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 柳常務は特に慌てた様子もない。
 淡々と、リビングの──リビングも広ッ!──革張りの黒いソファ横を指差す。

「スマートフォンと鞄はベッドサイドに置いてある。キャリーケースはソファの横だ」
「いやあのその、すみません……?」

 大混乱しながら声をかけると、常務は少し驚いたような表情を浮かべる。

「あ、──いや、覚えてないのか?」
「はい……」

 常務は苦笑して、ソファを勧めてくれた。ついでにコーヒーまで!
 恐縮して身を縮める。上司の家でなにしてるの私……。

「適当なビジネスホテルにでも送ろう、と思ったのだが」
「はい」
「いやだいやだと駄々をこねられて」

 ひぃ、と息を飲む。
 常務に何をしでかしたの私!

「道端で大泣きされて、どうしたらいいか分からなくなってな。すまん。女性の扱いに長けてないんだ俺は」
「も、もももも申し訳ございません……!」

 女性の扱い云々じゃない!
 泥酔してるじゃん私……!

「……いや」

 常務はぽつりと言う。

「役得だった。かわいか……っ、」

 何かを言いかけて、やめる。

「? 常務」
「いや、なんでも」

 きりっとして、常務は続ける。

「天地神明に誓って指一本不埒な目的で触れていないし、……そこは信頼してもらうしかないのだが」
「いっ、いえ、十分信用できますっ」

 私は慌てて手を振った。
 だって、だって──ねぇ?

「私なんかに、常務が手出しなんて」

 知らず、苦笑が浮かぶ。

「昨日も言いましたけど──まだ新婚、って言ってもいいくらいなのに手を出されないどころか、女じゃなくなった、って浮気されて」

 膝の上で、手を握りしめた。

「──女性としての魅力なんて皆無なんです、私」

 伸二が私と結婚したのだって、もう腐れ縁だったからなのかもしれない。
 高校二年生から、何年一緒にいた?
 そんな親密な人間にすら裏切られる程度の、私という存在。

「市原!」

 常務が私のそばに跪いて──私の肩を両手で持つ。

「皆無だなんて──そんなことを言うな」
「じょ、常務?」
「俺がどれだけの忍耐力で、君を寝かせた寝室を出たと思う?」
「……へ?」
「市原は魅力的だ。人として、……その、女性として」
「あ、あの。ありがとう……ございます?」

 ん、と常務は頷いて、それから慌てて私の肩から手を離した。
 それからサッと顔を青くする。

「……あの、今の発言は決してヨコシマな……その、寝込みを襲おうとしたわけでは……」
「あっは、大丈夫です」

 小さく笑う。

「常務が励まそうとしてくださっただけなの、わかりますから」
「いや……違……」

 常務はこほん、と咳払いをした。

「あの、それから。肩も、済まない。セクハラだと思うなら告発してくれて構わない。家に連れ込んだことを含めて」
「えっ!? いやいやいや、そこはご迷惑かけたのは私の方で……!」

 常務はなんだか情けない顔をしている。思わず笑ってしまうと、やっと顰めた眉を解いてくれた。
 とりあえず、せっかくいただいたコーヒーを飲んで、寝室に(なんと申し訳ない!)戻り、スマホと鞄を回収してきた。
 廊下に出て、スマホを確認する。

「……あ」

 とんでもない数の着信履歴。全部、伸二だった。掛け直しはしない、と決めてトークアプリを開くと、……伸二からのメッセージ、未読98件。なかなかの数。えぐいぞ。
 とりあえずタップ。

【言われた通り、届け、出した】
【一度会いたい】
【お願いします】

 届け──出してくれた。
 土曜日なのに……と、区役所のサービスセンター、土曜日は開いてるんだっけか。

「あー……」

 力が抜けて、ずるずると廊下に座り込む。
 なんていうか、よくわからないグチャグチャな感情だけれど……一番大きい思いとしては「解放された」だった。

(もう、……いいんだ)

 悩まなくていいんだ。
 耐えなくていいんだ。
 女性として愛されないことへの苦しみも、両方の親からの「孫はまだ?」っていうプレッシャーにも、もう悩まなくていい。
 それがやたらと嬉しくて、私はぽろぽろと泣いた。

「市原?」

 リビングの扉が薄く開き、柳常務が低く声をかけてくる。
 私は慌てて涙を拭って、それから顔が笑みの形になるように努力した。

「っ、あの、……離婚、届け──出してもらえた、みたいで」

 柳常務は言葉に詰まる。
 何かを飲み込んだような顔をして、それから私の前にしゃがみこんだ。

「──そうか。大変、だったな」

 そうして、くしゃりと私の髪を撫でた。

「お疲れ」

 その言葉がやたらと胸にきて、私は常務に縋り付くようにして泣いてしまう。
 とても申し訳ないけれど、すぐそばに人肌の温かさがあったことに、ひどく安心したのだった。


 常務はぽんぽん、としばらく私の背中を撫でていてくれた。私が泣き止むまで。

「すみませ、ん」

 すんすん、とみっともなく鼻を鳴らしながらなんとか顔を上げる。両手で目を拭って、大きく息を吐いた。

「取り乱してしまって」
「──いや、仕方ないと思う。無理をするな」
「ありがとう、ございます」

 お礼を言うと、常務はやっぱり苦しそうな顔をする。だから、私は笑ってみせた。

「あの、違うんです。離婚が辛くて泣いてたとかじゃなくて──解放感のほうが、大きくて」
「解放感?」
「はい」

 すう、と息を吸って、さっき思ったことを伝える。伝えながら思った。

(そっか)

 やっと、ストンと納得する。

(そっか、私──結婚、辛かったんだ)

 伸二といるの、苦しかったんだ。
 もう、嫌だったんだ。
 浮気問題がなくても、辛くて耐えられなくなってきてたんだ。
 触れられないからじゃない。
 女としてみてもらえないからじゃない。
 それ以前に──もう、対等じゃなかった。

(すがりついてただけ)

 結婚して、もうこの人しかいないのだからって。高校から一緒にいて、この人しか知らないのだからって。
 恋愛感情なんて、……もう、私の方にも残ってなんかなかったんだ。

 もう、お互いに──愛なんてなかった。

 そんな話を、柳常務は黙ってジッと聴いてくれた。
 話終わって、はあ、と息を吐き出す。

「……聞いてくださって、ありがとうございました。もう、……大丈夫です」
「……そうか」

 柳常務は少し難しい顔をした。至近距離で見つめ合う。……見つめあって、しまう。

「……? 常務?」
「っ、いや、済まない」

 ばっと柳常務は私から離れた。耳朶が赤い。
 それをみて私は小さく笑った。なんかもう、いい人だよなぁ。

「ええと、市原……でいいんだよな?」
「へ?」

 変な反応をしてしまったあと、常務が何を言いたいのか分かって苦笑する。

「はい、市原です。彼には私の苗字にしてもらっていたので」

 一人っ子なんです私、と曖昧に笑った。
 常務とは独身時代からの付き合いだから、苗字が変わってないことを知っている。
 両親には今回のことは伝えてあった。電話でだけれど──謝られてしまって、逆に気まずかったり。

『ごめんなさい麻衣、あなたの事情も知らずに』

 孫をせっついたことを後悔してるみたいだった。さすがにセックスレスの話はしていないけれど……なんとなく察するものがあったのかもしれない。
 ……まぁ、こんなに早く離婚してるとは思わないだろうけれど。

「そうか。市原」
「なんですか?」
「こんなときに頭がおかしいと思われるかもしれないが、伝えたいことがある」
「はぁ」
「好きだ。結婚してくれないか」
「……は?」

 私はぽかん、と、少し離れたところで私に目線を合わせている柳常務の整った顔面を見つめる。

「……えーと?」
「101日後、俺と結婚してくれ」

 頭が働かない。
 脳が活動を停止しているみたいに。

「ずっと君が好きだった」
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