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トラウマ(桔平視点)

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 おいで、と手招きされる。
 野良猫にするみたいに。ふらりと近づく。
 横に座った。並んで、空を見上げる。
 蚊取り線香のかおりが、ふんわりと舞う。

「ほら」

 亜沙姫さんが指さした。

「たくさん見えるね、ここ」
「……きれいです」

 流れていく星が、まるでさっきまでとは違うものに見えた。
 亜沙姫さんの手を握る。
 亜沙姫さんは、何も言わない。

「……、もう寝ているかと」
「うん、眠いんだけれど」

 亜沙姫さんが目を細めた。

「けど──鮫川くんと、見たいと思ったの」

 眼鏡の奥、その表情はよく見えない。
 けれど愛おしくて、そっと触れるだけのキスをする。
 亜沙姫さんは不思議そうな顔をして、俺を見つめる。だから、もう一度キスをした。
 きょとんと俺を見つめ続ける彼女の、丸い銀縁眼鏡もとってしまう。
 さらさらと髪を撫でて、形の良い耳を撫でる。そのまま後頭部を支えるように、今度は深くキスをした。

「ん、ん……っ」

 亜沙姫さんの口の端から、甘い声が零れた。
 お互いに不慣れで、歯もぶつかるし息のタイミングも分からない。
 それでも亜沙姫さんが愛おしくて、もう食べてしまいたいくらいに可愛くて、貪るようにキスをする。
 小さな舌を誘い出して、吸い付いて甘噛みして。
 亜沙姫さんが俺のシャツを強く握る。

「ふ、ぁっ、ふぅ、っ」

 亜沙姫さんの、甘い喘ぎと荒い呼吸。
 俺の息だって荒い。
 ただお互い、求めて貪り合って──。
 すう、と離れる。つぅ、と銀の糸が俺たちを繋いで。
 俺を見上げる亜沙姫さんの顔が、薄暗い中でも上気しているのが分かる。
 そっと頬を撫でた。

「……かわいい」

 思わず零れた心からの本音に、亜沙姫さんは首を傾げた。

「可愛い?」
「……はい」

 今更言葉は取り消せない。素直に頷くと、亜沙姫さんは妙な顔をした。

「うそー」
「本当です」

 むっとして言い返す。

「可愛い。あなたは本当に可愛いです」

 亜沙姫さんはマジマジと俺を見上げる。信じられないものを見るみたいに。
 よく見えないのか、いまいち目線は合わない。けれど、ひどく懐疑的なんだろうことは伝わってくる。

「メガネザルみたいなのに?」
「メガネザル?」

 メガネザルは、たしかに可愛いと思うけれど……小さなサルだ。亜沙姫さんいわく、最小のものになると100グラム程度。
 亜沙姫さんは苦笑いして、首を振った。

「なんでもない」
「……教えてください」

 隠し事のようにされたのが、なんだかやたらと気にかかった。
 じっと見つめていると、……根負けしたように、亜沙姫さんは理由を教えてくれた。
 中学二年生の頃に、彼女に起きた「とてもイヤな出来事」について。

「でもねえ、そのおかげで今があると思えば」

 穏やかに、彼女は笑う。
 どこか寂しそうに。

(……それで、か)

 いま、亜沙姫さんが「これキツいんだよね」とこぼしつつ、スポーツブラジャー(というのか、すこし違うらしいけれど)そういった形状のものを使っていたのは。押し込むというか、押しつぶすようにしていた胸部。
 疎いから、普通のものよりはラクなんだろうと、そう思い込んでいた。

「どうしたの?」

 黙っている俺に、ほんのすこし不安そうに亜沙姫さんは言った。

「……いえ、そのクソガキどうしばき回そうか考えていただけです」
「しばき!?」

 なんで関西弁!? と亜沙姫さんがひっそりと笑った。

「だいいち、クソガキじゃないよ、もう」
「……ですね」

 亜沙姫さんの先輩ということは、自分より年上だ。
 ふと、温かさを感じる。亜沙姫さんが俺に、……抱きついて、いた。

「……!?」

 混乱する。亜沙姫さんが、亜沙姫さんが自分から俺に抱きついてくれている。

「ありがと」

 亜沙姫さんは俺の胸に顔を埋めたまま、呟いた。

「怒って、くれて……」
「怒るに決まってます」
「ふふ、……うん」

 しばらく、そのまま抱き合っていた。
 昼間の暑さが嘘のように、すこしだけ涼しい、そんな夜だった。
 亜沙姫さんの匂いがする。
 もう風呂に入ったんだろう、シャンプーと、すこしだけの汗の匂い……が、どうにも。

「……疲れてないの?」
「いえ、疲れてます。疲れているとこうなることもあります」

 不可抗力をアピールする。どうしてこんな、なんだかちょっと良いシチュエーションで勃つんだ俺のは。
 まあ、さっきのキスでかなりキてはいたんだけれど。

「毎日毎日残業だもんね」
「宮仕えですから」
「今日、は。私が……してあげようか」

 亜沙姫さんがぱっと身体を離す。それから、両脇から自身の胸を持ち上げる。

「これで」
「……?」

 思考がついていかない。

「挟んで」
「亜沙姫さん」

 声が硬くなる。
 嫌だと思ったはずだ。中学のときに、あんな……言われ方を、して。
 もうほとんど、トラウマのように亜沙姫さん自身を縛り付けている、かつての出来事。

「鮫川くんなら、いいよ」

 亜沙姫さんはほんのすこし、はにかんだ。

「旦那さん、だし」
「……」

 その場で押し倒さなかっただけ、まだ俺は理性的だ。
 額にキスをして、彼女を抱き上げた。
 至近距離に顔がくる。なぜだか急に、亜沙姫さんは赤面する。

「? どうしました」
「……顔が見えてなかったから、言えたの……」

 両手で顔を覆う。
 可愛すぎか。なんでこんなに可愛いんだ?
 疲れているはずなのに、無茶苦茶に彼女を抱き潰したくて、堪らなくなった。
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