二つの世界の冒険譚

アラビアータ

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第二章

第十九話

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 シュピーゲルラントの中央、そこには一際分厚い、醒々冷々たる墨の如き濛雲がある。奈落の闇がそのまま空に浮かんできたような黒雲は、轟々と雷鳴を響かせ、その中にある大城を隠している。
 監獄都市やその他の霊峰を塞ぐものよりも強固至極な闇の結界は、遠目から見ても触れてはいけないという事が解る。鳥が一羽、黒雲に近付いた。何か見つけたのか、闇に近付いた――その時、バチッと眼を射る一閃の赫光が起こり、鳥は消し炭のようになってしまった。
 その危険極まりない結界の向こうに、シュピーゲルラントを征服した魔女の居城がある。古びた廻廊、崩れた壁、暗闇は其処彼処にある。時折点在する壁の蝋燭だけが、黄泉ではないと思いださせるたった一つの瞬きであった。

 冥々昏々、十年以上もの間、太陽を寸光も知らない古城である。宋代の龍虎山一帯の如く楼閣が居並び、中央の高楼は龍頭の反り屋根を宙天に架け並べ、苔さびた石橋で巍然とした峰々と繋がっている。世が平和ならば全国からの忠を集め、彩霞のような香に彩られていたであろう。
 深紫の霧深い古城の最奥、大きく開けた円い広場に一人の女がいた。伽藍のように静かな大広間、壁蝋燭の仄かな火光に照らされた女の半顔は琅珠のように美しく、脂粉霓裳の粧い、龍模様の旗袍も凜々として、蘭瞼細腰、歳の頃は二十四か五、一見すると深窓の佳人である。
 首から光る錦の嚢を下げた女は、薄暗い大広間で佇み、何処か悄然とした風である。そこへ誰かがやって来た。

「やあ。調子はどうだい、スイラン。今日も綺麗だね」
「何だお前か、そう余裕でもいられないぞ。お前は知っているのか、奴ら、監獄都市を陥落させたのだぞ。しかもホウオウまで手に入れたというではないか。それにしてもフドウも情けない…」
「ふふふ。確かにそうだね。でも、ランレイが選んだだけあるじゃないか。クラウス君もだけど、セルジュ君だって」
「…黙れ。私の前であの娘の名を口にするなっ。良いか、次に言ったら、お前の口を斬り裂くぞっ」

 スイランは発狂したかの如く、急に怒り出し、眦を裂いてその男――フェイロンを睨み付けた。スイランは彼を使役する立場である筈だが、どうして彼は飄々としていられるのであろうか、どうしてスイランの方もランレイの名を聞いて怒りだしたのであろうか。
 フェイロンは、彼女の赫怒には一切動じず、いつもの微笑を崩さない。薄暗さも相まって、妙に彼の姿は神秘的に見える。スイランは彼の様子に何も言わず、ぷいと顔を背けた。

「ところでスイラン。クラウス君達は次に何処へ行くのか、解っているのかい? 」
「うむ。恐らく奴らはテーロンざんに行く筈だ。もう既にワオロンを送っている。山にはホウオウでも破れない結界があるし、周辺の海には氷塊がある。無理というものだ」
「そうかい…」

 フェイロンはそれだけ言って、退出していった。そして口の端で、諦めないからね、と聞こえるか聞こえないか解らぬほど小さな声で呟いた。
 スイランはまた一人になったが、薄暗い中で何かするでもなく、無意識に錦の嚢を握りしめていた。その白皙はいと悲しげで、シュピーゲルラントを恐怖で覆っている魔女とは思えない風があった。

 ――ホウオウを手に入れたクラウス達は、その中にある別の空間、光に包まれた荘厳な空間にいた。古の神仙が住む仙境のような空間で、クラウス達は束の間の安らぎを得ている筈だったが、ランレイがとにかく外を見てはしゃぐので、セルジュが休むに休めなかった。
 一方で精霊達は、精霊達で賑やかそうである。彼らは、久方振りにシュピーゲルラントに来たので、その変わり振りを一々観察しては、思い出話に花を咲かせている様子。

「それにしても、随分と変わったなぁ。一千年も経ちゃア、当ったりめえではあるのだけれどな。ん? クオマ、どしたぁ? 」
「…はぁ」
「ああ、僕が当ててあげるよ。一千年前の、神子の事を思い出してるんだよ。クオマったら精霊なのに、あいつの事、ばかに気にしてたからね。戦いの最中でも離れなかったから」
「ば、莫迦言わないでよっ。あたしはね、あの時の神子に死なれたらいけないって思っていたから」
「さて、此処に一通の手紙があります。届くことはありませんでしたが、この私、ホウトゥーが読み上げて差し上げましょう。――精霊であるあたしがこんな手紙出すなんて、可笑しいけど我慢が出来ません」
「や、辞めて辞めてっ。そんなことする必要無いでしょっ。ちょっとっ」

 精霊達の盛り上がりは人間には聞こえないのだが、クラウスは彼らとは対照的に、悩み深いようである。ひたすら座って膝を抱えるようにして、何か考え込んでいる。
 考えてもみれば、彼は十七、まだ成人もしていない身である。何かに悩むのも当然である。それを見たソフィアが脇に来て曰く、

「どうしたのクラウス。やけに元気が無いじゃない。何かあったの? 」
「いや、ちょっとな…。俺、何が正しいんだか、解らなくなったんだよ。だって知ってたか? あのシューフェイって人、実は四星のアンナで、世界その物に復讐するために戦ってるってホウオウから聞いちまって。皆がそれぞれの事情を抱えているのに、俺が勝手な正義を押しつけて他人を殺し廻って良いのかなって」
「…確かに答えは一つじゃないのかもね。でも、何かを犠牲にせず、誰も瘡付けずに何かを達成しようなんて難しいよ。あたしは正解なんて解らないけど、クラウスが何かを選んだら、あたしはあなたを守るから」
「守る…か。お前は昔から、俺を守る守るって言ってたな。はぁ…」

 そこへランレイの叫びが聞こえてきた。どうやらセルジュと二人で、謎掛け遊びをしていたようだが、大人気ないセルジュに連戦連敗、遂に泣かんばかりな声で、彼に何か言っている。
 セルジュの方は表情はいつもと変わらぬが、明らかに勝ち誇った様子で、俺の勝ちだ、と言っている。彼は根っからの負けず嫌いで、その上学識豊かなので、ランレイが出す単純な謎に即答する一方、自分からは大人でも頭を捻るほど難解な問題を出す。それで勝ち誇っているのだから、ある意味、彼も単純な男である。
 ソフィアは二人の様子を見て、何やってるの、と駆け出して行き、クラウスは飾らずにお互いを曝け出すランレイ達を見て、溜息をついた。

 クラウスの表情からはランレイ達への羨望というか、自分への情けなさというか、とにかく複雑な気持ちが読み取れる。
 その複雑な瞳は、ランレイを宥めながらセルジュを叱り着けるソフィアの背中に注がれていたのだが、彼はまだ自分の悩みに懊悩している手前、何かを言う気にはなれなかった。
 
 そんな人間達や精霊達を乗せたホウオウは暗闇を割る光の尾を引いて、黒雲の海を渡っていく。目指すは次の霊峰テーロン山である。

 数日後、クラウス達はテーロン山を彼方に臨んでいた。ホウオウは、山頂に直接着陸しようと近付いたが、轟々と吹き荒れる寒風にホウオウの内部まで苛む闇の瘴気、強固な結界に阻まれ、あわや墜落までしそうになったので、クラウスが慌てて霊峰から海を挟んだ岸辺に着陸させた。
 冬が近付いている事も相まって、寒風は烈しく、水面には浮舟のように流氷が張っている。虚空を真っ白な風雪が彩り、朔風が肌を刺し、周辺の山々から雲気は霏々として人間を責める。
 元来、寒冷な気候であるシュピーゲルラント出身のランレイでさえも震える程の寒さである。年中温暖で、雪など高山でしか見た事の無いヴァークリヒラント出身のクラウス達の身震いは一入ひとしおでは無い。

 何処か雪風を凌げる場所でも探さなければ、冷凍されてしまわんばかりな気候なので、クラウスは泣かんばかりな顔で、

「おい、おいっ。近くに村とかないのか。こ、このままだと凍え死ぬぞ」
「知らないよ。ランレイ、この近く来た事ない」
「とにかく歩こう。此処にいたって、何も出来ないよ」

 無情な天ではある。烈雪は衣服を通して肌に沁み入る。時しも晩秋の寒さではあるし、道は抜かり、外套は用を為さず、クラウスを始め一行は歩いているだけでも疲労困憊してきた。
 やがて西の空が僅かに茜色を見せ、後は晦冥の世界となった。こうなってくると、最早動く事すらままならない極寒である。獣や鳥すらも巣穴に籠もって出てこないのか、姿が見えないし、偶に見掛けても寒さに疲労している一行では、容易に追いつけない。
 三日ほど後、飢え疲れてクラウス達は動けなくなってしまった。我が国の歴史になぞらえるのであれば、八甲田山で遭難した青森歩兵第五連隊のような暗澹たる気持ちであろう。柴や枯れ枝を積んで焚き火としても焼け石に水、否、氷山に対する火の粉の如きものである。

 人心地付くか付かないかの焚き火で暖を取っていたクラウス達は、憮然とした面持ちで天の一角を睨んでいたが、不意に、

「おうーい、あんたらぁ。そこで何をしてるんだ」

 と声が聞こえてきた。と辺りを見回すと、男が諸手を振ってこちらに呼び掛けている。
 ソフィアは俄に、焼け跡から宝玉を見つけた人のように歓び、手を振り返した。心身混沌たる思いだったクラウスは、セルジュに声を掛けられ、生気を取り戻したらしい。
 疲労に縺れてはいるが、セルジュに支えられ歩き出した彼は、こちらに声を掛けた男の案内で、とある部落に辿り着いた。

 貧しげな部落に人は少なく、真っ白な朔風に晒され、如何にも寒村といった具合である。土壁や瓦は所々にヒビが入り、小さな穴すら見える。
 人口百人にも満たないであろう小さな部落は、一行を訝しげに迎えたが、飢え疲れているのを見て憐れに思ったのか、思い思いに稗粟や干菜、漬物瓶等を持ち出し、貧しいながらも食事を整えた。
 部落の者達も日光が差さず、また恵みを齎す霊峰が封印されているので、とても余裕など無く、自分達が生きていく為の食物にすら事欠いている現状ではあるのだが、流れてきた旅人達の窮乏振りと疲労困憊を見て、見捨てるのも彼らの心が許さなかったのであろう。荒廃した世界でも、容易に廃れないのは、けだし人間が持つ思いやりの心と言えよう。

 とにかく、死中に生を拾ったクラウス達は、ようやく寒さを凌げる屋根の下で暖を取り、三日前から濡れ鼠な衣服を火に乾している。セルジュは、思いの外寒さには弱かったらしく、布にくるまって黄泉から帰って来た人のように唇まで紫である。

 クラウスは粟や稗や干菜をごった煮にした粥を啜りながら、上は赤裸、下は肌着という姿で火に当たっている。ランレイもそれに倣おうとしたのだが、流石にソフィアが慌てて止めたので、女性陣は布にくるまり火に当たっている。
 どうしてか、とランレイは尋ねるが、ソフィアはただ、女の子だから当たり前、と答えるのみであった。
 クラウス達を部落に招いた男は、この小屋の主である。男は、人心地付いた彼らに、

「皆さん、どうしてあんな所にいたのですか? それに見た事のない服装、何処からいらしたのですか? 」
「実は俺達、あのテーロン山に行きたいんですけど、船が無くて。近くに何か氷を割れる船とかありませんか? 」
「テーロン山に? そりゃまたどうして。どういう事情かは知りませんが、あの山は危険ですよ」
「どうしてもです。詳しくは話せませんけど、とにかく登りたいんです」

 クラウスの瞳や他の三人の様子を見て、男もただならぬ事情であると感じた様子。少し考えていたが、やがて言い辛そうに、重苦しい口を開いて、語り出した。

「実は、五百年前ほど前、ここら一帯は海賊の拠点だったのです。その船長は、シュピーゲルラント中の海を股に掛けた大海賊で、名をワオロン…と言いましたかね。副船長である妻と一緒に各地の海を冒険したそうです。そのワオロンの船団はある日、突如解散し、彼はそれ以来行方知れず。そしてそのワオロンが使っていた大船が近くに座礁しているのですが…」

 そこまで言うと、男は口を噤んだ。何か恐れているようである。セルジュが焦れったく思ったか、続けろ、と彼を急かした。
 男は驚きつつも、小声で、

「実を言いますと、夜な夜な女の啜り泣く声がする、苦しんで死んだ船員達の叫びがする、肝試しに行った若い連中がズタズタに斬り裂かれたとか、とにかく恐ろしい噂が絶えないのですよ…。夜になると、一層不気味な幽霊船です」
「ゆ、ゆ、幽霊? 」
「ゆーれい…お化け、怖いよっ」

 クラウスとランレイは同時に声を上げ、ランレイに至っては、横にいたセルジュに飛び付いた。その拍子に、ランレイを覆っていた布が取れ、赤裸の少女が男に飛び付くという構図が出来上がってしまった。
 当然セルジュは、茹で蛸の如く真っ赤になり、離れろ、と喚き散らすが、怖がるランレイは容易に彼から離れない。揉み合う二人と蒼白する一人を放っておいて、ソフィアが、男に近付いて地図を広げ、幽霊船の場所を尋ねた。
 此処です、と男は部落から西にある入り江に記しを付けた。ソフィアは彼に礼を言い、その日、一行は部落に泊まり次の朝、一宿一飯の礼を述べて出立した。

 クラウスは怯えつつも他に方法が無いので、勇を奮ってソフィアに励まされながら歩き出した。
 セルジュは、昨日の一件で夜通し碌に眠れなかったばかりか、今ランレイが袖に縋り付いて来ているのを、あしらう様子も何処かぎこちない。どうもこの女慣れしていない男は、ランレイを意識しすぎているようである。

 ――その頃、海賊の入り江では一人の男、豹頭虎眼の偉丈夫が静かに瞑目して座っていた。傍らには龍の意匠がほどこされた大薙刀が閃々と光って地面に立ち、厳めしい龍紋の甲盔は燦爛としている。
 潮風に虎髭を靡かせ、彼は遠くに漂う大船を見た。その眼は、いと悄然としていた。
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