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「お試し」

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「けれど」

 と、柳常務は淡々と続ける。

「どうしようもなかった。10歳以上歳上の役員から迫られて、まだ若手の君が抵抗できるか? パワハラ、セクハラじゃないか。そう思って──いるうちに、君は婚約してると知って」

 常務は廊下で、なぜだか正座している。私も釣られて居住まいを正した。

「諦めようとして。──でもせめて、話をしたくて、……たまたま初めて行った立ち飲み屋で君を見かけて、有頂天になって通うようになって。君が人妻だと、分かっていたのに」

 私に会いに、きてたの? 常務?
 それも、有頂天になって?

「それでも、色々話ができて、幸せだった……と同時に、薄々勘付いていた。君はきっと──旦那さんと、上手くいっていないのだろうなと」

 私は目を見開く。
 そんな話、してた、っけ……?

「心配になりつつ、心のどこかで──上手くいかなければいいのに、とも。自分でも最低だと思う」

 常務は罪を告白するかのように眉根を寄せた。

「──っ、その、引いたか? 済まなかった。君の幸せを祈りつつ、君を幸せにするのが自分でないことが悔しくて苦しかったんだ」
「あ、いえ」

 常務はシュンとしている。年上の男性をシュンとさせているのが、なんだか気まずいような、くすぐったいような。

「だから──正直に言おう。君が離婚してくれて嬉しい。チャンスだと思った」
「……ええと」
「性格悪いだろう? 自分でもそう思う。それだけ拗らせているんだ、君への感情を」

 私はどう返事をしたら良いかわからない。

「モタモタしていたら、他の奴にまた持っていかれる。そんなことは耐えられない。どうか俺の生涯の伴侶になって欲しい」

 真剣な顔で、柳常務は訴えるように言う。
 言う、けれど──あの、でも、その。

「む、無理、です……」
「なぜ」
「もう、結婚とか、したくないです……」

 結婚したとたん、伸二は私への興味を失った。私は女じゃなくなって──。

(あ、違うか)

 元々「ブス」だったんだ。だってあの痴漢だってそう言ってた。……キツかった、な。

「そもそも……恋愛も嫌です」

 吐き出すように私は告げる。ああ、惨めだ。

「私みたいなブス、は」
「誰がブスなんだ」

 柳常務は怒ったような声で言う。

「世界一魅力的だぞ、君は」
「……まだ割と新婚なのに、女じゃなくなったとか言われちゃうんですよ?」
「どこが女性じゃないんだ」

 常務は「ぷんすか」みたいな表情をしてる。こんな時なのに妙に可愛くて笑いそうになる。

「君が俺のベッドで寝ていると思うと──気がおかしくなりそうだった」
「……ええと」
「……今のは忘れてくれ」

 こほん、と常務は咳払いをした。

「単刀直入に聞く。このことは決して、会社での立場にも出世にも影響しないと誓う。だから、正直に答えて欲しい。──俺が嫌いだろうか」
「え!?」

 私は目を瞠る。それからゆるゆる、と首を振った。そんな、──嫌いでは、ないけれど。

「決して俺に悪感情があるわけでは、……ない?」
「はぁ……あの。まぁ、そうですね」

 常務のことは好きか嫌いかと言われると、好きだ。恋愛感情を持ってはいないけれど。

「そして市原は"もう結婚したくない"んだな?」
「はい」

 したくありません、と頷く。

「それは、ご主人──失礼。元夫の男性が、君にふさわしい伴侶足りえなかったから?」
「どう、なんでしょうか……私がそうあれなかった、のかも」

 私に魅力があれば。
 良い奥さん、だったのならば。

「それなら問題ない。君は完璧だから」
「え、そんなことないですよ。料理そんなに上手でないですし、そもそも家事好きじゃないですし、それに……」

 セックスもきっと、つまらないんだろう。伸二だってイってはいたんだから、それなりに気持ちよくはなっていたんだろうけれど──と、さすがに口には出せなかった。
 眉を下げて常務を見つめる。ふさわしい伴侶とは、良き妻とは──何なんだろう?

「俺にとっては」

 常務は訥々と続ける。

「君が君であれば、それでいい」
「私が……私で?」

 常務はハッキリと頷いた。

「どうか、君が良いというまで死んでも手は出さないから──嫌なことは絶対にしない。仮でいい。俺と結婚してみてくれないか」
「……はい?」

 訝しむ私に、常務は言う。

「俺を試して欲しい。君の再婚禁止期間が過ぎるまでの100日間、俺が君の伴侶にふさわしいかどうか──お試しの、仮の結婚」

 常務の言葉に、私は耳を疑う。
 ええと、頭が回ってないですよ? え、これ常務だよね? 柳常務ですよね? 鬼とか呼ばれてる人ですよね?

「え、あの、いや……落ち着いてください常務。そもそも私が常務に相応しくないのでは」
「どこが?」
「どこ、と言われましても」

 首を傾げた。

「顔と身分……?」
「君は魅力的な女性だし、……身分? 役職のことを言っているにしても、俺はそんな大層な御身分ではない。そもそもこの国は法の下の平等が定められているのではなかったか」
「ええと」
「いつ憲法改正……いや改悪だな。そんな国民投票をした覚えはないぞ」
「はぁ」
「年齢差……に関してはどうしようもない。というか、今更だが俺が嫌なら拒否してくれていい。訴えてくれても構わない。自己保身は一切しない、家に連れ込んだことで拉致監禁容疑に問われようが、甘んじて刑罰を受ける」

 常務はまっすぐに私を見つめ続けていた。

「その覚悟で、俺は君に告白している」

 いやどこから出てくるんですかその覚悟……。
 私なんかに。
 ……私、なんかに。人生賭けなくたって。

「いえ、その……年齢差は気にしてないといいますか」

 11歳違う、のかな?
 ていうか、あれ、私。なに言っちゃってるんだろ? 気にしてないとか、気にするとか……そんな話だっけ、今?

「そう、か?」

 常務は嬉しそうに頬を緩め、それからまた私をまっすぐに見つめた。

「なら──どうか俺の願いを叶えて欲しい。じきに不惑40を迎えようというのに、一人の女性に感情を滅茶苦茶にされてる哀れな男の願いを、一度だけでいいから」

 そっと手を取られる。
 常務の懇願に──なぜだろう、ほんとうになんでなんだろう──私は小さく、頷いていたのでした。
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