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第二章
第二十二話
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クラウス達を乗せた大楼船は、流氷を砕きながら一気にテーロン山に向かっている。クラウスとソフィアは時折傾く船の上で、転がるようにして右へ左へ、忽ち眼を回して落ちないようにするのが精一杯であった。
ランレイは揺れに合わせて跳ね回り、まるで遊具にでもいるかのようである。さてセルジュは、甲板の帆柱に凭れ掛かって何か沈思瞑目している。ランレイが何度か話しかけたり悪戯を仕掛けたりしたのだが、彼の如き大丈夫でも今は本当に何か懊悩しているらしく、ランレイはつまらなそうに一人で遊んでいる。
セルジュは腕組みをして眠るが如き様相で俯いている。多少は収まった風雪を身体に受けているが、それを感じていない風に座り込んでいる。彼は何を考えているのであろうか。
(親…か)とセルジュは心の内で呟いた。彼は元々王太子である。幼い頃から何不自由無い生活が与えられていたのだが、唯一足りない、渇望する物があった。彼は母親にはよく懐いて、彼の母親も乳母を雇わず、自らの手で彼を育てた。
しかしセルジュがまだずっと幼い頃、小さな稚児人形のようであった頃、母親は彼の妹を難産の末出産した後、出血が止まらず死亡した。正直、その時彼には何があったのか解らなかった。周りの大人がバタバタと忙しなく行き交い、昨日まで自分に笑顔を向けていた母親は蝋人形のように冷たくなっていた。
二日経ち、三日経ち、彼はようやく母の身に起こった事が解った。そこで初めて彼は泣いた。朝から晩までひとしきり泣いた後、彼を育てるのは当然乳母となったわけだが、どうにも懐けなかった。考えてもみれば、当然である。数日前まで自分を蝶よ花よと可愛がってくれた人に代わって、違う人間が母親面を始めるのだから。
セルジュはどうにも乳母に近付こうとしなかった。要するに、彼女の事が嫌いなのである。彼女も最初の方はセルジュに話しかけていたが、やがて見向きもしなくなった。そこで彼は父親の方に行こうとしたのだが、先に書いたように横暴極まる我儘王、子供を愛する術など知らない。
乳母からは冷遇を受け、父親からは無視されて、彼の暴虐と我儘を目の当たりにする。これがセルジュの幼少期であった。
その寂しさを、彼はアンセルとの剣術稽古で埋めていた。そしてアンセルが不在の時は、四歳下の妹と遊ぶ等して、とにかく親からの冷遇を忘れようとしていた。
しかし二年前、セルジュは自分の妹が誘拐されたと聞き、父王に捜索隊を出すよう頼んだ。しかし彼には余りやる気が無かった。彼からすれば、王太子であるセルジュがいれば良いのであり、第二子、しかも女であるセルジュの妹など正直眼中にないのである。
しかも軍部も国王の横暴に辟易しているので、王家の人間が消えた事件に対し、内心では(ザマを見ろ)等と思い、捜索など名ばかりの観光にも等しい事をしている。それで彼は自分で城を抜け出し、妹を捜す旅に出た。
そしてセルジュは、チェンシーやワオロンが命を投げ出してでも愛し、今でも二人に心から思われているであろう彼らの息子を内心羨ましく思っていた。どれだけ裕福でも贅沢至極でも、真に家庭に必要なのは親の愛なのかもしれない。
それを欠いているセルジュは、つんとした澄ました面持ちで、自分にも他人に対しても厳しい言葉を掛けるのだが、本心では人を愛し、人に愛されたいと思っている。
「…」
考えている内にセルジュの瞳はランレイを追っていた。彼の悄然たる心を楽しませてくれるので、精々話せる莫迦くらいに思っていたのだが、最近では、気が付けばランレイに自分から話し掛け、時には身を挺して守っているのだ。
どうも彼には、彼自身にも上手く説明できない本心があるらしい。それを感じる度に、(あんな奴の事で悩むなんて、俺らしくも無い…)と自嘲するのだが、それを敢えて口に出すわけも無く、ただ彼女の事を見ている。
やがて船は氷に閉ざされたテーロン山に向かって行く。それぞれがそれぞれの心に暗い影や隠された本音を持ったクラウス達四人は、一体いつそれと向き合うのであろうか。いつまでも逃げてばかりはいられないのである。
鈍色の天は晦く、茫々たる密雲から真っ白な粒がしんしんと降っている。朔風は弱まっているが、所々に小さく白い小山がある。此処はテーロン山が麓、本来ならば参拝者に宿や必要な道具を提供する簡素な街である。
しかし今ではすっかり海の流氷によって外界と隔絶され、遠くから見ると純白の靄に閉ざされた雪の牢獄のようである。霊峰を封印する闇の魔力の淵源が間近にあるので、寒気殊に烈しく、冬風はすさぶ。
そんな状態なので、久方振りに外から人間が来たにも関わらず、クラウス達を出迎える人影は無かった。白毫の旋風と一緒に心まで吹き飛ばしてしまったように無感情な眼を彼らに向けるのみである。
クラウス達は、ようやく揺れる船から解放され、眼を回して蹌踉めきながら上陸した。特にセルジュは、悩みに頭を逡巡させていたので船酔いが酷く、船が港に着いても歩く事もままならず、ランレイに支えられながら船を下りた。
ホウトゥーがそれを見て、微笑むような声で、
「あらあら今度は逆ですか。本当に二人はお互いを必要としているんですね」
「だ、誰がこんな奴を」
「はいはい。私は見たままを述べただけですよ。私は船が沈まないように残りますよ」
そう言ってホウトゥーは会話を切り上げた。ランレイは破顔して、セルジュとランレイお互い様、と言っているが、セルジュはホウトゥーの言葉が頭に釘の如く刺さったらしく、横目でランレイを見つめていた。
時間としては夜に差し掛かっている。灰色の雲は全き漆黒となり、篝火が諸所に灯され始める。星の代わりに見えるのは雪の白さである。街の者達は数カ所に設置された大焚火に集まり、暖を取っている。母親が小さな握り飯を子供に与え、腕に抱いて雪風から守っている。
クラウス達もその内一つに近付いて、炎に手を翳した。見れば土民の殆どが集まっているらしく、土の窓から火光は見えない。夜が更けて行くにつれ、風は白く、人々の睫毛は氷柱のようになった。
ふと、老人が一人、烈寒に凍えるソフィアに話し掛けた。
「お前さん方はどうして此処にきたんだ? あの船って確か此処ら辺にいた幽霊船だろ? 」
「あたし達、テーロン山に登りたいんです。霊峰の神を解放したいんです」
「な、何と。…ほほほ。君、それは無理というものだ。確かに十数年前から、霊峰の神ゲンブ様は封印されている。だが見ての通り、テーロン山は凄まじい氷山。あの猛吹雪を越えたとしても山頂には強固な結界があって、触れたら瘴気が一気に身体に流れ込んで、内臓が潰れて死ぬぞ」
「ですが、そうしないと世界が…」
「世界? ほう…。では、君達が…。登るなら防寒具はしっかりとしていった方が良い。ゲンブ様が解放されれば、この寒さも終わるからな」
と、その老翁は立ち上がって何処かに消えていった。その夜、クラウス達は焚火の横で眠った。同じように街の者達は互いに寄り添い合うように筵を被ったり、外套を羽織ったりして夜を明かした。
翌朝、炊き出しの粥を啜ったクラウス達は、防寒具を買うために商店に向かった。昨日は黄昏時の薄暗さに隠れていて見えなかったのだが、其処彼処に冷凍された人間の死骸が転がっている。特に体力の無い童子や老人の凍死体が多く、須く腐敗もせずに精巧な人形のようである。
凍り付き息もしない嬰児を抱いたまま、ぶつぶつと読経のような子守歌を口ずさんでいる母親がいた。最早動く気力も無いのか、それとも狂気でも起こしているのか、ただただ虚ろな眼で死骸をあやしているのである。
街道を埋める雪を踏み分け踏み分け、クラウス達は防寒具屋に辿り着いた。中では薄暗い灯火があるが、店主の顔は外の絶望そのもののように打ち沈んでいる。
しかし役目ではあるので、気怠そうに椅子から立って彼らを出迎えた。クラウスが卓を挟んで、
「俺達、テーロン山に登るために防寒具を買いたいんですが」
「ああ、貴方達ですか。もう代金は貰っていますよ。見慣れない恰好の三人と女の子が一人来るからって。変な爺さんが昨日来て、そう言ったんです」
まさか昨日の老翁が、と顔を見合わせるクラウス達を余所に、店主は一行の身体の採寸を取り始めた。ランレイはくすぐったそうに身をよじるが、そこは店主も手慣れたもの、瞬く内に採寸を取り、一番近い大きさの防寒着を倉庫から取り出してきた。
それぞれが気に入った物を纏い、クラウス達はテーロン山に向かうべく街を発った。
寒空はどんよりとして紙吹雪のような白雪を虚空に舞わせている。氷山雪地、風まで白い。霏々とした雪の中に、行き倒れの死骸が見え隠れしている。
朝から吹雪いているので、街からの僅かな距離さえ、クラウス達に取っては千里の遠さに感じられる。一歩また一歩と彼らの靴は重さを増していくばかりである。
「寒いなー。早く終わらせて、何か暖かい物でも食いたいぜ。ずっとこうしてると凍死しちまうよ」
「なあにクラウス、情けない。あなたはそうやって、いつもいつも食べることばかり…くしゅんッ」
「何だ何だソフィア、お前も寒いんじゃないか」
「あ、あたしは女の子だから良いの。男の子より弱いんだからっ」
赤い面をむっとさせ、些か説得力に欠ける無駄口を叩いているソフィアを差し置いて、厚手の防寒具を得たランレイは、元来寒さに強い事も相まって、セルジュに雪玉など投げつけている。
セルジュの方は、辞めろ、と口先では言っているが反撃もせず、声音も穏やかである。それを見、クラウスはニヤリとして、
「セルジュも丸くなったなぁ。前だったら絶対怒鳴っていたぜ」
「うんうん。セルジュ、優しい。これもランレイの顔のキレイのお陰だな」
「断じて違う! 自惚れるなっ。誰がお前なんかとっ」
「あらセルジュ、誰もあなたとランレイが、なんて言ってないよ。あはは」
などと、セルジュを揶揄いながらクラウス達はテーロン山の登山口に至った。なだらかで裾野が広い山ではあるが、此処が猛雪の発信源である。秀雅にして高からぬ山は雪が積もったように真っ白だが、確かに此処が霊峰である。
クラウス達は意を決して登山道を登り始めた。雪深くして足定まらず、登れば登るほど積雪は深まり、膝下当たりまで埋もれてしまった。しかも轟々と猛吹雪があるので、互いの顔すら見えない。
そこへ、高い笑い声が聞こえてきた。クラウス達が周囲を見回すと、身に青衣を纏い、手に樫の杖を持った老翁がいた。眉と髪は雪のように白いが、容貌何となく常人とは思えない。クラウスが、誰何の声を掛けると、
「ほほほ。儂は、とある男に頼まれて君達を助ける、物好きな爺だよ。それにしても本当に神子が来るとは…長生きしてきたのも悪くはないな。来なさい、道案内してあげる」
「だ、誰ですかあなたは」
「そう警戒せんでも良い。儂はただこの山に住む爺だ。それに昨日会っただろう。君達の為に防寒着の代金まで払ってあげたのだぞ」
言われて初めて、一行はその老翁が昨夜、焚火の近くで話した人だと気が付いた。あっと驚く彼らを呵々大笑し、高士のような老翁は飄然と歩き出した。
クラウス達も慌てて後を追ったが、彼は宙にでも浮いているかの如く、ふんわりと雪道を通っていく。クラウス達は何とか付いていくのだが、老翁のお陰で雪に埋もれた登山道から足を滑らして真っ逆さまの心配も無く、雪道を踏み分けていった。
暫く後、ふとセルジュが老翁に尋ねた。
「なあ爺さん。あんた何のために、こんな危険な道案内をしてくれるんだ? いくら頼まれたからって、あんたみたいな歳の人が。何が目的だ? 」
「ほほほ。セルジュ君、だったかな。儂が道案内をするのは君達の為では無い。麓の者達の為だ。街には儂の息子と嫁と孫がいる。彼らの事を思えば、危険など感じないよ」
「だが所詮は他人だろう」
「君は若いから解らないだろうが、人間というものは本当に守りたいものの為には危険など省みないのだよ。大切な人でも良い、家族でも良い。君もいつかそういう人が出来る。そう言えば、儂からも聞かせて貰いたいが、君は何のために、誰のために戦っているのかね? 」
「…」
老翁は押し黙ってしまったセルジュに構わず、寒さなど感じていないかのように雪の坂を登っていく。追い掛けて行くクラウス達は、ともすれば朧になる彼の姿を時折見失ったが、その度に目の前まで戻って来ているのだ。
クラウス達三人は待って下さい、などと呼ばわりながら必死に付いていく。しかしセルジュは一人、老翁の質問の答えを頭の中で必死に考えていた。
(俺は誰のために戦っているんだ…)彼がこの旅に同行しているのも流れに任せての事だし、彼自身が深く考えた事も無いのだ。妹を捜す――とは言っても誰も頼れないので仕方無くの事であり、命を捨てられるか、と問われると素直には頷けない。
俯き加減で沈思瞑目しながら歩くセルジュは、次第に少し遅れを取り始めた。そんな彼の背中をドンと押した者がいる。
「うわっ。何だランレイ、お前か」
「セルジュ、何考えてるか? ランレイ、知りたいよ」
「お前には関係無い話だ。行くぞ」
「はいなっ。でも、ランレイ、セルジュの事、もっと知りたい」
「どういう意味だ」
「ランレイ、クラウスとソフィア好きだけど、セルジュ、優しいが一番好き。だからもっと仲良くなりたいよ」
「ふん、勝手にしろ。俺が拒む理由も無いからな」
ぷいと素っ気なく言い放ち、セルジュは歩を進めた。ランレイも並んで語らいながら歩いていったが、セルジュは彼女と話していると先の悩みも自然、忘れてしまう感覚を覚える。
(不思議な奴だな)と思いながら彼は、太陽のような彼女の破顔を見つめていた。
ランレイは揺れに合わせて跳ね回り、まるで遊具にでもいるかのようである。さてセルジュは、甲板の帆柱に凭れ掛かって何か沈思瞑目している。ランレイが何度か話しかけたり悪戯を仕掛けたりしたのだが、彼の如き大丈夫でも今は本当に何か懊悩しているらしく、ランレイはつまらなそうに一人で遊んでいる。
セルジュは腕組みをして眠るが如き様相で俯いている。多少は収まった風雪を身体に受けているが、それを感じていない風に座り込んでいる。彼は何を考えているのであろうか。
(親…か)とセルジュは心の内で呟いた。彼は元々王太子である。幼い頃から何不自由無い生活が与えられていたのだが、唯一足りない、渇望する物があった。彼は母親にはよく懐いて、彼の母親も乳母を雇わず、自らの手で彼を育てた。
しかしセルジュがまだずっと幼い頃、小さな稚児人形のようであった頃、母親は彼の妹を難産の末出産した後、出血が止まらず死亡した。正直、その時彼には何があったのか解らなかった。周りの大人がバタバタと忙しなく行き交い、昨日まで自分に笑顔を向けていた母親は蝋人形のように冷たくなっていた。
二日経ち、三日経ち、彼はようやく母の身に起こった事が解った。そこで初めて彼は泣いた。朝から晩までひとしきり泣いた後、彼を育てるのは当然乳母となったわけだが、どうにも懐けなかった。考えてもみれば、当然である。数日前まで自分を蝶よ花よと可愛がってくれた人に代わって、違う人間が母親面を始めるのだから。
セルジュはどうにも乳母に近付こうとしなかった。要するに、彼女の事が嫌いなのである。彼女も最初の方はセルジュに話しかけていたが、やがて見向きもしなくなった。そこで彼は父親の方に行こうとしたのだが、先に書いたように横暴極まる我儘王、子供を愛する術など知らない。
乳母からは冷遇を受け、父親からは無視されて、彼の暴虐と我儘を目の当たりにする。これがセルジュの幼少期であった。
その寂しさを、彼はアンセルとの剣術稽古で埋めていた。そしてアンセルが不在の時は、四歳下の妹と遊ぶ等して、とにかく親からの冷遇を忘れようとしていた。
しかし二年前、セルジュは自分の妹が誘拐されたと聞き、父王に捜索隊を出すよう頼んだ。しかし彼には余りやる気が無かった。彼からすれば、王太子であるセルジュがいれば良いのであり、第二子、しかも女であるセルジュの妹など正直眼中にないのである。
しかも軍部も国王の横暴に辟易しているので、王家の人間が消えた事件に対し、内心では(ザマを見ろ)等と思い、捜索など名ばかりの観光にも等しい事をしている。それで彼は自分で城を抜け出し、妹を捜す旅に出た。
そしてセルジュは、チェンシーやワオロンが命を投げ出してでも愛し、今でも二人に心から思われているであろう彼らの息子を内心羨ましく思っていた。どれだけ裕福でも贅沢至極でも、真に家庭に必要なのは親の愛なのかもしれない。
それを欠いているセルジュは、つんとした澄ました面持ちで、自分にも他人に対しても厳しい言葉を掛けるのだが、本心では人を愛し、人に愛されたいと思っている。
「…」
考えている内にセルジュの瞳はランレイを追っていた。彼の悄然たる心を楽しませてくれるので、精々話せる莫迦くらいに思っていたのだが、最近では、気が付けばランレイに自分から話し掛け、時には身を挺して守っているのだ。
どうも彼には、彼自身にも上手く説明できない本心があるらしい。それを感じる度に、(あんな奴の事で悩むなんて、俺らしくも無い…)と自嘲するのだが、それを敢えて口に出すわけも無く、ただ彼女の事を見ている。
やがて船は氷に閉ざされたテーロン山に向かって行く。それぞれがそれぞれの心に暗い影や隠された本音を持ったクラウス達四人は、一体いつそれと向き合うのであろうか。いつまでも逃げてばかりはいられないのである。
鈍色の天は晦く、茫々たる密雲から真っ白な粒がしんしんと降っている。朔風は弱まっているが、所々に小さく白い小山がある。此処はテーロン山が麓、本来ならば参拝者に宿や必要な道具を提供する簡素な街である。
しかし今ではすっかり海の流氷によって外界と隔絶され、遠くから見ると純白の靄に閉ざされた雪の牢獄のようである。霊峰を封印する闇の魔力の淵源が間近にあるので、寒気殊に烈しく、冬風はすさぶ。
そんな状態なので、久方振りに外から人間が来たにも関わらず、クラウス達を出迎える人影は無かった。白毫の旋風と一緒に心まで吹き飛ばしてしまったように無感情な眼を彼らに向けるのみである。
クラウス達は、ようやく揺れる船から解放され、眼を回して蹌踉めきながら上陸した。特にセルジュは、悩みに頭を逡巡させていたので船酔いが酷く、船が港に着いても歩く事もままならず、ランレイに支えられながら船を下りた。
ホウトゥーがそれを見て、微笑むような声で、
「あらあら今度は逆ですか。本当に二人はお互いを必要としているんですね」
「だ、誰がこんな奴を」
「はいはい。私は見たままを述べただけですよ。私は船が沈まないように残りますよ」
そう言ってホウトゥーは会話を切り上げた。ランレイは破顔して、セルジュとランレイお互い様、と言っているが、セルジュはホウトゥーの言葉が頭に釘の如く刺さったらしく、横目でランレイを見つめていた。
時間としては夜に差し掛かっている。灰色の雲は全き漆黒となり、篝火が諸所に灯され始める。星の代わりに見えるのは雪の白さである。街の者達は数カ所に設置された大焚火に集まり、暖を取っている。母親が小さな握り飯を子供に与え、腕に抱いて雪風から守っている。
クラウス達もその内一つに近付いて、炎に手を翳した。見れば土民の殆どが集まっているらしく、土の窓から火光は見えない。夜が更けて行くにつれ、風は白く、人々の睫毛は氷柱のようになった。
ふと、老人が一人、烈寒に凍えるソフィアに話し掛けた。
「お前さん方はどうして此処にきたんだ? あの船って確か此処ら辺にいた幽霊船だろ? 」
「あたし達、テーロン山に登りたいんです。霊峰の神を解放したいんです」
「な、何と。…ほほほ。君、それは無理というものだ。確かに十数年前から、霊峰の神ゲンブ様は封印されている。だが見ての通り、テーロン山は凄まじい氷山。あの猛吹雪を越えたとしても山頂には強固な結界があって、触れたら瘴気が一気に身体に流れ込んで、内臓が潰れて死ぬぞ」
「ですが、そうしないと世界が…」
「世界? ほう…。では、君達が…。登るなら防寒具はしっかりとしていった方が良い。ゲンブ様が解放されれば、この寒さも終わるからな」
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翌朝、炊き出しの粥を啜ったクラウス達は、防寒具を買うために商店に向かった。昨日は黄昏時の薄暗さに隠れていて見えなかったのだが、其処彼処に冷凍された人間の死骸が転がっている。特に体力の無い童子や老人の凍死体が多く、須く腐敗もせずに精巧な人形のようである。
凍り付き息もしない嬰児を抱いたまま、ぶつぶつと読経のような子守歌を口ずさんでいる母親がいた。最早動く気力も無いのか、それとも狂気でも起こしているのか、ただただ虚ろな眼で死骸をあやしているのである。
街道を埋める雪を踏み分け踏み分け、クラウス達は防寒具屋に辿り着いた。中では薄暗い灯火があるが、店主の顔は外の絶望そのもののように打ち沈んでいる。
しかし役目ではあるので、気怠そうに椅子から立って彼らを出迎えた。クラウスが卓を挟んで、
「俺達、テーロン山に登るために防寒具を買いたいんですが」
「ああ、貴方達ですか。もう代金は貰っていますよ。見慣れない恰好の三人と女の子が一人来るからって。変な爺さんが昨日来て、そう言ったんです」
まさか昨日の老翁が、と顔を見合わせるクラウス達を余所に、店主は一行の身体の採寸を取り始めた。ランレイはくすぐったそうに身をよじるが、そこは店主も手慣れたもの、瞬く内に採寸を取り、一番近い大きさの防寒着を倉庫から取り出してきた。
それぞれが気に入った物を纏い、クラウス達はテーロン山に向かうべく街を発った。
寒空はどんよりとして紙吹雪のような白雪を虚空に舞わせている。氷山雪地、風まで白い。霏々とした雪の中に、行き倒れの死骸が見え隠れしている。
朝から吹雪いているので、街からの僅かな距離さえ、クラウス達に取っては千里の遠さに感じられる。一歩また一歩と彼らの靴は重さを増していくばかりである。
「寒いなー。早く終わらせて、何か暖かい物でも食いたいぜ。ずっとこうしてると凍死しちまうよ」
「なあにクラウス、情けない。あなたはそうやって、いつもいつも食べることばかり…くしゅんッ」
「何だ何だソフィア、お前も寒いんじゃないか」
「あ、あたしは女の子だから良いの。男の子より弱いんだからっ」
赤い面をむっとさせ、些か説得力に欠ける無駄口を叩いているソフィアを差し置いて、厚手の防寒具を得たランレイは、元来寒さに強い事も相まって、セルジュに雪玉など投げつけている。
セルジュの方は、辞めろ、と口先では言っているが反撃もせず、声音も穏やかである。それを見、クラウスはニヤリとして、
「セルジュも丸くなったなぁ。前だったら絶対怒鳴っていたぜ」
「うんうん。セルジュ、優しい。これもランレイの顔のキレイのお陰だな」
「断じて違う! 自惚れるなっ。誰がお前なんかとっ」
「あらセルジュ、誰もあなたとランレイが、なんて言ってないよ。あはは」
などと、セルジュを揶揄いながらクラウス達はテーロン山の登山口に至った。なだらかで裾野が広い山ではあるが、此処が猛雪の発信源である。秀雅にして高からぬ山は雪が積もったように真っ白だが、確かに此処が霊峰である。
クラウス達は意を決して登山道を登り始めた。雪深くして足定まらず、登れば登るほど積雪は深まり、膝下当たりまで埋もれてしまった。しかも轟々と猛吹雪があるので、互いの顔すら見えない。
そこへ、高い笑い声が聞こえてきた。クラウス達が周囲を見回すと、身に青衣を纏い、手に樫の杖を持った老翁がいた。眉と髪は雪のように白いが、容貌何となく常人とは思えない。クラウスが、誰何の声を掛けると、
「ほほほ。儂は、とある男に頼まれて君達を助ける、物好きな爺だよ。それにしても本当に神子が来るとは…長生きしてきたのも悪くはないな。来なさい、道案内してあげる」
「だ、誰ですかあなたは」
「そう警戒せんでも良い。儂はただこの山に住む爺だ。それに昨日会っただろう。君達の為に防寒着の代金まで払ってあげたのだぞ」
言われて初めて、一行はその老翁が昨夜、焚火の近くで話した人だと気が付いた。あっと驚く彼らを呵々大笑し、高士のような老翁は飄然と歩き出した。
クラウス達も慌てて後を追ったが、彼は宙にでも浮いているかの如く、ふんわりと雪道を通っていく。クラウス達は何とか付いていくのだが、老翁のお陰で雪に埋もれた登山道から足を滑らして真っ逆さまの心配も無く、雪道を踏み分けていった。
暫く後、ふとセルジュが老翁に尋ねた。
「なあ爺さん。あんた何のために、こんな危険な道案内をしてくれるんだ? いくら頼まれたからって、あんたみたいな歳の人が。何が目的だ? 」
「ほほほ。セルジュ君、だったかな。儂が道案内をするのは君達の為では無い。麓の者達の為だ。街には儂の息子と嫁と孫がいる。彼らの事を思えば、危険など感じないよ」
「だが所詮は他人だろう」
「君は若いから解らないだろうが、人間というものは本当に守りたいものの為には危険など省みないのだよ。大切な人でも良い、家族でも良い。君もいつかそういう人が出来る。そう言えば、儂からも聞かせて貰いたいが、君は何のために、誰のために戦っているのかね? 」
「…」
老翁は押し黙ってしまったセルジュに構わず、寒さなど感じていないかのように雪の坂を登っていく。追い掛けて行くクラウス達は、ともすれば朧になる彼の姿を時折見失ったが、その度に目の前まで戻って来ているのだ。
クラウス達三人は待って下さい、などと呼ばわりながら必死に付いていく。しかしセルジュは一人、老翁の質問の答えを頭の中で必死に考えていた。
(俺は誰のために戦っているんだ…)彼がこの旅に同行しているのも流れに任せての事だし、彼自身が深く考えた事も無いのだ。妹を捜す――とは言っても誰も頼れないので仕方無くの事であり、命を捨てられるか、と問われると素直には頷けない。
俯き加減で沈思瞑目しながら歩くセルジュは、次第に少し遅れを取り始めた。そんな彼の背中をドンと押した者がいる。
「うわっ。何だランレイ、お前か」
「セルジュ、何考えてるか? ランレイ、知りたいよ」
「お前には関係無い話だ。行くぞ」
「はいなっ。でも、ランレイ、セルジュの事、もっと知りたい」
「どういう意味だ」
「ランレイ、クラウスとソフィア好きだけど、セルジュ、優しいが一番好き。だからもっと仲良くなりたいよ」
「ふん、勝手にしろ。俺が拒む理由も無いからな」
ぷいと素っ気なく言い放ち、セルジュは歩を進めた。ランレイも並んで語らいながら歩いていったが、セルジュは彼女と話していると先の悩みも自然、忘れてしまう感覚を覚える。
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