無頼少年記 ~最強の戦闘民族の末裔、父親に植えつけられた神話のドラゴンをなんとかしたいので、冒険者ギルドに就職する~

ANGELUS

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抗争東支部編

東支部の悪夢

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 凪上なぎうえ雅和まさかず凪上なぎうえ家が今回の騒動に台頭していると知ったとき、真っ先に思い浮かんだ人物だった。正直、できるならば二度と思い出したくない人物である。

 何故なら彼は、``東支部の悪夢``を引き起こした張本人だからだ。

 ``東支部の悪夢``―――かつて東支部内で奴隷階級にあった女性請負人たちの間で、口にしてはならない過去の出来事。東支部解放戦争の末期に起こった、史上最悪の大事件。

 その最たる被害者とは、外ならぬ彼女―――エルシア・アルトノートだった。

 東支部が仙獄觀音せんごくかんのんによって解放されて一年が経った今でも、``東支部の悪夢``の記憶は脳に焼きついて離れる様子はない。頻度こそ減ったが、今でもあの頃の夢に魘されることがある。

 特に戦いの前夜ともなると、夢の鮮明度は飛躍的に上昇する。

「あぐぁ……!!」

 思わずベッドから飛び起きた。部屋の中は電気を消しているため真っ暗で、カーテンも閉め切っているから月光が入る隙間もない。全てを飲み込む常闇だけが、彼女を包み込んでいた。

 呼吸が荒い。脈動が激しい。思考が千々に乱れてしまっていたせいか、服が寝汗でびっちり張り付いている気持ち悪さが遅れて押し寄せてきた。いつもなら服を脱ぎ捨てるのだが、エルシアは身体を小刻みに震わせた。言い知れない猛烈な悪寒が、体中を駆け巡ったからだ。

「はぁ……はぁ……はぁ……!」

 過呼吸になっているせいで、逆に苦しい。千々に乱れる思考の中、こういうときのために頓服を棚にしまってあったことを思い出す。

 真っ暗闇の中、電気をつけることすら忘れ、ベッドから這い出て、棚の取っ手をしがみつくように掴む。そのとき、思わず目を丸くした。

「ひっ……!」

 自分の両手が、べったりと白い粘液で濡れているように見えた。それと同時に、生臭い匂いが鼻腔を不快に撫で回してくる。吐き気が臨界点を突破し、胃の中の物を思わず巻き散らかしてしまう。

 この匂いは今まで嗅いだ匂いの中で、最も忌み嫌っている匂いだ。もう二度と嗅ぎたくないと思い知らされた、その匂い。何故だ、と考える前に身体が動いていた。

 一心不乱に洗面所へ向かい、蛇口から水を最大出力で出して手を洗う。洗面所の周りが水飛沫で濡れようが全く気に留めず、手にこびりついたそれを洗い流そうと両手をとにかくこすりまくる。そしてまた嘔吐した。

 手を洗い続けること数十分、千々に乱れていた思考が鮮明に現実を捉え始めた。辺り一面水浸しになった洗面所、鏡に映った自分の顔を見つめるが、汚れ一つない。水で洗い流した手をタオルで拭き取り、その手を匂うが、今日身体を洗うときに使ったボディーソープの良い匂いしかしなかった。

 そこまでして、全身から力が抜けるようにその場でへたり込んだ。

「また……夢か……」

 最近まではあまり見ることがなくなっていたので油断していたのかもしれない。だがエルシアにとって、今日見た``夢``は何も初めてではなかった。かつて何度もうなされ、実際過去に同じ目にあっているのだ。

「``東支部の悪夢``……まだ苦しめ足りないというのか……」

 心の奥底に封印したはずの、忌々しい記憶。それは過去でも未来でも、おそらく一度きりしか味わうことのないと信じたい地獄だ。私利私欲を顔にべったりと張り付けた男たちが己を囲い、休む暇もなく回され続けた景色が、ただの悪夢だったならどれだけ幸運だっただろう。

 ``東支部の悪夢``は、東支部の歴史上最悪の出来事であり、一年経った今でもその話を口にすることすら憚られる闇の歴史。今は東支部に属する請負人の誰もが、その記憶を闇に葬って生きている。

 まだ闇に葬れるだけ、彼女らは幸運だと自分なら言える。何故なら、その悪夢の中心にいたのは他ならぬ自分と、そして今回の騒動の発端と言われている凪上なぎうえ家当主―――凪上なぎうえ雅和まさかずだからだ。

 凪上なぎうえ雅和まさかずは、かつて東支部を占領していた暴閥ぼうばつの当主の一人で、仙獄觀音せんごくかんのんが来るまでは彼を含む複数人の暴閥ぼうばつの当主が東支部の実権を握り、中威区なかのいく東部一帯の覇権を争っていた。

 仙獄觀音せんごくかんのんによって東支部が解放されて以後、凪上なぎうえ家を含む暴閥ぼうばつ勢力は大きく削がれ、東支部からは追放されたが、決して彼らは滅びたわけではなかった。

 曲がりなりにも戦闘民族、その当主である。誅殺される直前に兵隊を肉の壁として逃げることくらいはできたのだ。あのとき息の根を止められたなら、``東支部の悪夢``が今でも闇の歴史として扱われることはなかっただろう。

 今や、中威区なかのいく東部一帯に存在する暴閥ぼうばつたちの存在は東支部の請負人たちにとって恐怖の象徴なのだ。そしてその悪夢の中心にいた自分は、その恐怖を未だに克服できずにいた。

「あの男め……私たちからあらゆるものを奪っておきながら、まだ足らぬというのか……!」

 凪上なぎうえ雅和まさかずは、全てを奪い去った。人としての権利も、女としての尊厳も、なにもかも。あの悪夢から男を見ると恐怖心に駆られるようになり、人並の恋すらできぬ体になった恨みは、今でも消える気配はない。なにより、自分は既に傷物の身だ。

 本来なら愛する殿方に捧げるつもりだったそれを、もはや顔も名前も分からぬ者どもに食いつくされ弄ばれた。自分はもう、淑女でもなんでもない。薄汚れた娼婦と言ってもいい。

「くっ……!」

 醜く嗤う雅和まさかずの顔が思い浮かび、思わず近くにあったタオルを放り投げる。自分が無数の男たちに回されている間も、あの男は嗤っていた。自分以外の全てを見下すような表情で、自分を。そして回される自分を見て泣き叫び、目を逸らし、嘔吐する同胞たちを。

 凪上なぎうえ雅和まさかず。あの男は東支部の歴史上、最も罪深い男なのだ。

「許さない……! これ以上、奪われてなるものかぁ……!」

 ゆっくりと立ち上がり、ベッドへと戻る。落ち着きを取り戻したはずなのに、脈拍が激しくて胸が痛い。治まったはずの吐き気もぶり返してきた。明日は作戦結構日だ。とにかく英気を養わねば―――。

 ストレスからくる身体の異常と戦いながらも、エルシア・アルトノートは二時間かけてようやく眠りについた。
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