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第二章
第二十七話
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シュピーゲルラントの中央にある巨大な城、魔女スイランの居城であるシキン城の周りに張られていた黒雲のような闇の結界が消滅し、城は久方振りに外界へ姿を現わした。シキン城は巨岩を盛り上げたような絶壁の上にあり、地上からの侵入を一切許さない構えである。
真っ黒な甍を戴く建築は、鋭い反り屋根の四隅に龍の顔を象った彫刻を置き、長い間、手入れが行き届いていない所為もあって、所々崩れた壁や石橋がある。塔また塔が重なる向こうに、本丸というべき大楼閣が垣間見える。
城内は鬱蒼として薄暗く、昼か夜かも解らない。僅かに壁の灯火が朧気な光を放ち、蝙蝠の羽音や剣槍を持った虎賁の巡邏三百人が、それぞれ戛々と歩く足音が聞こえてくる。城内も所々瓦礫に埋もれ、塞がれた廻廊や倒れた柱がある。その帝城の最奥、一際広い丸屋根の広場がある。そこは伽藍のように寂寞とし、点々と狐火のように輝く蝋燭以外に殆ど何もない。
その広場の中で、喨々と笛音が長い尾を引いて流れている。広場の真ん中に少し高くなった場所があり、台の上で一人の男――白皙蒲柳の玄妙たる姿を朧気な火光に照らし、龍彫の笛を吹くリー・フェイロンがいた。
彼は南面する龍座の前に座り、瞑目したまま、静かな清流の声や風に鳴る笹の音にも似た、子守歌のように穏やかな旋律を奏でている。その玲瓏のような顔容は何処か悄然としている。
するとそこへ、小さな錦の嚢を首から下げた一人の女が入って来て、広場に唯一響く笛音を聞くや否、ひどく苦しそうにして曰く、
「フェイロン、その曲を辞めろ・・・辞めろ。聞いていると・・・不愉快だ」
「やあスイラン、どうしてだい? 良い曲じゃないか。君だって、初めて聞くわけじゃないだろ。俺は好きだよ、この曲」
フェイロンはいつもの微笑みと飄然さを崩さずに言った。彼の白皙は薄暗い広場の中で火光を受けて美しい銀色の月のようである。スイランの方も凜々たる蘭瞼細腰を朧気な光に映してはいるが、その絶倫な美に勃然たる瞋恚を漲らせている。
フェイロンは笛をしまい、彼女に、
「そんなに怒るなよ。ほら、ランレイだってもうじき来るんだから。彼女、きっと君を見たら喜ぶよ」
「ランレイ・・・」
「俺も驚いているよ。まさかあそこまでやるなんてね。流石は俺達の」
「黙れ。黙れ黙れ黙れ黙れ! 私の目の前であの女の話をするな! 」
スイランはそう叫んで、手に持った龍頭の錫を一振りし、漆黒の光弾を乱離と飛ばした。フェイロンは義経公の八艘飛びのような素早い動きでそれらを全て躱し、スイランの前にすとんと降りた。一見すると歳頃の美男美女が相迫り、今に接吻でもしそうな距離ではあるが、そんな様子は微塵も無い。
フェイロンは目の前のスイランの忿怒に慴伏するどころか、顔を近付けて優しげな瞳で、
「ふふふ。本当に君はいつも不機嫌だね。偶には俺、君の笑っている顔が見たいよ。それだとランレイも怖がるよ」
「・・・それよりアンセルから連絡はきていないのか。そろそろタイクーロンが起動しても良い頃だぞ。タイ山を吹っ飛ばして、創造神を消滅させるにはあれが必要だ」
「さあね。俺はアンセルとは余り関わりが無いからね。此処にいると、どうやら気に障るようだから俺は出て行くよ。ランレイによろしくね」
フェイロンはスイランの肩を軽く叩いてそう言った。スイランはきっと柳眉を上げ、ぶん、と錫で風を切ったが、フェイロンは軽燕のように跳んで、飄々と暗い廻廊の方へと去って行った。
スイランはそのまま悄然と立ち竦んでいた。広場を薄暗く照らす火光に映え、何も知らない者からすると、見た目二十四、五歳の佳人である。その麗しい姿は再び寂寞に戻った広場の中で、燦然と輝く珠玉のようであった。
しかし、その象牙彫のような白皙は深い憂愁に沈んでいるかの如くであり、その背中は、何か大切なものを欠いているかのようである。スイランは龍座に腰掛け、寂然と真っ暗な天井の一角を見つめた。胸に垂れる錦の嚢が小さく輝いていた。
――帝城へと向かうホウオウは、漆黒の天を真っ直ぐに飛んでいく。ホウオウが通った後は黒絹の布地に走る金糸のように、一颯の光が見える。
夜半なので、大空には一寸の光も無く、光を放つホウオウの方が異様に見える。ホウオウに乗るクラウス達は明日に備え、敢えて言葉明るく歓談している――といっても至極ぎこちないものではあったが。
そんな中でランレイはつくねんと膝を抱え、セルジュが話し掛けても、答える声に力が無い。彼女は時折、ホウオウの視界が映す外界に眼をやり、帝城の影を見る度、何か心に痛みを覚えるのか、僅かに唇を震わせ、槍然たる面持ちで項垂れた。やがて彼女は夕餉も摂らずに、疲れたからねる、とだけ言って横になった。
セルジュは彼女の寝顔を見ながら、そのすげない態度に溜息をつき、
「どうしたんだろうなこいつは。昨日からずっとこうだ。こいつがこんな風になるなんて滅多にないぞ」
「きっと・・・緊張してるんだよ。今まで何回も死にかけたけど、明日がいよいよ最後だって思うとあたしだって・・・」
と、ソフィアは小刻みに震えながら言った。今までのどの相手にも勝るであろう強敵に挑むともなると、流石に彼女も怖気を震うらしい。それはクラウスとセルジュとて同じで、三人の間にしんと氷のような沈黙が流れた。
そこでクラウスが、鬱屈とした雰囲気を破るようにセルジュの肩を叩き、
「おいセルジュ、随分ランレイが心配なんだな。ランレイの為にも死ねないな。明日生き残って、きちんとお前の気持ちを伝えないとな」
「いきなりなんだ、下らんっ。俺は別に、ランレイの事が」
「はいはい。解ってるよセルジュ。俺が言うのも野暮だって。な、ソフィアも明日、絶対生き残って二人を見届けてやろうぜ」
「・・・そうだね。セルジュ、ちゃんと素直になってね。あはは」
と、ソフィアも面を和らげ、クラウスと二人して、満面朱泥のようにしてあれこれ言うセルジュを揶揄い、やがてソフィアは心を励まされて、明日に備え、眠りに着いた。
クラウスはそれを見て、安堵したような表情でセルジュに、
「有難うなセルジュ。話を合わせてくれて。取り敢えずソフィアには気苦労を掛けたくないから」
「ふん。大方察しは付いていたからな。だが・・・俺は自分が情けない。明日、もしかするとランレイやお前やソフィア、或いは俺が死ぬかもしれないと考えると、他人を気に掛けてやる余裕が無い」
セルジュはランレイが悄然としていた理由を聞いてやれなかった事、まだまだ彼女の支えになりきれていない事に、ひどく暗然としているらしい。加えて、彼ほどの男でも、やはり最後の決戦と思うと自然、自分の心にある極めて弱い部分が活発になるのを感じている。
クラウスは深呼吸して、自分の剣を抜き、天に翳してみせた。セルジュが訝しんでいると、粗末な剣は微かにカタカタと鍔鳴りをさせ、クラウスの顔を見れば、額や頬をつたう冷たい汗。涙こそみせないが、その碧眼に余裕は全く無い。彼もまた、仲間達を不安にさせないよう、一種の虚勢を張っていたのである。
クラウスは自嘲気味に笑って曰く、
「俺だって怖ぇよ・・・昨日からずっと身体が震えてしょうがねぇんだ。平気な方がどうかしてる。お前ばかりが怯えてないぜ。お前がランレイをどう思っていても、絶対に生き残ろうぜ」
「ああ・・・そうだな」
セルジュは満足そうに頷き、二人はそのまま眠りに着いた。清浄で静かな仙境の如き空間で四人は寝息を立てている。やがてクラウスが蒼味のある顔で、寝汗もしとどに、俄に苦しみだした。汗とも涙ともとれぬ雫が彼の顔をつたっている。クラウスは悪夢を見ていた。
――いつの間にか、彼は故郷にいた。何故か幼い頃に戻っている。周囲は猛炎の津波と熱風に囲まれ、女子供が逃げ惑い、互いにぶつかったり手脚を踏み折られたりしている。混乱のるつぼの中、火光に照らされた悪鬼夜叉のような兵士達が、次から次へと老若男女を何の躊躇も無く斬り裂いていく。(化け物だ・・・)と彼は本能的に感じた。
死屍は累々と道ばたに転がり、狂風に躍る暴兵共は双眸に異様な光を放ち、手当たり次第に嬰児から足腰の立たない老人までも斬殺していく。手向かう男共は十方からの刃の光の下、膾斬りにされ、目も当てられない程ズタズタにされた。全身に火を纏って転がり回る者、嬰児もろとも串焼き魚のように地面に刺さっている母親、泣いているところを首から斬り飛ばされる童子。地面を滔々と流れる血の小川は火光を反射し、不気味に輝いている。
クラウスは誰かに手を引かれて走っていた。靴を焼きながら駆けている間、地を覆うものはただ黒煙であった。天を焦がしながらうねる炎の柱は、次から次へと民家を焼燬させ、火の粉が吹雪のようである。阿鼻叫喚する人間の声と悽愴さが思わず胸を衝つ。
濛々と立ち込める黒煙を眼に沁みさせながらも、クラウスは村の端の森林にある小さな洞窟まで辿り着いた。狭くて湿っぽい洞窟の中には三十人ばかりの老幼がいる。彼を連れていた男は、
「クラウス、すぐに戻るから此処にいなさい。外に出ては行けないぞ」
「待って、待ってよ! 行かないでっ」
しかし男は、そのまま毅武の顔になり、クラウスを背に棄て、剣を手に炎の村へと駆けていった。自分を守る為に命を捨てる彼の悲壮さが、クラウスの眉宇を湿らせる。
彼は思わず後から駆けようとしたが、烈風が生じ、どっと白煙が起こって彼の視界を遮った。クラウスは真っ白な幔幕のような濛々たる砂混じりの白煙に向かって、
「父さん! 」
――父さん、夢の中のクラウス少年と現実のクラウスがそう叫んだのは、ほぼ同時であった。彼は水を被ったように冷たい汗をかき、久方振りに見た夢の居心地の悪さに、すっかり眠気も醒めてしまった様子。
ごろりと寝返りを打つと、ランレイの背中が見えた。彼女は外界を見て悄然と座っている。クラウスは彼女に、
「眠れないのか? 」
「クラウスッ」
愕然と声を上げ、ランレイは振り向いた。その頬には光る筋がある。クラウスは笑いながら彼女の隣に座り、
「俺もちょっと死んだ父さんの夢見て、もう眠気が吹き飛んじまったぜ」
「・・・クラウスはおとーさんいないか? 」
「ああ。母さんも俺を産んだら死ぬ、って言われてたのに、俺を産んですぐ死んだらしいから。父さんはいつの間にか死んでいて、俺が何で変な夢見るのか解らないけどな」
「そうか・・・でも、羨ましいよ。クラウス、おとーさんの思い出ある。ランレイ、そんなのない。ランレイ、クラウスのおとーさんのお話聞きたい」
「そうなのか。じゃあ俺の父さんは・・・」
クラウスの声に眼が覚めたソフィアは、いつからか瞼を閉じ、背中を向けたまま二人の会話を聞いていた。しかしクラウスが父親の話を始めると、彼女は心に痛みを覚えるのか、微かに唇を震わせた。何気ない二人の会話が、鋭い剃刀のように彼女の心を刺すのだ。クラウス達とソフィア、眼に見えて隔てる壁はないのだが、時折混じる二人の笑いとソフィアの寂寥たる心、ひどく対照的である。
やがてクラウスは、ランレイに
「俺、お前が笑ってる顔好きだぜ。お前を見てると、何でも出来そうな気がしてくるからな。でもよ、お前にもし思い出が無いんだったら、これから作れば良いじゃねえか。セルジュとでも俺達とでも」
「そっか・・・そうだ! ランレイ、これからセルジュともクラウスともソフィアとも思い出いっぱい作るよっ。まだまだシュピーゲルラント、見せたい場所いっぱいある」
「そりゃ楽しみだ。さ、取り敢えず横にはなっておこうぜ。少しでも身体を休めておかねぇと」
そう言ってクラウスは剣を、ランレイは腕を枕にして寝息を立て始めた。ソフィアはクラウスが寝入ったのを見、その顔をじっと見つめていた。彼女はとある決意をの臍を固めていた。
(明日・・・戦いが終わったら全部話そう。話して謝ろう。許されても許されなくても、あたしは・・・)そこまで考えた所で、ソフィアは瞼の裏に、亡き両親の姿を思う描いた。
(・・・そうだ、お父さんとお母さんのお墓の前にしよう)と、近いうちに再会出来るであろう彼らを思いながら、彼女も再び眠りに着いた。
真っ黒な甍を戴く建築は、鋭い反り屋根の四隅に龍の顔を象った彫刻を置き、長い間、手入れが行き届いていない所為もあって、所々崩れた壁や石橋がある。塔また塔が重なる向こうに、本丸というべき大楼閣が垣間見える。
城内は鬱蒼として薄暗く、昼か夜かも解らない。僅かに壁の灯火が朧気な光を放ち、蝙蝠の羽音や剣槍を持った虎賁の巡邏三百人が、それぞれ戛々と歩く足音が聞こえてくる。城内も所々瓦礫に埋もれ、塞がれた廻廊や倒れた柱がある。その帝城の最奥、一際広い丸屋根の広場がある。そこは伽藍のように寂寞とし、点々と狐火のように輝く蝋燭以外に殆ど何もない。
その広場の中で、喨々と笛音が長い尾を引いて流れている。広場の真ん中に少し高くなった場所があり、台の上で一人の男――白皙蒲柳の玄妙たる姿を朧気な火光に照らし、龍彫の笛を吹くリー・フェイロンがいた。
彼は南面する龍座の前に座り、瞑目したまま、静かな清流の声や風に鳴る笹の音にも似た、子守歌のように穏やかな旋律を奏でている。その玲瓏のような顔容は何処か悄然としている。
するとそこへ、小さな錦の嚢を首から下げた一人の女が入って来て、広場に唯一響く笛音を聞くや否、ひどく苦しそうにして曰く、
「フェイロン、その曲を辞めろ・・・辞めろ。聞いていると・・・不愉快だ」
「やあスイラン、どうしてだい? 良い曲じゃないか。君だって、初めて聞くわけじゃないだろ。俺は好きだよ、この曲」
フェイロンはいつもの微笑みと飄然さを崩さずに言った。彼の白皙は薄暗い広場の中で火光を受けて美しい銀色の月のようである。スイランの方も凜々たる蘭瞼細腰を朧気な光に映してはいるが、その絶倫な美に勃然たる瞋恚を漲らせている。
フェイロンは笛をしまい、彼女に、
「そんなに怒るなよ。ほら、ランレイだってもうじき来るんだから。彼女、きっと君を見たら喜ぶよ」
「ランレイ・・・」
「俺も驚いているよ。まさかあそこまでやるなんてね。流石は俺達の」
「黙れ。黙れ黙れ黙れ黙れ! 私の目の前であの女の話をするな! 」
スイランはそう叫んで、手に持った龍頭の錫を一振りし、漆黒の光弾を乱離と飛ばした。フェイロンは義経公の八艘飛びのような素早い動きでそれらを全て躱し、スイランの前にすとんと降りた。一見すると歳頃の美男美女が相迫り、今に接吻でもしそうな距離ではあるが、そんな様子は微塵も無い。
フェイロンは目の前のスイランの忿怒に慴伏するどころか、顔を近付けて優しげな瞳で、
「ふふふ。本当に君はいつも不機嫌だね。偶には俺、君の笑っている顔が見たいよ。それだとランレイも怖がるよ」
「・・・それよりアンセルから連絡はきていないのか。そろそろタイクーロンが起動しても良い頃だぞ。タイ山を吹っ飛ばして、創造神を消滅させるにはあれが必要だ」
「さあね。俺はアンセルとは余り関わりが無いからね。此処にいると、どうやら気に障るようだから俺は出て行くよ。ランレイによろしくね」
フェイロンはスイランの肩を軽く叩いてそう言った。スイランはきっと柳眉を上げ、ぶん、と錫で風を切ったが、フェイロンは軽燕のように跳んで、飄々と暗い廻廊の方へと去って行った。
スイランはそのまま悄然と立ち竦んでいた。広場を薄暗く照らす火光に映え、何も知らない者からすると、見た目二十四、五歳の佳人である。その麗しい姿は再び寂寞に戻った広場の中で、燦然と輝く珠玉のようであった。
しかし、その象牙彫のような白皙は深い憂愁に沈んでいるかの如くであり、その背中は、何か大切なものを欠いているかのようである。スイランは龍座に腰掛け、寂然と真っ暗な天井の一角を見つめた。胸に垂れる錦の嚢が小さく輝いていた。
――帝城へと向かうホウオウは、漆黒の天を真っ直ぐに飛んでいく。ホウオウが通った後は黒絹の布地に走る金糸のように、一颯の光が見える。
夜半なので、大空には一寸の光も無く、光を放つホウオウの方が異様に見える。ホウオウに乗るクラウス達は明日に備え、敢えて言葉明るく歓談している――といっても至極ぎこちないものではあったが。
そんな中でランレイはつくねんと膝を抱え、セルジュが話し掛けても、答える声に力が無い。彼女は時折、ホウオウの視界が映す外界に眼をやり、帝城の影を見る度、何か心に痛みを覚えるのか、僅かに唇を震わせ、槍然たる面持ちで項垂れた。やがて彼女は夕餉も摂らずに、疲れたからねる、とだけ言って横になった。
セルジュは彼女の寝顔を見ながら、そのすげない態度に溜息をつき、
「どうしたんだろうなこいつは。昨日からずっとこうだ。こいつがこんな風になるなんて滅多にないぞ」
「きっと・・・緊張してるんだよ。今まで何回も死にかけたけど、明日がいよいよ最後だって思うとあたしだって・・・」
と、ソフィアは小刻みに震えながら言った。今までのどの相手にも勝るであろう強敵に挑むともなると、流石に彼女も怖気を震うらしい。それはクラウスとセルジュとて同じで、三人の間にしんと氷のような沈黙が流れた。
そこでクラウスが、鬱屈とした雰囲気を破るようにセルジュの肩を叩き、
「おいセルジュ、随分ランレイが心配なんだな。ランレイの為にも死ねないな。明日生き残って、きちんとお前の気持ちを伝えないとな」
「いきなりなんだ、下らんっ。俺は別に、ランレイの事が」
「はいはい。解ってるよセルジュ。俺が言うのも野暮だって。な、ソフィアも明日、絶対生き残って二人を見届けてやろうぜ」
「・・・そうだね。セルジュ、ちゃんと素直になってね。あはは」
と、ソフィアも面を和らげ、クラウスと二人して、満面朱泥のようにしてあれこれ言うセルジュを揶揄い、やがてソフィアは心を励まされて、明日に備え、眠りに着いた。
クラウスはそれを見て、安堵したような表情でセルジュに、
「有難うなセルジュ。話を合わせてくれて。取り敢えずソフィアには気苦労を掛けたくないから」
「ふん。大方察しは付いていたからな。だが・・・俺は自分が情けない。明日、もしかするとランレイやお前やソフィア、或いは俺が死ぬかもしれないと考えると、他人を気に掛けてやる余裕が無い」
セルジュはランレイが悄然としていた理由を聞いてやれなかった事、まだまだ彼女の支えになりきれていない事に、ひどく暗然としているらしい。加えて、彼ほどの男でも、やはり最後の決戦と思うと自然、自分の心にある極めて弱い部分が活発になるのを感じている。
クラウスは深呼吸して、自分の剣を抜き、天に翳してみせた。セルジュが訝しんでいると、粗末な剣は微かにカタカタと鍔鳴りをさせ、クラウスの顔を見れば、額や頬をつたう冷たい汗。涙こそみせないが、その碧眼に余裕は全く無い。彼もまた、仲間達を不安にさせないよう、一種の虚勢を張っていたのである。
クラウスは自嘲気味に笑って曰く、
「俺だって怖ぇよ・・・昨日からずっと身体が震えてしょうがねぇんだ。平気な方がどうかしてる。お前ばかりが怯えてないぜ。お前がランレイをどう思っていても、絶対に生き残ろうぜ」
「ああ・・・そうだな」
セルジュは満足そうに頷き、二人はそのまま眠りに着いた。清浄で静かな仙境の如き空間で四人は寝息を立てている。やがてクラウスが蒼味のある顔で、寝汗もしとどに、俄に苦しみだした。汗とも涙ともとれぬ雫が彼の顔をつたっている。クラウスは悪夢を見ていた。
――いつの間にか、彼は故郷にいた。何故か幼い頃に戻っている。周囲は猛炎の津波と熱風に囲まれ、女子供が逃げ惑い、互いにぶつかったり手脚を踏み折られたりしている。混乱のるつぼの中、火光に照らされた悪鬼夜叉のような兵士達が、次から次へと老若男女を何の躊躇も無く斬り裂いていく。(化け物だ・・・)と彼は本能的に感じた。
死屍は累々と道ばたに転がり、狂風に躍る暴兵共は双眸に異様な光を放ち、手当たり次第に嬰児から足腰の立たない老人までも斬殺していく。手向かう男共は十方からの刃の光の下、膾斬りにされ、目も当てられない程ズタズタにされた。全身に火を纏って転がり回る者、嬰児もろとも串焼き魚のように地面に刺さっている母親、泣いているところを首から斬り飛ばされる童子。地面を滔々と流れる血の小川は火光を反射し、不気味に輝いている。
クラウスは誰かに手を引かれて走っていた。靴を焼きながら駆けている間、地を覆うものはただ黒煙であった。天を焦がしながらうねる炎の柱は、次から次へと民家を焼燬させ、火の粉が吹雪のようである。阿鼻叫喚する人間の声と悽愴さが思わず胸を衝つ。
濛々と立ち込める黒煙を眼に沁みさせながらも、クラウスは村の端の森林にある小さな洞窟まで辿り着いた。狭くて湿っぽい洞窟の中には三十人ばかりの老幼がいる。彼を連れていた男は、
「クラウス、すぐに戻るから此処にいなさい。外に出ては行けないぞ」
「待って、待ってよ! 行かないでっ」
しかし男は、そのまま毅武の顔になり、クラウスを背に棄て、剣を手に炎の村へと駆けていった。自分を守る為に命を捨てる彼の悲壮さが、クラウスの眉宇を湿らせる。
彼は思わず後から駆けようとしたが、烈風が生じ、どっと白煙が起こって彼の視界を遮った。クラウスは真っ白な幔幕のような濛々たる砂混じりの白煙に向かって、
「父さん! 」
――父さん、夢の中のクラウス少年と現実のクラウスがそう叫んだのは、ほぼ同時であった。彼は水を被ったように冷たい汗をかき、久方振りに見た夢の居心地の悪さに、すっかり眠気も醒めてしまった様子。
ごろりと寝返りを打つと、ランレイの背中が見えた。彼女は外界を見て悄然と座っている。クラウスは彼女に、
「眠れないのか? 」
「クラウスッ」
愕然と声を上げ、ランレイは振り向いた。その頬には光る筋がある。クラウスは笑いながら彼女の隣に座り、
「俺もちょっと死んだ父さんの夢見て、もう眠気が吹き飛んじまったぜ」
「・・・クラウスはおとーさんいないか? 」
「ああ。母さんも俺を産んだら死ぬ、って言われてたのに、俺を産んですぐ死んだらしいから。父さんはいつの間にか死んでいて、俺が何で変な夢見るのか解らないけどな」
「そうか・・・でも、羨ましいよ。クラウス、おとーさんの思い出ある。ランレイ、そんなのない。ランレイ、クラウスのおとーさんのお話聞きたい」
「そうなのか。じゃあ俺の父さんは・・・」
クラウスの声に眼が覚めたソフィアは、いつからか瞼を閉じ、背中を向けたまま二人の会話を聞いていた。しかしクラウスが父親の話を始めると、彼女は心に痛みを覚えるのか、微かに唇を震わせた。何気ない二人の会話が、鋭い剃刀のように彼女の心を刺すのだ。クラウス達とソフィア、眼に見えて隔てる壁はないのだが、時折混じる二人の笑いとソフィアの寂寥たる心、ひどく対照的である。
やがてクラウスは、ランレイに
「俺、お前が笑ってる顔好きだぜ。お前を見てると、何でも出来そうな気がしてくるからな。でもよ、お前にもし思い出が無いんだったら、これから作れば良いじゃねえか。セルジュとでも俺達とでも」
「そっか・・・そうだ! ランレイ、これからセルジュともクラウスともソフィアとも思い出いっぱい作るよっ。まだまだシュピーゲルラント、見せたい場所いっぱいある」
「そりゃ楽しみだ。さ、取り敢えず横にはなっておこうぜ。少しでも身体を休めておかねぇと」
そう言ってクラウスは剣を、ランレイは腕を枕にして寝息を立て始めた。ソフィアはクラウスが寝入ったのを見、その顔をじっと見つめていた。彼女はとある決意をの臍を固めていた。
(明日・・・戦いが終わったら全部話そう。話して謝ろう。許されても許されなくても、あたしは・・・)そこまで考えた所で、ソフィアは瞼の裏に、亡き両親の姿を思う描いた。
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