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金木犀(桔平視点)

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 ハンズフリーにしてあるスマートフォンから漏れ聞こえる相手の声は、女性のようだった。

(フランス語?)

 単語程度しか知らないが、そもそも物凄く早口で捲し立てる彼女の言葉は、よほど堪能でないと聞き取れないだろうと推察された。
 台所で水をつぎ、居間に戻ると(申し訳ないが、通らないと寝室に戻れない)お姉さんはやたら甘い声でスマホに向かって告げる。

je t'aime愛してる

 そうして甘やかな雰囲気に包まれて、通話が切られた。
 俺に気がついたお姉さんは、肩をすくめる。

「パートナーに何も言わないで帰国したから」
「はぁ」
「ガチギレされたわ」
「まぁ」

 そりゃそうだろう、と思いながら──羨ましく思った。
 愛してる、とお互いに伝え合える、その関係が。
 俺はみっともなく……バレないように伝えるしかできないのに。バレそうになって、自分勝手な行動をとるような──みっともない男なのに。

「毎日」

 お姉さんは畳に座り込んだまま、俺を見上げて言った。

「伝えてる? 亜沙姫に。愛してるって、俺だけのお姫様だよって」
「……」
「いやアンタのじゃないけど」

 アタシのだけど、とお姉さんは目を眇めた。敵意がすごい。姉ってこんな感じなのか。……そういえば、美保さんのお姉さんも兄貴にこんな感じだったな。

「なにも」

 俺はつい、溢す。
 開いた窓から秋の風が入りこむ。
 それが、さわりと頬を撫でた。夜の金木犀のにおい。
 庭でコオロギが鳴く。
 月は出ていないようだった。

「伝えられて、ないです」
「いっくじーなしー」

 お姉さんは思いっきりバカにした顔をするけれど、その通りなので甘んじて受け入れる。

「返す言葉もありません」
「……そう素直になられると、調子狂うわね」

 座りなさい、とお姉さんはぱしぱし、と畳を叩く。正座して向かい合うと、お姉さんはスマホを弄る。

「お姫様が来たと思ったの」
「……?」
「ママが亜沙姫を産んで、退院してきた日。フリフリの可愛いおくるみに包まれて、亜沙姫が目の前にやってきたとき」

 お姉さんが見せてくれたのは、まだフニャフニャの赤子の亜沙姫さん。印刷された写真を、スマホで撮り直したものだろうと思うけれど……。

「もうこの子は一生かけてアタシが守り抜かなきゃって、そう思ったの」
「はい」

 こんなに可愛い妹ができたら、そう思うだろう。心から納得して頷く。

「あんたにとって、亜沙姫はなに?」
「……大切な人です。宝物です。……お姫様、です」

 こんなことを言って、亜沙姫さんに伝わってしまうだろうか?
 けれど、きっとお姉さんはわざわざそんなこと言わないだろう、と確信があった。

「ふーん」

 お姉さんは立ち上がる。
 俺を見下ろして、言った。

「泣かせたら連れて行く。傷つけたら二度と会わせない」
「……肝に銘じておきます」
「おやすみぃ」

 ひらひら、と手を振って、お姉さんは歩いて行く。
 小さく息を吐いて、目を閉じた。

「くらげ、か……」

 果たして亜沙姫さんはどこに行きたいのだろうか?
 りぃりぃ、と、金木犀の匂いに包まれた庭で、虫が鳴いていた。

 翌朝、お姉さんは大騒ぎしながらフランスへ帰っていった。

「おねぇちゃん、お父さんとお母さん、会わなくていいの!?」
「いーのいーの、来月また来るから」

 来月の顔合わせ、お姉さんも参加してくれるらしい。これは、……認めてくれたと思っていいのだろうか? 単にパートナーのひとに怒られたから戻るだけかもしれない。

(傷つけたら、連れて行く)

 胸にしっかりと、その言葉を刻んだ。
 俺はともすれば──亜沙姫さんを傷つけかねないから。
 秋の日差しに照らされながら飛んでいく飛行機を送って、その帰り道。
 車に乗り込んだ亜沙姫さんに、聞く。

「クラゲって」
「んー?」
「クラゲはどこに見に行きたいんですか」
「あ」

 亜沙姫さんはぱちん、と手を合わせた。

「夢じゃなかったんだ」
「夢?」
「半分寝てた」

 亜沙姫さんは助手席で、どこかフラットなトーンで続ける。

「なんで?」
「なにがですか」
「おねぇちゃんに言われたから?」

 赤信号で、ブレーキをゆっくりと踏む。
 一瞬だけ、車の中がシンとした。

「違います」
「じゃあなんで?」

 俺を見上げる目は、どこか俺を責めているようで──なぜか、胸が痛んだ。

「ゆっくりしたいなと」
「ん?」
「亜沙姫さんと」
「?」

 不可解です、という顔をしている亜沙姫さんに俺は続ける。
 秋の柔らかな太陽が、彼女の髪の毛をきらきらと彩った。

「仕事をしているときに、思うんです。どこか暖かいところで、亜沙姫さんと一日中ゴロゴロしていたいなと」
「一日中?」
「はい」
「あー……なるほど」

 亜沙姫さんはどこか納得したように頷く。ちゃんと伝わっているかは不明だ。
 信号が変わって、アクセルを踏む。

「クラゲがいるのはね、あったかいところだよ」
「暖かくなくてもいいんですよ」

 あなたが行きたいところなら、どこだって。
 南極──にクラゲがいるかは不明だけれど、例え南極だって北極だって、亜沙姫さんが行きたいなら行く。泳ぎたいというのなら、──刺されようと泳ぐ。

「パラオ。淡水に住むクラゲで、毒針を持っていないやつがいるんだ」

 亜沙姫さんが言うのは、太平洋に浮かぶ島国。確かに暖かい国だ。

「へぇ」

 刺される心配はないらしい。

「それと泳ぎたい」
「行きましょう」

 即答してチラリと横を見ると、亜沙姫さんがふんわり笑った。
 亜沙姫さんが笑うと、俺は花が咲いた瞬間を目撃したような気分になる。
 正面に目線を戻しながら、俺はやっぱりどうしようもなく亜沙姫さんが好きなんだな、と再確認。

「そのほかは、一日中ゴロゴロしてようね」
「? 別に観光しても」
「いいのいいの、クラゲとゴロゴロしに行こう」

 ほんの少し開けた窓。どこからか金木犀の香りが入り込んできた。
 秋の日差しの匂いだ。

「たのしみだね」

 亜沙姫さんの嬉しそうな声が、俺の心臓を震わせる。
 世界一愛しい「お姫様」が隣で笑っていてくれることが、心臓が壊れそうなほどに、幸せだった。
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