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理由
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「不満そうな顔しやがって、このクソアマ」
おじさんがそう言って、また私の肩を押そうとしたとき──だった。
「ヒトの連れになんか用かオッサン」
低い声がして、おじさんの手が強く捻りあげられている。
ばっとそちらを見る──楢村くんが、おじさんを射殺しそうな目で見下ろしていた。
「な、楢村くん……」
安心してへにゃへにゃと力が抜けた。近くのカート置き場に寄り掛かって、は、と息を吐く。
楢村くんはおじさんの胸ぐらを掴み上げて、壁際に押し付ける。
「今何しよったんや」
「ぅ、くるしい、手ぇ離せや、なんもしとらんわボケ」
「しよったやろうが!」
楢村くんの剣幕に、私のほうがなぜだか怖くなって、つい泣き出す。
慌てたようにおじさんから手を離した楢村くんが、私の肩におそるおそる触れた。
「道重さん、ごめん」
「う、ううん、ごめ、なんか、ほんと、ごめん」
その隙におじさんがぱっとガラス戸の向こうに走り去ってしまう。
「コラ待てやボケ!」
楢村くんの剣幕に、私はまたびっくりしてしまって──そんな私に、楢村くんはまた「ごめん」と小さく呟いた。
「ごめんな」
そう言いながら、彼は私の手を取った。いつの間にか握り締め続けて白くなっていた私の手──それを、楢村くんがゆっくりと開く。
ぬくもりのある、大きな手──。
「う、ううん、ごめん、助けてくれたのに……」
「そうやなくて。ひとりにしてごめん、怖い思いさしてごめん」
楢村くんが真剣にそう言うから、私は余計に泣いてしまう。
そんな私の背中を、私が泣き止むまで──楢村くんは撫でていてくれた。
ようやく泣き止んだ私に、また楢村くんが謝る。
「ほんま、怖い思いさせて……」
「楢村くんのせいじゃなくない!?」
駐車しなおした車のなかで、すっかり落ち着いた私はぷんすかと唇を尖らせる。
「なんかパニックになっちゃってたけど──あ、だめだ今更腹立ってきた! おまわりさんに言いつける!」
そういきり立つ私の手を、きゅっと楢村くんが握った。
「!?」
「……まだ震えとったから」
楢村くんのおっきな手のひらに包まれてる私の手は……まだ小さく、震えていて。
「……気がつかなかった」
「いまはテンション上がってるだけや。怪我とかも、したときは気がつかんことあるやろ」
「そう、なの?」
「そういうもんや」
楢村くんの声を聞きながら──大きな安心感が私を包む。
(なんでだろ)
楢村くんに、手を握られてるだけなのに。
ほろりと零れた一粒の涙を、楢村くんがそっと拭ってくれた。
二回生の春に、私は大学の図書館で「黒猫」を見つけた。
なんとなく、借りて読む。
ホラーともミステリーともつかない、その内容──壁に生きたまま埋め込まれた黒猫──読み終わって本を閉じながら思う。
楢村くんはこういうのが好きなのかな?
結構怖かったんだけど!?
その後、私はなぜか──楢村くんの観察を続けた。
相変わらずの仏頂面で「溜まり場」のベンチで本を読んでいる彼を見つけては、タイトルをさりげなく覚えて──こっそりと同じ本を読んだ。江戸川乱歩、夢野久作、横溝正史、中井英夫。
(むり、こわい、むり)
そう思いながらも読み進めたのは──楢村くんが見ている世界を見たかったから。
イヤホンしていたら「なに聞いてるの?」って聞く。
彼が片方貸してくれたイヤホンから聞こえたのは、100年前くらいの、音楽の教科書に載っていそうな古いジャズ。
"Lover come back to me"──甘い声で歌われる、レコードが元音源のようなその歌。
「こういうの、好きなの?」
「……家に古いレコードが、結構あって。聞いてるうちに……やな」
「へぇ。他には何聴くの?」
……なんで私は、楢村くんの好きなものがこんなに気になるんだろう?
19歳の秋になるまで、私はそんな風に過ごしていた。
楢村くんをこっそり観察する。
同じ本を読む。
同じ音楽を聴く。
小説は面白くないしジャズにもちっともハマらないけれど、なんでか同じことを繰り返す。
その間に私は同じ学部の先輩に一度告白されて、ごめんなさいって謝って、謝りながら不思議に思う。
……なんでごめんなさいなんだろう。好きだって言ってくれているのに。
(──楢村くんが好き、なのかな)
すとんと腑に落ちた。
初恋に目を瞬く。
高校まで女子校で、色恋沙汰にまったく関わりがなかった私にとって、恋というものはとってもヴィヴィッドで甘くて、なにより苦いものだった。ついでにとっても不慣れで。
(だから──)
だから、あんなことになったんだろう。
私は楢村くんが好きだって自覚しても何もできなかった。
相変わらず小説を読んでジャズを聴いた。古びた紙の上では人が殺されたり鏡部屋の中ではしゃいだり忙しそうだし、イヤホンから聞こえる音楽はやっぱりあんまり良くわからない。
ただ、本は──好きになった。楢村くんとは随分趣味は違ったけれど!
楢村くんに対しては、なかなか素直になれなくて、むしろつっけんどんな態度を取るようになってしまっていた。
少し遅くなった日、送ってくれた彼に「頼んでないけどね!」なんて言っちゃったり……そのあと反省して、すぐに「送ってくれてありがとう」ってメッセージ送っちゃったり。
──小学生か!
と、思わないでもないけれど……楢村くんの態度は別に変わらなくて、表面的には何も変わらない日々が淡々と続いていっていた。
なのに、三回生になって、二十一歳の誕生日。
サークルのみんなが誕生パーティーを開いてくれて、お酒を飲んで。
帰りをいつものように、楢村くんが送ってくれて──お互い酔ってて。
「嫌やったら言って」
私を組み敷く楢村くんの、その低い声のトーンがあまりにもいつも通りで、やっぱり好きなのは私だけなんだと思って──一方通行で。
それが悲しくて悔しくて、でも好きな人に触れられているのが嬉しくて幸せで──感情が暴走して。
私は何も答えずに、楢村くんの背中に手を回した。
(バレバレだったんだよ、ね)
私は感情がすぐ、顔に出るから──
楢村くんが好きだって、とっくにバレてたんだと思う。
瀬奈、って私の名前を呼んだその時の楢村くんの声が──なぜだか何年経っても、忘れられない。
おじさんがそう言って、また私の肩を押そうとしたとき──だった。
「ヒトの連れになんか用かオッサン」
低い声がして、おじさんの手が強く捻りあげられている。
ばっとそちらを見る──楢村くんが、おじさんを射殺しそうな目で見下ろしていた。
「な、楢村くん……」
安心してへにゃへにゃと力が抜けた。近くのカート置き場に寄り掛かって、は、と息を吐く。
楢村くんはおじさんの胸ぐらを掴み上げて、壁際に押し付ける。
「今何しよったんや」
「ぅ、くるしい、手ぇ離せや、なんもしとらんわボケ」
「しよったやろうが!」
楢村くんの剣幕に、私のほうがなぜだか怖くなって、つい泣き出す。
慌てたようにおじさんから手を離した楢村くんが、私の肩におそるおそる触れた。
「道重さん、ごめん」
「う、ううん、ごめ、なんか、ほんと、ごめん」
その隙におじさんがぱっとガラス戸の向こうに走り去ってしまう。
「コラ待てやボケ!」
楢村くんの剣幕に、私はまたびっくりしてしまって──そんな私に、楢村くんはまた「ごめん」と小さく呟いた。
「ごめんな」
そう言いながら、彼は私の手を取った。いつの間にか握り締め続けて白くなっていた私の手──それを、楢村くんがゆっくりと開く。
ぬくもりのある、大きな手──。
「う、ううん、ごめん、助けてくれたのに……」
「そうやなくて。ひとりにしてごめん、怖い思いさしてごめん」
楢村くんが真剣にそう言うから、私は余計に泣いてしまう。
そんな私の背中を、私が泣き止むまで──楢村くんは撫でていてくれた。
ようやく泣き止んだ私に、また楢村くんが謝る。
「ほんま、怖い思いさせて……」
「楢村くんのせいじゃなくない!?」
駐車しなおした車のなかで、すっかり落ち着いた私はぷんすかと唇を尖らせる。
「なんかパニックになっちゃってたけど──あ、だめだ今更腹立ってきた! おまわりさんに言いつける!」
そういきり立つ私の手を、きゅっと楢村くんが握った。
「!?」
「……まだ震えとったから」
楢村くんのおっきな手のひらに包まれてる私の手は……まだ小さく、震えていて。
「……気がつかなかった」
「いまはテンション上がってるだけや。怪我とかも、したときは気がつかんことあるやろ」
「そう、なの?」
「そういうもんや」
楢村くんの声を聞きながら──大きな安心感が私を包む。
(なんでだろ)
楢村くんに、手を握られてるだけなのに。
ほろりと零れた一粒の涙を、楢村くんがそっと拭ってくれた。
二回生の春に、私は大学の図書館で「黒猫」を見つけた。
なんとなく、借りて読む。
ホラーともミステリーともつかない、その内容──壁に生きたまま埋め込まれた黒猫──読み終わって本を閉じながら思う。
楢村くんはこういうのが好きなのかな?
結構怖かったんだけど!?
その後、私はなぜか──楢村くんの観察を続けた。
相変わらずの仏頂面で「溜まり場」のベンチで本を読んでいる彼を見つけては、タイトルをさりげなく覚えて──こっそりと同じ本を読んだ。江戸川乱歩、夢野久作、横溝正史、中井英夫。
(むり、こわい、むり)
そう思いながらも読み進めたのは──楢村くんが見ている世界を見たかったから。
イヤホンしていたら「なに聞いてるの?」って聞く。
彼が片方貸してくれたイヤホンから聞こえたのは、100年前くらいの、音楽の教科書に載っていそうな古いジャズ。
"Lover come back to me"──甘い声で歌われる、レコードが元音源のようなその歌。
「こういうの、好きなの?」
「……家に古いレコードが、結構あって。聞いてるうちに……やな」
「へぇ。他には何聴くの?」
……なんで私は、楢村くんの好きなものがこんなに気になるんだろう?
19歳の秋になるまで、私はそんな風に過ごしていた。
楢村くんをこっそり観察する。
同じ本を読む。
同じ音楽を聴く。
小説は面白くないしジャズにもちっともハマらないけれど、なんでか同じことを繰り返す。
その間に私は同じ学部の先輩に一度告白されて、ごめんなさいって謝って、謝りながら不思議に思う。
……なんでごめんなさいなんだろう。好きだって言ってくれているのに。
(──楢村くんが好き、なのかな)
すとんと腑に落ちた。
初恋に目を瞬く。
高校まで女子校で、色恋沙汰にまったく関わりがなかった私にとって、恋というものはとってもヴィヴィッドで甘くて、なにより苦いものだった。ついでにとっても不慣れで。
(だから──)
だから、あんなことになったんだろう。
私は楢村くんが好きだって自覚しても何もできなかった。
相変わらず小説を読んでジャズを聴いた。古びた紙の上では人が殺されたり鏡部屋の中ではしゃいだり忙しそうだし、イヤホンから聞こえる音楽はやっぱりあんまり良くわからない。
ただ、本は──好きになった。楢村くんとは随分趣味は違ったけれど!
楢村くんに対しては、なかなか素直になれなくて、むしろつっけんどんな態度を取るようになってしまっていた。
少し遅くなった日、送ってくれた彼に「頼んでないけどね!」なんて言っちゃったり……そのあと反省して、すぐに「送ってくれてありがとう」ってメッセージ送っちゃったり。
──小学生か!
と、思わないでもないけれど……楢村くんの態度は別に変わらなくて、表面的には何も変わらない日々が淡々と続いていっていた。
なのに、三回生になって、二十一歳の誕生日。
サークルのみんなが誕生パーティーを開いてくれて、お酒を飲んで。
帰りをいつものように、楢村くんが送ってくれて──お互い酔ってて。
「嫌やったら言って」
私を組み敷く楢村くんの、その低い声のトーンがあまりにもいつも通りで、やっぱり好きなのは私だけなんだと思って──一方通行で。
それが悲しくて悔しくて、でも好きな人に触れられているのが嬉しくて幸せで──感情が暴走して。
私は何も答えずに、楢村くんの背中に手を回した。
(バレバレだったんだよ、ね)
私は感情がすぐ、顔に出るから──
楢村くんが好きだって、とっくにバレてたんだと思う。
瀬奈、って私の名前を呼んだその時の楢村くんの声が──なぜだか何年経っても、忘れられない。
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