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プロローグ

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 もし私と同じ悩みを持つひとがいるのなら、尋ねてみたい。
 あなた達のセックスレスはいつから?
 私達は──結婚してすぐ、から。

 かちゃりと寝室のドアを開ける。横になっている夫はスマートフォンに夢中。

「ねぇ」
「んー?」
「あのさ、……しない?」
「無理。疲れてる」
「……はぁい」

 何気ない風を装って、傷ついてないフリをして、私は布団に潜り込む。
 セックスのお誘いを断られるたびに、私の「おんな」としての自尊心が少しずつ、でも確実に削られていっている気がする。

(あれも、ダメだったもんな──)

 何ヶ月か前。
 セクシーさが足りないのかな、って悩んで悩んで買った、ベビードール。
 鼻で笑われて終わった。

「いや、無理すんなよアラサー」

 乾いた笑みで、首を傾げるので精一杯、だった。高校二年生から付き合っていた同級生の私達は、結婚して2年。二人揃って28歳。
 そろそろ子供だって、欲しい。
 基礎体温的には、チャンスは今日明日──くらい。
 布団の中、私は泣きそうになるのをこらえる。

(大丈夫、大丈夫、愛されてる)

 セックスはなくたって、一緒に寝てる。
 同じ布団で、寝てるんだから。

(そう、大丈夫。愛されてる──はず)

 愛されてるんだよね?
 誕生日も忘れられてたけど。
 結婚記念日にも、残業だ、って帰ってこなかったけれど。
 最後にちゃんと顔見て会話したの、いつだか記憶にないけれど。
 ……名前を最後に呼ばれたの、いつだっけ?

 でも大丈夫。
 私たち結婚してるんだから、きっと大丈夫。

 そう自分に言い聞かせていたのがバカみたいだったな、ってボンヤリした思考のどこかで思ったのが、最後にセックスを断られてから十日後のことだった。
 発端は──リビングのローテーブルに置きっぱなしだったスマホ。
 私は押していた仕事が案外早くおわって、予定より早く帰宅した。
 そろそろ冬の風が吹き始めた、そんな頃。
 夫は……伸二は、お風呂に入ってるようだった。冷蔵庫からビールを取り出す。かしゅりとプルタブをあけて、ソファに座ってテレビをつけた。炭酸が喉へ落ちていく。

「ん」

 連続で、伸二のスマホが震えた。
 電話かな、と私は思ったのだ。見る気なんかなかった。本当に。でも、急ぎの、仕事の電話だったらお風呂まで知らせてあげなきゃって画面を覗き込んで──絶句、した。
 喉に真綿を詰め込まれたように、息が詰まる。

「……なに、これ」

 ロック画面に浮かぶ、トークアプリの新着通知。

"今日、お誕生日お祝いしてくれてありがとう、幸せだった"
"もう女じゃない奥さんのところなんかじゃなくて、泊まっていってくれても良かったのに"
"そしたらもう一回できたのに。あ、しんちゃんがあと一回で止められる訳ないか笑笑"
"性欲強すぎるんだもん。死んじゃうよ笑"
"ねえ、いつくらいに離婚できそう?"

 震えながら、ロックを解除する。
 自分が止められない。見てもきっと、いいことなんかないのに。

「暗証、番号……」

 伸二の誕生日だったはず、の、それ。
 エラー。開かない。

「……今日?」

 今日が「誕生日」の、誰か。
 今日の日付で、あっさりと開くスマートフォン。アプリをタップして、トークルームをスクロールして、後悔した。

「あ……」

 ほらね。
 自嘲的に思う。
 見なきゃ、良かった。
 デートっぽい、遊園地や温泉地。「出張」に行っていたはずの日付け。
 豪華なディナーの写真は、残業していたはずの、……結婚記念日。

"シンちゃんと奥さんの結婚記念日、リンといてくれる?"
"りょーかい笑笑"
"いいの?"
"リンのほうが大事"

 それから、……いわゆる「ハメ撮り」された写真に、動画……も。
 見たくない。
 見たくないのに、震える指が再生ボタンをタップした。どこか自傷行為に近い感覚だった。
 喘ぎ声に吐き気がする。

(……あ)

 しかも、気がついて──しまう。
 やたらとドアップで撮られた生々しい一枚に、私は。

「これ、ナマでしてる……?」

 私とは一度もそんなことしなかった。
 私は、……赤ちゃん、欲しかったのに。
 私が、奥さん、なのに。
 指先がつめたい。
 とさりとソファに身体を沈める。

「あー……」

 その時浮かんだ感情は、なんていうか、虚無だった。

「ふつーにエッチ、できてるんじゃん……」

 私、以外とは。
 相手が私じゃなければ、ガッツいて猿みたいにヤってんじゃん。

「女じゃない……か」

 伸二から見て、私はもう「女」じゃなくなってたのか。
 いつから? 結婚してすぐ? もしかしてその前から? 嘘でしょ?
 私は自分の格好を見下ろす。きっちりしたスーツ。隙のないシャツのボタンは、いちばんうえまで止まっている。
 ふらりと立ち上がる。
 玄関の姿見で、自分を見た。

「……化粧、ひど」

 残業してたから、っていうのもあるけれど……すっかり崩れた化粧。クマが隠せてない。髪もぱさついて、跳ねて。唇の色も悪い。

「繁忙期なんだもん」

 口紅が剥げた唇から、小さく言い訳がこぼれた。──言い訳? え、違くない?

「……落ち着け、落ち着くのよ麻衣」

 自分の名前を鼓舞するように呼ぶ。
 たしかに、私にはもう女性的魅力はなかったのかもしれない。
 だからと言って、生涯を誓った伴侶を裏切って良いということにはならないはず!

「よし、大丈夫、麻衣。あなたは強い」

 姿見の中に映る自分に、そう言い聞かせる。
 ぱちん、と両頬を叩く。
 うん、感情が戻ってきた。血が通う。思うことはただ一つ……ふざけんなクソ野郎、地獄で詫びろクソコックサッカー!

「私は強い。戦える」

 鏡の中の自分が、大きく頷いたような──そんな気が、した。
 左手薬指の銀色を外す。ゴミ箱に捨てた。あっという間にティッシュに埋もれた。
 泣きそうになってるのは、きっと気のせい。絶対、気のせいだ。
 唇を噛む。
 大丈夫、私は強いんだから。

 その日の夜、どうやって眠ったかはあまり記憶にない。
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