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危機
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その矢先、刺々しい声が鼓膜に刺さった。
「嫦娥っ」
「は、はいお義母様」
すぐさま返事をした。少しでも遅れれば、それは即、折檻に繋がったから。
「礼物ーー神に捧げる生贄の話なんだけれどね」
「はい」
居室に現れたお義母様に、しっかりと立ち上がり礼をしながら返事をする。
「赤麒に決めたよ」
「……え?」
呆然と、聞き返す。え? 赤麒?
「嫌な子だね。耳が遠くなったのかい」
「いいえ、いいえお義母様、あの、もう一度」
春祈祭で礼物として使われる生き物は、太牢と決まっている。
牛か羊か豚という意味で、大抵が羊。
たまに牛や豚のこともあるけど、馬なんて聞いたことがない。
(そもそも祀で使う動物ですらないはずなのに……!)
冷える手をぎゅっと握りしめながら、私は聞いた。
「もういちど、お願いいたします」
「母の言うことを聞き返すなんて、なんて愚鈍な娘だろう」
お義母様は眉を酷くひそめ、歌うように言った。
「背中をお出し、嫦娥」
私は身体を硬らせた。背中。それは、つまり。
がらりと閉められる扉。居室に、お義母様とふたりきり。
「さぁ」
冷たい目に気圧されるように、おずおずと羽織っていた上衣を脱ぎ、それから腰帯を緩め、短衣をはだけた。
「ああ汚い背中。こんなことでは、なかなか嫁に出せないねぇ。はやく鞭で打たれないように、なって」
びゅお、と鞭が空気を切る音。
「もらわないと!」
背中に熱い痛みが走る。私はぐっと唇を食いしばった。
「ああ、でもどっちにしろ良いところへ嫁へ行くのは無理かもねぇ」
嘲るような声。
「元々あるんだものね、この大きな背中の火傷は!」
私の背中には、小さい頃におった火傷の跡がある。見えないから、なんとも自分では思わないのだけれど、お義母様は事あるごとにこの火傷について触れてくる。
「なにをしていたんだろう、お前の母親は! 嫁入り前の娘にこんな傷を負わせるだなんて、母親失格だよ!」
思わずあげた顎に、お義母様は眉を潜める。
「なんだいその目は! ほんとうに憎らしい、あの女そっくりだよお前は!」
打ち下ろされる鞭。その度に湧き上がる、仄暗い感情。
(やっぱり、私は悪逆女帝になるのかもしれない)
心臓から黒く、じわじわと湧いてくる憎しみ。殺意。
かつて「前世」で、あの漫画に嵌まった私は裏話なども載っていた設定集を買っていた。
漫画ではサラリとしか触れられていなかった嫦娥の「非道」、そのうちのひとつが「家族の処刑」だったのだけれどーー設定集によるならば、それは嫦娥が継母らに酷く虐げられていたのが要因だったそうだ。
(結局、政略結婚として嫁に出されて)
まぁそれ自体は良くある話だ。
相手は皇帝直轄軍、禁軍の軍人、司馬磊。嫦娥は初めて幸せになったらしい。
けれどそれは長続きしなかった。
ある日ふとしたきっかけで皇帝に見染められた嫦娥は、皇帝の後宮に召し上げられることになった。
(そこで皇后までのし上がったのだから、我ながらすごいと思う)
私は痛みに耐えるために、あえてそんなことを考えて意識を逸らす。
(でもだからこそ、司馬将軍は、最期まで嫦娥を庇ったのね)
漫画で描かれたいた司馬磊は、忠義に厚い、実直な人だった。
悪逆女帝といえど、最期まで付き従って……彼女を庇って、死んだ。
設定集を読むまでは、それは間違った忠義だと思っていたけれど、……もしかしたら将軍は、ずっとかつての妻、嫦娥を気にかけていたのかもしれない。
「それで、春祈祭だけれど!」
何度も繰り返される痛み。脳幹が焦げ付くようだ。
「お前の駄馬を! 使うよ! まったく、あの駄馬はお前の言うことしか聞かない、厭なこと!」
うう、とうめく。
「文句はないね!」
びゅお、びゅお、という鞭の音と、楽しくてたまらないというお義母様の声だけが耳朶に残った。
「嫦娥っ」
「は、はいお義母様」
すぐさま返事をした。少しでも遅れれば、それは即、折檻に繋がったから。
「礼物ーー神に捧げる生贄の話なんだけれどね」
「はい」
居室に現れたお義母様に、しっかりと立ち上がり礼をしながら返事をする。
「赤麒に決めたよ」
「……え?」
呆然と、聞き返す。え? 赤麒?
「嫌な子だね。耳が遠くなったのかい」
「いいえ、いいえお義母様、あの、もう一度」
春祈祭で礼物として使われる生き物は、太牢と決まっている。
牛か羊か豚という意味で、大抵が羊。
たまに牛や豚のこともあるけど、馬なんて聞いたことがない。
(そもそも祀で使う動物ですらないはずなのに……!)
冷える手をぎゅっと握りしめながら、私は聞いた。
「もういちど、お願いいたします」
「母の言うことを聞き返すなんて、なんて愚鈍な娘だろう」
お義母様は眉を酷くひそめ、歌うように言った。
「背中をお出し、嫦娥」
私は身体を硬らせた。背中。それは、つまり。
がらりと閉められる扉。居室に、お義母様とふたりきり。
「さぁ」
冷たい目に気圧されるように、おずおずと羽織っていた上衣を脱ぎ、それから腰帯を緩め、短衣をはだけた。
「ああ汚い背中。こんなことでは、なかなか嫁に出せないねぇ。はやく鞭で打たれないように、なって」
びゅお、と鞭が空気を切る音。
「もらわないと!」
背中に熱い痛みが走る。私はぐっと唇を食いしばった。
「ああ、でもどっちにしろ良いところへ嫁へ行くのは無理かもねぇ」
嘲るような声。
「元々あるんだものね、この大きな背中の火傷は!」
私の背中には、小さい頃におった火傷の跡がある。見えないから、なんとも自分では思わないのだけれど、お義母様は事あるごとにこの火傷について触れてくる。
「なにをしていたんだろう、お前の母親は! 嫁入り前の娘にこんな傷を負わせるだなんて、母親失格だよ!」
思わずあげた顎に、お義母様は眉を潜める。
「なんだいその目は! ほんとうに憎らしい、あの女そっくりだよお前は!」
打ち下ろされる鞭。その度に湧き上がる、仄暗い感情。
(やっぱり、私は悪逆女帝になるのかもしれない)
心臓から黒く、じわじわと湧いてくる憎しみ。殺意。
かつて「前世」で、あの漫画に嵌まった私は裏話なども載っていた設定集を買っていた。
漫画ではサラリとしか触れられていなかった嫦娥の「非道」、そのうちのひとつが「家族の処刑」だったのだけれどーー設定集によるならば、それは嫦娥が継母らに酷く虐げられていたのが要因だったそうだ。
(結局、政略結婚として嫁に出されて)
まぁそれ自体は良くある話だ。
相手は皇帝直轄軍、禁軍の軍人、司馬磊。嫦娥は初めて幸せになったらしい。
けれどそれは長続きしなかった。
ある日ふとしたきっかけで皇帝に見染められた嫦娥は、皇帝の後宮に召し上げられることになった。
(そこで皇后までのし上がったのだから、我ながらすごいと思う)
私は痛みに耐えるために、あえてそんなことを考えて意識を逸らす。
(でもだからこそ、司馬将軍は、最期まで嫦娥を庇ったのね)
漫画で描かれたいた司馬磊は、忠義に厚い、実直な人だった。
悪逆女帝といえど、最期まで付き従って……彼女を庇って、死んだ。
設定集を読むまでは、それは間違った忠義だと思っていたけれど、……もしかしたら将軍は、ずっとかつての妻、嫦娥を気にかけていたのかもしれない。
「それで、春祈祭だけれど!」
何度も繰り返される痛み。脳幹が焦げ付くようだ。
「お前の駄馬を! 使うよ! まったく、あの駄馬はお前の言うことしか聞かない、厭なこと!」
うう、とうめく。
「文句はないね!」
びゅお、びゅお、という鞭の音と、楽しくてたまらないというお義母様の声だけが耳朶に残った。
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