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【高校編】分岐・鹿王院樹

「綺麗だ」

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 背中に怖気が走って、私は立ち上がった。嫌な予感しかしないし、ていうか、当たってるだろうと思う。

(警察官のくせに)

 一体何を考えてるんだ!
 私はどうにか助けが呼べないか、そっと部屋を見回す。どうやら窓には柵があって、逃げられはしないけど(そもそも四階だ)でも、叫べばなんとか!
 隙を見て窓の方まで走る。その腕をぐっとひかれて、後ろ向きに腕に閉じ込められた。口元に手を当てられる。
 じっとりして、肉厚な、汗ばんだ手のひらーー。

(気持ち悪い!)

 生理的嫌悪で、反射的に涙ぐむ。喉まできた悲鳴は、恐怖でかき消された。

「や、だ、離して」

 白井が口から手を離しても、弱々しい声しか出ない。

「煽ってるのかなー?」

 白井は嬉しそうに言った。スチール製の机に、後ろ向きのまま上半身を押し付けられる。

「可愛いなぁ」
「お、ねがい、やだ」

 ぽろぽろと溢れる涙を、白井はその汗ばんだ手で拭って、私の涙をぺろりと舐めた。

「美味しいね」

 白井は目を細めた。
 吐き気がした。恐怖で頭がぐらぐらする。腰を押さえつける手が、汚らわしくて仕方ない。ひ、と喉の奥から声が出た。

「どうしよう、もう、オレ、ほら」

 ぐ、と制服のスカートの布越しに太ももに押し付けられた「ソレ」。私は「やめて!」と叫ぶ。汚い、汚い、汚い!

「やめて! 他のことならなんでもするから」

 だから。
 プライドなんかどうでも良かった。
 樹くんのことしか、浮かばなかった。
 もし、私がこのままこの男に辱められて、そうなれば、樹くんは。

(私のこと、どう思う?)

 汚いと、そう、思うだろうか。

「やだよー」

 白井の口元に、白い泡が付いていた。荒い息が首筋にかかる、気持ち悪くて、怖くて、泣きながらただ首を振る。離して。

「そんな風に抵抗されたって、煽られてるとしか思えない」

 にたあ、と白井は笑った。
 それと前後して、があん、と鉄製の扉が壁に叩きつけられる音がした。
 その音が鼓膜を震わせている間に、白井は少し離れた壁に「ぶへえ」って汚い声と共に飛んでった。
 文字通り、飛んでった。
 呆然と、へなへなと身体から力が抜けてほこりだらけの床にしゃがみこむ。
 目の前には靴があった。やたらと大きなサイズの、ハイカットのスニーカー。
 ゆるゆると視線を上げた。ぽろりと涙がこぼれた。
 求めてたひとが、そこにいた。

「……樹くん」
「誰の。」

 はっきりと区切るように、樹くんは発音した。

「誰の、許婚に、手を出したか」

 低い、低い声だった。

「生まれたことを後悔させてやる」

 白井は一瞬、ぽかんとした後、やおら右肩を左手で押さえて立ち上がり、「そうか」とブツブツと呟き始めた。

「そうか、そうか、きさまら、騙したんだな」
「何の話をしている」
「オレだけではなくて、あの子も」

 ゆらゆらと、白井は揺れた。

「許せない」

 白井は勢いよく、樹くんに全身で突っ込む。

「樹くんっ」

 私が悲鳴を上げるのと、樹くんの回し蹴りが白井の頬を直撃したのは、ほとんど同時だった。
 白井はぐわん、と上半身をそらして倒れ込む。その白井の腕を締め上げたのは、仁だった。

「どいてください相良さん」
「殺す気かボケ」

 気持ちはわかるけど、と仁が力を込めると、白井は潰れたカエルのような声を上げてうめいた。

(……樹くん、仁から格闘技ちょっと習ってたんだっけ)

 働かない頭で、そんなことを思い返す。
 樹くんは、じっと仁を見てはっきりと言う。

「構いません」
「構うわ。つか、そうなったらどーすんのお前、ヨーロッパのクラブからスカウト来てんだろ将来棒に振る気か」
「知るか」

 完全に座った目で腕を振り上げる樹くんに、なんとかしがみつく。

「……華」
「やめて、樹くん、やめて」

 スカウトって、初めて知った。プロの話だよね!?

「お願い、やめて」

 樹くんはやがて手を下ろして、ほんの少し震えるように息を吐いた。
 それから、ぎゅうっと私を抱きしめる。

「済まない、華、済まない、遅くなって」

 声が涙に滲む。

「怖い目に合わせて、嫌な思いをさせて」
「……樹くんのせいじゃ」

 樹くんは答えず、ぎゅうぎゅうと私を抱きしめつづけた。

 そこからは大騒ぎだった。
 ここの署長さんだとかいう人の部屋に通されて土下座されて、弁護士さんが、というよりは弁護団が押し掛けて上を下への大騒ぎ、仕事の件で帰国してて都内にいた敦子さんはものすごい形相で署長を怒鳴りつけ、……でも結局、白井は桜澤青花のことを一言も、漏らさなかった。

「以前から可愛いと思っていて、なんとか自分のものにしようとした」

 これが白井の供述のすべて。
 ちなみにあの逮捕状は偽造だったらしくて、それもまた大問題らしくて、署長さんは今にも首を吊りそうな顔をしていた。
 ……その間も、ずっと私は樹くんの腕の中にいた。樹くんは何があっても私を離そうとしなくて、ちょっと落ち着いてトイレに行きたくなっても離そうとしてくれなくて、ちょっと困った。

「シャワー浴びたい、歯を磨きたい」

 落ち着いてきて、まず浮かんだのはその感情だった。

(汚い)

 触られたところが。すべてが。洗い流したい。
 大騒ぎしてる大人を置いて、私と樹くんは運転手さんに迎えにきてもらって、鹿王院家に帰る。

「大丈夫か?」
「うん、ちょっと」

 あそこホコリっぽかったから、と言い訳してお風呂場に入る。
 熱いシャワーを出して、頭からかぶった。ボディーソープを泡立てるけれど、洗った気がしない。

「……汚い」

 ぽつり、と私は言った。

「汚い汚い汚い汚い」

 汚らわしい。あの男が。あの男にふれられた、私が。
 ゴシゴシとボディータオルを肌に擦り付ける。赤くなる。ひりひりといたむけれど、まだ汚いって感情から逃れられない。
 顔を伝うのは、シャワーなのか、涙なのか、……この涙が、どんな感情で出ているのかも分からない。もしかしたら肌が痛いからかもしれない。腕から血が滲んだ。

「汚い、汚いよ」

 布越しにとはいえ、あの男のを当てられた太ももも洗う。肌ごとすり下ろしたい。全部剥がしたい!
 蹲み込んで、必死でタオルを動かしているとがっと腕をつかまれた。

「華」

 服のまま、シャワーでべしょべしょに濡れながら、樹くんが言った。
 声は、震えていた。

「華」
「樹くん」

 私は見上げる。

「汚いの、汚れがとれないの」
「綺麗だ」
「ちがうの、汚いの」

 私は首を振る。

「汚いの」
「綺麗だ、華は」

 樹くんはただ、何度もそう繰り返す。その頬を流れるのは、シャワーの水流? それとも泣いているの?

「華はいつだって綺麗だ」

 そのまま抱きしめられる。私はただされるがまま、シャワーの音を聞いていた。
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