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(謙一視点)

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 民法の規定上、女性は婚姻の解消後100日間を経過しなければ再婚できない。
 初日は加算されないので──目の前で完全にフリーズしている市原が再婚できるのは、今日から101日目となる。
 俺は丁寧にそれを説明する。どうかその期間が過ぎ次第、俺と結婚してくれと。

「──そういうわけだ」
「……は?」

 市原は完全に混乱している。
 同時に俺は頭が冷えてきた。

(……何をしているんだ、俺は)

 離婚したばかりの女性にプロポーズをする。まだ傷心の女性に──それもひとまわり近くも歳下の女性に、俺は何をしているんだ。

(けれど、もう後悔したくない)

 市原が結婚すると知ったときの衝撃。
 湧き上がる激情を抑えながら祝電を打った、彼女の結婚式の日。2年前の、穏やかな秋の初めだった。

「あ、あの」
「市原。初めて会ったときのことを覚えているか?」
「は、はい」

 市原は微妙な顔のまま、続ける。

「私が痴漢をどついたときですよね? どつき回してたときですよね?」
「別に市原は手を出してはいなかったが──まぁ、そうだ」

 三年前。
 まだ鮮烈に覚えている。
 今の会社に「会長の甥」という理由で役員待遇で迎え入れられた、その初日。
 送迎の車は用意してもらっていたもののから俺はその日地下鉄に乗っていた。
 そうして市原に出会う。
 たまたま満員電車で横にたっていた彼女は、銀色の手摺りを手が真っ白になるほどに握りしめていた。

(──?)

 唇を噛み締めて、目を伏せて……小さく、震えていた。体調でも悪いのだろうか、と思ってすぐに気がつく。視線を動かした先、やけに彼女に近い中年の男。
 男の手は、確かに彼女の下半身に触れていた。そうしてスカートをたくし上げよう、として。
 卑怯な行動にカッとして声を掛けようとした矢先──彼女は、市原は、男の手を掴み叫んだ。

『痴漢!』

 車内がざわつく。
 真っ青になった男は、手を振り解こうとしながら叫び返す。

『放せ、ブス! お前なんか触るかよ!』
『うるさい! ブスかどうかなんて関係ない!』

 堂々と言い返す彼女からは、先ほどの怯えは消えていた。一瞬見惚れて、すぐに口を開く。

『観念しろ、俺も見ていた』

 俺の言葉に、ギクリと痴漢は目線をうろつかせる。

『すみません、お嬢さん──気がつくのが、遅くなって』
『お嬢さん?』

 驚いたように市原は言って、それから笑った。
 痴漢男は脂汗を浮かべ、ぷるぷると震えている。そうして、市原の注意が少し逸れたとみるや、大きく手を振り払い、市原の肩を強く押そうとした。
 逃げよう、としたのだろう。
 とっさに男の腕を掴み、捻り上げた。

『い、痛い、離せ!』
『うるさい卑怯者』

 市原は、どこか呆けたように俺と痴漢を交互に見ていた。
 そのまま次の駅で駅員に痴漢を引き渡した。駅員室で警察を待つこととなり、パイプ椅子に並んで座る。

『すみません、巻き込んでしまって』
『とんでもありません──あ』

 名乗っていないのもバツが悪く、俺は名刺を渡す。慌てたように市原も名刺をだして交換して、お互い驚いた。

『同じ会社、でしたか……』
『……っ、柳、常務!? 気がつかず……っ、失礼しました!』

 市原は立ち上がり、ぺこりと頭を下げる。

『まだ名刺は大宮支社ですが──本日付で、本社営業部に配属となりました、市原麻衣です!』

 顔色を悪くし自己紹介する市原に、俺は首を振る。

『いや、知らなくて当然だろう──今日から勤務なんだ』

 そう笑って「柳と言います」と名前を伝えると、市原は更に顔を青くする。

『でしたら余計──っ、初日から遅刻、を』
『大丈夫だから。というか、市原もそうだろう──同じだな』

 あえて砕けた口調と、できるだけ柔らかな表情で伝えながら、思う。この年齢で本社営業に引き抜かれるなんて、彼女は相当な努力家なのだろうなと。

『いえっ、その、常務を巻き込んでしまい──!』
『巻き込まれに行ったんだ。というか、あんな犯罪行為は見逃せない』
『ですが!』

 半ばパニックになっている市原をなんとか落ち着かせて、警察からの聴取も終わり、痴漢は警察署に連行されて──。
 駅員室を出て、共にホームへ向かう。
 すでにラッシュ時は過ぎ、ホームは人通りも少なかった。

『……迷ったんです』
『なにを?』

 唐突な彼女の言葉に、首を傾げる。

『痴漢くらい、無視しようかなって──でも』

 市原は眉を下げて笑う。

『ああいうのって、繰り返すって言うし──私が捕まえなきゃ、次の被害者が出ると思って』
『……そうだったのか』
『常務がいてくださって、心強かったです。ありがとうございました』
『いや──』

 ほっ、としたその瞬間、市原は震えてしゃがみ込む。そのまま、立てなくなってしまった。

『市原さん!?』
『す、すみません常務、その』

 カタカタと指先まで震えて、涙ぐんで。
 そこでやっと気がつく。

(──怖かった、だろう)

 手が白くなるほどに手摺りを握りしめて、怖くて怯えて──けれど、勇気を振り絞って犯罪者を捕まえた。
 自分のためではなく、次に被害に遭うだろう誰かのために。
 俺は触れても良いか尋ねたあと、彼女をベンチに座らせ、ただ落ち着くまでそばにいた。
 それしかできない自分が、本当に情けなくて──彼女を守らなければならない、と不思議なほどの身勝手な決意が勝手に湧いてきて、どうしたらいいのか途方に暮れた。
 ただ、その時は自分の感情がよく分からなかった。
 その感情に気がついたのは、営業部にいる市原と時折会話を交わすようになってから。
 俺の常務取締役としての役割は、営業のトップとしての判断が主なもので──時折、会議などに参加する市原を見ていて気がついた。
 いつも凛として、背筋を伸ばして、一人の人間として立っている市原に……強くあろうとしている彼女に、俺は心底惚れ込んでいたのだった。
 頼って欲しいと。
 そばにいたいと──願ってしまった。
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