カタブツ検事のセフレになったと思ったら、溺愛されておりまして

にしのムラサキ

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1巻

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   一章(side莉子)


 サプライズはいけない。
 特に、遠距離恋愛におけるサプライズは最悪だ。


れん、何してるかなあ」

 私はお土産みやげはしを片手に、エレベーターの壁に背を預け、一か月前まで恋人と同棲していた東京二十三区の隅っこにあるマンションの鍵を取り出す。八つ橋は季節限定のいちご味だ。
 チラリとスマホを見てみれば、時刻はちょうど十六時。
 遠距離中の彼氏のところに、「やっほーサプライズで帰ってきたよ!」をして喜んでもらおうと、現在の住居たる京都からるんるん気分でやってきたところだった。

「会うの久しぶりだなー」

 寂しいけれど、毎日電話もしているし、連絡は欠かさない。付き合って四年目にしては、まあまあラブラブなほうだと思う。
 五階に着いて、懐かしい廊下を歩き出す。手の中で蓮と色違いのキーケースがちゃりっと音を立てた。ドアの前に立ち、軽く深呼吸してから鍵を開ける。勢いよくドアを開けて一歩踏み込み、「ただいまー!」と言う私の浮かれた声に返ってきたのは、人口甘味料みたいに甘ったるく上ずったあえぎ声だった。

「あっ、蓮くん、蓮、イく……っ」

 頭が真っ白になる。何これ、何が起きてるの?
 思わず靴箱に寄り掛かった。置いてあったはずの、ふたりでグアム旅行に行ったときに買ったガラス細工の写真立てが見当たらない。そんな小さなことに、私は聞こえ続けているあえぎ声よりショックを受けていた。

「なんで」

 こぼした声が嬌声きょうせいにかき消される。手から力が抜けて取り落としたかばんの音に、嬌声きょうせいが止む。
 足が震えていた。だって……だって、私、知っている。さっきまで聞こえていたあえぎ声のぬしを、知っている。
 慌てたような足音とともに、「莉子りこ!」とさっきまで大好きだった人の声がした。

「蓮……」
「あのっ、莉子、違う。違うんだ」

 現れた蓮が着ていたのは、慌てて羽織ったと思われるシャツ一枚。せめて下も穿いてほしい。それだけ慌てていたってことなのかもしれないけれど。
 狼狽ろうばいした様子で説明する恋人の背後から、「誰~?」というのんびりとした声がする。蓮のTシャツだけというしどけない格好で現れたのは、同僚で入社以来の親友だった。
 転勤が決まり『遠距離になるの心配なんだ』と相談した私に、ニコニコと『莉子と行橋ゆくはしくんなら大丈夫だよ』って言って、私の転勤を栄転だと喜んでくれていた友達。
 今日私が、サプライズでここに来ることを知っていた……親友。

香奈穂かなほ……どうして」
「あ、莉子。久しぶり~。一か月ぶり?」

 勝ち誇った顔だった。それを見ても、わななく唇は何も言葉を発してくれない。

「莉子」

 蓮の声に弾かれるように玄関のドアをばたんと力いっぱい閉めて、来た道を……来たばかりの道を通って駅まで戻って、さっき乗ったばかりの電車と新幹線を乗り継いで、京都まで戻った。
「戻った」と認識したのは改札を出てからのこと。夜空に浮かび上がる京都タワーが視界に入ってからだった。スマホには蓮からの着信がずらりと並んでいる。私は震える手で着信拒否した。香奈穂のも。
 関わりたくない。顔も見たくない。

「……最悪だよ」

 ぽつり、とつぶやいた声が、春の京都駅の雑踏に消えた。


 胸が苦しくて涙が出そうになったけど、泣いたら負けだなとか思っちゃって……よし飲もう、と京都で一番繁華はんかな飲み屋さん街まで行った、ところまでは覚えている。
 なんか揺れてる。

(あれれ?)

 頭がくらくらして、痛い。

(何これ?)

 視界の隅に、飲み屋さん街のあかりを反射してぼんやり光る満開の桜と、穏やかに流れる浅い川が見えた。
 さっきと同じ飲み屋さん街にいることは間違いない。
 ただ、知らない男の人に、半ば抱えられるように歩いていた。揺れていると感じたのは、そのせいだったらしい。

「……あれ、え?」
「あ、起きちゃった~」

 見上げると、茶髪の「明らかにチャラいです」って感じの男の人が私を覗き込んでニタニタと笑っていた。同い年くらいだから二十代半ばとか、それくらいだと思う。

「今ねえ、莉子ちゃんさ、オレと飲みなおそ~って言ってたとこだよ」

 やけに猫なで声で彼はそう言う。

「は、え、そう……なんですか?」

 酔いすぎてて、まったく記憶がない。どうしよう、こんな展開、生まれて初めてだ。

「あのう、誰ですか?」
「えーっ、忘れちゃったの?」

 その人はぎらぎらした瞳で私を見ながら言う。背中に怖気おぞけが走って、ようやく危機感が湧いてきた。かなりまずい気がする、この状況!

「オレの家で飲みなおそう、って言ってたのに」
「え……!」

 私のバカ!
 慌ててその人から距離を取ろうとする。……けど、足がもつれていうことを聞かない。ひゅ、と喉から声がした。本当に何してるの、私!
 けれど、この時点で意識が戻ったのは不幸中の幸いだ。……なんとか逃げなきゃ!

「あの、すみません私、帰らないと」

 その人の手を振り払おうとするけれど、まだ身体がうまく動かない。

「あー、やばそだね? 大丈夫、オレんち近いから」
「……や……、っ」

 大声を出したいのに、喉に、お腹に、うまく力が入らない。
 涙が浮かんできて、どうしたらいいか分からなくて、迂闊うかつな自分を責めても今更どうしようもなくて――

「莉子」

 ふと、低い声がした。
 誰かの腕の中に、奪われるように抱き留められて目をみはる。えっと?

「ここにいたのか。捜した」

 頭に「?」マークをつけながら、今私を抱き留めている人を見上げた。飲み屋さん街だというのに、仕立てのよさそうなスリーピーススーツをきっちりと着込んだ、背の高い男性だ。硬い胸板が背中に当たる割に細身で、整った顔立ちをしている。もちろん彼に見覚えはない。
 混乱して動けなくなっている私に、茶髪さんは「なんだ、連れいたんだ」と舌打ちをひとつ。

「期待させんなよ、クソビッチ」
「何がクソビッチだ、貴様」

 スーツの男の人は、少し怒りを含んだ声で言い返す。

「道で座り込んだ彼女を抱きかかえて歩き出すから、知人かと思って様子を見ていれば……彼女に何をするつもりだった!」
「しらねーよ、つうか酔っ払い放置するほうが悪いだろ!」

 捨て台詞ぜりふのように茶髪さんは言って、さっさと人混みに消えていく。

「……あの」

 そっと助けてくれた男性を見上げる。
 私が言葉を続ける前に、彼は怒りに満ちた目の色をさっと心配一色に変えた。そうしてじっと見つめられると、なぜか何も言えなくなる。

「何もされていないな?」
「……は、はい。ありがとうございました」

 お礼を言った私を見て、彼はその端整なかんばせに不思議そうな色を浮かべる。

「久しぶりだからって他人行儀すぎないか? 莉子」
「いや、その、ええっと」

 私の記憶リストに、彼みたいな眉目びもく秀麗しゅうれいな男性はいない。そもそも、なんで名前を知っているんだろう。

「しかしビックリした。莉子に似た人がいると思ったら本当に莉子で、得体の知れないやからに連れていかれそうになっていて……何があった?」

 彼は整った眉根を寄せ、私を見下ろす。ざあっと春風が吹いて、桜の花びらが目の前をかすめて飛んでいった。
 頭の奥がちりっとする。
 あ、お説教モードだよって、彼を知らないはずなのに――そう思ってしまった。

「……あのう」

 私は違和感と既視感でいっぱいになりながら、おそるおそる口にする。

「どちらさまでしょうか……」

 その人は、たっぷり数秒は絶句した。それから苦笑いして、「分からないか」と肩をすくめる。

「十七年ぶりだからな。……久しぶり。菅原すがわら莉子さん」

 私のフルネームを告げたあと、彼は軽く頬をゆるめた。
 十七年前って……? 十歳のときに会ったということ? 私は首を傾げる。

「小学校五年生で転校していった、宗像むなかたという少年については?」
「え? あ、おぼえて、る……きょーすけくん、宗像恭介きょうすけくん」

 ぽかん、と彼を見上げながら言うと、アルコールでふわんふわんの頭が、じわじわと現実を理解していく。

「うっそ! 恭介くん!? 久しぶり!」

 思わずスーツのジャケットを掴みながら叫ぶ。恭介くんは穏やかに、ほんの少しだけ唇をゆるめた。
 十歳だった男の子と、今目の前にいる二十七歳の男の人が、うまくリンクしない。
 しないけど、どうやら目の前にいるのは私の初恋の人、宗像恭介くんで間違いない――らしい。


「……という、わけでして。情けない限りでございます」

 何があったんだ、と心配しきりの彼とやってきたのは、近くのバーの個室だ。窓からは京都の街並みが眺められる……といっても、この街は景観規制があるせいで、そう高層ではないのだけれど。
 個室にしたのは、あまり人に聞かれたい話ではないからだった。
 遅い時間だというのに、恭介くんはこころよく話を聞いてくれた。そして、話を聞き終わると、彼はものすごく怖い顔をして「そんな最低な男のことは忘れろ」と低く言った。

「君にはもっと相応ふさわしい人が、……いるはずだ」
「なぜ言いよどんだの、恭介くん」

 さすがにノンアルのカクテルを注文したけれど、それでもまだ酔いが覚めてないこともあって私は強気に突っ込む。

「いなそう? もう私に彼氏はできなそうってこと!?」
「ち、違、そうではなくってだな」
「いーんです、いーんですよ、もー」

 私はふん、と鼻息荒くノンアルカクテルを喉に流し込む。

「もう当分恋愛とかはいいや! うん」

 私はこくこくとひとり頷き続けた。

「こうなったらもう、遊んでやるんだから」

 私は半ば八つ当たり気味に恭介くんに言い散らかす。恭介くんはその端整なかんばせに明らかに驚愕と狼狽ろうばいを浮かべている。

「あ、遊ぶ?」
「そう。だってね、恭介くん。私、真面目だったんだよ。その彼氏と付き合うまでね、……処女だったし」

 ぶふう、と恭介くんはビールを噴き出す。幸いほとんど口内になかったのか、口の周りがビールまみれになっただけで済んだ。

「大丈夫?」
「わ、悪い。しかし、こんなことを急に言う君サイドにも問題がありはしないか」
「ん、ごめんね。でも、でもね」

 じわ、と涙が浮かんでくる。
 恭介くんはハンカチでも探しているのか、ワタワタとスーツのポケットに手を入れる。結局見つからず、スーツの袖でそっと、本当にそおっと私の目元をぬぐってくれた。

「ふふ」

 つい目元をゆるめた私を、彼は不思議そうに見つめる。

「恭介くん、相変わらずだ」

 私は「ありがと」と笑って言いながら思い出す。小学生だった恭介くんも、優しくてまっすぐで、でも少し融通ゆうずうが利かなくて、……そんなとこも、好きで。

「変わんないなぁって」
「……君もな」
「そうかな。変わっちゃった。……処女じゃなくなった」
「っ、そこは大した問題では、ないのでは」

 なぐさめようとしてくれた言葉だとは分かっているけれど、私は首を横に振る。

「ダメなの。だって、私……結婚する人としかしないって、決めてたの」

 硬すぎる考えだったのかもしれない。でも、私にとっては……

「……そうなの、か」

 恭介くんはかすかに声を落とす。

「だから、彼とは、その、つもりで、覚悟で」

 そんなところが、もしかしたら蓮は重く感じていたのかも。だから浮気なんてされたのかも。
 ううん、浮気なんかじゃなかったんだろう。そうじゃなきゃふたりの思い出の品を片付けたりなんかしない。折を見てそのうち別れを告げるつもりだったんじゃないかな。
 泣き出した私を、おろおろと恭介くんは見つめる。

「ご、ごめん、すぐ泣き止むから……っ」
「莉子」

 袖じゃ足りないと判断したのか、恭介くんは私の横まで移動してきて、軽く、羽でも抱えるみたいに抱きしめてくれた。
 広い肩幅と厚い胸板。目の前にはくっきりとした喉仏。
 まだ頭のどこかに十歳の恭介くんがいるせいで、恭介くんがちゃんと男の人の身体をしてることに――むしろ割と筋肉質なことに少し驚く。
 恭介くんのにおいは、なんだか落ち着いた。

「莉子、……ハンカチ代わりにしていいから」
「ごめんね、こんなお高そうなスーツに涙と鼻水つけちゃって……っ、クリーニング代出すからね」

 そう言うと、恭介くんが少し笑う気配がした。

「気にしなくていい」
「ありがと……」

 ゆるゆると私の後頭部を撫でる、あの頃とは全然違う、大きな手。
 しばらくして泣き止んで、すうと離れる。恭介くんを見上げて笑ってみせると、彼は少しだけ読めない表情をして、それから向かいの席に戻った。

「ありがとう、ね」
「いや」

 ぶっきらぼうに恭介くんは答える。照れているのが分かって、ちょっぴり可愛いだなんて思ってしまう。私は小さく笑って、それから続けた。

「だからね、遊ぼうかなって思ってる。男の人と」
「……すまん、話が読めない」
「もう誰としても同じ。何人としても一緒」

 私の言葉に、恭介くんが表情を凍らせる。まるで自分が傷つけられたかのような表情だった。

「大丈夫……さっきみたいのはもうないようにする」

 安心させようと笑顔を見せる。私だって、無理やりされるのは嫌だ。

「でもね、それくらいはっちゃけちゃったほうがスッキリするような気がするの」

 恭介くんは相変わらず痛々しそうな表情を浮かべて、私を見つめ続ける。

「ごめんね。私さ、昔から思い切りが変な方向に行きがちだから……」
「知ってる。覚えてる。けど、それは」

 そこまで言って頭を抱えた恭介くんは、何かを考えてるみたいに黙り込む。

「あは、困るよねぇこんな話、急にされても」

 気にしないで、と言う私の顔を、ぱっと顔を上げた恭介くんがじっと見つめる。

「莉子は……今は恋愛する気がなくて、でもセックスはしたい?」
「……まぁ、端的に言うと、そう……なるのかな?」

 どうなんだろう。知らない人とセックスって?
 リアルに想像すると、正直したくないなあと思う。やっぱりそういうの、向いてないんだろうか。

「よく分かんない」

 乾いた苦笑を漏らすと、恭介くんは私を見つめたまま淡々と言い放った。

「じゃあ俺としよう」
「ん?」
「性行為を含んだ遊び」
「……はい!?」

 ぽかん、と恭介くんを見つめた。耳を疑う。今、彼、なんて言った?

「俺じゃ不足か?」

 そう言って彼は私の手を握った。大きな手のひらにドキッとしてしまう。
 思わず目を丸くする私の手の甲を、節くれ立った男の人の指先が撫でた。どこかいつくしむように。

「ええと。そ、そんなことはないっていうか、むしろ嬉しい……」

 変なことを口走ってしまうのは、混乱しすぎて訳が分からないからだ。
 それに、ふと思ったのだ。知らない人とはしたくない。
 でも恭介くんとならいい、って。
 どうしてそう考えてしまったのか思考をまとめる間もなく、恭介くんは生真面目な顔で、私の手を握る力を少し強くした。

「では決定だ。そうしよう。君と俺は今からそういう仲だ」
「……は、……うん」

 自分から「男遊びする」なんて言い出したくせに、いざとなるとちょっと怖気おじけづいてしまう――けれど、そのまま頷いた。それはやっぱり、私が「恭介くんになら抱かれてもいい」と思っているからだった。……違う、抱かれたいって。
 どうして?
 どうして私、恭介くんに触れられたいと思っているの? 自分で自分が分からない。私はさっき大好きな人に裏切られたばかりだったのに。

「あー……恭介くんの提案は、要はセフレってこと?」
「そうなるな」

 あくまで普通のトーンで返してくる恭介くんを見て、つい笑ってしまった。

「恭介くんがセフレ作るなんて想像できない」
「俺も莉子がセフレ作ろうとするなんて想像もしてなかった」

 そう言って恭介くんはかすかに笑った。男の人の笑い方だ。
 ふと目線をつながれた手に向けた。私よりずっと大きな、筋張った手の甲。節の高い指。
 あのときとは、全然違う。
 出会った頃――幼稚園のときは、毎日つないでいたけれど、小学校に上がって周りにからかわれてから止めたのだった。
 大人になって、またこうして握られることになるなんて――と、ふと違和感に襲われる。
 小学校のときも、つないでいたことがある。強く強く、お互いの手を握り合っていたことが。
 なんだっけ、なんだっけ……
 思い出そうと悶々もんもんとしてる私を、恭介くんは不思議そうに見る。

「どうした?」
「いや、ううん?」

 きゅっとつながれた手。いつのことだっけ? ふたりで手をつないで、そう、どこかへ向かってた。
 “どこでもないどこか”へ。


   ◇◇◇


 十歳の頃の私は無敵。だって周りより背が高かった。この時期に身体が大きいっていうのは、かなりのアドバンテージがある。
 大人になったらすっかりぴったり平均になっちゃったけど、小学五年生の私は、恭介くんよりずっと背が高かった。
 恭介くんは、カッコよくて足が速くて頭がよかったから、めちゃくちゃ人気があった。背が小さいのに、恭介くんは無敵だった。
 幼稚園から一緒で、仲良しな私たちは思春期に入り始めて少しだけ距離を置いたけれど、それでも仲良しな友達には違いなかった。
 私は、好きだったけれど。おそらくは、一方的に。
 そんな片方ベクトルな恋の相手、恭介くんが私の家にやってきたのは、小学五年生の、ある日の放課後のことだった。初夏で晴れているのに、梅雨つゆ入りだってまだ先のはずなのに、やけにジメジメしていたのを覚えている。

「莉子~、恭介くん来てるよ」

 そんなお母さんの声に玄関まで行くと、恭介くんがうつむきがちに立っていた。

「恭介くん、どうしたの?」
「莉子、俺」

 恭介くんはそのまま黙り込む。湿気を含んだ生ぬるい風が頬を撫でていく。
 子供ながらになんだか尋常じゃない雰囲気を感じて、黙ってじっと彼からの言葉を待つ。しばらくの沈黙のあと、恭介くんは思い切ったように口を開いた。

「俺……転校することになった」
「てん、こう」

 思わず復唱した。脳がうまく言葉を咀嚼そしゃくしてくれず、私はぽかんと突っ立ってしまう。
 ……転校!?

「ど、どこに?」
「仙台」
「遠いじゃんっ」

 私たちが育った街から仙台へ行ってしまうというのは、小学生だった私たちにとって海外に行くみたいな感覚だった。

「やだよ!」
「……俺だって」

 ざあ、と湿気を含んだ風がまた、吹いた。庭先の、少し気が早い青の紫陽花あじさいが揺れる。

「……莉子」
「……っ、なぁに」

 私はあふれる涙を手でぬぐう。パニックとショックで、涙が止まらない。

「莉子、一緒に……逃げてくれるか」

 恭介くんはとても真剣に、そう言った。私は呆然と、その言葉を聞いていた。
 続けて彼がしてくれた説明では、「別に本当に逃げ切る必要はない」らしい。

「俺が転校したくない、ってのが伝わればそれでいいんだ。俺と母さんは、この街に残る」
「ストライキってかんじ?」
「ちょっと違うけど……、そう」

 私はすぐに頷いた。

「行こう。今すぐ逃げよう。遠くまで」
「……いいのか? 俺が言い出しておいてなんだけれど、絶対怒られるぞ」
「いいよ、恭介くんが転校しないためなら、なんだってする!」

 一瞬虚を突かれた顔をしたあと、「ありがとう」って恭介くんは微笑んだ。

「……でも、いいの? お父さんと離れることになるんじゃ」
「いいんだ!」

 強い声で、恭介くんは叩きつけるように言った。私は思わずびくりと肩を揺らす。

「……ごめん。でも、いいんだ。本当に」
「う、ん」

 恭介くん、お父さんのこと大好きなはずなのに……いいのかな。
 恭介くんのお父さんは弁護士さん。「人を助けるために働いてるんだ」っていつも言っていた。
 かっこいいんだって。

「……ええと、いつにしよう?」
「今週末。土曜日でいいか」
「分かった~」


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