が可愛く思えることだろう。
無名の暴閥と二つ名持ちがいる暴閥では、個人の戦力に天と地の差がある。それこそ、一人で災害を起こせるほどに。
そしてその二つ名文化が竜の世界にもあるのならば、その強さは。
「想像できないね。正真正銘、化け物だよ。これは」
俺もツムジも、苦笑いが止まらない。
余裕がないことが敵に露呈するから意図しない形で余裕のなさを見せるのは悪手なのに、身体が勝手に引き攣ってしまう。
蛇に睨まれた蛙は、のほほんとした顔をしているが、きっと内心は俺たちと同じ感情を抱いているんだろうなと現実逃避したくなるほどに、ゼヴルエーレとの力の差は歴然だった。
「気ハ済ンダカ、弱小種ドモ」
ツムジの出現、そしてガキどもの応援。予想外に予想外が連なり、意識を蚊帳の外に放り投げていたが、相手さんからの声もあり、ようやく意識を声の主へと戻す。
「へえ、暴力の権化ともあろうものが、私たち弱者に合わせてくれるたあ優しいねえ」
思わず目を丸くしながらツムジを凝視する。
突然この人は何をやらかしてくれているのだろう。生存確率を下げるつもりなのか。俺たちに敵を煽る余裕はないはずなんだが、勝ち筋がなさすぎて逆にやってしまっているのだろうか。なら分からなくもないのだが。
「笑止。残留思念如キ、我ニ仇成セルワケモナシ」
ゼヴルエーレは通常運転、ツムジの煽りには乗っからず強気な姿勢だ。
「確かに私はただの残留思念だよ。那由多が持ってるその短剣にへばりついた、ただの残りカスにすぎないね。でもな」
ツムジは横柄に傲慢に、指をさす。人語を話す竜相手にする態度なんかじゃないが、それでこそツムジだ。
彼女は相手が誰だろうと屈しない。たとえ流川の当主だろうと、大陸八暴閥の誰かだろうと、三大魔女だろうと、人ですらない化け物だろうと。
実力差なんて関係なく、ツムジは誰にも膝を折らない。それが、その生き様こそが、俺たちの生きる希望だったのだから。
「私ら弱者には数がある。たとえ個で勝てなくとも数で戦えるなら、希望はあるさ」
「馬鹿メ。雑魚ガ何匹集ロウト、ソノ先ニアルノハ淘汰ノミ」
ゼヴルエーレの前足が俺たちの目の前に迫る。凄まじい地響きで下半身がもげそうになるが、心の鞭で滅多打って全力で耐え忍ぶ。
俺もツムジも、ただ前足を目の前に落とされただけで脂汗が吹き出している。
怖い、恐ろしい。相手が象なら、俺たちはまさしく羽虫。でも、だからどうした。
「那由多、旋風を借りるぞ」
「おいおい素手かよ」
「いーや、お前は那由多だ」
「でも那由多は……」
「私たちが取り返す。うまく受け取れよ」
「ちょ、おい!」
俺の制止なんぞ聞かず、ツムジとガキたちは前へ突き進む。もはや眼前にまで迫った、ゼヴルエーレの懐へ。
背筋が凍る。選択を誤った。いや脳裏に掠めていたが、信じたくなくて、そうじゃないと信じたくて、すぐに目を逸らしたって表現が正しいか。
ツムジの性格を考えれば、分かり切ったことだったはずだ。これ以上、何も失わないために単身で擬巖へと乗り込み、そして犠牲になったツムジが、今からやろうとしていることなど。
「ツムジ……だめだ!! よせ、よしてくれ……!! 絶対……敵いっこねえ!!」
だがツムジは止まらない。俺から掠め取った旋風を片手に、果敢にもゼヴルエーレの懐へ潜り込む。蛮勇だなんて言わせねえ、誰がなんと言おうと、アイツの行動は。
「お前らも……よせ!! だめだ、行くな、行くんじゃねえ!!」
ガキどもも止まらない。ツムジに追従し、ゼヴルエーレへと向かっていく。戦い方も、力もないくせに、果敢にも。
「愚カナ。ナラバ、ソノ身ヲモッテ知ルガイイ。全テヲ蹂躙シ淘汰スル、圧倒的暴力ヲ」
ゼヴルエーレが前足の爪を霊力らしき赤黒い炎にして伸ばし、地面を目一杯叩く。立っていられないほどの地震とともに、白い霧が数十人一気に消し飛ぶ。
「やめろ……」
ゼヴルエーレは自身の長い尾で百八十度薙ぎ払う。また白い霧が数十人、消えた。
「やめてくれ……」
ゼヴルエーレは口から赤黒い炎を真下へ向かって吐き散らす。白い霧が苦しみもがきながら、何十人も燃え尽きては消えていく。
「やめろお……!!」
ゼヴルエーレが攻撃するたび、白い霧はかき消えていく。ある霧はブレスで容赦なく焼き尽くされ、ある霧は尻尾に叩きつけられ散り散りに、ある霧は爪で無惨にも切り裂かれてバラバラに。
こんなの、戦いじゃない。こんなの、ただの。
「やめろおおおおおおお!!」
「くるなァ!!」
吹き出す感情のままにツムジたちの下へ駆け寄ろうとした足が、ツムジの怒号で思わず止まる。
クソが、こんなときに躾けられていた影響が出るなんて。
「お前が来たら、コイツらの努力が無駄になる。お前は、コイツらを犬死にさせてぇのかァ!!」
分かっている、そんなことは。ツムジが嘘をついた意味。アイツらがツムジに追従した理由。そんなの全部、分かってる。でも。
「ぐぞがぁ……じゃあなんだよ、俺ぁ……こんな見るに堪えねー地獄を黙って見てろってのかよォ!!」
膝が折れた。俺はツムジほど強くない。ただツムジを真似ているにすぎない。
今だって俺はガキだ。ツムジからすれば少し年老いただけのガキにすぎない。だから真似た、ツムジを。唯一の姉貴で、家長で、理想だったツムジを。
「受け取れ!!」
俺の前に一本の剣が地面に突き刺さる。
ぼやけた視界の中で微かに見える、半透明の刀身。俺の相棒の一振り、那由多。俺と同じ名を冠するそれは、切り裂くもの全ての時間を操作する。一瞬とはいえ当主殿の時を止めた実績は、きっと俺の中で一生の誉れにするだろう。でも、今は。
「那由多、よく聞け」
ガキたちがツムジの盾となり消えていく中、ツムジの声が鼓膜を貫く。ツムジの声以外の全ての音が消え去るほどに、全ての集中力が聴覚へ集約される。
「逃げろ。その剣を持って、新しい地へ行け。お前を必要としてる奴は、世界のどこかにきっといる」
「……いねーよ、誰も。ツムジも、みんなも、ただの一人も」
「そんなことはない。確かに私たちは死んだが、まだ生きている奴を救えばいい」
「だからいねーよ! 救ったってどうせ死ぬ! みんなみんな死ぬんだ! どれだけ足掻いたって、どれだけ守ったって、手の平から全部こぼれ落ちる! もう嫌だよ、死に様を眺めるしかねーなんてよ……」
鼓舞されてなお、背中を押されてなお、折れた膝は応えない。
そう、みんな死ぬ。理不尽な暴力、なすすべない疫病、絶え間ない飢え、痛みよりも辛い渇き。
命からがら救ったガキどもは、みんな死んでいった。死ぬ直前はいつだって虫の息。気がつけば眠るように死んでいく。
怖くて怖くて堪らなかった。明日になったら、家族の誰かが死ぬ。朝になって身体を揺らせば冷たくて。
俺は何回家族の死に様を見送ればいい。死ぬまでか。勘弁してくれ。頭がおかしくなりそうだ。いっそのことおかしくなった方がマシかもしれない。そうなったら、もう痛い思いをしなくて済むから。
「甘ったれんじゃねえ!!」
再び、怒号。暗黒の沈みかけた意識が乱雑に掬い上げられ、放り投げられる。
「お前が救わねえで誰が救う!! 死にかけてる奴はごまんといる、動ける奴が動かねえで、誰が手を差し伸べる!!」
言葉の鞭が、頗る痛い。
できるなら俺だって助けたい。死にかけてる奴に手を差し伸べて、生きろって言って助け合いたい。
でもみんなみんな、最期が惨めだと思うと。
「私のエゴだろうさ、押しつけでもある。だがな、お前にはもっとデカくなって欲しいんだよ。私が成し遂げられなかったことを、成し遂げて欲しいんだよ」
ツムジが成し遂げられなかったこと。みんなが笑い合える世界を作る。それならさっきゼヴルエーレにも当主殿にも執事殿にも、全員に否定された。なんなら嘲笑われた。
弱肉強食。その絶対的ルールの前には無力なんだって、耳が腫れあがるほど言い聞かされた。
ツムジを含め、守るものも何もない今の俺に、その理想を成し遂げる意味なんてあるのか。また失うかもしれないのに。
「無茶なこと言ってるのも分かってる。でも今更だろ? この世界を``生きる``ってことはよ。だから、命を捨てんな。身体を丸めて蹲んな。泥を啜り蛆を喰らってでも、このクソッタレの世界を生きろ。そんで……」
刺々しかった声音は、いつもの優しさを取り戻していく。俺は顔を上げた。
果敢に立ち向かい、そして消えていくガキたちを盾にゼヴルエーレの攻撃を凌ぐ姿は、中位暴閥どもの理不尽な暴力に立ち向かった、誰よりも頼り甲斐のあるツムジそのものだった。
「私の……いや私たち``家族``の、最後の希望になってくれ」
ツムジは突っ込む。もはや盾になってくれるガキたちは全て消え失せ、自身を守ってくれる奴は誰もいない。一撃でも当たれば、ガキたちと同じ末路を辿ることになる。
それでもきっと、ツムジは退かない。ツムジは逃げない。いつでもどんなときでも、生きるため。その想いだけで如何なる戦いからも逃げてきた、俺と違って。
「食らいなクソ竜!! アンタみたいな化け物は、飼い主の下へ帰るんだよ!!」
「モハヤ魂スラ消エタ残リカス風情ガ、我ニ抗エルト思ウテカ?」
「抗う? 違うね、アンタはあるべき場所へ帰るのさ。飼い主の体の中に作った、自分の巣にね!」
刹那、暴風が吹き荒れる。その暴風は竜巻へと姿を変え、ゼヴルエーレの四方を取り囲むように陣取る。
これは、どこかで見覚えがある。確か、俺とツムジが命懸けで戦った怪物―――今だと``狂騒のジャバウォック``とか呼ばれているはずのソイツにブチこんでやった、必殺の一撃。
暴風の鎖が対象を縛り、閉じ込める。ツムジが旋風を装備して初めて使える最後の切り札。
「コレハ……魔法、デハナイ? コノ武器固有ノ、事象操作……!?」
ゼヴルエーレが、初めて目を見開いた。全ては己の手の平の内。そう嘲笑ってきた相手が初めて見せた、驚愕の表情。
「これは、あらゆるものの動きを止める旋風。アンタはもう、私の旋風に囚われた」
四方を取り囲む竜巻はゼヴルエーレを飲み込み、巨大な一本の竜巻へ変貌する。
そうだ、この竜巻に囚われたものは、どんな化け物も動けなくなる。かつてツムジは自身の相棒、旋風を犠牲にして下威区スラムを破滅に追いやった怪物``狂騒のジャバウォック``を封印した。
その封印はツムジが死んだことで解かれてしまったが、俺やツムジが二人がかりで戦ってて手も足も出なかった化け物を、確実に封じることができたのだから、その効果は絶大だ。
「化け物は、あるべき場所へ帰るんだよ!!」
トドメと言わんばかりに、旋風を竜巻へ突き立てた。
``狂騒のジャバウォック``のときも、巨大な竜巻に旋風を突き立てて、暴風で造られた棺に閉じ込めていた。今回だって同じ。巨大な竜巻がゼヴルエーレを捉えていたその瞬間から、趨勢は決していたわけだ。
やっぱりツムジは、俺なんかよりよっぽど強い。
「コノ上ナク、愚カ。アマリニモ、稚拙」
「ぐぅ!?」
竜巻を掻き分けて、巨大な前足がツムジを鷲掴んだ。
竜巻の向こう側から光る二つの紅い光。その光は血のように紅く、そして禍々しく、前足と比べれば羽虫ぐらいの大きさしかないツムジを、道端に踏まれかかっている蛆でも見下すかのように睥睨する。
「己ノ武器モ碌ニ扱エヌトハ、身ノ丈ニ合ワヌモノハ使ウベキデハナイゾ、小娘」
「な、にを……!」
「ソノ武器……特位装備ニ分類サレルソレハ、生キトシ生ケル者ノ手ニ渡ッタトキ、ソノ者ト魂デ結バレル。ソレデ初メテ、ソノ真価ヲ発揮スルコトガデキルヨウニナル代物ナノダ」
「でも、これは私の……」
「元ハ、ソウナノダロウナア……ダガ今ノオ前ハタダノ残留思念ニスギヌ。魂ガ現世ヨリ消失シタ今ノオ前ガ、ソノ武器ノ真ナル主トシテ認メラレルコトハナイ」
歯噛みする、ツムジ。せっかく立ち上がれた膝が再び折れそうになる、俺。
そんな仕様、知るかよと言いたかったが、実際にゼヴルエーレは竜巻に囚われながらも意に介していないのだから、ハッタリじゃないのだろう。奥歯を噛み砕きそうになる。
どうしてだよ、旋風。どうして、今になって。
「ソシテ、モウ一ツ」
やめろ、いやだ、聞きたくない。そう心の中で叫ぶが、俺の人生はいつだって非情だ。
ゼヴルエーレがそのデカい翼を目一杯広げ、ツムジが作り上げた竜巻をいとも容易く振り解いた。
まるで、そんなものは塵芥。そう罵らんばかりに。
「超能力ヲ使エルノハ、オ前ダケデハナイ」
ゼヴルエーレの頭上に巨大な魔法陣が描かれた。それは俺が見てきたどんなクソ野郎の欲望に眩んだ目よりも、ずっとずっと禍々しい。
血を彷彿とさせる紅が俺とツムジを眩く照らし、視界が真っ赤に染め上げられる。残った左眼が鮮血の輝きに蝕まれ、悲鳴をあげた。
「全く理不尽だね……そんなに強いってのに、超能力まで使えるのかい……」
視界が潰れ、その表情は伺い知れないが、ツムジの辟易した声音がただでさえおかしくなりそうな頭を強く揺さぶる。
「超能力ト呼バレルモノハ、元ヨリ我ラ竜族ガ起源。使エヌ道理ナドアルモノカ」
ただでさえ化け物なのに、反則の力である超能力まで扱える。
ツムジが辟易するのも無理はない。むしろ絶望しないだけ、ずっと強かな方だ。
どうして世界は、絶望的なまでに不平等なのか。俺たち弱者には大した力もなければ人として扱われることすらないのに、ゼヴルエーレは竜として数多の存在から恐れられる化け物で、更には超能力という反則まで扱える。
天は二物を与えない、なんて言葉は幻想だ。二物どころか三つでも四つでも与えるし、逆に生まれてすぐ死ねと言わんばかりに何も与えてくれなかったりしやがる。
ゼヴルエーレはこの世界を公平だと言っていたが、俺からしたらただただ不平等だ。
弱い奴は徹底的に救われず、強い奴が全てを手にする。俺たちの理想は、きっと強い奴らだけが享受できる娯楽でしかないのだろう。どうして世界は、みんな等しく笑い合うことを許してはくれないのだろうか。
「私は……ここまでみたいだね」
視界が魔法陣で真っ赤に染まり、ツムジの顔は依然として見れない。でもその声には辟易から諦観が滲み出た。
「馬鹿、諦めんな! ツムジは、俺たちの姉貴は、こんなところでくたばる奴じゃねーだろーが!」
無茶なのは分かっている。相手は竜だ、人間じゃあない。それに超能力まで使いやがる。そんな相手に諦めるなと叱咤するのは、あまりに残酷だろう。
でも、ここでツムジが諦めたら、俺は。消し飛ばされた、同胞たちは―――。
あまりに、無念すぎる。
「モハヤオ前ニ用ハナイ。消エテナクナレ」
頭上の魔法陣の輝きが、更に増す。左眼が両手をあげてシャッターを閉め、蝕む光を遮断する。そして。
「``破戒``」
音が、光が、その全てが、その瞬間に消え失せた。瞼を閉じて尚収まらなかった目の痛みも鳴り止み、俺はシャッターを開けようとした、その瞬間だった。
硝子が割れたような、耳に障る甲高い音が鼓膜を貫く。か細く目を開けると、空から光沢を輝かせる小片がキラキラと舞い落ちる。
なんだありゃ、と声を出す直前、何かが俺の目の前に落ちてきた。それは柄だ。
嫌でも見慣れている、見慣れてしまっている、短剣の柄。見間違えることなんてあり得ない、その柄には他の剣の柄にはついていないであろう飾り紐が、その存在を強く主張していたからだ。
再び膝が折れた。見渡しても、何度も周囲を見渡しても、自分とゼヴルエーレ以外見当たらない。意志だけとなった、ガキたちでさえ。
希望は、もはや存在しない。見るも無惨に容赦なく、理不尽な暴虐によって打ち砕かれたのだ。
「我ガ憎イカ? 小僧」
ゼヴルエーレが鼓膜を撫でる。その声音で、心の中が一瞬にして不快感に支配される。
どれだけ嫌いでも、どれだけクソ野郎でも、声をかけられただけで不快になることなんて、今までなかったのに。
「ナラバ、澄男ヲ殺シ我ヲ解放スルガイイ。今ノオ前ナラ、奴ヲ殺メルナド児戯ダロウ。我ヲ解放デキタナラ、改メテ相手ヲシテヤロウゾ」
一方的に傲慢に、ゼヴルエーレはそれだけ言い放ってどこかへと消え去った。黙れ、の一言でも言ってやりたかったが、色んな感情が激しく駆け巡っているせいで、言葉が紡げない。
悲しみ、怒り、憎しみ、殺意、恨み、虚しさ。下威区を生きてきて、どれも枯れ切ったと思っていたが、そうでもなかったらしい。
希望は消え失せた、あるのは暗黒の絶望のみ。そうだ、いつだってそう。世界なんて、俺の人生なんて、いつだって。
「んぬああああああああ!!」
クソッタレ世界。俺たちからいろんなものを奪っておきながら、まだ奪い足りないか。死者の意志すらも陥れ、尚も俺に死ねと、ツムジたちに二度死ねとお前は言うのか。
あんまりだ、クソッタレ、滅びてしまえ。
ツムジの言葉に従い、俺は生きてきた。生きてきて生きてきて、クソ踏んでクソ喰ってばかりの人生でも長生きしてりゃあいつかは一時の幸せぐらいはありつける。その証拠こそツムジとの出会いでありガキたちとの生活だったのだが、結局はその全てを失った。そして更には人の言葉を話す化け物に死者を辱められる始末。
これで長生きしてりゃあ少しは良いことがあるかって。
「んなもん、信じられっかああああ!!」
嗚呼。無理。もう無理。もう限界。理想も馬鹿にされて、家族を二度殺されて。
そんなに俺が憎いのか。そんなに俺に死んで欲しいのか。ツムジの遺志だけを頼りに、あらゆるプライドも全部全部捨ててきて、今日までを生きてきた、この俺に。
―――``ははは。荒れているようですね。私の受け答えに応じる気はありますか?``
幻聴か。もうなんだっていい。うるさい。もうたくさんだ。俺に話しかけるな。
―――``ふむ、そうでしょうとも。ではただの独り言だと思ってくださって構いません``
なら話すなよ。あんまりだ。どうして俺の周りはこんなのばかりなんだ。
―――``貴方は素直な方だ。絶望に支配されて尚、家族との約束を果たそうとしている``
そりゃあな、俺にはそれしかやることが残されていないからな。なあ、もういいから黙っててくんないかな。今は誰とも話したくないんだ。
―――``しかし……貴方、死ぬ気ですね?``
「……俺が?」
思わず、声の主へと振り向いた。
急に話しかけてきて、でも話したくなくて、ずっと無視していたそれ。いつから立っていたのか、俺の背後に佇む見慣れない黒執事は、片方しかレンズの入っていないヘンテコな眼鏡の位置を得意げに調整し、笑みを浮かべて俺を見下す。
その笑みは、とにかく不気味だった。
―――``かの竜王、ゼヴルエーレに挑み、死ぬ気ですね?``
「……家族を二度殺されたんだ。流石に、な」
―――``ははは。面白い、勝てぬ戦に身を投じるというのですね。それもまた一興でしょう。私には……味わいたくても、もはや味えぬ感覚ですからね``
「ああ、うん。で、今更だが、アンタ誰だ。もう化け物はゼヴルエーレで満腹だから帰ってくれないか」
―――``私が誰かは、瑣末なことです。重要なのは貴方、死地に赴く気概でありながら、しかし家族との約束も守りたいと葛藤する、貴方ですよ``
汚れ一つないがゆえに、光を一切通さないスーツが特徴的な黒執事は、尚も不気味な笑みを絶やさない。
暗い雰囲気、怪しげな人柄、着ている服。その全てが相まって、まるで闇そのものに話しかけているような感覚だ。
血生臭い夜よりもずっと暗い、腐った用水路よりもずっと冷たい。深くて大きい、暗黒の闇。
―――``どうです、私と契約しませんか。貴方が家族と交わしたその約束、この私が叶えて差し上げましょう``
「キッシ……馬鹿にすんなよ。言っちゃ悪いが、アンタ胡散臭さしかねーぜ」
―――``でしょうね。ですが……この契約は私にも利がある、と聞けば、 どうでしょう``
目をじっと見つめる。胡散臭さは変わらないし、闇そのものである黒執事の底なんて、暗い所を見慣れている俺ですら見通せない。でも分かることが一つある。
ただの直感だし、根拠もない。正直今の俺がどうかしているだけかもしれないが、コイツが嘘はついていないようには、どうしても思えない。
―――``私が求めることは一つ。ゼヴルエーレを彼の体内に留めていただきたいのです``
話を聞くとはまだ言ってないはずだが、まるで俺の内側を見抜かれているかのようだ。いや、きっと見抜いた上で話を進めたのだろう。
俺は相手を全く見通せないのにこの差はズルい気もしなくもないが、まあ、いつだってそんなもんである。
―――``かの竜王が現世に蘇るのは、私としても都合が悪いのです。
「つってもな、俺としちゃあ一矢報いるために蘇ってもらった方が好都合なんだが」
利がある。そう言われてはいそうですかと引き下がれるほど、今の俺はもう正気じゃない。
どうせ傷一つもつけられないのは分かりきっていることだし、命を無駄にする愚行なのも分かっている。それでも家族を二度、理不尽な暴力で殺されたところを見せつけられたんじゃ、頭だっておかしくなる。自棄にならなきゃ狂ってしまいそうになる。
どこからともなく現れた黒執事風の化け物には、俺の気持ちなんざこれっぽっちも分からないだろうが。
―――``おや。貴方が望む方は、生きておられるというのに?``
「俺が望む……もしや?」
黒執事は、不気味に笑う。吊り上がる口角は、不気味を通り越して悪辣を極めているとすら思える。
「そんな……いや、本当……なのか?」
ありえない。下威区を生きてきて、下威区と俺たちしか知らなかったアイツが、あの忌々しい壁を超え、生き長らえているなんて。
希望的観測だ、いつも通り現実に裏切られるに決まっている。俺とツムジしか知らなかったアイツが、戦う力もロクになかったアイツが、仲違いして以降消息が途絶え、中位暴閥に拉致られたってこと以外は分からないアイツが。
まだ、生きている。そんなことが、そんな奇跡が、ありえるっていうのか。
―――``貴方の願いは叶いますよ。契約に応じてさえいただければね``
黒執事の笑みは、尚も妖しげで悪辣だ。
アイツが生きているなどと言われ、尚更胡散臭いのだが、何故だろう。ただ誑かされているだけなのかもしれないし、今の俺がどうかしているだけなのかもしれない。いつもの俺なら、どう判断しただろう。不思議と嘘をついていないように思えたのだ。
「……本当に、俺の願いが叶うんだな? アンタの要求を呑みさえすれば」
黒執事は妖しげな笑みを絶やさぬまま、首をゆっくり縦に振る。
頷く仕草も妖しく、執事服の黒さも相まって、契約に応じるのに今更恐ろしさを感じるが、もうここまできたら、どっちに転んでも同じことだ。むしろ今までが逃げすぎた。
生き残るため、ただそれだけのためだけに、俺はあらゆる災禍から逃げ延びてきた。生き残ったのが俺だ、俺が生きなきゃ死んでいったガキどもやツムジがあまりに報われない。だから生きた、今の今までを生き残ってきたのだ。
でも、もし黒執事の言う通り、アイツが。死んだと思っていたアイツが本当に今もどこかで生きているのなら、逃げてばかりだった俺の人生にも、多少なりとも意味があるもんだったと、心の底から笑えるだろう。
「キッシシ」
黒執事の方は振り向く。黒執事の口角が更に吊り上がる。
俺の隅から隅まで、その全てを見透かしているような表情は尚も怖いが、返事をする手間が省けたと思えば、今日話した相手の誰よりもマシだと思えてくる。
―――``では手始めに``
俺の前に、柄と飾り紐だけになった旋風のなれの果てが、一人でに浮き上がる。
刀身は粉々に砕け、もはや使い物にならないはずの旋風、俺ならば土に埋めて軽く墓地を作り合掌するぐらいしかできることなんざないが、目の前に広がる光景は、俺の想像を絶していた。
「おいおい……」
旋風の刀身が復活した。何を言っているんだと俺も思うが、これは事実である。
硝子片の如く粉々に砕けたそれらは、一人でに集まり、一本の刀身を再び描く。それは時間が巻き戻されるかのような光景、那由多で切った物を時間操作したときと、同じだった。
―――``本来この武器は、双子剣と言われておりましてね。二つで一つなのですよ、今はこうして二つに分たれておりますがね``
黒執事の言葉は、尚もよく分からない。理屈で追おうにも、俺の理解力の埒外だからだが、黒執事の視線は、ある一点に集中していた。
俺の相棒、俺の半身。那由多だ。
―――``さて……次は貴方が約定を果たす番。契約が満たされたとき、貴方の望み、家族と交わした最期の約束、この私が必ず叶えて差し上げよう``
恭しく、一礼する黒執事。主人相手でもあるまいし律儀なことだが、生憎俺は頭を下げられるほど殊勝な人間じゃない。
けど、ここまでお膳立てされたなら、やり通すべきだ。この世界のどこかで生きている、アイツのためにも。
俺は那由多を掲げる。今だ妖しい笑みを絶やさない、不思議で不気味な黒執事に向かって。
―――``では、貴方を元の空間座標へお送りいたします。天災の竜王と貴方の輩が形成した精神世界は私が代わりに閉じておきますので、お気になさらず``
ちょま、と言おうとしたが、すぐに視界が暗転する。気がつくと、風景は元の状態に戻っていた。
黒執事もいなければ、当然ゼヴルエーレもいない。辺り一面穴ぼこだらけとなった元擬巖の当主だった部屋に、その中心で馬鹿間抜けにも伸びてやがる当主殿がいるだけだ。
適当な壁の破片を近くに寄せて、腰かける。
せっかく駄々っ子な当主殿が伸びているのだから、この間に全力逃走を決め込みたいところだが、今回ばかりは、そうはいかない。
家族を二度殺され、徹底的に辱められた。執事服を着こなす悪魔との契約にも応じた今、もはや逃げることは許されない。
当主殿に恨みはない。当主殿の時間を止めた瞬間から、俺が当主殿と戦う理由は失せている。
でもゼヴルエーレだけは。ツムジとガキどもを無惨に二度も殺しやがったあのクソ竜だけは、絶対に許さない。ゼヴルエーレから逃げてしまえば、ツムジもガキどもの尊厳は、誰が思ってくれるというのか。
「もう、俺しかいねーんだよ。アイツらを思ってやれるのは……」
ツムジと交わした最期の約束。無論、反故にするつもりはない。だからこその契約だ。絶対それも守り切ってみせる。
たとえ、ここで死神と手を取り合うことになろうとも―――。
「悪ぃな……すまねーが、会ってやれそーにねーや。でも、代わりにコイツらが行くからよ……それで、勘弁してくれねーか。なぁ……ブルー」
隻腕となった片腕で、二本の剣を強く握りしめる。
旋風と那由多。片時も身から離したことのない、俺とツムジの半身。コイツらは俺自身であり、ツムジ自身でもある。アイツなら、コイツらを大事に使ってくれるだろうか。腕、失ってなきゃいいが。俺みたいに。
暫時、流れる静寂。風通しが異様に良くなった室内で、吹き抜ける微風で火照る身体を冷やしつつ、阿呆にも寝こけてやがる当主殿が目覚めるのを待った。
重スラム地域でツムジとともに孤児を囲っていた頃、まだ年端もいかないガキどもの我儘に付き合わなきゃならなくなった、虚しさと面倒くささが入り混じる感情が横たわる。
執事殿にも当主殿にも言ってやったが、俺には暴閥の考えていることはまるで分からない。
明らかに勝敗が明確なのに戦い続けるところとか、瞬殺されるのが分かっているのに実力差がありすぎる相手にも果敢に挑むところとか。執事殿に挑んで瞬殺された中威区の暴閥当主といい、目の前で案の定八つ裂きにされている流川の当主といい、平然とした顔で格下を虐殺せしめた執事殿といい、どうして命ってもんを粗末に扱えるのだろう。
命だぞ。人生でたった一つしか与えられない、唯一無二の尊いもの。それ以上に大切なものなんて存在しないと豪語できるぐらい、何ものにも代えがたいものなのに。
「嗚呼。ほんと、わかんねーよ……」
時間を止めながら小声で呟く。
俺の剣、刃渡り七十センチメト程度の半透明な刀身を持つ剣―――那由多は、カラクリこそ分からんが物体の運動を操作できる。
加速、停止、逆行。いずれかを自分の意思で選択して、物体の運動を自在に決めることができるのだ。
当主殿が放った煉旺焔星とかいうクソ危なっかしい火の玉も、体の内側から全方位に霊力を噴射して部屋ごと俺を焼き尽くす荒技を氷属性に逆転させて跳ね返せたのも、全部那由多って剣のお陰である。
詳しくはどういうカラクリになっているのかは持ち主の俺も知らない。だが長年使ってきてそういう性質を持っているとしか言いようがないのだから、そういう代物なんだと理解して受け入れている。
「まあそんなことよりも、だ……どうするか、なぁ」
力押しで突撃してくる当主殿を紙一重で避けながら、考えを巡らせる。
当主殿はフィジカルこそ化け物だが、持ち前の回避能力や那由多(なゆた)の物体運動操作に対応する手段はないらしく、その全てが致死攻撃に等しい当主殿の猛打が、命を刈り取る様子はない。
このまま避け続けて相手の消耗を待つのが、負けを認めない駄々っ子への勝ち筋ってもんだが、当主殿のフィジカルは今まで戦ってきた敵とは次元が違った。
「あぁ、クソが!! 当たらねえ!!」
苛々が目に見えて増してやがる。
当主殿は、やはり流川本家の当主。フィジカルはもはや人のそれじゃあない。部屋の中を超高速で、それこそ空へ投げたボールが地面に落ちるよりも遥かに速い速度で動きながら、部屋の地形を変えるぐらい大暴れし続けているのに、息の一つ切れる様子がない。
今まで戦ってきた奴らなら、もう息切れしてもいいぐらいなのだが、当主殿はケロッとしてやがる。単純なパワーもそうだが、スタミナも化け物らしい。
「このままだと、俺が先にバテるなこりゃ」
キッシシ、と癖になっちまって抜ける様子がない笑みが溢れた。ちなみにこれは苦笑いだ。
一応、スタミナの消費を最小限に抑えるために可能な限りその場から動かず避けているが、当主殿も対応力は高いようで、そろそろ動きを最小限に意識して避けるのが難しくなってきていた。
「つってなぁ……相手、不死身なんだよな。死なない奴ってどう倒せばいいんだ?」
素直で素朴な疑問を、誰に聞こえるでもなく放つ。答えてくれる奴がいるのなら、答えてほしい。
死なない奴ってどう倒す。死なないってことは、単純に言えば倒せない、殺せないってことなんだが、それって普通にズルくないだろうか。
戦ってみた感じ、全方位霊力噴射を跳ね返したときに矢鱈と苦しんでいたから、氷属性あたりが弱点なのは分かったが、その弱点を突いてももがき苦しむ程度で、もう今となっては全快している。
部屋を覆い尽くすほどの猛吹雪、半袖短パンで晒されたら凍傷の一つや二つしてもおかしくないはずだが、見る限り怪我の一つもしていない。つまり弱点を突いても一撃で倒し切らない限り、結局弱点が弱点になり得ないってことだ。
うん、ズルい。ズルすぎる。
「そんなんありか、よッ」
そろそろ目に見えるレベルで精度が上がってきた。自慢じゃないが、自分は回避にだけは無類の自信があったのだけれども、既に命の危機を感じるぐらいには攻撃が当たりそうで恐怖を禁じ得ない。
このままだとジリ貧だ。
「あーぁ。本当ならこうなる前に逃げるんだがな……どうしてこうなっちまったのか」
キッシ、と息が溢れる。歯と歯の隙間を縫う吐息が、心なしか小さく掠れる。
そう、本来の俺ならこうなる前に全力逃走している。勝ちを認めない上に不死身、フィジカルはパワーとスタミナともに化け物。人並はおろか人って種族から外れちまった怪物と、ダンスを踊るほど俺はもう若くない。死にたくはないし、さっさと行方を暗ますのが今までの俺だったのだが。
「無理なんだよなぁ、今回ばかりはよ」
ほんの少し前、擬巖と交わした約束を思い出す。
テンイマホウとかいうクソ便利な魔法で脱兎をかましやがった執事殿に踵を返し、同胞が匿われているであろうフロアへ足を運んだ。そこでは案の定、もはや人として生きることを諦めた同胞が、ただの壊れた機械みたく働かせているという地獄絵図が広がっていた。
クソが、と思った。なんでだよ、と怒りを燃やした。力がありながら、それだけの財もありながら、どうして、と。そのとき、擬巖は俺に頼み事をしてきやがった。
「オメェには、流川の当主を討ってほしい」
最初は言っている意味がわからなかった。多分「はぁ?」とか間抜けな声を言った気がする。
そりゃそうだ、下威区で腐っていただけの俺が、それもツムジを殺した怨敵である擬巖の頼みを、なんで聞かなきゃならないのか。第一、流川の当主って、この世界で最強の存在じゃないか。俺に死ねって言ってやがるのか。
憤りは収まるどころか、火を吹いて荒れ狂った。
「そう喚くな。お前にも利がある話だ。よく聞けよ」
擬巖は俺の怒りなんぞ知ったこっちゃねーと言わんばかりに、大暴閥の当主らしく横柄に話を進める。
曰く、擬巖の目的は流川の倒幕である。打倒流川。その目標を掲げ、遥か西にある任務請負機関本部を傘下に収めるため、まずは支部を陥落させる作戦を決行した。それは流川を倒すための駒を集めるためであり、今の請負機関の連中を傘下に収められたなら、それも可能になりうると考えたからだった。
しかし、結果は失敗。
東も西も陥落できず、手持ちの駒が増えるどころか減るというなんとも散々な結果で終わってしまった。
「はっきり言うぜ。オメェは俺より強ぇ。真正面から戦えばオメェが確実に勝つだろうぜ」
「はぁ? 冗談だろ」
「ンなわけあるかよ。本当にそうなのさ。実際、もう俺ぁ先が長くねぇしよ」
「……どういうことだよ」
曰く。万策尽きた擬巖は、虎の子である腹心から更に驚愕の事実を聞かされた。それは西支部との戦いの中に、花筏の巫女、その当主と思われる人物と敵対してしまったというのだ。
「目をつけられた可能性がある以上、カチコミかけられる前に攻める必要があるのさ。本当は真面目に準備し直したかったがな……」
ため息がマイク越しに鼓膜を大きく揺らした。顔が見えないから実際のところ演技なのかどうかが分からないが、言っていることが本当なら、かなり切羽詰まった状況なんだと思う。
花筏の巫女といえば、ツムジから聞いたことがある。流川と双璧を成す、人類最強の一角。かつて武力統一大戦時代に流川と引き分けたとされる武闘派の巫女衆だと。
下威区から遥か北方に住まう彼女らは、大戦時代が終わった後、人里離れた山奥でひっそりと暮らしているという。俺は当然この目で見たことはないが、同じ八暴閥の擬巖ですら恐れるぐらいだ、想像絶する化け物なのは確かだろう。
「……それで? 俺としちゃあ、そんな危ねー橋、渡る気が起きねーんだが?」
とりあえず事情は分かった。それで首を縦に降る気なったかと言われると、そんなことは全くない。むしろ逆に面倒事の匂いしかせず、関わり合いにならない方がいいとすら思える。
武ノ壁を支えていた魔道具は執事殿が破壊してくれたし、俺としてはもうここにいる理由があまりない。強いて言えば、心を壊してまで強制労働させられている同胞たちを解放したいくらいか。
「バカだな。流川を殺らなきゃ、オメェら下威区の奴らが笑って過ごすなんざ夢のまた夢だぞ」
言葉の節々に入り混じる、乾いた嘲笑。伊達に虐られた人生を送っちゃいない。馬鹿にされるのは慣れている。
「そりゃあ擬巖が滅びれば、オメェらは下威区から解放されるだろうな。だが、その後はどうする? 俺以外にも暴閥なんざ腐るほどいるんだぜ?」
「それは……」
反論しようとしたが、何も答えられなかった。
確かに擬巖が流川に討たれれば、俺たちは下威区の呪縛から解放される。それは俺たち同胞全てが願っていた一つの悲願だ。
でもその後、中威区で円満に過ごせるかと言われると、そんなことはないだろう。
擬巖ほどじゃないとはいえ、中威区にも小規模の暴閥はいる。むしろその小規模の暴閥の方が同胞を食い物にしていると言ってもいいぐらいだ。
流川が擬巖を倒し、俺たちは解放される。でも流川はきっと、俺たちを助けてはくれない。下威区の呪縛から解き放たれ、新天地に胸躍らせる俺たちがまんまと中威区暴閥の罠にかかり、食い物にされる様を傍観する立場を貫くだろう。
いや、きっと傍観すらしないかもしれない。流川にとって俺たち下威区の奴らが死のうが生きようが、純粋に興味がないのだから。
「少なくとも、``法王``はオメェらの存在を認めねぇだろうな。確実に粛清されるぜ」
見下すような笑いが鼻につく。自分が馬鹿にされるのは構わないが、同胞は蔑まれるのは気分の良いものじゃない。
``法王``といえば、上威区を牛耳る三人の大領主―――上威区三大帝の一柱。ツムジの話じゃ、上威区でもトップレベルで強者至上主義者であり、熱心な流川信奉者だと聞いた。
つまり結局、武ノ壁を壊したところで俺らが望む平和な世界ってのは、束の間のぬるま湯でしかないってわけか。
思わず肩を竦めた。竦めずにはいられなかったってのが正しいと思う。
武ノ壁の破壊、それは下威区スラムに生きる同胞たちの悲願だった。それを達成すれば、まだ見ぬ自由が待っている。下威区を行脚していたツムジでさえ、その未来に胸を膨らませていたほどだ。
でも結局、その先にあるのは灰色のぬるま湯。文字通り下威区からは解放されるが、結局は狩られる運命にあることに変わりない。
弱肉強食。耳が腐るほど聞いてきた忌々しい四文字が、もはや呪詛のように思えてくる。
「だからこそ、オメェは流川を討て。俺はこれから、流川に挑む」
擬巖は妙に凛としていた。嫌な予感が胸中に横たわる。
「苦虫噛み潰して思わず飲み込んじまったみてぇな顔すんじゃねぇよ、暴閥ってのは、そんなもんさ」
「……だからって、捨てるこたぁねーだろ」
「宣戦布告しちまった以上、もう後戻りはできねぇよ。殺るか殺られるか。それだけだ」
奥歯を噛み締める。胸中に横たわる嫌な予感は、蛆臭い不快感に姿を変えた。
「おそらく俺ぁ、流川にゃ勝てねぇ。まあ、やれるこたぁやるがな。もし俺が討たれたら、俺の後を継ぐといい」
「……暴閥なんざごめんだね」
「バーカ、擬巖を継げって話じゃねぇ。オメェが王になるんだよ。流川を倒して、な」
意味が分からず、はぁ? と間抜けな声を出しちまう。
マジで意味がわかんねえ、何がどうしたら俺みてぇなボンクラが王になるんだか。俺はツムジもブルーも、囲っていたガキたちも何も守れなかった、ただの逃げ腰野郎だってのに。
「いいか、今人類世界を支配しているのは流川と花筏だ。武ノ壁をブチ壊しただけならオメェらは結局食い物にされるだけだろうが、流川を落とせば話は変わる」
「どう変わんだよ」
「簡単な話だ。この世界は弱肉強食、強ぇ奴が弱ぇ奴を支配する。オメェが流川を倒すってこたぁ、今度はオメェが人類世界にて最強ってことになるのさ」
「馬鹿言うな。ンなもん結局弱者を食い物にする側に回るだけじゃねーか」
「だったらオメェはそうしない支配者になりゃあいい。流川を倒せれば、オメェが王なんだ。王のオメェが理想とする世界に作り変えられる特権を得られるんだよ」
俺の思考が、止まった。
流川を倒せば、俺が王。人類世界を支配する新たな王として、世界に君臨できる。
王なんて、弱者を食い物にするだけの蛆野郎としか思ってなかったけれど、言われてみれば、俺たち最底辺が王になれたなら、俺たち最底辺が理想とする世界を創れる。ツムジが言っていた、みんながみんな笑い合える幸せな世界が創れる。
今の世界は流川が創った、なら俺たちがその流川を倒せば―――。
「じゃあ改めてオメェに託す。流川を……流川本家の当主を討て。そして、オメェが王になれ。この現代人類世界を統べる、新世界の王に……」
その言葉を経て、今に至る。擬巖の予想通り、奴は討たれ、俺が奴の遺志を継いだ。
擬巖を許したわけじゃない、志は同じだったとはいえ、流川を倒すただそれだけのためにツムジや同胞を食い物にした事実は変わらないし、仮に生き残っていたとしても、俺と擬巖はきっと道を違えただろう。
それでも奴の遺志を継いだのは、ツムジが抱いていた夢を叶えるため。みんながみんな笑い合える世界を創るため。王なんて弱い奴を踏み躙るだけの悪党だと思っていたけど、王になった奴が自分の思い描く世界を創れるというのなら、話は変わる。
「でも、そーだな……そーすると……」
王になる。流川を倒すとは、新たな王として君臨するということ。だが倒すってことは流川の当主を殺さなきゃならないってこと。
正直、ツムジや俺たちが夢見た世界のためとはいえ、それでも人の命を奪う行為はしたくない。どんな野郎であれ、どんな人生であれ、命ってのはただ一つしかないし、ただ一つしかないからこそ何ものよりも尊いものだ。
理想だのなんだのと命を奪うことをいくら美化したところで人殺しは人殺し。尊い犠牲なんて思わない、犠牲なんてものはどんな形であれどんな経緯であれ、犠牲は犠牲でしかないんだ。
それでもきっと、その思いは当主殿には届かないだろう。
敵わないと分かっていて瞬殺された中威区暴閥の当主たちのように、死ぬのがわかっていながら当主殿に挑んで死んだ擬巖のように、暴閥の戦いはお互いどっちかの生死でしか終わらない。俺が言う半殺しじゃ、きっと当主殿は諦めてはくれない。
それに当主殿が生きている限り、流川は決して滅びない。そうなれば同胞たちがずっと、虐げられる未来だって変わらない。
「嗚呼……」
きっと誰にも聞こえない嘆息が漏れる。
殺し方が浮かんだ。浮かんじまった。死なない奴を殺す、ついさっきまでそんな理不尽なと思っていたが、俺が今振るっている剣―――那由多ならきっと殺れてしまう。
もしやるとなったら那由多とは今生の別れになってしまうが、ツムジの形見―――旋風は、きっと亡き相棒のことを想い続けてくれるだろう。
ツムジがどんな理不尽や悲劇を前にしても、俺やブルーのことを想い続けてくれたように。
「じゃあ、いくか」
那由多を構える。
本音を言うなら浮かんで欲しくなかったが、人生ってのは本当にままならないもんだ。浮かんで欲しくないときに閃きってのは舞い降りるし、ここぞってときには音沙汰一つ起こさない。
御伽話の主人公ならきっと誰かが死にかけているときに都合よく助けられる策が閃いて、運良く敵をやっつけられたりするんだろうが、ツムジがいなくなったときは何もできず、ブルーと道を違えたときは別れの言葉一つもかけてはやれなかった。囲っていた孤児たちだって、都合よく天啓が降りてくれたならと恨まずにはいられない。
今回だって、半殺しにしたかった相手を確実に殺す策が舞い降りてきやがった。どうせ舞い降りるなら、死なない上に負けを認めない駄々っ子を、半殺しにして黙らせる策が降りてきて欲しかった。
「……いや、そんなもんか……人生なんて」
「さっきからなにぶつくさ言ってやがる……」
独り言に反応されたことに、少しばかり驚きつつも、気づけば声が大きくなっていたのかとすぐに興味を失う。
息は切らしていないようだが、当主殿の髪は汗でじっとり濡れていた。考え事ばかりしていて意識していなかったが、辺りを見渡すと俺の周りの地形が様変わりしていた。
戦う前はきちんと舗装された無地の部屋だったのに、今じゃ穴ボコだらけの荒野に成り果てている。
一体どれだけの攻撃を試され、回避したのだろう。回避なんてやりすぎて呼吸と同じぐらいの意識しか向けないから、周りで何が起こっていたのかよく思い出せない。
「今度こそおわりにしよーかなって」
那由多を構えたまま、出まかせを放つ。一文字も合っちゃいないが、本音だし間違いじゃあない。
この下らない戦いを終わらせたい。それは戦う前からずっと胸に秘めていたことだ。
「ふざけるなよ……俺は、まだ」
「悪いな。アンタがどう言おうと、俺が終わらせたいんだ」
本当はしたくない。たとえ下威区とかいう糞と蛆の掃き溜めみたいな場所を作り、長きにわたって同胞を苦しめることになった元凶だったとしても、一人の人間として生きているのなら。
「終わりだ、流川澄男ッ」
何の捻りもない、ただの突貫。剣を槍のように構え、疾駆する。
槍じゃないから本来の使い方には程遠いだろうが、元より剣豪でもなんでもない俺に、使い方なんて関係ない。
「馬鹿が! そんな突撃で俺が死ぬとでも……」
そうだろう、アンタなら。死ぬわけがない。アンタは不死身だ。首を切り飛ばしても死ななかったアンタなら、剣で串刺しにした程度じゃ実質無傷だろう。
「俺の持っている剣が、``那由多``じゃなけりゃーなッ」
当主殿は予想通り真正面から凶撃を受け止めた。普通なら回避しなきゃ確実に死ぬ攻撃。
ものの見事に、那由多は心臓を貫いた。当主殿の口の端から血が滴るが、奴は笑っていた。痛くも痒くもないからだ。でも那由多の本領は、ここからである。
「な、に……? なんだ、ンだこりゃあ!?」
当主殿の叫びが鼓膜を縦貫し、三半規管をどついた。刺された部分から色を失っていく当主殿の体。鮮やかな無地は虚ろな灰へと表情を変えていく。
「身体が、動か、な……!?」
「アンタ、死なないんだよな。むしろ死ねた方がマシだったかもしれねーよ」
「おま、な、にを……」
まあ自分のおかれている状況を、何の説明なしに理解するのは流石に無理だと思う。
だが、説明する気は起きなかった。嫌がらせとかじゃなく、単純に人に理解できるだけの説明をする時間が残されていないんだ。那由多って剣で、当主殿という名の物体の運動を止めるって、どうやったら伝わるだろうか。正直何言っても無理だと思う。
アンタだけの時間を止めた、っていえば納得してもらえるだろうか。
「クソが……!! 嫌だ、俺はまだ……御玲を助」
那由多は無慈悲だった。当主殿の遺言を待つことなく、時の狭間へ容赦なく突き落とす。
始まりは派手だったが、終わりは呆気ない。いつだって終わりは無感動に無感情に、突如として静寂が横たわる。今更始まったことじゃないから驚きもしないが、これで俺は王になれたのだろうか。
「実感ねーな……」
まあ王なんて何するか分からんから、まずはブルーを探してアイツに丸投げして―――。
―――``小僧``
思わず、那由多をそのままに後ろへ大きく飛び退いた。
直感が全力で危険信号を発している。寒気が身体を縦貫し、鳥の肌が全身を駆け巡る。まるで心臓を鷲掴まれたかのような不気味な感覚は、蛆を食わされたときの不快感とは比較にならないほどに邪悪だ。
―――``時間ヲ止メラレル程度デ、自惚レルナ。ソノ程度、痛痒ニ値セヌワ``
邪悪な声音は、当主殿から発している。だが明らかに当主殿の声音じゃない。
吐き気を催すほどの威圧感。当主殿とは歳は近しいと思うが、この声音は壮年の男を思わせるぐらいコクがある。身の毛もよだつぐらい、邪な。
―――``ダガ感謝セネバナルマイ。小僧ノオ陰デ、ヨウヤク現世ニ顕現デキルノダカラナ``
刹那、当主殿を覆う虚ろの帳に蜘蛛の巣が張った。那由多を中心に、今にも粉微塵になる瞬間のガラス窓の風景が映る。蜘蛛の巣は徐々に大きくなり、そして。
灰色の窓ガラスは打ち砕かれ、当主殿は色を取り戻した。
「オオ……久シい。コの感覚、物質体デ現世に君臨するノハ、数億年ぶりニなるカ」
色を取り戻したが、その色は暗い。身体から暗黒の靄を漂わせる当主殿は、手を閉じたり開いたりしながら、左右の手を交互に眺める。更に言うなら、声にかかったエコーも薄くなっていく。
「せめてもの礼だ。苦痛のない死を与えてやろうぞ」
外見は当主殿だ。さっきのさっきまで戦っていた、流川本家の当主殿。だが纏う雰囲気は、邪悪そのもの。
擬巖が纏う闇よりも黒く、粘り気のある不気味な靄が、妖しげな気を放って俺の肌を舐め回す。
よく見れば眼球が黒く染まり、虹彩は血のような赤色、瞳孔は濁りのない金色に様変わりしている。
考えなくとも分かる。当主殿の別物の、理解の範疇を遥かに超えた化け物。本当の意味での人外が、そこにいる。
「キッシシ。礼してくれるんじゃねーのかよ」
「不服か? ならば舞え。我はこの肉体の心地を確かめねばならぬ」
「その前にその剣を返してくれねーかな? どうせ死ぬんならせめて遺品にしてーし」
平静を装いながら、手を差し伸べる。冷静に対応しているが、無限に湧き出る脂汗で身も心も溶けてしまいそうだ。
ちなみに、これは嘘である。死ぬつもりなんて毛ほどもない。俺が戦う相手はあくまで流川本家の当主殿であって、当主殿の皮を着た得体の知れない化け物じゃない。何が起こったかは分からないが、当主殿じゃない何かが当主殿の身体を借りているので、全力逃走を選択したまでである。
当主殿は俺を逃さないと言った、ならきっと、いずれ、いつか、戦うことがあるだろう。そのときに改めて再戦すればいい話。正体の知れない化け物に成り変わった今、いよいよ戦う理由が見当たらない。
「馬鹿め。考えが透けて見えるわ」
エコーが消えて尚、声質は邪悪だ。臓腑の奥底を掻き回すような不快感が心の逃げ場を黒く塗り潰す。
「返して欲しくば、武威を示せ。お前がただの弱小種でないことを証明するのだ」
歯の隙間から嘆息が漏れる。分かっていたが、タダで返してくれるわけがないか。
印象からして分け隔てなく菓子を贈り同じ円卓で食べるような騎士道精神を持っているように見えないし、むしろ平気で他人を踏み躙り、人からあらゆるものを奪うことに抵抗がない悪意すら感じさせる。
下威区スラムにいた悪食な連中なんて、目の前の化け物と比べたら可愛らしい小動物だ。
「心臓に刺されたままじゃ戦いにくいだろ。な?」
「御託はいらぬ。来ないのなら我からいくぞ」
だめだ、話にならない。戦う気満々すぎる。
「いやさ、その前に名前を教えてくれよ。アンタ、当主殿じゃないだろ」
質問を投げつけたが、名前にこれっぽっちも興味ない。これは時間稼ぎだ。殺る気満々なところ悪いが、とにかく戦いたくない。相手が違うのが丸分かりだし、戦うだけ無駄なのは考えるまでもないことだ。
「我が名は煉壊竜ゼヴルエーレ。この世に、災厄と破壊を、与える者」
意外にも、ただの時間稼ぎに乗ってくれた。正直無視して突撃でもしてくるもんだと思っていただけに拍子抜けだが、それよりも。
「……竜?」
その一文字、その単語。時間稼ぎのつもりが、その言葉一つに意識が集約される。聞き間違いだろうか。もし合っているなら人でもなんでもないことになるのだが、きっと違うだろう。だって竜なんて。
「信じられぬ、という顔だな」
思わず、身構える。ポーカーフェイスには自信があるし、日頃から飄々としている自覚はあったから、こうもあっさり見透かされるとは思わなかった。
でも無理もないだろう。同情してくれる奴がいるならいてほしい。
竜。ツムジから名前ぐらいしか聞いたことがなかったが、人間を一瞬で葬り去ることができる超級の化け物だと教えられた。戦うことはおろか、会うことすら一生ないと思っていたのに。
「……冗談だろ」
「そう思うなら、試してみるがいい」
大きく肩を竦める。どう転んでも戦いを回避する道はないらしい。
竜との戦い方なんて分からないし、逃げ方だって分からない。魔生物ならまだなんとかなったが、ゼヴルエーレさんは喋っているし、知恵の一つや二つはありそうだ。逃がしてくれるとは到底思えない。
「……やるしかねーってのかよ」
歯の隙間から漏れ出る笑いに嘆息が入り混じる。
那由多は相手の心臓に刺さったまま返してくれないせいで使えないが、短剣である旋風と切り札が一つ残されている。
那由多があるからと温存しておいた切り札。相手が人智を超えた化け物なら、出し惜しむ余裕はきっとない。どうにかして逃げ仰るぐらいはしたいところだ。
「愚かな。舐められたものよ。弱小種如きが、我に謀とは、なッ」
「ぐぶッ」
腹に衝撃が縦貫する。現状を把握する暇すらなく、されるがままに大きく後ろへと吹っ飛んだ。
背中を壁に受け止められ、乾いた呻き声が漏れる。背中の痛みと内臓へのダメージで、今にも落ちてしまいそうだ。
「やはり具合が良い。佳霖め、生きていたなら褒美の一つでもとらせてやったものを」
ダメージで動けない俺とは裏腹にゼヴルエーレさんは余裕綽々だ。右手を閉じたり開いたりして、手の調子を確かめている。
「何をされたのか、理解できんようだな。そういえば、現代の弱小種どもは転移魔法も碌に使えんのだったか」
またか、テンイマホウ。あの気がついたら全く別の場所に移動しているやつ。確かに気づいたら腹パン喰らわされて壁にぶち当てられて、なんで見切れなかったんだとダメージで意識が朦朧とする中、疑問符に理性が蝕まれていたが、魔法による瞬間移動なら納得がいく。
いくら回避に自信があるって言ったって、瞬間移動する奴の動きは流石に見切れない。予備動作、それがなくとも視線の向きぐらいは分からないと無理だ。
「さて、次は……」
ゼヴルエーレさんの右腕が炎に包まれる。それもただの炎じゃなく、光を一切通さない、黒一色の闇の炎。
なんなのかよく分からないが、仮に呼ぶとしたら黒炎というべきか。黒炎はみるみるうちに右腕へ集約され、右腕は真っ黒に塗り潰される。
「小僧の生存本能に期待しよう。簡単に死んでくれるなよ」
悪どい笑みを浮かべたと思いきや、また消えた。苦痛なき死を与えてやるとか言っていたのに、思いっきりぶん殴った挙句死んでくれるなよとか矛盾も甚だしい。死なせる気がないなら逃がして欲しいのだが、相手からその気がまるで感じられない。
「くそッ」
出し惜しみしてられない。寿命を縮めることになるが、使わなければ状況は悪化の一途を辿るだけだ。
できるなら長生きしたいのに、そんな細やかな願いですら、奴にとっては我儘なのか。
時が止まる。那由多は刀身が触れたもののみしか操作できないが、切り札は違う。
巷じゃ超能力と呼ばれるそれは、俺以外の世界の全ての運動を停止させる。何を言ってんだお前はと思われても仕方ない。俺だってそう思う。だがこれは事実だ。
実際、世界から音という音が消え、空気の脈動が消え失せたのだから。
「じゃあな、那由多……」
本当なら取り返したいが、命あっての物種だ。損失は決して小さくないし、なんなら半身を失った気分ですらあるけれど、命と比べたらまだ取り返しがつく。
長い間、付き添ってくれた相棒の一つに別れを告げることになるとは思わなかったが、いつかは別れることになると思えば、悲しみも緩和されるってもんだ。
―――``二度も言わせるな、小僧``
頭が真っ白になった。その後に押し寄せるのは、思考の渦。
今の声は何なんだ。聞いたことがある気がするが、そんなはずはない。だって今は、世界の全てが止まっている。俺以外の全てが。つまり俺以外の誰かの声が聞こえるはずがない。
そう結論づけたいが、つい昨日の出来事を思い出した。
「お前もかよ……!」
流川の領土に侵犯せざる得なかった昨日。命からがら防衛網を潜り抜け、使いたくなかった切り札を連発して満身創痍の中、例年稀に見る全力逃走を試みたあの日。
どこからともなく現れた長身のねーちゃんが、作り出した余白の世界を突き破り、俺を拘束したのだ。
俺以外の全てが停止する余白世界が破られたことは、昨日のあの瞬間まで一度たりともなかった。どういうカラクリか分からないが、自分以外が止まるはずの世界をまるで窓ガラスを突き破るみたいにぶっ壊してくるなんて、意味が分からないことこの上ない。
あんな非常識、もう二度と出てくることもないと思っていたのに。
「超能力だぞ……?」
「``超能力``、か。そうか、そうだったな」
余白世界が、無惨にも砕け散る。問答無用で全てを停止させる世界が、なすすべなく呆気なく。俺が作り出す余白は、こんなにも脆かったのかと非難したくなるぐらい、その死に様はあまりにもあっさりしていた。奥歯を強く噛み締める。
「お前たち弱小種は、この力を``超能力``などと呼ぶのだったな。世が違えば読み方もまた異なるということか」
「……何の話だ」
「小僧。今の力、``超能力``と言ったな? 本来その力は、弱小種たる小僧どもの身には余る力なのだ」
「だろーな。問答無用の時間停止なんざ、使われた側からすりゃあ堪ったもんじゃねーだろーよ」
「我らの世において、それはこう呼ばれておる。``竜位魔法``とな」
ドラゴ、マジアン。強そうな響きだ。いわゆるドラゴンが使う魔法的なやつだろうか。全然想像つかないが、化け物が使う自然災害って理解でいい気がする。
「元より小僧どもヒューマノリア人は、我の血を継ぐ者ども。竜位魔法に覚醒するのも合点のいく話であろうな」
「……ん? ちょっと待て」
無礼を承知で話を遮る。案の定ゼヴルエーレさんは眉をしかめるが、ここはドラゴン様の機嫌を多少損ねてまでも、はっきりさせておいた方がいいと思う。
「俺たちがアンタの血を継いでる……? 親の顔なんざ知らねーが、俺は人から生まれたぞ。多分」
さりげなく、さも当然と言わんばかりに言い放たれたゼヴルエーレさんの言葉には、人間として異を唱えておかないとダメな気がした。
俺は下威区スラム育ちだ。生まれも育ちも下威区であり、下威区の外の世界は見たことがない。俺の知識の九割以上はスラムの同胞の中でずば抜けて博識だったツムジからの受け売りだ。
この目で見れるなら、もっと早くから世界中を行脚していただろうが、生まれてから今までずっと下威区の住人だった俺が、今更になって人外の子と言われても納得できるわけもない。
確かにスラムで生まれ育った連中はほとんど自分の親の顔なんざ知らない。俺もどこの誰の腹の中から生まれたかなんて知らないし、物心ついた頃にはツムジが母親みたいなもんだったから、本当の親なんていないようなもんだが、それでも人外の親ってわけじゃない。
別に生まれてから今日まで人外の兆候があったわけでもなし、使える能力だって生きるのに必死こいていたら後天的に身につけたものばかりだ。ドラゴンが親なら身体のどこか、見慣れない鱗に変えられてもおかしくないはずだ。
「そうではない。小僧を含め、この大陸に生まれ落ちた者全てが、我の血肉より生まれた者どもなのだ」
馬鹿を見るような目で見られるが、俺はおそらくその馬鹿なのだと思う。
俺を含めた全員が、ゼヴルエーレさんから生まれた。スケールがデカすぎて、何を言っているのかさっぱりだ。
「かつて我は、最果てにて戦を起こした。その戦は黄金の竜と呼ばれた忌々しき竜に終止符を打たれた挙句魂と肉体を三つに分たれたが、運は我に味方した」
別に聞いちゃいないが、勝手に語り始めたので耳を傾けることにする。興味なんてないが、どうせ急かしても死ぬまでの時間が短くなるだけ。相手が調子良く一人語りしている間に、少しでも生き延びられる策を練った方が得策だ。
策を考えながらも、ゼヴルエーレさんの話は雑談程度には聞いていた。ゼヴルエーレさんは、三つに分たれた魂と肉体のうちの一つで、いわば本来の自分の分身体。
残りの二つは辺境の大陸を肥沃な土地にするため、その養分として黄金の竜、フェーンフェンさんなる竜に消費されてしまったらしい。
その養分となった魂と肉体は、長い年月を経て生命体を芽吹かせた。その最終地点が、今の人類だという。
「ゆえに小僧を含めた全ての生命は、我の一部。我より生まれ、我へ還る宿命にある」
スケールがデカすぎて、途中で脳みそのリソースを切ってしまったが、だから死ねと言われて死ぬ馬鹿はいないと思う。元々の話をされたところで、今の俺には関係のないことだ。
第一、そんな御伽話みたいなのを聞かされて尚更生き延びたい欲望が増したぐらいだし。
「しかし下らぬ。我の話を遮らぬことで時間稼ぎをしておるようだが、無駄な謀だ。どこへ逃げようと我の竜位魔法からは逃れられぬ」
小さく舌打ちする。興味のない話にわざわざ耳を傾けたのに、徒労に終わってしまった。人外で頭も回るとか、ただのズルじゃないか。
「勝手に俺の運命を決めないでくれねーか。俺は生きる。アンタが御伽話に出てくるよーな、クソやべードラゴンだろーと関係ねー。ぜってー生き残ってやるさ」
「好きに足掻くがいい。何をしようが等しく無意味で、等しく無価値だ」
生きようとしている奴に投げかける言葉じゃないと思う。アンタもそうなのかよ。
強い奴はいつもそうだ。俺たち弱者に生きることの無意味さと、足掻くことの無価値さを押しつける。
確かに下威区の連中はすぐ死ぬ。強者に蹂躙されなくても、大多数が飢え死にする。放っておいても死ぬのだから、そりゃ強い奴からしたら生きるだけ無意味、さっさと死んだ方が幸せだと考えるのも理屈ならわからなくもない。そう、理屈なら、だ。
「なあ、アンタもそうなのか」
どうしてだろう。問うたところで嫌な答えしか返ってこないのに。傷つくのが自分だけなのは、わかり切ったことなのに。
「弱者は死ぬべきか否か、だな? 弱小種が思索を巡らせるに相応しい、実に下らぬ問いだ」
見透かされた。当主殿がどうして竜なんて化け物を身体の中で飼育していたのか分からないが、本人の意志とは関係なく全部筒抜けなのは恐怖を禁じ得ない。
「この世界は、弱肉強食。弱きは滅び、強きが生き残るは自然の摂理。それを受け入れぬは、いつの世も弱者のみ」
自称最果ての竜様は堂々と、何の疑問も憂いもなく、俺の気持ちもよそへ放り投げて言い放った。
いや、そもそも俺は聞く相手を間違えたのかもしれない。
「そもそも弱肉強食の摂理を創ったのは、他ならぬ我ら竜族に他ならぬ。遥か太古の昔より、我らは争いの中で生きてきた」
そしてまた自分語りが始まる。
竜は、長く生きている。この世界にて、最強の種族である。
まだ竜以外の種族が生まれるずっとずっと昔、竜たちは互いに生き残るために争い、己の生存本能を燃やして同族を食い合っていた。
弱い竜は淘汰され、強い竜だけが生き残る。そしてその強い竜もまた、同格同士で争い、食糧と縄張りの奪い合いは絶えることなく続いた。
その竜たちの有り様こそが、この世界の、ひいては流川が俺たち人類に押しつけた、弱肉強食の起源なのだという。
「どの世でも争いを嫌うは弱小種のみ。食い殺される側なのだから嫌うのも無理はないが、だからと慮ってやる義理もなし」
理屈で分かっているなら、なんで思い遣ってくれないのだろうか。だったら俺たちは、結局。
「じゃあなんだよ、俺たちは、弱い奴は……死ぬしかねーってのかよ」
「嫌なら強者になればよい。できなければ、その先にあるのは淘汰のみ」
「ふざけるなよ。俺たちだって生きてるんだ、強い奴の奴隷なんかじゃねーんだよ。弱くたって、細やかな幸せのため、その日その日を精一杯生きてる奴だっているんだ」
「それはご苦労なことだ。どれだけ生きたところで、生態系ピラミッドを登る気がないのなら、その先にあるのは滅びだけだというのに」
「それはアンタらが殺しちまうからだろ!! 身勝手な理由で、みんなみんな!!」
感情が、爆発した。執事殿に問いかけるたび跳ね返されて、積もりに積もったモヤモヤが、確かな感情となって鍋の蓋を噴き上げる。
「強くならなきゃ、その先にあるのは滅び? 馬鹿らしい!! アンタら強い奴らが俺たちを弾圧しなきゃいいだけの話じゃねーか!!」
「面白いことを言うのだな。ではお前たち弱小種に特権でも与えろというのか? 生態系ピラミッドから除外するという特権を」
「そもそも生態系ピラミッドってなんだよ……俺たちは人間だ、序列とか知ったことか!! 下でも上でも、みんな同じでいいじゃねーか!!」
「いいものか馬鹿め。何故弱小種が生態系上位種と同格なのだ。大して努力もせず、下剋上もする気のない種など、淘汰されるのが自然選択的なのは明白だろうよ」
「ああ……違う。俺が言いてぇのは、そんなことじゃねー!!」
思いがこれでもかと弾ける。もはや鍋の蓋で塞げる勢いじゃない。塞ごうと理性の鎖を持ち出しても、それごと全て吹き飛ばしてしまう。
いついかなるときも冷静さを保つことが俺の数少ない強みだったはずだが、執事殿、そしてゼヴルエーレさんとの問答で堪忍袋は既に限界だった。
「なんでなんだ!! なんでみんなと一緒に笑い合えるために力を使わねーんだ!! お前らの力は何のためにある!! 弱い奴を虐げるためか!! そんな力捨てちまえ!!」
ああ、身勝手だ。俺とツムジのエゴだ。きっと弱肉強食がルールのこの世界じゃ、俺やツムジの理想なんてただのエゴにすぎない。
でも、だからどうした。
「理不尽な力なんてな、誰も幸せにできねーんだよ!! みんなから微笑みを奪っていく!! それ以外に芸がねー!! そんな力なんかいらねーんだよ!! 弱者の淘汰? 生態系ピラミッド? それこそ下らねー!! ただみんなを殺すってだけじゃねーか自慢すんな!!」
嗚呼、止まらない。言ってることも支離滅裂な気がする。
「力が強えってそんなに偉いのか? 力が弱えってそんなに悪いのか? なあ、教えてくれよドラゴンさんよ!! なんで、なんでアンタらにとって弱い奴は悪なんだ!! 俺たちは、死ぬべきなのかよ!!」
胸が痛い。怒鳴りすぎたのか、それとも別か。気がつけば息継ぎも忘れて怒鳴り散らしていたのか、必死に肺が酸素を供給しようとしていた。視界に羽虫が飛ぶ。平衡感覚が覚束ない。
「強くなる気がないならば、淘汰されても仕方あるまい」
感情が、すっぽ抜けた。さっきまでの苛烈な熱さはどこへやら。さっきまでの話を丸ごと聞いてなかったのかと思うほどに、ゼヴルエーレさんの答えはあっさりしていた。
「二度も言わせるな小僧。弱肉強食。それはこの世界の摂理そのもの。生きとし生けるもの全てに公平に適用される、絶対的なルールなのだ」
公平、か。だとしたらその公平な決まり事はあんまりにあんまりにも残酷だ。
結局のところ、弱い奴は死ね。それは絶対に変わらない普遍のルールなのだと言い切られたようなもの。
―――``この世界はな、強い奴がルールなんだよ``―――
いつか聞いたことがあるセリフが脳裏をよぎる。
そりゃそうだ。弱い奴は淘汰されるのなら、強い奴が全てを手にし、全てを支配できる。残った強い奴が、全てを決められる。
じゃあ、生き残った僅かな弱い奴は。生まれちゃあダメな存在だってのかよ。
「クソ、が。嗚呼、クソッタレが……」
目の前が滲んだ。じわりじわりと、視界が溺れる。奥歯を噛み締める音とともに、頬を伝う液体が、虚しく床を濡らした。
「さて」
「ぐああああああああ!!」
ホント、クソだ。蛆を食わされたときよりも、糞便を顔面に塗りたくられたときよりも、ずっとずっと。
「ぎ、ぎぎぎぎぎぎぎぃ……」
「ふむ。原初の炎は使えるが、本来の姿には戻れぬか」
気がつけば、俺は宙に浮いていた。正しくは右腕を掴まれて、右腕だけで空に足をつけていると言うべきか。
ゼヴルエーレさんが掴む手から湧き出る黒い炎が、俺の右腕を焼く。身体中から大量の脂汗が止まらない。熱くて、痛くて、今にも舌を噛みちぎりたくなってくる。
「げはッ」
たとえ、ゴミのように打ち捨てられても。俺は。
「俺、は、まだ……生ぎる!!」
片腕がちぎれた。ゼヴルエーレさんに掴まれた右腕は、炭のように黒くなり、燃え尽きた木炭のように溢れ落ちる。
「闇属性系魔法``怨託``か。馬鹿な奴だ。本人が自覚しなければ無意味だというのに」
「ガッあ!!」
ゼヴルエーレさんが指先から放った黒い炎。それが俺の左眼を貫く。今まで感じたことのない痛みが脳を、身体を、全てを縦貫し、その場で蹲ってのたうちまわった。
あまりの痛さに、声が出せない。痛みに耐えるのに叫ぶリソースすら惜しいほどに、その場で転げ回りながら悶絶する。
「早く左眼を出さんと脳が焼けるぞ」
ゼヴルエーレさんの飄々とした声が鼓膜を揺らすが、熾烈な痛みが聴覚をズタズタに引き裂く。
「そうか。その余裕もないか。なら我が取り出してやろうぞ」
「ぐ……あ、や、やめ」
だがゼヴルエーレさんの力はえぐいほど強い。右目が一瞬だけ捉えたのは、左腕を掴むそれが、赤黒い鱗に覆われていたことだ。
俺は、化け物に覆い被されていた。嗚呼、クソだ。痛みでのたうち回る俺をよそに、ゼヴルエーレさんのゴツゴツした指が左目を抉る。
自分の知る語彙じゃあ例えようのない不快感。昔から蛆を食ったり、泥水啜ったり、腹壊して便を垂れ流したりと人並外れた生活を送ってきた自負はあるが、流石に眼球を抉られる感覚を生きている間に味わうことになるとは、いくらなんでも予想できるはずもない。
「ッ……ッッ……!!」
痛い。痛すぎる。なんでこんな酷い目に遭わないといけないんだ。俺が、俺たちが、一体何をしたってんだ。
「ぐ……ッ」
「理解したか小僧。これが、弱肉強食というものだ」
何かに例えるのも烏滸がましい、猛烈な痛みに苛まれる中、頭を容赦なく踏まれる。まるで打ち捨てられた生ごみを、自然に帰る寸前の野犬の糞を、踏みにじるように。
「お前が下位種で、我が上位種。お前の理想など、この世界の摂理の前には塵芥にすぎぬと知るがいい」
嗚呼。ああ、ああ。もう、なんなんだこれ。悲しみも怒りも、絶望も何もかも。その全てが可愛く見えてくる。
ツムジが夢見た世界、みんながみんなただ笑い合って助け合う世界。そんな笑顔に満ちた世界は、ただ下らない夢物語でしかないのか。弱肉強食、そんな弱い者いじめを肯定する、下らないルールより劣るってのか。
「ぞんなわけ、あるがァ!!」
胸の奥底が一気に熱くなる。消えかけていた焚き火が燃料を得て息を吹き返すように。
右腕は死んだが、まだ左腕が生きている。死んじまった奴はどうにもならないが、生きている奴が一人でもいたら、大体のことはどうにかなるもんなんだ。
左手が握るは、ツムジの形見。刀身がおよそ那由多の半分程度の短剣、旋風。その短剣を、当主殿の足に突き刺した。
当主殿は不死身だ、足に短剣をブッ刺した程度、かすり傷ですらないだろう。そもそもダメージなんて、初めから期待しちゃあいない。
刹那、当主殿の体が宙を舞う。まるで突風に吹かれたかのように大袈裟に、盛大に吹き飛んだゼヴルエーレさんは、空中で体を丸めて華麗に一回転、俺から見て遥か前方でうまい具合に着地する。
「面白い。面白いぞ小僧!」
当主殿の姿を借り、手を広げて高らかに笑う。
「右腕が朽ち、左眼が焼け爛れようと、我を前に生存本能を燃やせるとは。かつて我が肉体を滅ぼした、英傑どもすら凌ぐか!」
尚も高笑いをやめないゼヴルエーレさん。
何がそんなに面白いのか、俺には皆目分からない。ただ生きたい、生きていたいだけなのに、生きるのに必死なだけなのに。
そんな奴を虐めて、何が楽しいんだ。
「燃やせ。己の生存本能を。生存本能をぶつけ合ったその先に、新たなる暴力が生まれる。そしてその暴力の果てに弱きは滅び、強きは生き残るのだ! 暴力こそが、生の証明なのだ!」
もう、わけがわからない。暴力こそが生の証明。戦わざる得ない状況に追いやっているのは自分なのに、よく言えたもんだ。
戦いが好きなのは構わないし、無くせるもんでもないと思っているから争うなとは言わないけれど、だったら俺たちとは無関係なところで争ってほしい。
俺たちはただ、なんでもない日常を、ただ笑って過ごしたいだけなんだ。
「く、ぐ……」
左目が痛い。右腕の喪失感も半端じゃない。まだ八十年ぐらいは生きたいのに、若くして隻腕で隻眼。堪ったもんじゃあない。そのはずなのに。
「生きてりゃあ……儲けもんだ。そうだろ? ツムジ……」
ツムジからの形見、旋風を握る手に力が入る。
きっと那由多は、もう帰ってこない。左目と右腕、そして那由多も失うのはあまりに痛すぎるが、旋風があればなんとかできる。結局何も守れなかった自分だが、せめてツムジの誇りだけは、奴の墓地に。
「うおおおおおおお!!」
叫ぶ。走る。自分でもびっくりするぐらい、獣のように叫んじまった。自分は温厚な方だと思っていたが、追い詰められるとそうでもなかったのかもしれない。いつもなら、ここまで追い詰められる前に逃げるので、分かりようがなかったけれど。
俺は持ち前の足の速さを活かし、旋風を奮った。切り札は使わず、旋風だけで切り刻む。何故だかゼヴルエーレさんは棒立ちのままだったが構うもんか。逃げられないなら、倒すしかない。相手が棒立ちなら尚更だ、対応できるうちにダメージを稼いで。
「小賢しい」
「げはッ!?」
顔面から足の先まで、激痛。自分の知覚速度を遥かに凌ぐ現実の流転に理解が追いつかなくなるが、身体中を走り回る激痛が、認識速度を後押しする。
認識が現実に追いついた、俺は今、無様に踏み潰された蛙だった。
髪の毛を鷲掴まれ、足が宙に浮く。ただでさえ激痛に苛まれているってのに頭がすっぽ抜けるんじゃないかって痛みにも加勢され、声すら出せない。痛みのフルコースとか誰得だ。
「刮目せよ。これが、力だ」
痛みを堪える中で、辛うじて聞こえたゼヴルエーレさんの声。思わず反応して目を開けた。開けてしまった。思考が散り散りになる。
目の前にいたのは当主殿の皮を着たゼヴルエーレという名の自称ドラゴンだったはずだ。それは間違いない。
でも今俺の目の前に立っているのは、巨大な黒竜。
鱗は全体的に黒く、その間に赤黒い血脈が拍動する。大きさは俺よりもずっと大きい。もはや俺がただの小動物に見えるほどに、大きさの差は歴然だ。畳んでいる翼を広げれば、その差はもっと広がるだろう。
竜。言葉では聞いたことはあるが、実際に見たことは今の今まで一度もなかった。巨大で、デカい翼を羽ばたかせて飛び、各所で災害を引き起こす生き物。自然災害そのものと言ってもいい存在が、今俺の目の前にいる。
それも、ただのデカい蜥蜴なんかじゃない。蜥蜴なんて可愛さは微塵もない。圧倒的な力の権化。邪悪な暴力そのもの。
俺は今、暴力を前にしている。今まで受けてきた凄惨な虐待や弱い者いじめが全て霞むほどに、その存在は生きる暴力の塊だった。
「キッ……シシ」
これは、笑うしかない。全身が震える。脂汗が止まらない。服は既に目一杯汗を吸い、皮膚に張り付いて一体化し始めている。生存本能が、体の奥底から叫ぶ。
これは、勝てない。人が、人類が戦うべき存在じゃあない。たとえ俺が切り札を切ったとしても、その勝算は皆無だと直感が唸る。
こんな化け物が、人間なんてただの羽虫と見下す暴力が、この世界に存在してもいいのか。
「世界ヲ知ラヌ小童。オ前ノ力ナド、塵芥ニスギヌト知ルガイイ」
ゼヴルエーレは、ほくそ笑む。
塵芥、その言葉が脳裏を何度も駆け巡る。自慢するほどでもないが、それでも逃げ足に使える程度には自信があった力。実際に流川本家の当主相手には善戦できていたし、割と使えるのではと少しばかり自信がつきはじめていた。
でも本物の暴力の前には、俺の時間停止など霞む。
そもそもゼヴルエーレには、俺の力が毛ほども効かなかった。超能力の効果は絶対のはずなのに、流川本家領で戦った美人のアンドロイド然りゼヴルエーレ然り、超能力という力の権化でさえも無効化する化け物には、俺なんてただの氷山の一角、その登竜門でしかないのだと思い知らされる。
無力。その言葉が、身体に重くのしかかる。
「モハヤコレマデカ。弱小デハアッタガ、楽シメタゾ小僧。褒美トシテ苦痛ナキ死ヲクレテヤロウ」
ゼヴルエーレのクソデカい腕が迫る。
体が動かない。逃げなければならないのに、肉体が、精神が、全てが畏怖している。いつもなら反射的に逃げへの一手へ繋げるはずの身体はまったく言うことを聞いてくれない。
本体は当主殿の肉体だ、俺を押し潰せるだけの質量はない。そう何度も自分に言い聞かせてなお、俺の体は暗黒の巨体から頑として逃れようとしない。
俺は、ここで死ぬのか。いつどんなときだろうと、死だけは逃れて生きてきた。むしろ全力で逃れる努力をしてきたからこそ生きられているのだが、仮に死から逃れるのをやめてしまったら、その先にあるのは紛れもない死である。
どうして死ななきゃならない。苦痛のない死、それで俺が幸せになると、笑って受け入れると思っているのか。
苦痛があろうがなかろうが、死は死だ。それ以上の意味はなく、死を下回る惨劇は存在しない。俺にとって死こそが、この世で最も恐ろしい悲劇なんだ。
身体に電気信号を送る。足を動け、手を動け、腕を動け、声を上げろ。なんでもいい。死から逃れられるならどんな些細な動作でも構わない。
動け、動け、動け、動け―――。
「那由多」
闇が、晴れた。気のせいだろうか。もしそうじゃないなら、気のせいじゃないことを信じたい。
背中から照らされる、暖かい光。黒竜から放たれた冷たい闇が打ち払われていくのと同じく、右腕を失った痛さが、左眼を抉られた痛みが、瞬く間に癒えていく。
「お前と話したいことは沢山あるが、時間がない。手短に済ますぞ」
力強い声音。どこを見渡しても腐りかけの死体と、それを貪り食らう蛆、そして俺たちみたいな奴らを食い物にする蛆にすら満たないクソ野郎どもしかない下威区で、どれだけの絶望を前にしても最期まで希望を捨てなかった強かな志は、俺たちが匿い死んでいった孤児たちにとって、命を明日へと繋げられる唯一の福音だった。
「ツムジ……どうして」
今投げかける言葉じゃないのは、状況からして明らかだ。ゼヴルエーレに殺られそうになっている今、何故ツムジが光とともに現れたのか、その原因を追求している暇はない。
暇がないのは分かっているのに、理性とは裏腹に感情はとめどなく溢れ出す。これは、無理だ。とてもじゃないが、止められそうにない。
「泣くんじゃない。いいか、私とお前に、そう長い時間は残されてないんだぞ」
左腕の袖で涙を拭う。いつもなら右腕で拭うのだが生憎右腕とは今生の別れを果たしたばかりだった。
「私の……いや今はお前のか。その短剣、旋風から語りかけている。お前の意識と旋風、ほんのわずかに向き合っている間しか抑えられない。心して聞け」
黙って頷く。今の状況を抜け出せるなら、なんだっていい。気になることは山ほどあるが、今は打開策だ。
「まずはじめに、あの竜からは逃げられない。はっきり言って格が違う。生き残るには、戦うしかない」
「……相手はバケモンだぞ」
「知ってるさ。要は負けなければいい。私とお前で、な?」
思わず目を見開く。ツムジの笑顔は、いつだって明るい。下威区を等しく照らす、太陽のように。
ツムジと一緒に戦う。いつ以来だろうか。
まだひっそりと孤児を匿っていた頃、理不尽にスラムを焼き払いにきた中位暴閥の軍勢を、スラムのみんなで迎え撃ったときが最後だったか。
あのときは結局、俺もツムジも撤退を余儀なくされて、孤児も何人か拉致られたり殺されたり、最後は俺とツムジ、そんで右手で数えられる程度のガキだけが残ったっけ。まあ、ソイツらも体壊して全滅しちまったわけだが。
「でもツムジ、お前素手だろ。どうやって戦うつもりなんだ」
「私もそう思ってたんだがな……戦いたいのは、どうやら私たちだけじゃないらしい」
肩を竦めるツムジをよそに、言っている意味が理解できず、思わず首を傾げてしまうが、その答えはすぐに俺の目の前を通過する。
「な、何だ!?」
俺の身体を通過する、白い霧のようなもの。それは霧のように思えたが、よく見ると人のようにも思える。俺やツムジより一回り小さい、無邪気に遊び回る子供のように。
「まさか、コイツら……!」
俺やツムジの周りを、まるで戯れてくる子供のように飛び回る白い霧は、顔や姿こそわからないが、どこか知っているような気がする。ついこの間まで、泥水蛆虫啜りながら生きていた―――。
「私はやめとけと何度も言い聞かせたんだが、聞かなくてな……」
ようやく理解した。やめておけと押し留めたい気持ちになるのも頷ける。
俺もツムジの立場なら、同じことをしただろう。でもきっと、コイツらは止まらないと思う。誰が何と言おうが、この場に現れて俺たちとともにあることを願うだろう。たとえ、戦う相手が暴力の象徴だとしても。
「しかしお前、まあた厄介なのと戦ってるな。今度は竜か」
「キッシシ。それもただの竜なんかじゃねーぞ。二つ名持ちらしい」
「竜の世界の二つ名持ちか……はは、恐ろしく強そうだ」
「恐ろしく強そう、じゃなくて強いんだよ。俺たち人類が霞むくらいには、な」
違いない、とため息混じりに答えるツムジ。
武市でも、二つ名ってのは強者の中でも一線を画する実力を持つ者に与えられる。
当然生まれも育ちも下威区の俺やツムジには無縁の代物だったし、二つ名持ちと戦う場面なんぞ二回ぐらいしかなかったわけだが、竜の世界の二つ名持ちとなると、今まで戦ってきた相手が可愛く思えることだろう。
無名の暴閥と二つ名持ちがいる暴閥では、個人の戦力に天と地の差がある。それこそ、一人で災害を起こせるほどに。
そしてその二つ名文化が竜の世界にもあるのならば、その強さは。
「想像できないね。正真正銘、化け物だよ。これは」
俺もツムジも、苦笑いが止まらない。
余裕がないことが敵に露呈するから意図しない形で余裕のなさを見せるのは悪手なのに、身体が勝手に引き攣ってしまう。
蛇に睨まれた蛙は、のほほんとした顔をしているが、きっと内心は俺たちと同じ感情を抱いているんだろうなと現実逃避したくなるほどに、ゼヴルエーレとの力の差は歴然だった。
「気ハ済ンダカ、弱小種ドモ」
ツムジの出現、そしてガキどもの応援。予想外に予想外が連なり、意識を蚊帳の外に放り投げていたが、相手さんからの声もあり、ようやく意識を声の主へと戻す。
「へえ、暴力の権化ともあろうものが、私たち弱者に合わせてくれるたあ優しいねえ」
思わず目を丸くしながらツムジを凝視する。
突然この人は何をやらかしてくれているのだろう。生存確率を下げるつもりなのか。俺たちに敵を煽る余裕はないはずなんだが、勝ち筋がなさすぎて逆にやってしまっているのだろうか。なら分からなくもないのだが。
「笑止。残留思念如キ、我ニ仇成セルワケモナシ」
ゼヴルエーレは通常運転、ツムジの煽りには乗っからず強気な姿勢だ。
「確かに私はただの残留思念だよ。那由多が持ってるその短剣にへばりついた、ただの残りカスにすぎないね。でもな」
ツムジは横柄に傲慢に、指をさす。人語を話す竜相手にする態度なんかじゃないが、それでこそツムジだ。
彼女は相手が誰だろうと屈しない。たとえ流川の当主だろうと、大陸八暴閥の誰かだろうと、三大魔女だろうと、人ですらない化け物だろうと。
実力差なんて関係なく、ツムジは誰にも膝を折らない。それが、その生き様こそが、俺たちの生きる希望だったのだから。
「私ら弱者には数がある。たとえ個で勝てなくとも数で戦えるなら、希望はあるさ」
「馬鹿メ。雑魚ガ何匹集ロウト、ソノ先ニアルノハ淘汰ノミ」
ゼヴルエーレの前足が俺たちの目の前に迫る。凄まじい地響きで下半身がもげそうになるが、心の鞭で滅多打って全力で耐え忍ぶ。
俺もツムジも、ただ前足を目の前に落とされただけで脂汗が吹き出している。
怖い、恐ろしい。相手が象なら、俺たちはまさしく羽虫。でも、だからどうした。
「那由多、旋風を借りるぞ」
「おいおい素手かよ」
「いーや、お前は那由多だ」
「でも那由多は……」
「私たちが取り返す。うまく受け取れよ」
「ちょ、おい!」
俺の制止なんぞ聞かず、ツムジとガキたちは前へ突き進む。もはや眼前にまで迫った、ゼヴルエーレの懐へ。
背筋が凍る。選択を誤った。いや脳裏に掠めていたが、信じたくなくて、そうじゃないと信じたくて、すぐに目を逸らしたって表現が正しいか。
ツムジの性格を考えれば、分かり切ったことだったはずだ。これ以上、何も失わないために単身で擬巖へと乗り込み、そして犠牲になったツムジが、今からやろうとしていることなど。
「ツムジ……だめだ!! よせ、よしてくれ……!! 絶対……敵いっこねえ!!」
だがツムジは止まらない。俺から掠め取った旋風を片手に、果敢にもゼヴルエーレの懐へ潜り込む。蛮勇だなんて言わせねえ、誰がなんと言おうと、アイツの行動は。
「お前らも……よせ!! だめだ、行くな、行くんじゃねえ!!」
ガキどもも止まらない。ツムジに追従し、ゼヴルエーレへと向かっていく。戦い方も、力もないくせに、果敢にも。
「愚カナ。ナラバ、ソノ身ヲモッテ知ルガイイ。全テヲ蹂躙シ淘汰スル、圧倒的暴力ヲ」
ゼヴルエーレが前足の爪を霊力らしき赤黒い炎にして伸ばし、地面を目一杯叩く。立っていられないほどの地震とともに、白い霧が数十人一気に消し飛ぶ。
「やめろ……」
ゼヴルエーレは自身の長い尾で百八十度薙ぎ払う。また白い霧が数十人、消えた。
「やめてくれ……」
ゼヴルエーレは口から赤黒い炎を真下へ向かって吐き散らす。白い霧が苦しみもがきながら、何十人も燃え尽きては消えていく。
「やめろお……!!」
ゼヴルエーレが攻撃するたび、白い霧はかき消えていく。ある霧はブレスで容赦なく焼き尽くされ、ある霧は尻尾に叩きつけられ散り散りに、ある霧は爪で無惨にも切り裂かれてバラバラに。
こんなの、戦いじゃない。こんなの、ただの。
「やめろおおおおおおお!!」
「くるなァ!!」
吹き出す感情のままにツムジたちの下へ駆け寄ろうとした足が、ツムジの怒号で思わず止まる。
クソが、こんなときに躾けられていた影響が出るなんて。
「お前が来たら、コイツらの努力が無駄になる。お前は、コイツらを犬死にさせてぇのかァ!!」
分かっている、そんなことは。ツムジが嘘をついた意味。アイツらがツムジに追従した理由。そんなの全部、分かってる。でも。
「ぐぞがぁ……じゃあなんだよ、俺ぁ……こんな見るに堪えねー地獄を黙って見てろってのかよォ!!」
膝が折れた。俺はツムジほど強くない。ただツムジを真似ているにすぎない。
今だって俺はガキだ。ツムジからすれば少し年老いただけのガキにすぎない。だから真似た、ツムジを。唯一の姉貴で、家長で、理想だったツムジを。
「受け取れ!!」
俺の前に一本の剣が地面に突き刺さる。
ぼやけた視界の中で微かに見える、半透明の刀身。俺の相棒の一振り、那由多。俺と同じ名を冠するそれは、切り裂くもの全ての時間を操作する。一瞬とはいえ当主殿の時を止めた実績は、きっと俺の中で一生の誉れにするだろう。でも、今は。
「那由多、よく聞け」
ガキたちがツムジの盾となり消えていく中、ツムジの声が鼓膜を貫く。ツムジの声以外の全ての音が消え去るほどに、全ての集中力が聴覚へ集約される。
「逃げろ。その剣を持って、新しい地へ行け。お前を必要としてる奴は、世界のどこかにきっといる」
「……いねーよ、誰も。ツムジも、みんなも、ただの一人も」
「そんなことはない。確かに私たちは死んだが、まだ生きている奴を救えばいい」
「だからいねーよ! 救ったってどうせ死ぬ! みんなみんな死ぬんだ! どれだけ足掻いたって、どれだけ守ったって、手の平から全部こぼれ落ちる! もう嫌だよ、死に様を眺めるしかねーなんてよ……」
鼓舞されてなお、背中を押されてなお、折れた膝は応えない。
そう、みんな死ぬ。理不尽な暴力、なすすべない疫病、絶え間ない飢え、痛みよりも辛い渇き。
命からがら救ったガキどもは、みんな死んでいった。死ぬ直前はいつだって虫の息。気がつけば眠るように死んでいく。
怖くて怖くて堪らなかった。明日になったら、家族の誰かが死ぬ。朝になって身体を揺らせば冷たくて。
俺は何回家族の死に様を見送ればいい。死ぬまでか。勘弁してくれ。頭がおかしくなりそうだ。いっそのことおかしくなった方がマシかもしれない。そうなったら、もう痛い思いをしなくて済むから。
「甘ったれんじゃねえ!!」
再び、怒号。暗黒の沈みかけた意識が乱雑に掬い上げられ、放り投げられる。
「お前が救わねえで誰が救う!! 死にかけてる奴はごまんといる、動ける奴が動かねえで、誰が手を差し伸べる!!」
言葉の鞭が、頗る痛い。
できるなら俺だって助けたい。死にかけてる奴に手を差し伸べて、生きろって言って助け合いたい。
でもみんなみんな、最期が惨めだと思うと。
「私のエゴだろうさ、押しつけでもある。だがな、お前にはもっとデカくなって欲しいんだよ。私が成し遂げられなかったことを、成し遂げて欲しいんだよ」
ツムジが成し遂げられなかったこと。みんなが笑い合える世界を作る。それならさっきゼヴルエーレにも当主殿にも執事殿にも、全員に否定された。なんなら嘲笑われた。
弱肉強食。その絶対的ルールの前には無力なんだって、耳が腫れあがるほど言い聞かされた。
ツムジを含め、守るものも何もない今の俺に、その理想を成し遂げる意味なんてあるのか。また失うかもしれないのに。
「無茶なこと言ってるのも分かってる。でも今更だろ? この世界を``生きる``ってことはよ。だから、命を捨てんな。身体を丸めて蹲んな。泥を啜り蛆を喰らってでも、このクソッタレの世界を生きろ。そんで……」
刺々しかった声音は、いつもの優しさを取り戻していく。俺は顔を上げた。
果敢に立ち向かい、そして消えていくガキたちを盾にゼヴルエーレの攻撃を凌ぐ姿は、中位暴閥どもの理不尽な暴力に立ち向かった、誰よりも頼り甲斐のあるツムジそのものだった。
「私の……いや私たち``家族``の、最後の希望になってくれ」
ツムジは突っ込む。もはや盾になってくれるガキたちは全て消え失せ、自身を守ってくれる奴は誰もいない。一撃でも当たれば、ガキたちと同じ末路を辿ることになる。
それでもきっと、ツムジは退かない。ツムジは逃げない。いつでもどんなときでも、生きるため。その想いだけで如何なる戦いからも逃げてきた、俺と違って。
「食らいなクソ竜!! アンタみたいな化け物は、飼い主の下へ帰るんだよ!!」
「モハヤ魂スラ消エタ残リカス風情ガ、我ニ抗エルト思ウテカ?」
「抗う? 違うね、アンタはあるべき場所へ帰るのさ。飼い主の体の中に作った、自分の巣にね!」
刹那、暴風が吹き荒れる。その暴風は竜巻へと姿を変え、ゼヴルエーレの四方を取り囲むように陣取る。
これは、どこかで見覚えがある。確か、俺とツムジが命懸けで戦った怪物―――今だと``狂騒のジャバウォック``とか呼ばれているはずのソイツにブチこんでやった、必殺の一撃。
暴風の鎖が対象を縛り、閉じ込める。ツムジが旋風を装備して初めて使える最後の切り札。
「コレハ……魔法、デハナイ? コノ武器固有ノ、事象操作……!?」
ゼヴルエーレが、初めて目を見開いた。全ては己の手の平の内。そう嘲笑ってきた相手が初めて見せた、驚愕の表情。
「これは、あらゆるものの動きを止める旋風。アンタはもう、私の旋風に囚われた」
四方を取り囲む竜巻はゼヴルエーレを飲み込み、巨大な一本の竜巻へ変貌する。
そうだ、この竜巻に囚われたものは、どんな化け物も動けなくなる。かつてツムジは自身の相棒、旋風を犠牲にして下威区スラムを破滅に追いやった怪物``狂騒のジャバウォック``を封印した。
その封印はツムジが死んだことで解かれてしまったが、俺やツムジが二人がかりで戦ってて手も足も出なかった化け物を、確実に封じることができたのだから、その効果は絶大だ。
「化け物は、あるべき場所へ帰るんだよ!!」
トドメと言わんばかりに、旋風を竜巻へ突き立てた。
``狂騒のジャバウォック``のときも、巨大な竜巻に旋風を突き立てて、暴風で造られた棺に閉じ込めていた。今回だって同じ。巨大な竜巻がゼヴルエーレを捉えていたその瞬間から、趨勢は決していたわけだ。
やっぱりツムジは、俺なんかよりよっぽど強い。
「コノ上ナク、愚カ。アマリニモ、稚拙」
「ぐぅ!?」
竜巻を掻き分けて、巨大な前足がツムジを鷲掴んだ。
竜巻の向こう側から光る二つの紅い光。その光は血のように紅く、そして禍々しく、前足と比べれば羽虫ぐらいの大きさしかないツムジを、道端に踏まれかかっている蛆でも見下すかのように睥睨する。
「己ノ武器モ碌ニ扱エヌトハ、身ノ丈ニ合ワヌモノハ使ウベキデハナイゾ、小娘」
「な、にを……!」
「ソノ武器……特位装備ニ分類サレルソレハ、生キトシ生ケル者ノ手ニ渡ッタトキ、ソノ者ト魂デ結バレル。ソレデ初メテ、ソノ真価ヲ発揮スルコトガデキルヨウニナル代物ナノダ」
「でも、これは私の……」
「元ハ、ソウナノダロウナア……ダガ今ノオ前ハタダノ残留思念ニスギヌ。魂ガ現世ヨリ消失シタ今ノオ前ガ、ソノ武器ノ真ナル主トシテ認メラレルコトハナイ」
歯噛みする、ツムジ。せっかく立ち上がれた膝が再び折れそうになる、俺。
そんな仕様、知るかよと言いたかったが、実際にゼヴルエーレは竜巻に囚われながらも意に介していないのだから、ハッタリじゃないのだろう。奥歯を噛み砕きそうになる。
どうしてだよ、旋風。どうして、今になって。
「ソシテ、モウ一ツ」
やめろ、いやだ、聞きたくない。そう心の中で叫ぶが、俺の人生はいつだって非情だ。
ゼヴルエーレがそのデカい翼を目一杯広げ、ツムジが作り上げた竜巻をいとも容易く振り解いた。
まるで、そんなものは塵芥。そう罵らんばかりに。
「超能力ヲ使エルノハ、オ前ダケデハナイ」
ゼヴルエーレの頭上に巨大な魔法陣が描かれた。それは俺が見てきたどんなクソ野郎の欲望に眩んだ目よりも、ずっとずっと禍々しい。
血を彷彿とさせる紅が俺とツムジを眩く照らし、視界が真っ赤に染め上げられる。残った左眼が鮮血の輝きに蝕まれ、悲鳴をあげた。
「全く理不尽だね……そんなに強いってのに、超能力まで使えるのかい……」
視界が潰れ、その表情は伺い知れないが、ツムジの辟易した声音がただでさえおかしくなりそうな頭を強く揺さぶる。
「超能力ト呼バレルモノハ、元ヨリ我ラ竜族ガ起源。使エヌ道理ナドアルモノカ」
ただでさえ化け物なのに、反則の力である超能力まで扱える。
ツムジが辟易するのも無理はない。むしろ絶望しないだけ、ずっと強かな方だ。
どうして世界は、絶望的なまでに不平等なのか。俺たち弱者には大した力もなければ人として扱われることすらないのに、ゼヴルエーレは竜として数多の存在から恐れられる化け物で、更には超能力という反則まで扱える。
天は二物を与えない、なんて言葉は幻想だ。二物どころか三つでも四つでも与えるし、逆に生まれてすぐ死ねと言わんばかりに何も与えてくれなかったりしやがる。
ゼヴルエーレはこの世界を公平だと言っていたが、俺からしたらただただ不平等だ。
弱い奴は徹底的に救われず、強い奴が全てを手にする。俺たちの理想は、きっと強い奴らだけが享受できる娯楽でしかないのだろう。どうして世界は、みんな等しく笑い合うことを許してはくれないのだろうか。
「私は……ここまでみたいだね」
視界が魔法陣で真っ赤に染まり、ツムジの顔は依然として見れない。でもその声には辟易から諦観が滲み出た。
「馬鹿、諦めんな! ツムジは、俺たちの姉貴は、こんなところでくたばる奴じゃねーだろーが!」
無茶なのは分かっている。相手は竜だ、人間じゃあない。それに超能力まで使いやがる。そんな相手に諦めるなと叱咤するのは、あまりに残酷だろう。
でも、ここでツムジが諦めたら、俺は。消し飛ばされた、同胞たちは―――。
あまりに、無念すぎる。
「モハヤオ前ニ用ハナイ。消エテナクナレ」
頭上の魔法陣の輝きが、更に増す。左眼が両手をあげてシャッターを閉め、蝕む光を遮断する。そして。
「``破戒``」
音が、光が、その全てが、その瞬間に消え失せた。瞼を閉じて尚収まらなかった目の痛みも鳴り止み、俺はシャッターを開けようとした、その瞬間だった。
硝子が割れたような、耳に障る甲高い音が鼓膜を貫く。か細く目を開けると、空から光沢を輝かせる小片がキラキラと舞い落ちる。
なんだありゃ、と声を出す直前、何かが俺の目の前に落ちてきた。それは柄だ。
嫌でも見慣れている、見慣れてしまっている、短剣の柄。見間違えることなんてあり得ない、その柄には他の剣の柄にはついていないであろう飾り紐が、その存在を強く主張していたからだ。
再び膝が折れた。見渡しても、何度も周囲を見渡しても、自分とゼヴルエーレ以外見当たらない。意志だけとなった、ガキたちでさえ。
希望は、もはや存在しない。見るも無惨に容赦なく、理不尽な暴虐によって打ち砕かれたのだ。
「我ガ憎イカ? 小僧」
ゼヴルエーレが鼓膜を撫でる。その声音で、心の中が一瞬にして不快感に支配される。
どれだけ嫌いでも、どれだけクソ野郎でも、声をかけられただけで不快になることなんて、今までなかったのに。
「ナラバ、澄男ヲ殺シ我ヲ解放スルガイイ。今ノオ前ナラ、奴ヲ殺メルナド児戯ダロウ。我ヲ解放デキタナラ、改メテ相手ヲシテヤロウゾ」
一方的に傲慢に、ゼヴルエーレはそれだけ言い放ってどこかへと消え去った。黙れ、の一言でも言ってやりたかったが、色んな感情が激しく駆け巡っているせいで、言葉が紡げない。
悲しみ、怒り、憎しみ、殺意、恨み、虚しさ。下威区を生きてきて、どれも枯れ切ったと思っていたが、そうでもなかったらしい。
希望は消え失せた、あるのは暗黒の絶望のみ。そうだ、いつだってそう。世界なんて、俺の人生なんて、いつだって。
「んぬああああああああ!!」
クソッタレ世界。俺たちからいろんなものを奪っておきながら、まだ奪い足りないか。死者の意志すらも陥れ、尚も俺に死ねと、ツムジたちに二度死ねとお前は言うのか。
あんまりだ、クソッタレ、滅びてしまえ。
ツムジの言葉に従い、俺は生きてきた。生きてきて生きてきて、クソ踏んでクソ喰ってばかりの人生でも長生きしてりゃあいつかは一時の幸せぐらいはありつける。その証拠こそツムジとの出会いでありガキたちとの生活だったのだが、結局はその全てを失った。そして更には人の言葉を話す化け物に死者を辱められる始末。
これで長生きしてりゃあ少しは良いことがあるかって。
「んなもん、信じられっかああああ!!」
嗚呼。無理。もう無理。もう限界。理想も馬鹿にされて、家族を二度殺されて。
そんなに俺が憎いのか。そんなに俺に死んで欲しいのか。ツムジの遺志だけを頼りに、あらゆるプライドも全部全部捨ててきて、今日までを生きてきた、この俺に。
―――``ははは。荒れているようですね。私の受け答えに応じる気はありますか?``
幻聴か。もうなんだっていい。うるさい。もうたくさんだ。俺に話しかけるな。
―――``ふむ、そうでしょうとも。ではただの独り言だと思ってくださって構いません``
なら話すなよ。あんまりだ。どうして俺の周りはこんなのばかりなんだ。
―――``貴方は素直な方だ。絶望に支配されて尚、家族との約束を果たそうとしている``
そりゃあな、俺にはそれしかやることが残されていないからな。なあ、もういいから黙っててくんないかな。今は誰とも話したくないんだ。
―――``しかし……貴方、死ぬ気ですね?``
「……俺が?」
思わず、声の主へと振り向いた。
急に話しかけてきて、でも話したくなくて、ずっと無視していたそれ。いつから立っていたのか、俺の背後に佇む見慣れない黒執事は、片方しかレンズの入っていないヘンテコな眼鏡の位置を得意げに調整し、笑みを浮かべて俺を見下す。
その笑みは、とにかく不気味だった。
―――``かの竜王、ゼヴルエーレに挑み、死ぬ気ですね?``
「……家族を二度殺されたんだ。流石に、な」
―――``ははは。面白い、勝てぬ戦に身を投じるというのですね。それもまた一興でしょう。私には……味わいたくても、もはや味えぬ感覚ですからね``
「ああ、うん。で、今更だが、アンタ誰だ。もう化け物はゼヴルエーレで満腹だから帰ってくれないか」
―――``私が誰かは、瑣末なことです。重要なのは貴方、死地に赴く気概でありながら、しかし家族との約束も守りたいと葛藤する、貴方ですよ``
汚れ一つないがゆえに、光を一切通さないスーツが特徴的な黒執事は、尚も不気味な笑みを絶やさない。
暗い雰囲気、怪しげな人柄、着ている服。その全てが相まって、まるで闇そのものに話しかけているような感覚だ。
血生臭い夜よりもずっと暗い、腐った用水路よりもずっと冷たい。深くて大きい、暗黒の闇。
―――``どうです、私と契約しませんか。貴方が家族と交わしたその約束、この私が叶えて差し上げましょう``
「キッシ……馬鹿にすんなよ。言っちゃ悪いが、アンタ胡散臭さしかねーぜ」
―――``でしょうね。ですが……この契約は私にも利がある、と聞けば、 どうでしょう``
目をじっと見つめる。胡散臭さは変わらないし、闇そのものである黒執事の底なんて、暗い所を見慣れている俺ですら見通せない。でも分かることが一つある。
ただの直感だし、根拠もない。正直今の俺がどうかしているだけかもしれないが、コイツが嘘はついていないようには、どうしても思えない。
―――``私が求めることは一つ。ゼヴルエーレを彼の体内に留めていただきたいのです``
話を聞くとはまだ言ってないはずだが、まるで俺の内側を見抜かれているかのようだ。いや、きっと見抜いた上で話を進めたのだろう。
俺は相手を全く見通せないのにこの差はズルい気もしなくもないが、まあ、いつだってそんなもんである。
―――``かの竜王が現世に蘇るのは、私としても都合が悪いのです。
「つってもな、俺としちゃあ一矢報いるために蘇ってもらった方が好都合なんだが」
利がある。そう言われてはいそうですかと引き下がれるほど、今の俺はもう正気じゃない。
どうせ傷一つもつけられないのは分かりきっていることだし、命を無駄にする愚行なのも分かっている。それでも家族を二度、理不尽な暴力で殺されたところを見せつけられたんじゃ、頭だっておかしくなる。自棄にならなきゃ狂ってしまいそうになる。
どこからともなく現れた黒執事風の化け物には、俺の気持ちなんざこれっぽっちも分からないだろうが。
―――``おや。貴方が望む方は、生きておられるというのに?``
「俺が望む……もしや?」
黒執事は、不気味に笑う。吊り上がる口角は、不気味を通り越して悪辣を極めているとすら思える。
「そんな……いや、本当……なのか?」
ありえない。下威区を生きてきて、下威区と俺たちしか知らなかったアイツが、あの忌々しい壁を超え、生き長らえているなんて。
希望的観測だ、いつも通り現実に裏切られるに決まっている。俺とツムジしか知らなかったアイツが、戦う力もロクになかったアイツが、仲違いして以降消息が途絶え、中位暴閥に拉致られたってこと以外は分からないアイツが。
まだ、生きている。そんなことが、そんな奇跡が、ありえるっていうのか。
―――``貴方の願いは叶いますよ。契約に応じてさえいただければね``
黒執事の笑みは、尚も妖しげで悪辣だ。
アイツが生きているなどと言われ、尚更胡散臭いのだが、何故だろう。ただ誑かされているだけなのかもしれないし、今の俺がどうかしているだけなのかもしれない。いつもの俺なら、どう判断しただろう。不思議と嘘をついていないように思えたのだ。
「……本当に、俺の願いが叶うんだな? アンタの要求を呑みさえすれば」
黒執事は妖しげな笑みを絶やさぬまま、首をゆっくり縦に振る。
頷く仕草も妖しく、執事服の黒さも相まって、契約に応じるのに今更恐ろしさを感じるが、もうここまできたら、どっちに転んでも同じことだ。むしろ今までが逃げすぎた。
生き残るため、ただそれだけのためだけに、俺はあらゆる災禍から逃げ延びてきた。生き残ったのが俺だ、俺が生きなきゃ死んでいったガキどもやツムジがあまりに報われない。だから生きた、今の今までを生き残ってきたのだ。
でも、もし黒執事の言う通り、アイツが。死んだと思っていたアイツが本当に今もどこかで生きているのなら、逃げてばかりだった俺の人生にも、多少なりとも意味があるもんだったと、心の底から笑えるだろう。
「キッシシ」
黒執事の方は振り向く。黒執事の口角が更に吊り上がる。
俺の隅から隅まで、その全てを見透かしているような表情は尚も怖いが、返事をする手間が省けたと思えば、今日話した相手の誰よりもマシだと思えてくる。
―――``では手始めに``
俺の前に、柄と飾り紐だけになった旋風のなれの果てが、一人でに浮き上がる。
刀身は粉々に砕け、もはや使い物にならないはずの旋風、俺ならば土に埋めて軽く墓地を作り合掌するぐらいしかできることなんざないが、目の前に広がる光景は、俺の想像を絶していた。
「おいおい……」
旋風の刀身が復活した。何を言っているんだと俺も思うが、これは事実である。
硝子片の如く粉々に砕けたそれらは、一人でに集まり、一本の刀身を再び描く。それは時間が巻き戻されるかのような光景、那由多で切った物を時間操作したときと、同じだった。
―――``本来この武器は、双子剣と言われておりましてね。二つで一つなのですよ、今はこうして二つに分たれておりますがね``
黒執事の言葉は、尚もよく分からない。理屈で追おうにも、俺の理解力の埒外だからだが、黒執事の視線は、ある一点に集中していた。
俺の相棒、俺の半身。那由多だ。
―――``さて……次は貴方が約定を果たす番。契約が満たされたとき、貴方の望み、家族と交わした最期の約束、この私が必ず叶えて差し上げよう``
恭しく、一礼する黒執事。主人相手でもあるまいし律儀なことだが、生憎俺は頭を下げられるほど殊勝な人間じゃない。
けど、ここまでお膳立てされたなら、やり通すべきだ。この世界のどこかで生きている、アイツのためにも。
俺は那由多を掲げる。今だ妖しい笑みを絶やさない、不思議で不気味な黒執事に向かって。
―――``では、貴方を元の空間座標へお送りいたします。天災の竜王と貴方の輩が形成した精神世界は私が代わりに閉じておきますので、お気になさらず``
ちょま、と言おうとしたが、すぐに視界が暗転する。気がつくと、風景は元の状態に戻っていた。
黒執事もいなければ、当然ゼヴルエーレもいない。辺り一面穴ぼこだらけとなった元擬巖の当主だった部屋に、その中心で馬鹿間抜けにも伸びてやがる当主殿がいるだけだ。
適当な壁の破片を近くに寄せて、腰かける。
せっかく駄々っ子な当主殿が伸びているのだから、この間に全力逃走を決め込みたいところだが、今回ばかりは、そうはいかない。
家族を二度殺され、徹底的に辱められた。執事服を着こなす悪魔との契約にも応じた今、もはや逃げることは許されない。
当主殿に恨みはない。当主殿の時間を止めた瞬間から、俺が当主殿と戦う理由は失せている。
でもゼヴルエーレだけは。ツムジとガキどもを無惨に二度も殺しやがったあのクソ竜だけは、絶対に許さない。ゼヴルエーレから逃げてしまえば、ツムジもガキどもの尊厳は、誰が思ってくれるというのか。
「もう、俺しかいねーんだよ。アイツらを思ってやれるのは……」
ツムジと交わした最期の約束。無論、反故にするつもりはない。だからこその契約だ。絶対それも守り切ってみせる。
たとえ、ここで死神と手を取り合うことになろうとも―――。
「悪ぃな……すまねーが、会ってやれそーにねーや。でも、代わりにコイツらが行くからよ……それで、勘弁してくれねーか。なぁ……ブルー」
隻腕となった片腕で、二本の剣を強く握りしめる。
旋風と那由多。片時も身から離したことのない、俺とツムジの半身。コイツらは俺自身であり、ツムジ自身でもある。アイツなら、コイツらを大事に使ってくれるだろうか。腕、失ってなきゃいいが。俺みたいに。
暫時、流れる静寂。風通しが異様に良くなった室内で、吹き抜ける微風で火照る身体を冷やしつつ、阿呆にも寝こけてやがる当主殿が目覚めるのを待った。
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