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第二章
第十五話
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灰色の雲、分厚い曇天は天を覆う。雷鳴は天に満ち、草木の緑が時折不気味に照らされる。蒼く光る閃光は雷、梢や草木は蕭々と風に揺れ、鳥や獣が怯えながら天地を行き交う。
雷光に紛れて、光球が空からゆっくりと墜ちてきた。真っ直ぐに雲間から出て来たそれは、雷から別れて、地上に落下した。ぱっと光球は弾け、中から出て来た男女が四人。これこそヴァークリヒラントからやって来たクラウス達である。
地上から少し離れた場所で弾けたので、クラウス達は折り重なるようにして次々に落ちた。季節としては夏の頃、ヴァークリヒラントではうだるような暑さだというのに、ここでは空っ風が吹いているように肌寒い。
「何だか寒いな…此処がシュピーゲルラントか? ランレイ、お前の故郷か? 」
「そだよ。ランレイ、ここからきた。セルジュ、来てくれてうれしーよ」
「ふん。好きで来たわけでは無い。用事が済んだらすぐに帰るからな」
「お…お前ら、さっさと下りろっ。重いんだよっ」
クラウスは二人が退くと、何とか立ち上がり、周りを見回した。日輪も月も見えず、今は昼か夜か、大地は薄暗く何処か鬼哭啾々として物悲しい。歩くのに苦は無いが、ヴァークリヒラントのように暖かな陽光は無く、背の低い草は蒼々と続いていき、彼の故郷ならば命を生み出して支える沃土である。
しかし今のクラウスからすれば、この広大な原野は死を齎すものに見えた。人無き草原、天は灰色に染まり、彼で無くとも旅愁を想わざるを得ないであろう。
クラウスは調子を崩さないセルジュ、煩い程にはしゃいで、あれこれ話しているランレイとは対照的に、クラウスは空を見上げながら、
「随分、遠くまで来ちまったな…。なあ、俺達どうやって帰るんだ? ヤタノ鏡はもうねえぞ」
「来た側から何を言っている。俺はこんな所で一生暮らすつもりは無い。ランレイ、近くに街はあるか? 」
「はいなっ。案内するよっ」
ランレイの先導でクラウスとセルジュは歩きだそうとしたが、ふとクラウスは、座り込んだままのソフィアを見た。タイ山での戦闘の直後から何処か悄然としていて、いつものように根拠の無い自信と覇気が感じられない。
常ならば、真っ先に先頭に立つ彼女なのだが、溜息などついている様子にクラウスは、心配そうに曰く、
「おい、どうした? 何かあったのか? 」
「え? ああ、何でもないよっ。ごめんね、ちょっと驚いてたっ」
と、ソフィアは破顔して歩き出していった。しかし彼女の心には、セルジュから言われた「お前は自分の罪を他人からの感謝で覆い隠しているだけだ」という言葉がしこりのように残っている。(あたしはどうして此処に来たんだろう…)等と逡巡、そうなのかな、という思いが心に湧き、今までの自分を否定しかねない感情に心が潰れそうなのである。
それを敢えて表に出すことはせず、気丈に振る舞う彼女を見て、以前のクラウスならばそのまま気が付かなかったであろうが、どうもここ最近の彼の目は誤魔化せないらしい。しかしクラウスも詮索はせず、自分を呼ぶランレイの声に歩いていった。
見渡す限り草の海、蒼い廣野である。蕭々と鳴るは蘆狄、灯りが無い、人がいない、希望が無い。まるで死の大地である。風に伏した草叢やその中で無く虫の声、その全てがランレイ以外の一行には人の生命を絶つ暗さに見えた。
クラウスが不安を紛らわそうとセルジュに、
「あの、セルジュ…様」
「呼び捨てで良い。敬語もいらん、暫くは旅の連れだ」
「解った。どうしてセルジュは、旅をしていたんだ? 王太子なんだろ、何もしなくても生きていけるのに、変わってるな」
「妹を捜す為だ。騎士団は父上の横暴の所為で碌に仕事はしないし、平民や奴隷達は上の身分への抵抗なのか、一切協力しようとしない。だから俺が旅に出た。だが、王宮に籠もっているよりはこうして旅をするのも良い」
「そうなのか…お前も大変だな」
するとそこへランレイが、兎のように素早い動きでセルジュに飛び付き、彼にしがみ付きながら、笑顔で、ランレイもセルジュといると楽しーよ、と言い、セルジュの方は、女慣れしていないのか、慌てて彼女を引き剥がし、
「ば、莫迦っ。不節操だぞ、血も繋がって無いし、そういう関係でも無いだろっ」
「うん? どういう関係か? ランレイ、セルジュと友達、仲良し」
「友達なんて勝手に決めるな。…あ、危ないから肩に乗るなっ」
口先では強気だが、セルジュはランレイを心底嫌いというわけでは無いらしい。莫迦な奴だ、とは思いつつも彼女の饒舌に寡黙ながらも付き合っている。クラウスはそれを見て、非常に自然な付き合いだと感じた。
ランレイが精神的に幼いという事もあるのだろうが、王太子に対する媚びや畏れは感じられず、話しているのが楽しいからという、クラウスとソフィアに話し掛けるのと同じ理由で、彼女はセルジュと話しているのだ。
ふとクラウスは、後ろにいるソフィアを見た。いつの間にか最後尾にいた彼女は、心ここにあらず、といった雰囲気で寂然として歩いている。クラウスは、一人取り残されている気分になってしまった。
数日後、クラウス達はランレイが住んでいるという街に辿り着いた。街を囲う城牆は土を固めた土牆で、東西南北にある四門は、ヴァークリヒラントで見た精霊の祠の如く、木造の楼閣で鋭い反り屋根を宙天に並べている。
街に入ったクラウス達は、その街並みに驚いた。行き交う人々は須く頭頂部に巾を戴いて髪を纏め、何処かに龍の紋様をほどこした衣服を着ているのだ。土壁焼瓦の家が並び、布と柱のみの粗末な露店が並び、昼時なので、蒸籠や金網で旨そうな煙を立てている。石畳では無い、土の道なので、城内は埃っぽい。
クラウスは、野鴨の丸揚げや生肉を売っている店と雑貨売りが並んでいるのを見て、
「この街は良いな。平民も奴隷も仲が良さそうだ。住むところは決められてるのか? 」
「何言ってるか? 偉い人いるけど、そんなもの無いよ。頑張れば偉い人なれる」
「本当だったのかよ…理解出来ないな。それって親が偉くても、駄目なんだろ? 俺はちょっと駄目だな」
等と語らいながら歩いていると、住民達がひそひそとクラウス達を見て何か話している。服装も雰囲気も違う彼らが珍しいのであろうか、眼が合うと足早に去ってしまう。
クラウスはランレイに、早く行こうぜ、と言って道を急がせた。ぽくぽくと沓を鳴らしながら街の一角にある、楊柳の下にある小屋に着くと、ランレイは粗末な木戸を開けて一行を入れた。
中は薄暗く、伽藍のようにしんとしている。箪笥は無く、牀と卓が一つずつあるのみであった。ランレイは厨に行って何かし始めた。セルジュが見てみると、干し鳥をそのまま割いて木皿に並べているのだ。
「莫迦、何をしてるんだ。退け、俺が作る。お前に任せていると何を出されるか解らん」
「セルジュ、料理出来るか? 剣使うの、違うよ」
「二年間も旅をしているんだ。出来ないわけがないだろ…って刃物をこっちに向けるなっ。急に火を付けるなっ」
賑やかな厨を横目に、クラウスはソフィアを見た。彼女はいよいよ暗い心に閉ざされているらしく、眠っているのか解らない様子で項垂れている。
やがて麦の粥や肉の類いで構成される食事が出て来た。貧しいながらも整った盛り付けからは、やはりセルジュの生まれの高貴さが窺える。
食後、ソフィアが、
「ねぇランレイ。あなた、ご両親はいない、って言ってたけど誰か家族はいないの? 」
「いないよ。ランレイは一人」
それを聞いたセルジュは、気に掛かるのか、訝しげに、
「おい。お前はずっと一人で暮らしているのか? 流石に誰かいないと」
「セルジュ、余りプライベートを詮索するな。家族でも無いのに」
と、クラウスがセルジュを止めたので、一瞬座は白けたが、ランレイが立ち上がり、街を案内するよ、と言った。
セルジュは異世界が気になるのか、二つ返事で承諾し、クラウスはもう筵に寝そべって眠る準備に入っている。ソフィアも疲れたから、と腑抜けた声で言い、椅子から動こうとはしなかった。
ランレイはセルジュを先導して街を案内し始めた。居並ぶ家々や街行く人、ランレイの話を聞きながらセルジュは、(神話と同じだ。この世界が数千年前と同じ文化なのか)と改めて自分が踏み入れた問題の壮大さを改めて知った様子。
通り掛かった童子達が、こんにちは、と中々礼儀正しく叉手の礼を取った――が、忽ちニヤリとして、熱々だ、と揶揄い出した。すると、そこへ一人の少年、童子達の頭目らしき十四歳ほどの少年が雉のように風を切って駆け付けてきた。
少年はウンランと名乗り、端から喧嘩口調、
「おいお前っ。ランレイに近付いて何をするつもりだっ。髪の色もおかしいし着ている服も違う。何処から来たっ」
「誰だお前は。俺はこいつとは何にも無いぞ。俺はヴァークリヒラントの王子、セルジュだ」
「ヴァークリヒラントォ? でたらめ言うな。良いか、俺はランレイがこの街に来た時からの知り合いなんだ。ちょっかい出したら承知しないぞ」
何だこいつは、とでも言いたげなセルジュの前にランレイが割って入り、辞めてよ、とウンランを止めた。赤面する彼を見、成る程、とセルジュは彼の心に気が付いた。
口調こそ乱暴極まるが、ランレイに手を握られ、仲良ししないは駄目、と言われたウンランはすっかり赤面し、言われるがままに不承不承ながらもセルジュに頭を下げた。彼はランレイに惹かれているのである。
ランレイは気が付いていないらしいが、彼女に飛び付かれるウンランは、真っ赤になって早口で何か言っている。ランレイは彼に心を許しているが、それは友人としてであり、彼の方は自分の想いに気が付いて貰えていない、と歯痒さを感じている。触れ合っているがすれ違っている、そういう関係なのである。
しかし、こうしてランレイとウンランが歓談しているのを見ているセルジュはどうなのであろうか。鉄面皮ではあるが、彼とて石像では無い。笑顔で動くランレイの姿を双眸で追い、何かを考えている。その瞳には優しさがあり、自分でもどうして出会ったばかりの彼女に敵意を持たないのか不思議なのである。
セルジュは、俺らしくもない、と自嘲し、
「おい、案内の途中だ。来い」
「あ、おいっ。セルジュ、まだ話は終わってないぞ」
「ウンラン、またな。ランレイ、今日セルジュと一緒」
セルジュは自分を先導するランレイの背中を見て、自分には無いものを感じていた。誰とでも仲良く出来、セルジュも彼女に絆された。それだけに危うさがある。(あいつに似てるな)と彼は思いながら歩いていった。
――クラウスは不意に寒気を感じて起き上がった。厠に行って帰ると、部屋の隅にソフィアが座っていた。
クラウスは卓を挟んで彼女の向かい側に座り、
「どうしたんだよ。この世界に来てから、殆ど食ってないしずっと落ち込んでるし。何かあったのか? 」
「うん、ちょっとね…。あたし、どうして此処にいるんだろうな、って思っちゃって。あたし、今までどうして他人を助けて来たんだろう…」
クラウスは、蚊の鳴くような声で暗澹としているソフィアに向かって、慰めるように敢えて声を励まし、
「そんな事、簡単にはいえないだろ。アンセルだって騎士団長だったのに、善し悪しは別だけど、悩んだ末に王国をひっくり返す為に、ヤタノ鏡を奪おうとしたんだ。アンセルだって悩んだんだから悩むのは当たり前だろ」
「そうかな? 」
「これから七十くらいまで生きるんだから、いつか答えが出るだろ。それでお前自身の正義を見つければ良いだろ」
「…それって、フェイロンさんの受け売りでしょ。あはは、クラウスがそんな事言うわけないもん」
他人の言葉を引用したのを看破されたクラウスは、しどろもどろにあれこれ繕ったが、はいはい、とソフィアは安心したように彼をあしらった。
そこへ木戸を蹴り開けてセルジュが入って来た。その背にはランレイが寝入っており、セルジュは、全く、とぼやきながらも彼女を牀に下ろし、自分は筵に座った。
ソフィアは、もう吹っ切れたのか、
「あらセルジュ。もうランレイとそんなに仲良くなったの? おんぶして帰ってくるなんて」
「ふん。誰がこんな奴と。こいつが途中で眠ったから、捨てて行くわけにいかなかっただけだ。寝るぞ」
「お前、意外に優しいんだな」
「黙れ」
セルジュは筵に身を投げ出して、クラウス達に背中を向けた。彼の照れ隠しを見て、ソフィアは笑顔を浮かべて、彼女も筵に入った。クラウスは大見得を切った自分が恥ずかしくなったが、ソフィアが憂愁を晴らしたようなのを見て、彼も寝入った。
墨のように真っ黒な空は夜が更けていくに連れて暗くなっていく。分厚い雲は星を通さず、僅かに月光が硝子のようにチラチラと差し込む。ヴァークリヒラントと暦が同じなので、夏ではあるのだが、やませのような朔風が吹き、土煙が街に舞っていた。
翌朝、クラウス達はランレイの知り合いだという預言者の屋敷に向かっていた。彼はランレイに小屋を貸し与えている大家であり、彼女に魔女の野望を教えた男である。
屋敷の周りは庶民のものとは思えぬ土塀に囲まれ、古いながらも尾を噛む龍を象った門がある。屋根は瓦で覆われ、四隅にも龍がいる。入ってゆくと、小さな林が緑の洞を作り、溜め池に架かる橋の向こうには亭がある。鳥が舞い虚空を緑葉が彩る。紅楼夢のような庭を通り、母屋に向かうと、人影がある。
それは年老いた痩せぎすの男であった。ランレイは彼を見るや、ユウロン、と笑顔で飛び付き、クラウス達を脇目に相当懐かしいのか、相当早口で何か言っている。
しかし男はクラウスを見るや否、あたかも現世の文殊弥勒でも見たように彼の目の前に頓首して、叉手を頭に上げる礼をした。
「貴方こそ、貴方こそ魑魅魍魎を退け、乱麻の暗雲を晴らす日輪に違いない。オオ、生きていて良かった」
「ちょ、ちょっと。何ですかいきなり。辞めてくださいよ、恥ずかしい」
クラウスは男の手を取ったが、男は彼の手を額に押し抱いて、随喜して止まない。ランレイが、中に行こうよ、と言ってようやく彼は立ち上がった。
母屋の中は板張りで、黒木の柱が数本ある。読み古された本が其処彼処に積まれ、紙の海のようになっている。
クラウス達はその様子に瞠目し、足の踏み場に困りつつ、席に着いた。性質としては学者肌のセルジュは、内心羨ましく思ったが、何も言わずに座った。
この男こそ預言者イー・ユウロンであり、森にいたランレイを拾った男である。彼はクラウス達に、自分が受けた啓示について語り始めた。
――ユウロンはシュピーゲルラント各地を遊学する学者であった。十年ほど前に魔女が現れて世界が闇に閉ざされて以来、魔女が現れた原因を知るため各地を旅し文献を探っていた。そこで彼はシュピーゲルラントを守る三女神が封印され、異世界も危機に瀕している事を、不意に天啓の声に教えられた。
魔女は旧王城を自分の居城に改造し、封印した三つの霊峰から配下に張らせた結界で城の姿を暗雲の中に隠している。魔女は、かつて創造神に逆らった王が使っていた強力な闇の魔力を有しており、刃も矢も届かない。それに対抗出来るには数千年前に、創造神に選ばれた神子が、闇の魔力を使う王を二つの世界の間に作られた狭間の世界に封じる為に使った力のみである。
魔女はヴァークリヒラントの結界の淵源を破壊し、二つの世界を衝突させて消滅させるつもりである。その為に配下を送り込んでいる。
――ユウロンは語り終わると、またしてもクラウスの前に拝跪して、叉手しながら、戸惑う彼に、
「ランレイが貴方を連れて来てくれて良かった。貴方こそが数千年前、狭間の王を封印した神子の生まれ変わり、つまり魔女を斃せる唯一の人なのだ! 」
「お、俺はそんな大それた奴じゃないですよ。何かの間違いですよ」
クラウスは慌てて否定し、彼の手を振り払おうとしたが、それを許さぬ勢力が後ろにいる。
「クラウス、凄いじゃないっ。あなたが世界を救えるんだよ。凄い、お話みたいじゃない、やろうよ」
「クラウス、お願いする。ランレイと一緒に、戦ってほしい。頭下げる」
「クラウス。逆に言えば、お前がやらないと世界はどっちも消えてなくなるという事だ。いやとは言わせない。おい爺、霊峰の場所は何処だ」
最早断る事は出来ないし、クラウスも世界が滅びるのを黙って見ているつもりはない。彼は覚悟を決めた眼差しで、ユウロンにシュピーゲルラントの地図を求めた。
ユウロンは賛嘆して止まず、須臾の内に地図を取り出し、三つの霊峰の場所とシュピーゲルラントの地理を詳細に記入し、クラウス達に地図を渡した。
その日は、旅の下準備をしなされ、とユウロンから支度金を渡され、買出しの後、彼らは翌朝の出発に備えて部屋に入った。
さて、クラウスとソフィアは寝息を立てているが、ランレイは例の如く寝苦しそうにしている。セルジュが心配そうに彼女を起こし、
「大丈夫か? お前、この世界に来てからずっとうなされてるぞ。何かあったのか」
「な、何もないよ…あはは。ランレイ、変だね」
「お前、おかーさん、と言っていたな。本当に両親はいないのか? 思い出くらいはあるんだろ。俺の母上も俺が五歳の頃に死んだが、温もりと優しい腕を今でも覚えている。どうだお前は」
「…」
ランレイはその時、頭に映像がよぎった。彼女が四歳くらいの頃である。
幼い自分は壁際に追い詰められ、目の前では木杖を持った女、面こそ人間のものだが、内面は悪鬼である。奇声を上げて何度も木杖を振り下ろし、女はランレイを投げる。今まで断片的に夢で見ていたものが鮮明に頭で繰り返され、痛みすら感じる気がする。
ランレイは、身体を震わせ、
「無い! 無い無い無い。ランレイ、思い出無い、辞めて! 」
「お、おい。俺はそんなつもりじゃ」
「無い! 辞めて辞めてよっ」
悪かった、とセルジュは慌てて言ったが、ランレイは泣き出してしまった。セルジュは、怯える彼女を優しく抱き、泣き疲れて眠るまで背中をさすってやった。その後、セルジュは寝入ったランレイを牀に置いたが、彼は一体どうして、彼女にそこまで心を砕くのか自分でも解らないのであった。
翌朝、セルジュはランレイに蹴り起こされた。彼は常と変わらず、跳ね回る彼女を見て、大丈夫か、と尋ねたが、
「ランレイ、へーき。セルジュいる、クラウスもソフィアもいるからっ」
「そいつは良かった…って寄るなっ」
クラウスとソフィアは、物音に気が付いて起き出し、じゃれ合う彼らを見て、
「何だ二人とも、朝から仲が良いな。お熱いようで羨ましい」
「なぁんだセルジュ、口先では強気でも、あたし達が見ていないと」
「な、何を言うんだ、おい、離れろっ」
ソフィアもランレイも立ち直った様子で、クラウス達は、払暁の僅かな時間にしか差さない朝陽を受けて、新たな一歩を踏み出した。目指すは三つの霊峰の解放、心に新たな目標を持った一行は歩き出していった。
雷光に紛れて、光球が空からゆっくりと墜ちてきた。真っ直ぐに雲間から出て来たそれは、雷から別れて、地上に落下した。ぱっと光球は弾け、中から出て来た男女が四人。これこそヴァークリヒラントからやって来たクラウス達である。
地上から少し離れた場所で弾けたので、クラウス達は折り重なるようにして次々に落ちた。季節としては夏の頃、ヴァークリヒラントではうだるような暑さだというのに、ここでは空っ風が吹いているように肌寒い。
「何だか寒いな…此処がシュピーゲルラントか? ランレイ、お前の故郷か? 」
「そだよ。ランレイ、ここからきた。セルジュ、来てくれてうれしーよ」
「ふん。好きで来たわけでは無い。用事が済んだらすぐに帰るからな」
「お…お前ら、さっさと下りろっ。重いんだよっ」
クラウスは二人が退くと、何とか立ち上がり、周りを見回した。日輪も月も見えず、今は昼か夜か、大地は薄暗く何処か鬼哭啾々として物悲しい。歩くのに苦は無いが、ヴァークリヒラントのように暖かな陽光は無く、背の低い草は蒼々と続いていき、彼の故郷ならば命を生み出して支える沃土である。
しかし今のクラウスからすれば、この広大な原野は死を齎すものに見えた。人無き草原、天は灰色に染まり、彼で無くとも旅愁を想わざるを得ないであろう。
クラウスは調子を崩さないセルジュ、煩い程にはしゃいで、あれこれ話しているランレイとは対照的に、クラウスは空を見上げながら、
「随分、遠くまで来ちまったな…。なあ、俺達どうやって帰るんだ? ヤタノ鏡はもうねえぞ」
「来た側から何を言っている。俺はこんな所で一生暮らすつもりは無い。ランレイ、近くに街はあるか? 」
「はいなっ。案内するよっ」
ランレイの先導でクラウスとセルジュは歩きだそうとしたが、ふとクラウスは、座り込んだままのソフィアを見た。タイ山での戦闘の直後から何処か悄然としていて、いつものように根拠の無い自信と覇気が感じられない。
常ならば、真っ先に先頭に立つ彼女なのだが、溜息などついている様子にクラウスは、心配そうに曰く、
「おい、どうした? 何かあったのか? 」
「え? ああ、何でもないよっ。ごめんね、ちょっと驚いてたっ」
と、ソフィアは破顔して歩き出していった。しかし彼女の心には、セルジュから言われた「お前は自分の罪を他人からの感謝で覆い隠しているだけだ」という言葉がしこりのように残っている。(あたしはどうして此処に来たんだろう…)等と逡巡、そうなのかな、という思いが心に湧き、今までの自分を否定しかねない感情に心が潰れそうなのである。
それを敢えて表に出すことはせず、気丈に振る舞う彼女を見て、以前のクラウスならばそのまま気が付かなかったであろうが、どうもここ最近の彼の目は誤魔化せないらしい。しかしクラウスも詮索はせず、自分を呼ぶランレイの声に歩いていった。
見渡す限り草の海、蒼い廣野である。蕭々と鳴るは蘆狄、灯りが無い、人がいない、希望が無い。まるで死の大地である。風に伏した草叢やその中で無く虫の声、その全てがランレイ以外の一行には人の生命を絶つ暗さに見えた。
クラウスが不安を紛らわそうとセルジュに、
「あの、セルジュ…様」
「呼び捨てで良い。敬語もいらん、暫くは旅の連れだ」
「解った。どうしてセルジュは、旅をしていたんだ? 王太子なんだろ、何もしなくても生きていけるのに、変わってるな」
「妹を捜す為だ。騎士団は父上の横暴の所為で碌に仕事はしないし、平民や奴隷達は上の身分への抵抗なのか、一切協力しようとしない。だから俺が旅に出た。だが、王宮に籠もっているよりはこうして旅をするのも良い」
「そうなのか…お前も大変だな」
するとそこへランレイが、兎のように素早い動きでセルジュに飛び付き、彼にしがみ付きながら、笑顔で、ランレイもセルジュといると楽しーよ、と言い、セルジュの方は、女慣れしていないのか、慌てて彼女を引き剥がし、
「ば、莫迦っ。不節操だぞ、血も繋がって無いし、そういう関係でも無いだろっ」
「うん? どういう関係か? ランレイ、セルジュと友達、仲良し」
「友達なんて勝手に決めるな。…あ、危ないから肩に乗るなっ」
口先では強気だが、セルジュはランレイを心底嫌いというわけでは無いらしい。莫迦な奴だ、とは思いつつも彼女の饒舌に寡黙ながらも付き合っている。クラウスはそれを見て、非常に自然な付き合いだと感じた。
ランレイが精神的に幼いという事もあるのだろうが、王太子に対する媚びや畏れは感じられず、話しているのが楽しいからという、クラウスとソフィアに話し掛けるのと同じ理由で、彼女はセルジュと話しているのだ。
ふとクラウスは、後ろにいるソフィアを見た。いつの間にか最後尾にいた彼女は、心ここにあらず、といった雰囲気で寂然として歩いている。クラウスは、一人取り残されている気分になってしまった。
数日後、クラウス達はランレイが住んでいるという街に辿り着いた。街を囲う城牆は土を固めた土牆で、東西南北にある四門は、ヴァークリヒラントで見た精霊の祠の如く、木造の楼閣で鋭い反り屋根を宙天に並べている。
街に入ったクラウス達は、その街並みに驚いた。行き交う人々は須く頭頂部に巾を戴いて髪を纏め、何処かに龍の紋様をほどこした衣服を着ているのだ。土壁焼瓦の家が並び、布と柱のみの粗末な露店が並び、昼時なので、蒸籠や金網で旨そうな煙を立てている。石畳では無い、土の道なので、城内は埃っぽい。
クラウスは、野鴨の丸揚げや生肉を売っている店と雑貨売りが並んでいるのを見て、
「この街は良いな。平民も奴隷も仲が良さそうだ。住むところは決められてるのか? 」
「何言ってるか? 偉い人いるけど、そんなもの無いよ。頑張れば偉い人なれる」
「本当だったのかよ…理解出来ないな。それって親が偉くても、駄目なんだろ? 俺はちょっと駄目だな」
等と語らいながら歩いていると、住民達がひそひそとクラウス達を見て何か話している。服装も雰囲気も違う彼らが珍しいのであろうか、眼が合うと足早に去ってしまう。
クラウスはランレイに、早く行こうぜ、と言って道を急がせた。ぽくぽくと沓を鳴らしながら街の一角にある、楊柳の下にある小屋に着くと、ランレイは粗末な木戸を開けて一行を入れた。
中は薄暗く、伽藍のようにしんとしている。箪笥は無く、牀と卓が一つずつあるのみであった。ランレイは厨に行って何かし始めた。セルジュが見てみると、干し鳥をそのまま割いて木皿に並べているのだ。
「莫迦、何をしてるんだ。退け、俺が作る。お前に任せていると何を出されるか解らん」
「セルジュ、料理出来るか? 剣使うの、違うよ」
「二年間も旅をしているんだ。出来ないわけがないだろ…って刃物をこっちに向けるなっ。急に火を付けるなっ」
賑やかな厨を横目に、クラウスはソフィアを見た。彼女はいよいよ暗い心に閉ざされているらしく、眠っているのか解らない様子で項垂れている。
やがて麦の粥や肉の類いで構成される食事が出て来た。貧しいながらも整った盛り付けからは、やはりセルジュの生まれの高貴さが窺える。
食後、ソフィアが、
「ねぇランレイ。あなた、ご両親はいない、って言ってたけど誰か家族はいないの? 」
「いないよ。ランレイは一人」
それを聞いたセルジュは、気に掛かるのか、訝しげに、
「おい。お前はずっと一人で暮らしているのか? 流石に誰かいないと」
「セルジュ、余りプライベートを詮索するな。家族でも無いのに」
と、クラウスがセルジュを止めたので、一瞬座は白けたが、ランレイが立ち上がり、街を案内するよ、と言った。
セルジュは異世界が気になるのか、二つ返事で承諾し、クラウスはもう筵に寝そべって眠る準備に入っている。ソフィアも疲れたから、と腑抜けた声で言い、椅子から動こうとはしなかった。
ランレイはセルジュを先導して街を案内し始めた。居並ぶ家々や街行く人、ランレイの話を聞きながらセルジュは、(神話と同じだ。この世界が数千年前と同じ文化なのか)と改めて自分が踏み入れた問題の壮大さを改めて知った様子。
通り掛かった童子達が、こんにちは、と中々礼儀正しく叉手の礼を取った――が、忽ちニヤリとして、熱々だ、と揶揄い出した。すると、そこへ一人の少年、童子達の頭目らしき十四歳ほどの少年が雉のように風を切って駆け付けてきた。
少年はウンランと名乗り、端から喧嘩口調、
「おいお前っ。ランレイに近付いて何をするつもりだっ。髪の色もおかしいし着ている服も違う。何処から来たっ」
「誰だお前は。俺はこいつとは何にも無いぞ。俺はヴァークリヒラントの王子、セルジュだ」
「ヴァークリヒラントォ? でたらめ言うな。良いか、俺はランレイがこの街に来た時からの知り合いなんだ。ちょっかい出したら承知しないぞ」
何だこいつは、とでも言いたげなセルジュの前にランレイが割って入り、辞めてよ、とウンランを止めた。赤面する彼を見、成る程、とセルジュは彼の心に気が付いた。
口調こそ乱暴極まるが、ランレイに手を握られ、仲良ししないは駄目、と言われたウンランはすっかり赤面し、言われるがままに不承不承ながらもセルジュに頭を下げた。彼はランレイに惹かれているのである。
ランレイは気が付いていないらしいが、彼女に飛び付かれるウンランは、真っ赤になって早口で何か言っている。ランレイは彼に心を許しているが、それは友人としてであり、彼の方は自分の想いに気が付いて貰えていない、と歯痒さを感じている。触れ合っているがすれ違っている、そういう関係なのである。
しかし、こうしてランレイとウンランが歓談しているのを見ているセルジュはどうなのであろうか。鉄面皮ではあるが、彼とて石像では無い。笑顔で動くランレイの姿を双眸で追い、何かを考えている。その瞳には優しさがあり、自分でもどうして出会ったばかりの彼女に敵意を持たないのか不思議なのである。
セルジュは、俺らしくもない、と自嘲し、
「おい、案内の途中だ。来い」
「あ、おいっ。セルジュ、まだ話は終わってないぞ」
「ウンラン、またな。ランレイ、今日セルジュと一緒」
セルジュは自分を先導するランレイの背中を見て、自分には無いものを感じていた。誰とでも仲良く出来、セルジュも彼女に絆された。それだけに危うさがある。(あいつに似てるな)と彼は思いながら歩いていった。
――クラウスは不意に寒気を感じて起き上がった。厠に行って帰ると、部屋の隅にソフィアが座っていた。
クラウスは卓を挟んで彼女の向かい側に座り、
「どうしたんだよ。この世界に来てから、殆ど食ってないしずっと落ち込んでるし。何かあったのか? 」
「うん、ちょっとね…。あたし、どうして此処にいるんだろうな、って思っちゃって。あたし、今までどうして他人を助けて来たんだろう…」
クラウスは、蚊の鳴くような声で暗澹としているソフィアに向かって、慰めるように敢えて声を励まし、
「そんな事、簡単にはいえないだろ。アンセルだって騎士団長だったのに、善し悪しは別だけど、悩んだ末に王国をひっくり返す為に、ヤタノ鏡を奪おうとしたんだ。アンセルだって悩んだんだから悩むのは当たり前だろ」
「そうかな? 」
「これから七十くらいまで生きるんだから、いつか答えが出るだろ。それでお前自身の正義を見つければ良いだろ」
「…それって、フェイロンさんの受け売りでしょ。あはは、クラウスがそんな事言うわけないもん」
他人の言葉を引用したのを看破されたクラウスは、しどろもどろにあれこれ繕ったが、はいはい、とソフィアは安心したように彼をあしらった。
そこへ木戸を蹴り開けてセルジュが入って来た。その背にはランレイが寝入っており、セルジュは、全く、とぼやきながらも彼女を牀に下ろし、自分は筵に座った。
ソフィアは、もう吹っ切れたのか、
「あらセルジュ。もうランレイとそんなに仲良くなったの? おんぶして帰ってくるなんて」
「ふん。誰がこんな奴と。こいつが途中で眠ったから、捨てて行くわけにいかなかっただけだ。寝るぞ」
「お前、意外に優しいんだな」
「黙れ」
セルジュは筵に身を投げ出して、クラウス達に背中を向けた。彼の照れ隠しを見て、ソフィアは笑顔を浮かべて、彼女も筵に入った。クラウスは大見得を切った自分が恥ずかしくなったが、ソフィアが憂愁を晴らしたようなのを見て、彼も寝入った。
墨のように真っ黒な空は夜が更けていくに連れて暗くなっていく。分厚い雲は星を通さず、僅かに月光が硝子のようにチラチラと差し込む。ヴァークリヒラントと暦が同じなので、夏ではあるのだが、やませのような朔風が吹き、土煙が街に舞っていた。
翌朝、クラウス達はランレイの知り合いだという預言者の屋敷に向かっていた。彼はランレイに小屋を貸し与えている大家であり、彼女に魔女の野望を教えた男である。
屋敷の周りは庶民のものとは思えぬ土塀に囲まれ、古いながらも尾を噛む龍を象った門がある。屋根は瓦で覆われ、四隅にも龍がいる。入ってゆくと、小さな林が緑の洞を作り、溜め池に架かる橋の向こうには亭がある。鳥が舞い虚空を緑葉が彩る。紅楼夢のような庭を通り、母屋に向かうと、人影がある。
それは年老いた痩せぎすの男であった。ランレイは彼を見るや、ユウロン、と笑顔で飛び付き、クラウス達を脇目に相当懐かしいのか、相当早口で何か言っている。
しかし男はクラウスを見るや否、あたかも現世の文殊弥勒でも見たように彼の目の前に頓首して、叉手を頭に上げる礼をした。
「貴方こそ、貴方こそ魑魅魍魎を退け、乱麻の暗雲を晴らす日輪に違いない。オオ、生きていて良かった」
「ちょ、ちょっと。何ですかいきなり。辞めてくださいよ、恥ずかしい」
クラウスは男の手を取ったが、男は彼の手を額に押し抱いて、随喜して止まない。ランレイが、中に行こうよ、と言ってようやく彼は立ち上がった。
母屋の中は板張りで、黒木の柱が数本ある。読み古された本が其処彼処に積まれ、紙の海のようになっている。
クラウス達はその様子に瞠目し、足の踏み場に困りつつ、席に着いた。性質としては学者肌のセルジュは、内心羨ましく思ったが、何も言わずに座った。
この男こそ預言者イー・ユウロンであり、森にいたランレイを拾った男である。彼はクラウス達に、自分が受けた啓示について語り始めた。
――ユウロンはシュピーゲルラント各地を遊学する学者であった。十年ほど前に魔女が現れて世界が闇に閉ざされて以来、魔女が現れた原因を知るため各地を旅し文献を探っていた。そこで彼はシュピーゲルラントを守る三女神が封印され、異世界も危機に瀕している事を、不意に天啓の声に教えられた。
魔女は旧王城を自分の居城に改造し、封印した三つの霊峰から配下に張らせた結界で城の姿を暗雲の中に隠している。魔女は、かつて創造神に逆らった王が使っていた強力な闇の魔力を有しており、刃も矢も届かない。それに対抗出来るには数千年前に、創造神に選ばれた神子が、闇の魔力を使う王を二つの世界の間に作られた狭間の世界に封じる為に使った力のみである。
魔女はヴァークリヒラントの結界の淵源を破壊し、二つの世界を衝突させて消滅させるつもりである。その為に配下を送り込んでいる。
――ユウロンは語り終わると、またしてもクラウスの前に拝跪して、叉手しながら、戸惑う彼に、
「ランレイが貴方を連れて来てくれて良かった。貴方こそが数千年前、狭間の王を封印した神子の生まれ変わり、つまり魔女を斃せる唯一の人なのだ! 」
「お、俺はそんな大それた奴じゃないですよ。何かの間違いですよ」
クラウスは慌てて否定し、彼の手を振り払おうとしたが、それを許さぬ勢力が後ろにいる。
「クラウス、凄いじゃないっ。あなたが世界を救えるんだよ。凄い、お話みたいじゃない、やろうよ」
「クラウス、お願いする。ランレイと一緒に、戦ってほしい。頭下げる」
「クラウス。逆に言えば、お前がやらないと世界はどっちも消えてなくなるという事だ。いやとは言わせない。おい爺、霊峰の場所は何処だ」
最早断る事は出来ないし、クラウスも世界が滅びるのを黙って見ているつもりはない。彼は覚悟を決めた眼差しで、ユウロンにシュピーゲルラントの地図を求めた。
ユウロンは賛嘆して止まず、須臾の内に地図を取り出し、三つの霊峰の場所とシュピーゲルラントの地理を詳細に記入し、クラウス達に地図を渡した。
その日は、旅の下準備をしなされ、とユウロンから支度金を渡され、買出しの後、彼らは翌朝の出発に備えて部屋に入った。
さて、クラウスとソフィアは寝息を立てているが、ランレイは例の如く寝苦しそうにしている。セルジュが心配そうに彼女を起こし、
「大丈夫か? お前、この世界に来てからずっとうなされてるぞ。何かあったのか」
「な、何もないよ…あはは。ランレイ、変だね」
「お前、おかーさん、と言っていたな。本当に両親はいないのか? 思い出くらいはあるんだろ。俺の母上も俺が五歳の頃に死んだが、温もりと優しい腕を今でも覚えている。どうだお前は」
「…」
ランレイはその時、頭に映像がよぎった。彼女が四歳くらいの頃である。
幼い自分は壁際に追い詰められ、目の前では木杖を持った女、面こそ人間のものだが、内面は悪鬼である。奇声を上げて何度も木杖を振り下ろし、女はランレイを投げる。今まで断片的に夢で見ていたものが鮮明に頭で繰り返され、痛みすら感じる気がする。
ランレイは、身体を震わせ、
「無い! 無い無い無い。ランレイ、思い出無い、辞めて! 」
「お、おい。俺はそんなつもりじゃ」
「無い! 辞めて辞めてよっ」
悪かった、とセルジュは慌てて言ったが、ランレイは泣き出してしまった。セルジュは、怯える彼女を優しく抱き、泣き疲れて眠るまで背中をさすってやった。その後、セルジュは寝入ったランレイを牀に置いたが、彼は一体どうして、彼女にそこまで心を砕くのか自分でも解らないのであった。
翌朝、セルジュはランレイに蹴り起こされた。彼は常と変わらず、跳ね回る彼女を見て、大丈夫か、と尋ねたが、
「ランレイ、へーき。セルジュいる、クラウスもソフィアもいるからっ」
「そいつは良かった…って寄るなっ」
クラウスとソフィアは、物音に気が付いて起き出し、じゃれ合う彼らを見て、
「何だ二人とも、朝から仲が良いな。お熱いようで羨ましい」
「なぁんだセルジュ、口先では強気でも、あたし達が見ていないと」
「な、何を言うんだ、おい、離れろっ」
ソフィアもランレイも立ち直った様子で、クラウス達は、払暁の僅かな時間にしか差さない朝陽を受けて、新たな一歩を踏み出した。目指すは三つの霊峰の解放、心に新たな目標を持った一行は歩き出していった。
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