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第二章
第二十三話
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クラウス達は数時間ほど登って、山頂の口に辿り着いた。白夜の如き猛雪に山頂は閉ざされている。身を打つ朔風はいよいよ以て勢いを増し、痛みすら感じさせる。
クラウス達がどうにか風を防ぎながら向かおうとすると、待っていましたとばかりに、ジューロンが声を上げた。
「おうおうおう。寒そうだなァてめえら。生憎だがな、クラウスの旦那。此処から先に行くのは、ちぃっとばっかし待ってくれや」
「え、どういう事だ」
「まま、死にたくねぇなら、黙ってお聞きになってくだせぇや」
と、言うや否、ジューロンはクラウスの胸元から飛び出し、熱風一颯、山頂を覆う白い薄氷の幕を吹き飛ばし、積雪は一気に灰色の岩となった。
呆気に取られているクラウス達の視界から、いつの間にか老翁は消えていた。代わりに、錫杖を持ち純白衣を纏った若い女が立っていた。昔語りの雪女が如き真っ白な肌と白玉の面には生気が無く、凍える風よりも冷たい瞳でクラウス達を睥睨している。
肌すら痛くなる寒さにも関わらず、女は涼しげに長髪をたなびかせ、蔑むような微笑みすら見せつけている。
「お前達があの方の言っていた、神子とその一行ね。私はメイリン。確かゲンブ様、とか云うのを封印してる」
「それは解っているよっ。どうして街を凍り付けにする必要があるのっ」
「あはは。だってただ封印するのもつまらないじゃない。此処から見てると面白いよ。震えて震えて、泣きながら死んでいく連中とか食料が足りないからって自分から山に入って凍死する爺婆とかね。身重だった私を捨てた報いだよ」
「どういうこと」
「お前達には関係無いっ。あの方の邪魔をする輩は此処で殺すっ」
声と同時にクラウス達が捨てた防寒着、それが血を呼ぶ死の合図。全員、得物を手に取り身構える。
ぱっとメイリン地を蹴って、錫杖一閃空を切る。戛然ソフィアの八角棒、素早く錫杖受け止めて、もう一端を打ち上げる。ふわりと跳んだメイリンは、ピタリと錫杖に気魂を込めて、涼しい目元に火を宿す。やっ、と息もつかせず、ソフィアは一気に打ち掛かるが、空しく虚空を切るばかり。次第にメイリン攻め手に回り、縦打ち横打ち足払い。男でさえも眼を瞠る、竜攘虎搏が此処にある。
横合いに廻ったクラウスが、平青眼から斬り込んだ。発止と鈍い金属音、いつの間にか錫杖がそれを防いでいる。咄嗟にクラウスは気炎を込めて、敵の額を目掛けて刃を振るう。しかしスイランも然る者、片寄せ中寄せ変幻自在、時折錫杖がクラウスをかすめる。ぱっと跳び退いたクラウスは、霞の構えのやり場もない。
いきなりランレイがクラウスの後ろから跳びだして、えいっ、といきなり拳を振るわせた。が、同時にツイと端送り、蹌踉け込んだランレイ目掛けて、天颷の如き錫杖一閃! はっと殴り辷った身をうねらせ、ランレイは手甲でそれを打ち返した。ブルルッと彼女の腕には奇怪な痺れ、同時に風切る第二撃! ドンと上に打ち上げられ、ランレイはうつ伏せに落ちて苦しそうである。
「まずはお前からっ」
と、スイランが投げる懐剣きらりと光り、ランレイ目掛けて飛んでいく――同時にぱっと血が舞って、彼女は小さな呻き声を聞いた。
ランレイが眼を開けると、彼女の身体に瘡は無い。代わりに彼女は目の前の光景に瞠目した。
「セルジュッ。どうして…」
「ふん…ただ身体が勝手に動いたからだ…怪我はないか…」
何ぞ測らん、セルジュが咄嗟にランレイの前に飛びだして、彼女を凶刃から守ったのである。彼の背中には深々と懐剣が刺さり、血潮が滔々と流れ出している。
ランレイはきっと柳眉を上げ、五体に颶風を起こして、許さない、と跳び付いていく。同時にメイリンひらりと躱して、楊柳流しに身を開き、猛然殺気に眼を光らせ、錫杖ブーンと虚空に唸る。哀れ彼女も餌食になるか――途端に、
「こっちを忘れてるぞっ」
「ランレイ、気を付けてっ」
クラウスとソフィアが、スイランの両脇から雪崩押し、流石のスイランも三方から、しかも怒れる三人をあしらうのは一苦労、左へ薙いで右へ当たる。
寄り難い火華の旋風の中で、小賢しい、とメイリン杖を振り回し、殆ど同時にランレイ目掛けてぶんと唸らせる。しかし殊に怒れるランレイは、矢弾を躱す燕の如く、五体を沈めたかと思うや否、発止と杖を蹴り上げた。
錫杖はガラリと宙に舞い、山の下へ飛んでいった。瞬間、捨て身になったクラウスが手際よく、メイリンの右腕を斬り落とす。と同時に八角棒、鋭い唸りを纏わせて、不倶になったメイリンを吹っ飛ばす。
同時にランレイ飛電の如く、メイリン目掛けて躍り込み、立ち上がりかけている面へ鉄拳一発! ぐしゃっと身も世も無い音を上げ、黒い肉餅のようになった頭と共に、メイリンはどうと斃れた。
ランレイは急いでセルジュに駆け寄り、
「セルジュ、セルジュッ。だいじょぶか、しっかりするっ」
「ああ…心配するな。俺は大丈夫だ…お前こそ、怪我が無くて、良かった」
「セルジュ、動かないで。今手当てをしてあげるから」
と、クラウス達がセルジュを囲んでいると、豁然、灰色の雲が消え、霏々とした雪は止んで、相変わらず陽は見えないが、穏やかな気候となった。
すると、山頂の一角にある神廟から声が聞こえてきた。声の主は、姿こそ見えないが優しい口調で、
「人間よ。よく私の封印を解いてくれました。私はこのテーロン山の主ゲンブです。お前達があのメイリンを斃してくれたお陰で、封印が解けました。そこの怪我をした人間、こちらへいらっしゃい。瘡を治してあげる」
クラウスに抱えられるようにして、セルジュが神廟の前に立つと、忽ち大きな亀が彫りつけられた厳秘の岩戸から溢れ出してきた光の粒子が彼を包み込み、見る間に彼の出血は止まり顔にも生気が戻った。
ランレイは殊の外喜んで、早速セルジュに飛び付き、セルジュも驚きながらも彼女を微笑みで迎えている。
ふとクラウスが、辺りを見廻し、
「そう言えば、さっきの女は何処行ったんだ? 死体も無いぞ」
「…あの者は数百年前、ここ一帯が大寒風に見舞われた際、口減らしに山へ捨てられた哀れな人間です。身重で足手纏いだとみなされたのでしょう。彼女は錫杖に突き刺され、放置されました。この世をひどく恨んだまま死んだ者や未練を残した魂は浄土にも地獄にも行かず、この世を漂います。それをスイランが数千年前の禁呪法で蘇らせたのです。そして…一度蘇った魂や一定期間成仏しなかった魂は肉体を失うと、無間地獄へ送られ、浄土に行く事の無い永遠の責め苦を受け続けます」
「そうですか…」
と、クラウスは彼女のせめてもの冥福を祈らずにはいられなかった。ソフィアは、
「何だか悪いことしちゃったかもね…お腹の子供と一緒に死んだのにまた引き摺り出されて、それであたし達に地獄送りにされるなんて…」
「でもよ、ソフィア。こうするしかなかっただろ。そんな顔するな。そんな悲しい顔されると俺…」
と言い掛けた所で、ランレイが二人の間に飛び込んで来て、やったね、と会話を遮ってしまった。
ゲンブはクラウス達に、麓までお送りします、とひとこと言って、彼らを光の中に包んだ。彼らが気が付いた時には、もう登山口に着いていた。麓の気候も穏やかに戻っており、相変わらず寒いが吹き荒ぶ朔風は止み、空に舞っていた白いものも消えている。
十余年に渡る厳冬が終わり、街の者達はようやく晏如を得た。次にやるべきは凍死者の火葬と復興の準備である。すると一組の家族が、山の方に向かって|頓首の礼をしている。
クラウスが話を聞いてみると、家長である男が答えて曰く、
「私達は…五年前に口減らしの為に八十歳になる私の父を山に捨てたのです…。しかし今でも父が見守っていてくれる気がして、一日二回、せめてもの弔いをしているのです…」
「お爺さん? それって…」
クラウスが先に会った老翁の特徴を伝えると、男は俄に瞠目し、それこそ私の父です、と興奮気味に言った後、涙に目頭を熱くして、
「死んだ後も尚、俺達を見守っていてくれたんだな…親父…。さあお前達も」
「うんっ。お祖父ちゃん、有難うっ」
「お義父さん…有難うございます…」
氷のように凍てつく地面にも関わらず、その家族は額づいて、いつまでも稽首の礼を取っていた。
クラウス達も眼を閉じて頭を下げ、死んでいった者達の冥福を祈った。ソフィアは一人、ワオロンやチェンシー、そして老翁の事を考えていた。
(どうして自分が地獄に行くことが解っていて、二人とも必死になって戦ったりあたし達を助けたりしていたの? )と思わずにはいられない。まだ彼女には自分の命を掛けてでも他人を守るという感覚が解らないのである。そして何ともなしに空を見て、
「どうしてなの…お父さん…お母さん…」
と呟いた。するとクラウスが横合いから、大丈夫か、と尋ねてきた。はっとソフィアは我に返った。どうやら自分でも知らない内に、頬を涙で濡らしていたらしい。
心配そうに彼女を見つめるクラウスに向かって、彼女は破顔して、
「大丈夫だよっ。行こうっ」
と、敢えて声を励まして気丈に振る舞い、仲間達に先だって港に向かっていった。ランレイはセルジュの手を引いて歩き出し、クラウスはまた取り残される感覚になってしまい、待ってくれ、と走り出していく。
一方、ソフィアはチラリと眼の端でセルジュとランレイの二人を見た。相変わらずランレイにじゃれつかれて、セルジュは鬱陶しそうではあるが、やはり二人の信頼は抜群であると言わざるを得ない。
ソフィアはセルジュを羨ましく思った。ランレイの為に命を省みず、敵の懐剣を背中で受け止めた彼を。果たして自分が他人の為にそれが出来るか? 命を掛けてでも守りたい人間がいるか? そう思えば思うほど、『自分よりも優先して他人を助ける』という信条の半端さに溜息をつかざるを得ないのである。
灰色に閉じた空は雪こそ降らせていないが、どんよりと何処までも続いて行く。薄暗い天は万里の遠きに渡って分厚い雲に覆われている。ソフィアはそれを悲しげな瞳で見上げ、自分の心と自問自答していた。
クラウスはそれを見て、
「なあ…ソフィア、何かあったのか? シュピーゲルラントに来た時もだけど、最近ずっと変だぞ」
「何でもないよ…心配しないで」
「でも、前までのお前は」
「何でもないって言ってるでしょっ」
と、ソフィアは怒鳴ってしまい、はっと自分でも驚いて慌てて謝り、いたたまれない様子で急いで港へと向かっていった。クラウスは彼女の背中を見つめながら、何の支えにも励ましにもなれない自分を歯痒く思いながら後を追っていった。
港に着くと、セルジュが不意に、
「おい。また船に乗るのか? 俺は御免だぞ。あんな揺れる物に乗れるか」
「セルジュ、昨日フラフラ、かわいいよ。落ちそうになったら、ランレイが押さえてやる」
「何だとっ。俺はだな」
と、言っているのを見、四精霊が出て来て笑いながら、自分達が船の管理をするので、クラウス達はホウオウに乗って次の霊峰を目指せと言ってきた。
クラウスは彼らに船を任せ、ホウオウを呼び出した。一行は忽ち光に包まれ、一瞬の内に空へ上げられ、光る大鵬に変わって曇天を割るようにして飛んでいった。
残る霊峰はあと一つ、クラウス達は一見順調そうではあるが、その中心たるクラウスとソフィアの心は全く怏々としていた。果たして彼らの心が晴れる日は来るのであろうか。
――アンセルはヴァークリヒラントのヴォルカ大陸の火山にいた。此処は以前、彼がタイクーロンの動力核を得る為に入ろうとしたが、失敗した神殿がある。
月光に照らされた彼の顔は変わらずに眉目秀麗ではあるが、以前よりも影が濃くなったように見える。歩一歩と山道を登っていく。長めの銀髪は怪しげにたなびき、その双眸は爛々と輝いている。
アンセルは遂に神殿の岩戸に辿り着いた。岩戸には雄々しげな青龍が描かれている。彼はクラウスに斬り落とされた筈の左手をそこに翳した。須臾にして、岩戸が深紫に輝き、一気に崩れ落ちた。アンセルはニヤリと微笑し、そのまま冥府の入り口のような神殿の暗闇へと入って行った。
クラウス達がどうにか風を防ぎながら向かおうとすると、待っていましたとばかりに、ジューロンが声を上げた。
「おうおうおう。寒そうだなァてめえら。生憎だがな、クラウスの旦那。此処から先に行くのは、ちぃっとばっかし待ってくれや」
「え、どういう事だ」
「まま、死にたくねぇなら、黙ってお聞きになってくだせぇや」
と、言うや否、ジューロンはクラウスの胸元から飛び出し、熱風一颯、山頂を覆う白い薄氷の幕を吹き飛ばし、積雪は一気に灰色の岩となった。
呆気に取られているクラウス達の視界から、いつの間にか老翁は消えていた。代わりに、錫杖を持ち純白衣を纏った若い女が立っていた。昔語りの雪女が如き真っ白な肌と白玉の面には生気が無く、凍える風よりも冷たい瞳でクラウス達を睥睨している。
肌すら痛くなる寒さにも関わらず、女は涼しげに長髪をたなびかせ、蔑むような微笑みすら見せつけている。
「お前達があの方の言っていた、神子とその一行ね。私はメイリン。確かゲンブ様、とか云うのを封印してる」
「それは解っているよっ。どうして街を凍り付けにする必要があるのっ」
「あはは。だってただ封印するのもつまらないじゃない。此処から見てると面白いよ。震えて震えて、泣きながら死んでいく連中とか食料が足りないからって自分から山に入って凍死する爺婆とかね。身重だった私を捨てた報いだよ」
「どういうこと」
「お前達には関係無いっ。あの方の邪魔をする輩は此処で殺すっ」
声と同時にクラウス達が捨てた防寒着、それが血を呼ぶ死の合図。全員、得物を手に取り身構える。
ぱっとメイリン地を蹴って、錫杖一閃空を切る。戛然ソフィアの八角棒、素早く錫杖受け止めて、もう一端を打ち上げる。ふわりと跳んだメイリンは、ピタリと錫杖に気魂を込めて、涼しい目元に火を宿す。やっ、と息もつかせず、ソフィアは一気に打ち掛かるが、空しく虚空を切るばかり。次第にメイリン攻め手に回り、縦打ち横打ち足払い。男でさえも眼を瞠る、竜攘虎搏が此処にある。
横合いに廻ったクラウスが、平青眼から斬り込んだ。発止と鈍い金属音、いつの間にか錫杖がそれを防いでいる。咄嗟にクラウスは気炎を込めて、敵の額を目掛けて刃を振るう。しかしスイランも然る者、片寄せ中寄せ変幻自在、時折錫杖がクラウスをかすめる。ぱっと跳び退いたクラウスは、霞の構えのやり場もない。
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「まずはお前からっ」
と、スイランが投げる懐剣きらりと光り、ランレイ目掛けて飛んでいく――同時にぱっと血が舞って、彼女は小さな呻き声を聞いた。
ランレイが眼を開けると、彼女の身体に瘡は無い。代わりに彼女は目の前の光景に瞠目した。
「セルジュッ。どうして…」
「ふん…ただ身体が勝手に動いたからだ…怪我はないか…」
何ぞ測らん、セルジュが咄嗟にランレイの前に飛びだして、彼女を凶刃から守ったのである。彼の背中には深々と懐剣が刺さり、血潮が滔々と流れ出している。
ランレイはきっと柳眉を上げ、五体に颶風を起こして、許さない、と跳び付いていく。同時にメイリンひらりと躱して、楊柳流しに身を開き、猛然殺気に眼を光らせ、錫杖ブーンと虚空に唸る。哀れ彼女も餌食になるか――途端に、
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寄り難い火華の旋風の中で、小賢しい、とメイリン杖を振り回し、殆ど同時にランレイ目掛けてぶんと唸らせる。しかし殊に怒れるランレイは、矢弾を躱す燕の如く、五体を沈めたかと思うや否、発止と杖を蹴り上げた。
錫杖はガラリと宙に舞い、山の下へ飛んでいった。瞬間、捨て身になったクラウスが手際よく、メイリンの右腕を斬り落とす。と同時に八角棒、鋭い唸りを纏わせて、不倶になったメイリンを吹っ飛ばす。
同時にランレイ飛電の如く、メイリン目掛けて躍り込み、立ち上がりかけている面へ鉄拳一発! ぐしゃっと身も世も無い音を上げ、黒い肉餅のようになった頭と共に、メイリンはどうと斃れた。
ランレイは急いでセルジュに駆け寄り、
「セルジュ、セルジュッ。だいじょぶか、しっかりするっ」
「ああ…心配するな。俺は大丈夫だ…お前こそ、怪我が無くて、良かった」
「セルジュ、動かないで。今手当てをしてあげるから」
と、クラウス達がセルジュを囲んでいると、豁然、灰色の雲が消え、霏々とした雪は止んで、相変わらず陽は見えないが、穏やかな気候となった。
すると、山頂の一角にある神廟から声が聞こえてきた。声の主は、姿こそ見えないが優しい口調で、
「人間よ。よく私の封印を解いてくれました。私はこのテーロン山の主ゲンブです。お前達があのメイリンを斃してくれたお陰で、封印が解けました。そこの怪我をした人間、こちらへいらっしゃい。瘡を治してあげる」
クラウスに抱えられるようにして、セルジュが神廟の前に立つと、忽ち大きな亀が彫りつけられた厳秘の岩戸から溢れ出してきた光の粒子が彼を包み込み、見る間に彼の出血は止まり顔にも生気が戻った。
ランレイは殊の外喜んで、早速セルジュに飛び付き、セルジュも驚きながらも彼女を微笑みで迎えている。
ふとクラウスが、辺りを見廻し、
「そう言えば、さっきの女は何処行ったんだ? 死体も無いぞ」
「…あの者は数百年前、ここ一帯が大寒風に見舞われた際、口減らしに山へ捨てられた哀れな人間です。身重で足手纏いだとみなされたのでしょう。彼女は錫杖に突き刺され、放置されました。この世をひどく恨んだまま死んだ者や未練を残した魂は浄土にも地獄にも行かず、この世を漂います。それをスイランが数千年前の禁呪法で蘇らせたのです。そして…一度蘇った魂や一定期間成仏しなかった魂は肉体を失うと、無間地獄へ送られ、浄土に行く事の無い永遠の責め苦を受け続けます」
「そうですか…」
と、クラウスは彼女のせめてもの冥福を祈らずにはいられなかった。ソフィアは、
「何だか悪いことしちゃったかもね…お腹の子供と一緒に死んだのにまた引き摺り出されて、それであたし達に地獄送りにされるなんて…」
「でもよ、ソフィア。こうするしかなかっただろ。そんな顔するな。そんな悲しい顔されると俺…」
と言い掛けた所で、ランレイが二人の間に飛び込んで来て、やったね、と会話を遮ってしまった。
ゲンブはクラウス達に、麓までお送りします、とひとこと言って、彼らを光の中に包んだ。彼らが気が付いた時には、もう登山口に着いていた。麓の気候も穏やかに戻っており、相変わらず寒いが吹き荒ぶ朔風は止み、空に舞っていた白いものも消えている。
十余年に渡る厳冬が終わり、街の者達はようやく晏如を得た。次にやるべきは凍死者の火葬と復興の準備である。すると一組の家族が、山の方に向かって|頓首の礼をしている。
クラウスが話を聞いてみると、家長である男が答えて曰く、
「私達は…五年前に口減らしの為に八十歳になる私の父を山に捨てたのです…。しかし今でも父が見守っていてくれる気がして、一日二回、せめてもの弔いをしているのです…」
「お爺さん? それって…」
クラウスが先に会った老翁の特徴を伝えると、男は俄に瞠目し、それこそ私の父です、と興奮気味に言った後、涙に目頭を熱くして、
「死んだ後も尚、俺達を見守っていてくれたんだな…親父…。さあお前達も」
「うんっ。お祖父ちゃん、有難うっ」
「お義父さん…有難うございます…」
氷のように凍てつく地面にも関わらず、その家族は額づいて、いつまでも稽首の礼を取っていた。
クラウス達も眼を閉じて頭を下げ、死んでいった者達の冥福を祈った。ソフィアは一人、ワオロンやチェンシー、そして老翁の事を考えていた。
(どうして自分が地獄に行くことが解っていて、二人とも必死になって戦ったりあたし達を助けたりしていたの? )と思わずにはいられない。まだ彼女には自分の命を掛けてでも他人を守るという感覚が解らないのである。そして何ともなしに空を見て、
「どうしてなの…お父さん…お母さん…」
と呟いた。するとクラウスが横合いから、大丈夫か、と尋ねてきた。はっとソフィアは我に返った。どうやら自分でも知らない内に、頬を涙で濡らしていたらしい。
心配そうに彼女を見つめるクラウスに向かって、彼女は破顔して、
「大丈夫だよっ。行こうっ」
と、敢えて声を励まして気丈に振る舞い、仲間達に先だって港に向かっていった。ランレイはセルジュの手を引いて歩き出し、クラウスはまた取り残される感覚になってしまい、待ってくれ、と走り出していく。
一方、ソフィアはチラリと眼の端でセルジュとランレイの二人を見た。相変わらずランレイにじゃれつかれて、セルジュは鬱陶しそうではあるが、やはり二人の信頼は抜群であると言わざるを得ない。
ソフィアはセルジュを羨ましく思った。ランレイの為に命を省みず、敵の懐剣を背中で受け止めた彼を。果たして自分が他人の為にそれが出来るか? 命を掛けてでも守りたい人間がいるか? そう思えば思うほど、『自分よりも優先して他人を助ける』という信条の半端さに溜息をつかざるを得ないのである。
灰色に閉じた空は雪こそ降らせていないが、どんよりと何処までも続いて行く。薄暗い天は万里の遠きに渡って分厚い雲に覆われている。ソフィアはそれを悲しげな瞳で見上げ、自分の心と自問自答していた。
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「何でもないよ…心配しないで」
「でも、前までのお前は」
「何でもないって言ってるでしょっ」
と、ソフィアは怒鳴ってしまい、はっと自分でも驚いて慌てて謝り、いたたまれない様子で急いで港へと向かっていった。クラウスは彼女の背中を見つめながら、何の支えにも励ましにもなれない自分を歯痒く思いながら後を追っていった。
港に着くと、セルジュが不意に、
「おい。また船に乗るのか? 俺は御免だぞ。あんな揺れる物に乗れるか」
「セルジュ、昨日フラフラ、かわいいよ。落ちそうになったら、ランレイが押さえてやる」
「何だとっ。俺はだな」
と、言っているのを見、四精霊が出て来て笑いながら、自分達が船の管理をするので、クラウス達はホウオウに乗って次の霊峰を目指せと言ってきた。
クラウスは彼らに船を任せ、ホウオウを呼び出した。一行は忽ち光に包まれ、一瞬の内に空へ上げられ、光る大鵬に変わって曇天を割るようにして飛んでいった。
残る霊峰はあと一つ、クラウス達は一見順調そうではあるが、その中心たるクラウスとソフィアの心は全く怏々としていた。果たして彼らの心が晴れる日は来るのであろうか。
――アンセルはヴァークリヒラントのヴォルカ大陸の火山にいた。此処は以前、彼がタイクーロンの動力核を得る為に入ろうとしたが、失敗した神殿がある。
月光に照らされた彼の顔は変わらずに眉目秀麗ではあるが、以前よりも影が濃くなったように見える。歩一歩と山道を登っていく。長めの銀髪は怪しげにたなびき、その双眸は爛々と輝いている。
アンセルは遂に神殿の岩戸に辿り着いた。岩戸には雄々しげな青龍が描かれている。彼はクラウスに斬り落とされた筈の左手をそこに翳した。須臾にして、岩戸が深紫に輝き、一気に崩れ落ちた。アンセルはニヤリと微笑し、そのまま冥府の入り口のような神殿の暗闇へと入って行った。
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