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分岐・鹿王院樹

月光と入道雲

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 その後私はその「月光ソナタ」が気に入って、CDまで買ってしまう。カフェで聞いたのと同じピアニストのものを。
 カフェで聞いた「月光ソナタ」、私は何故だか泣いてしまったのだ。
 私は音楽的なことは何も分からない。だけど、この曲を作った人が狂おしいほどの恋をしていることだけは分かった。
 曲が終わった後、ひよりちゃんは楽譜と、目元を赤くした私を交互に眺めて「こんな演奏、できないもんなぁ」と肩を落とした。

「プロが弾いてるってだけじゃなくて、多分わたしの月光聞いても、華ちゃんは泣かないと思うから」
「そうかな?」
「うん、わたしのは……譜面通りに音が鳴ってるだけだ。そんなの、音楽じゃない」

 しかもそれすらミスるし、とひよりちゃんは笑って私に言う。

「いつか、絶対、華ちゃん泣かす」
「あは、なにその宣言!」

 私は笑って「楽しみにしてるね」とカフェオレを飲んだ。泣くと喉が乾いちゃうのだ。
 そんな"月光"が入ったポータブルオーディオプレーヤーで音楽を聞きつつ、私は電車に揺られている。
 目指すは隣県。樹くん、というか、青百合学園中等部のサッカー部、全国大会決勝の舞台へ向かっていた。

(……秘密にしとこ)

 応援に行く、と言ったらあまりいい顔をされなかったのだ。
 真夏の屋外だし、無理をしてほしくない、と。

(小学校のとき、応援行って軽い熱中症になっちゃったからなぁ)

 それで心配をしてくれて、以来夏には応援には行っていない。

(でもさすがに、決勝だよ?)

 それくらいは、見たい、というか、応援したいというか。なんだろ。
 しかし、目的地が近づくに連れ、私は別の不安が大きくなっていくのを感じていた。

(もしかして、私の存在を人に知られるのがイヤ、とか)

 許婚なんて時代錯誤なもの、知られたくないと思う。
 特に、もし、好きな人、とかクラスにいたら? 知られたくないどころではない。

(……こっそり行って、こっそり帰ろう)

 そう決めながら電車を降りる。
 私はコンビニでペットボトルを何本かと、保冷剤を買う。体調悪くならないようにしないとだ。
 それからサングラスも買った。一応、変装的な……。かえって怪しいかな。

「あー……暑そう」

 道を歩きながら、私はぽつりと呟いた。暑そうというか、暑い。溶けそう。

(サングラス買ってよかったかも)

 眩しくて、目が痛い。
 8月後半の今日は、呆れるほどの晴天で、夏らしい大きな雲が白く輝く。
 スタジアムで、私は少し迷って、青百合の応援団の、少し後ろの方に座った。

(ここなら日陰だし)

 椅子にすわりながら、ふう、とサングラス越しに周りを見渡す。

(青百合の子たちは日向だねぇ)

 前の方に座ってるから、仕方ないとはいえ少し可愛そうだ。なにも真夏に試合をしなくたっていい。

(しかし、元気だなー)

 チアの子たちは動きの最終打ち合わせなのか、皆で集まって時折「ハイ!」という元気な声も聞こえた。
 それ以外の、普通の応援の子たちも暑そうにしながらも楽しそう。

(元気ぃ、中学生)

 千晶ちゃんは「普通の女の子として過ごせ」なんていうけど、無理かもなぁ。気持ちがアラサーなんだもの……。
 選手達が出てきて、アップを始めた。樹くんもいて、少しどきりとする。いつもより、ちょっと精悍な感じがするのは、贔屓目だろうか。
 ちらり、とこちらを見た気がした。

(ん、あれ、気づいた?)

 そう思うが、前の席から「鹿王院くんこっち見た!?」という女の子たちの黄色い声がして、ああこれコンサートとかであるやつだ、と気づく。こっち見た気がする、目があった気がするってやつ。

(ふふ、自惚れてるなぁ私)

 そう思うと心が痛かった。
 自分は特別じゃない、自分に時々そう言い聞かせないと、都合のいい勘違いをしそうになるから。樹くんは優しいから。
 試合が始まる。中学生は前後半30分ずつ、合計1時間だ。

(1時間炎天下にいて、よく平気だなぁ)

 感心しながら選手たちを眺める。
 ボールの行き先も気にしつつ、時折樹くんを見る。普通に立っているように見えるだけの時もあれば、なにか大声で指示を出している時もある。

(よくわかんないけど、大変そう)

 ペットボトルで時折水分を補給しつつ、そう思う。
 試合はゼロゼロで折り返し。ハーフタイムは10分。
 その時、近くの席で女の子が倒れた。
 青百合の応援に来ていたらしい女の子。

(……熱中症?)

「大丈夫!?」
「誰か先生を」

 ざわめく生徒たち。ちょっとパニックになっちゃってる。
 私はとっさに保冷剤片手に立ち上がり、彼女の元へ走った。前世ではバリバリの運動部、こういうのは慣れてる。

「室内へ運びましょう」

 幸い、ロビーに入る扉は近い。室内はクーラーが効いている。早く身体を冷やしてあげなくてはいけない。
 突然現れた謎の人間に皆目をぱちくりしたが、すぐ指示に従ってくれた。
 スタジアムのロビーに寝かし、服を緩める。女の子たちで人目からガード。動脈のあるところに保冷剤。私のだけだと足りないので、この子の友人らしい子からも借りる。

「……あ」
「大丈夫?」
「はい……」

 女の子は意識がある。軽く起こして、口をつけていないスポーツドリンクのペットボトルを蓋を開けて渡すと、なんとか自力で水分を摂れるようだった。

「大丈夫ですか!? すみません」

 青百合の先生らしき人が走ってくる。

「意識もありますし水分もとれているので、救急車までは必要ないと思います。ですが早めに病院へ」
「タクシーを」

 先生が後ろから来た別の先生へ指示を出す。
 タクシーが来るまで女の子をあおぎ続ける。すぐに「タクシーいました!」と呼びに来たので、あとは先生たちに任せて私は席に戻る。後半はもう始まっていた。まだゼロゼロ。

(樹くん、熱中症とか大丈夫かなー……)

 普段から炎天下で練習しているとはいえ、ああいうのを見てしまうと心配になる。
 とりあえずは元気そうにしているけれど、と思った時、相手のパスが前線に通った。ディフェンダーは付いているけど、少し対応が遅れる。

(わ、わ、打たれる)

 相手が狙ったシュートは、樹くんが冷静にキャッチした。

(ふう)

 ちょっとホッとする。樹くんは何かを指示しながらパントキックをして、前線にボールを送る。カウンターだ。こちらの選手が走って、ボールをトラップ、向こうのディフェンスも下がるけど、中盤から上がってきたフリーがひとり。彼にパスを送り、受けたフリーの選手はそのままシュート、ボールがネットを揺らす。オフサイドフラッグは上がらない。歓声が上がって、電子掲示板に「1」のスコアが光った。
 私も立ち上がって拍手。

(すごいすごいすごい!)

 試合、残り時間は5分。
 時計の進みが遅く感じる。あと4分。長く感じる。もう終わるとかと時計に目をやると、まだあと1分! "世界で一番長い1分"だ!
 じきにアディショナルタイムが示される。1分。どきどきする。
 相手チームも諦めない。一点差だ。一点決めれば延長に持ち込めるのだ。祈るように見つめる。
 前の方に座ってる子たちから「もう1分過ぎたよ!?」という声が上がるけど、私は樹くんに教えてもらって知っている。これ1分59秒までとれるんだよね、そんなの2分じゃんって思っちゃう。
 向こうの選手が大きくシュートと放つけど、ポストの上。大きく弧を描くボールとともに、試合終了の笛が鳴った。
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