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【高校編】分岐・鍋島真
真珠(side???)
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エコーの、白黒のモニターに映し出されたよく分からない映像の、ちいさな白い丸を指差して、先生は淡々と言った。
「はいこれ、赤ちゃんの入ってる袋ね」
わたしはそれをジッと見つめた。なんだか、それがキラリと光ったような、そんな気持ちになる。
(真珠みたい)
そう思った。
「じゃあ、次は2週間後でいいでしょう。心臓の音が聞けると思います」
わたしは頷いた。心臓。心臓。こんなに小さいのに、この子の心臓はもう動いている。
診察台を降りて、お腹に手を当てた。
「真珠みたいだったから、真の字を使おう」
誰にってわけじゃなくて、わたしはそう小さく呟いた。
お腹の中の、このちいさな命の名前を、わたしはその日に決めた。
少し年上のその人に出会ったのは学生の時で、友達の紹介だった。
不思議な魅力のある人で、わたしは何をされても、言われても、抗えなかった。だからこそ、わたしは妊娠したのだろう。
その人は「赤ちゃんできました」のひとことに、なんの反応も示さなかった。
(好きにしていいってことかな)
結婚なんて夢のまた夢だってことは知ってた。この人はそういう家柄のひとで、わたしは単なる愛人なんだって。
わたしはそう思って、色んなことをひとりで進めた。
母子手帳をもらいに行って、母親の欄にだけ名前を書いた。
ひどい悪阻に、ひとりで耐えた。
安定期を迎えた頃、市のマタニティクラスに、ひとりで参加した。
初妊婦だけを集めたその講座は、市の施設の会議室で行われた。長机に座って、妊娠中の栄養のことや、産後の赤ちゃんのお風呂の入れ方なんかを助産師さんから聞く。
「いいねぇ、旦那さんも一緒のひと」
隣に座ってた女の人が言った。
「ウチの人はダメ。いまだに何の自覚もないんだもの」
笑うその人の薬指には、きらりと光る銀の指輪。
「あ、あなたもう外してるのね。えらいな」
さっき、入院や帝王切開に備えて早めに指輪は外しておいてください、とアナウンスがあったばかりだった。
わたしは曖昧に微笑んだ。
(そんなもの、もらったことない)
結婚指輪どころか、なにひとつ。花の一輪さえ。
マタニティクラスが終わって、わたしは駅のベンチでぼうっと座っていた。やたらと夫婦が目につく。
「……いいな」
絞り出すように言った。自分が、ひどく、惨めだった。
目が熱くなる。涙が、こぼれた。
唇を噛み締めて、膝の上で手をぎゅうっと握りしめてーーその時、ぽこん! とお腹で赤ちゃんが動いた。ぐにょり、ぐにょり、ぽこん!
「……へ」
ぐにょり、ぐにょり、と赤ちゃんは動く。ぼくがいるじゃん、そう言われた気がして、わたしは泣きながら笑った。
「ありがとう、真」
優しくお腹を撫でた。おかあさん、早くあなたに会いたいよ。
予定日ぴったりに、五分おきに痛み出したお腹、真は思った以上にするりと生まれてきてくれた。
「元気な男の子ですよー!」
助産師さんに抱かれた真を見て、汗だくなわたしはやっと心から笑った。
(わたしにはこの子がいる)
なんて幸せなことだろう。夫はいなくとも、ーー父親なんかいなくたって、きっと立派に育ててみせる。
(……とはいえ、経済的にはあの人に頼りっぱなしなんだけれどね)
不相応なほどに、毎月口座にお金は振り込まれていた。金は払っているだろう? そんな風に思ってしまうよな、そんなお金を。
赤ちゃんとの生活は、想像以上に大変だった。真は味にうるさくて、ミルクならなんでもいいってわけじゃなくて、その上母乳じゃなきゃダメな時もあるし、逆にミルクじゃなきゃダメな時もあった。
時が経って離乳食になっても、真は好き嫌いがあったし、固形物を食べるようになっても、恐ろしいくらいに野菜は口にしなかった。
「あなたどうやって大きくなってるのよ」
2歳になった真と、わたしは穏やかな暮らしを送っていた。時折あの人はやってくるけれど、信じられないくらいに無関心だった。
そんなあの人が、ある日フラリとやってきて「それは本宅で育てる」と宣言した。
「え?」
わたしは膝の上で眠る真を抱きしめた。なんですって?
「結婚することになった。それは妻に育てさせる」
「……いや」
わたしは低い、低い声で言った。あの人は少し驚いた顔をした。
「ふざけないで。それくらいなら、わたし、この子と出て行きます」
「それは許さない」
淡々と、あの人は言った。
「もはや、俺にはそれしかいないのだから」
その言葉の意味は、いまだに分からない。けれど、わずかひと月の間に……結果的に、わたしは真を、奪われた。
誰もいなくなった部屋で、ボロボロになったわたしは真の服を抱きしめて泣いた。机の上には、あの人が「手切れ金」としておいていった通帳。
「いらない、いらない、いらない」
わたしは何度も首を振った。
「だから返して、真を、返して、かえして」
わたしの真。繋いだ手、まだ小さな手。少し大きくなった足、「おかあしゃん」とわたしを呼ぶあどけない声。
連れていかれる時、泣き叫ぶわたし達を、うるさそうにあの人は見た。冷たい目で、心底面倒臭いと思っている目だった。
それから、どう暮らしたものかーー気がつけば、勤め先の男性に結婚前提での付き合いを提案されていた。
「来てください」
わたしはその当時住んでいたアパートに、彼を連れていった。
そうして、部屋中に飾ってある真の写真を見せて、とってある服も、靴も、おもちゃも、すべて見せて、そして話した。
「どうか、別にふさわしい誰かを」
「……この子があなたの一番で、構わないから、」
彼は言った。
「どうか、僕との未来も考えてもらえませんか」
わたしは拍子抜けした。きっと引いてしまうだろうと思っていたのに。
不思議に思いながら、ほんの少し、真がいなくなってから初めて、わたしは笑った。
「あなた、変な人ですねぇ」
そんなことを、わたしは足だけをビニールプールにつけながらなぜか思い返していた。
「ママ、どうしたの?」
娘に尋ねられる。
「なんでも、……あ、こら、水鉄砲ヒトに向けない」
やんちゃ盛りの下の息子2人は、水鉄砲で打ち合っている。
(しあわせ、だ)
彼との間には、3人も子供を授かった。不思議なことに、真ほど安産じゃなくって、こっそりわたしは真は小顔だったから、なんて思ったりもしていた。
ふと目線をあげる。
生垣の向こうに、中学生くらいの男の子の背中が見えた。すっとした、姿勢のいい背中だった。
息を飲んだ。
「……真」
そう呟いたわたしを、娘が不思議そうに見る。
「ママ?」
「どうした?」
ちょうど、夫が家から出てきた。
わたしは立ち上がる。
「ママ行かなきゃ」
わたしは走り出す。
家族が不思議そうにわたしを呼び止めるけれど、わたしはとまれない。
(真、真、真)
わたしがあの子を見間違えるはずがない!
(なんで? 会いにきてくれたの)
会いたい、会いたい、会いたい! もう一度抱きしめたい、手を繋ぎたい、その顔を見せて!
(「おかあしゃん」)
頭の中で、ちいさな真がそうわたしを呼んだ。
息急き切って、駅前でわたしは視線を動かす。
(どこ、どこにーー)
駅のホームが見えるフェンス、そこにわたしはがしゃんと張り付くようにしがみついた。
「まことーっ」
叫ぶ。視線の先には、駅のホームには、真の姿があった。大きくなった。きっともう、わたしより大きい。
「まこと、まこと」
わたしの悲鳴のような声は、滑り込んできた電車でかき消された。
電車が去った後、そこにもう真の姿はなかった。わたしはへたりこむ。
そこでようやっとわたしは、足の裏が血まみれなことに気がついた。裸足で走ってきたから。
「……痛い」
足より、なにより。心臓が痛かった。ぽろぽろと涙がこぼれた。
「真」
わたしはそう、絞り出すように、その名前を呼んだ。
それから数年の後、わたしはあの人が逮捕されたことを知った。知った、というかーー大きなニュースになった。
ふと心配になる。真は大丈夫だろうか?
(きっと大学生だろう)
学費や生活費は、工面できるのだろうか?
わたしは、ふとあのお金を思い出す。手切れ金、として渡されたあのお金を。
(……いらない、と思っていたけれど、役に立つときがきたのかもね)
真に渡そう。あの子に使ってもらうのが、きっと一番いい。
知人に弁護士さんを紹介してもらって、その伝手で真に連絡を取ることができた。あの人がいなくなったから、案外とスムーズに会えることになって……わたしはどうしたらいいのか、よく分からない。
(「おかあしゃん」)
頭の中なかで、また小さな真がそうわたしを呼んでいた。
(きっともう……今更母親だなんて、思ってもらえないだろうけれど)
「はいこれ、赤ちゃんの入ってる袋ね」
わたしはそれをジッと見つめた。なんだか、それがキラリと光ったような、そんな気持ちになる。
(真珠みたい)
そう思った。
「じゃあ、次は2週間後でいいでしょう。心臓の音が聞けると思います」
わたしは頷いた。心臓。心臓。こんなに小さいのに、この子の心臓はもう動いている。
診察台を降りて、お腹に手を当てた。
「真珠みたいだったから、真の字を使おう」
誰にってわけじゃなくて、わたしはそう小さく呟いた。
お腹の中の、このちいさな命の名前を、わたしはその日に決めた。
少し年上のその人に出会ったのは学生の時で、友達の紹介だった。
不思議な魅力のある人で、わたしは何をされても、言われても、抗えなかった。だからこそ、わたしは妊娠したのだろう。
その人は「赤ちゃんできました」のひとことに、なんの反応も示さなかった。
(好きにしていいってことかな)
結婚なんて夢のまた夢だってことは知ってた。この人はそういう家柄のひとで、わたしは単なる愛人なんだって。
わたしはそう思って、色んなことをひとりで進めた。
母子手帳をもらいに行って、母親の欄にだけ名前を書いた。
ひどい悪阻に、ひとりで耐えた。
安定期を迎えた頃、市のマタニティクラスに、ひとりで参加した。
初妊婦だけを集めたその講座は、市の施設の会議室で行われた。長机に座って、妊娠中の栄養のことや、産後の赤ちゃんのお風呂の入れ方なんかを助産師さんから聞く。
「いいねぇ、旦那さんも一緒のひと」
隣に座ってた女の人が言った。
「ウチの人はダメ。いまだに何の自覚もないんだもの」
笑うその人の薬指には、きらりと光る銀の指輪。
「あ、あなたもう外してるのね。えらいな」
さっき、入院や帝王切開に備えて早めに指輪は外しておいてください、とアナウンスがあったばかりだった。
わたしは曖昧に微笑んだ。
(そんなもの、もらったことない)
結婚指輪どころか、なにひとつ。花の一輪さえ。
マタニティクラスが終わって、わたしは駅のベンチでぼうっと座っていた。やたらと夫婦が目につく。
「……いいな」
絞り出すように言った。自分が、ひどく、惨めだった。
目が熱くなる。涙が、こぼれた。
唇を噛み締めて、膝の上で手をぎゅうっと握りしめてーーその時、ぽこん! とお腹で赤ちゃんが動いた。ぐにょり、ぐにょり、ぽこん!
「……へ」
ぐにょり、ぐにょり、と赤ちゃんは動く。ぼくがいるじゃん、そう言われた気がして、わたしは泣きながら笑った。
「ありがとう、真」
優しくお腹を撫でた。おかあさん、早くあなたに会いたいよ。
予定日ぴったりに、五分おきに痛み出したお腹、真は思った以上にするりと生まれてきてくれた。
「元気な男の子ですよー!」
助産師さんに抱かれた真を見て、汗だくなわたしはやっと心から笑った。
(わたしにはこの子がいる)
なんて幸せなことだろう。夫はいなくとも、ーー父親なんかいなくたって、きっと立派に育ててみせる。
(……とはいえ、経済的にはあの人に頼りっぱなしなんだけれどね)
不相応なほどに、毎月口座にお金は振り込まれていた。金は払っているだろう? そんな風に思ってしまうよな、そんなお金を。
赤ちゃんとの生活は、想像以上に大変だった。真は味にうるさくて、ミルクならなんでもいいってわけじゃなくて、その上母乳じゃなきゃダメな時もあるし、逆にミルクじゃなきゃダメな時もあった。
時が経って離乳食になっても、真は好き嫌いがあったし、固形物を食べるようになっても、恐ろしいくらいに野菜は口にしなかった。
「あなたどうやって大きくなってるのよ」
2歳になった真と、わたしは穏やかな暮らしを送っていた。時折あの人はやってくるけれど、信じられないくらいに無関心だった。
そんなあの人が、ある日フラリとやってきて「それは本宅で育てる」と宣言した。
「え?」
わたしは膝の上で眠る真を抱きしめた。なんですって?
「結婚することになった。それは妻に育てさせる」
「……いや」
わたしは低い、低い声で言った。あの人は少し驚いた顔をした。
「ふざけないで。それくらいなら、わたし、この子と出て行きます」
「それは許さない」
淡々と、あの人は言った。
「もはや、俺にはそれしかいないのだから」
その言葉の意味は、いまだに分からない。けれど、わずかひと月の間に……結果的に、わたしは真を、奪われた。
誰もいなくなった部屋で、ボロボロになったわたしは真の服を抱きしめて泣いた。机の上には、あの人が「手切れ金」としておいていった通帳。
「いらない、いらない、いらない」
わたしは何度も首を振った。
「だから返して、真を、返して、かえして」
わたしの真。繋いだ手、まだ小さな手。少し大きくなった足、「おかあしゃん」とわたしを呼ぶあどけない声。
連れていかれる時、泣き叫ぶわたし達を、うるさそうにあの人は見た。冷たい目で、心底面倒臭いと思っている目だった。
それから、どう暮らしたものかーー気がつけば、勤め先の男性に結婚前提での付き合いを提案されていた。
「来てください」
わたしはその当時住んでいたアパートに、彼を連れていった。
そうして、部屋中に飾ってある真の写真を見せて、とってある服も、靴も、おもちゃも、すべて見せて、そして話した。
「どうか、別にふさわしい誰かを」
「……この子があなたの一番で、構わないから、」
彼は言った。
「どうか、僕との未来も考えてもらえませんか」
わたしは拍子抜けした。きっと引いてしまうだろうと思っていたのに。
不思議に思いながら、ほんの少し、真がいなくなってから初めて、わたしは笑った。
「あなた、変な人ですねぇ」
そんなことを、わたしは足だけをビニールプールにつけながらなぜか思い返していた。
「ママ、どうしたの?」
娘に尋ねられる。
「なんでも、……あ、こら、水鉄砲ヒトに向けない」
やんちゃ盛りの下の息子2人は、水鉄砲で打ち合っている。
(しあわせ、だ)
彼との間には、3人も子供を授かった。不思議なことに、真ほど安産じゃなくって、こっそりわたしは真は小顔だったから、なんて思ったりもしていた。
ふと目線をあげる。
生垣の向こうに、中学生くらいの男の子の背中が見えた。すっとした、姿勢のいい背中だった。
息を飲んだ。
「……真」
そう呟いたわたしを、娘が不思議そうに見る。
「ママ?」
「どうした?」
ちょうど、夫が家から出てきた。
わたしは立ち上がる。
「ママ行かなきゃ」
わたしは走り出す。
家族が不思議そうにわたしを呼び止めるけれど、わたしはとまれない。
(真、真、真)
わたしがあの子を見間違えるはずがない!
(なんで? 会いにきてくれたの)
会いたい、会いたい、会いたい! もう一度抱きしめたい、手を繋ぎたい、その顔を見せて!
(「おかあしゃん」)
頭の中で、ちいさな真がそうわたしを呼んだ。
息急き切って、駅前でわたしは視線を動かす。
(どこ、どこにーー)
駅のホームが見えるフェンス、そこにわたしはがしゃんと張り付くようにしがみついた。
「まことーっ」
叫ぶ。視線の先には、駅のホームには、真の姿があった。大きくなった。きっともう、わたしより大きい。
「まこと、まこと」
わたしの悲鳴のような声は、滑り込んできた電車でかき消された。
電車が去った後、そこにもう真の姿はなかった。わたしはへたりこむ。
そこでようやっとわたしは、足の裏が血まみれなことに気がついた。裸足で走ってきたから。
「……痛い」
足より、なにより。心臓が痛かった。ぽろぽろと涙がこぼれた。
「真」
わたしはそう、絞り出すように、その名前を呼んだ。
それから数年の後、わたしはあの人が逮捕されたことを知った。知った、というかーー大きなニュースになった。
ふと心配になる。真は大丈夫だろうか?
(きっと大学生だろう)
学費や生活費は、工面できるのだろうか?
わたしは、ふとあのお金を思い出す。手切れ金、として渡されたあのお金を。
(……いらない、と思っていたけれど、役に立つときがきたのかもね)
真に渡そう。あの子に使ってもらうのが、きっと一番いい。
知人に弁護士さんを紹介してもらって、その伝手で真に連絡を取ることができた。あの人がいなくなったから、案外とスムーズに会えることになって……わたしはどうしたらいいのか、よく分からない。
(「おかあしゃん」)
頭の中なかで、また小さな真がそうわたしを呼んでいた。
(きっともう……今更母親だなんて、思ってもらえないだろうけれど)
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