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序章
第三話
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東へ歩く、東へ行く。クラウス達は只管、アクィナス教授の師匠であるという占い師リーシェンの住むレンツ山を目指していた。陽が強ければ汗流れ、雨が降れば濡れ鼠。とにかく、徒歩での旅は過酷である。
道行く草原は昼になれば、天色の空の下、見渡す限りの若葉色の絨毯を広げ、夜になれば藍色の空に浮かぶ月の光を受けて夜露に輝き、深碧の丘陵となる。雨が降れば薄墨色の曇天から、小珠が草叢に振り撒かれる。
旅情を慰めるのは美しい景色、気の合う仲間である。人生という旅路においても、楽しみを添えるのは、脇道と途中で出会う友人や様々な人間である。
クラウス達は、今日でもう五日も東への旅路を続けている。春先のそよ風と麗らかな陽差しを受け、クラウスは欠伸をしながら、昼寝でもしたい、と言わんばかりな面持ちで脚だけを気怠そうに右、左、右と動かしている。
ランレイはケルバー村を出て以来、草叢や青空を見ては、初めて人間界に出た野人のように眼を輝かせ、一人で彼方此方走り回って喜んでいた。夜になれば星に向かって手を伸ばしてその場で跳んだり、木に登ったり、星が取れないものかと思案している様子。
ソフィアは、ランレイの気狂いにも近い行動を見て、訝しげにクラウスに小声で、
「ねぇあの子、どうしたんだろうね。星が綺麗なのは解るけど、あそこまで喜ぶかな? 何だか初めて見たような、そんな感じ」
「うん、そうか? 誰かさんは小さい頃、こっそり真夜中に家から抜け出して、村の近くの山に俺を引っ張っていったよな? 山の上でクラウスに乗れば星が取れる、とか言って。お陰で俺だけひどく怒られたっけ」
「あれそうだっけ? クラウスを連れていったのは覚えてるけど…」
「ソフィアはな、すぐに寝ちまって、何をされても起きなかったんだよ」
ソフィアはそれを聞くと、赤面して眼を泳がせ、あはは、と笑いに誤魔化して恥をその場に残すように、ランレイと並んで歩き出していった。
さてその後五日、ヘルネの街から発って十日後、クラウス達は孔雀石を盛り上げたような山の麓に辿り着いた。周囲に民家は無く、大陸の東端でもあるので、何処からか潮騒も聞こえる。
深緑の山は風が吹けば木々が揺れ、不気味な笑い声にも似た響きを上げる。鬱蒼とした山林は昼間だというのに、どんよりと薄暗い。白霧濛々と立つ滝壺の脇には、山頂に続いているであろう獣道が山林の中に続いている。
「思ったより高い山だな…何処か別の道無いのか? こんな狭くて険しい道、俺は耐えられないぜ」
「大丈夫だよ。だってほら、鹿とか兎だって走ってるじゃない。行こう行こうっ」
「――? 」
「ランレイ、此処を、登るの。大丈夫、あたしが手繋いであげるから。クラウスも早く。皆で行った方が安全だし楽しいよ」
「遠足じゃないんだぞ…ああ、早く終わらせてのんびり暮らしたいぜ」
ぼやきながらもクラウスは、剣を引っ提げ先頭へ、ランレイは鞍馬天狗のように木の枝から枝へ、跳び渡って行く先を警戒する。
まるで森の中に住んでいたように、手慣れた様子で身軽な跳躍を見せるランレイを見て、ソフィアもクラウスも瞠目するのみであった。
やがて一行は山の中腹、清水湧く小池の近くで小休止、麓の滝は此処から急になっているらしく、山道の下の方からは轟々と急流の音が聞こえる。
クラウスが剣を枕に寝転がり、ソフィアが腰を下ろして休んでいると、ランレイは彼らの近く、茂みの中で何かと争っている様子。やがて蠢く革紐のようなものを持ってきた。ソフィアが、何それ、と言い掛けたが、すぐに眼を皿のようにして青冷めた顔で、きゃっ、と跳び退いた。
「ら、ランレイッ。手を離しなさいっ」
「――? 」
「どうしたどうした…って、なんで蛇なんて持ってるんだよっ」
「――! 」
と、ランレイは生きたままの蛇を口に突っ込み、ぐいと食い千切った。旨そうに口を動かす彼女を見て、ソフィアは信じられないといった顔を見せ、クラウスは、野人だな、と呟いた。
そうしている内に、一行は山頂に辿り着いた。
春の梢は蕭々と風に揺れ、陽光がちらちらと覗く。鳥の声は良く澄み通り、淙々と螺鈿細工のような湧き水の水源が音を奏でる。颯々とした一本の巨松の下、渓橋の脇に、捜している高士の山荘はあった。
簡素至極な編み竹の垣を廻らした柴門をくぐり、茅葺き屋根の小さな庵に入ると、中では一人の老翁が座禅を組んで座っている。
「あの、すみません。あたし達、アクィナス教授からあなたが古代語を解るようにしてくれるって聞いて来ました」
「…」
「寝てるんじゃないか? すみません爺さんっ。ちょっと起きてくださいっ」
クラウスは、軽く老翁の肩を叩きながら言うが、老翁は眼を閉じたまま、僅かに口を動かし、詩でも吟ずるような寝言を唱えている。
老翁は岩のように瞑目し、何も言わない。ソフィアは、眉を顰め、語気を強めて彼に詰め寄るが、啞かつんぼの如く緘黙したままである。
是非無く一行は、溜息交じりに山荘を出て、これからどうするかと思案していると、空の一角、彼方に小さな黒点が生じ、それは真っ直ぐにランレイ目掛けて飛んで来る。
はっと気付いたクラウスが、危ない、と彼女を押し倒す。黒点は地面に隕石のように落ち、黒い閃光を放った。クラウス達が眼を開けると、そこには龍頭の盔を戴き、龍紋の甲を纏う男がいた。
彼の手には、長い鎖の先に鉄球を付けた、これまた奇怪な武器がある。
「ワン・ランレイッ。――――! 」
「――――! 」
と、二人は古代語で言い争いを始めたが、やがて男がランレイ目掛けて、神速自在の鉄球を飛ばした。
ソフィアが咄嗟に割って入り、発止とそれを受け払う。しかし敵の力は凄まじく、思わず浮くはソフィアの身。どうと地面に落ちた彼女を見て、クラウスも颯然、剣を抜いて躍り掛かるが、戛然、鎖と刃は火華を散らし、風車のように男は鉄球を回して、クラウスを寄せ付けない。
ぶうん、と男が飛ばす鉄球が、ランレイ目掛けて一直線、しかし猿の如く敏捷な彼女は、それを躱し躱し、クラウスとソフィアも横合いから縦横無尽、斬り掛かって打ち掛かる。剣と甲と八角棒、鏘々と火華が散り、戛々と、それらが触れ合う音がする。
しかし敵も手練れ、乱撃二本の光を掻い潜り、甲の袖や鉄球の鎖で受け止める。隙を見計らったランレイが、男の手元に躍り掛かった――が、彼女よりも早く男の脚が彼女を蹴飛ばした。ランレイは背中から落ち、すかさず男は渾力を込めた鉄球を飛ばす。ランレイッ、クラウスとソフィアが同時に叫ぶ。
「――?! 」
次の瞬間、男の口から出たのは、ひどく狼狽した叫びであった。ランレイは倒立し、後ろに跳んで鉄球を躱し、地面に深々と刺さったそれは、如何に男の力を持ってしても容易に抜けないのである。
その隙にランレイは鎖をつたって彼に駆け寄り、面への骨をも砕く脚の技! 堪らず男は倒れ伏す。
今だっ、とクラウスは彼に躍り掛かって、起き上がろうとする喉元に、ぐさっと剣を突き立てた。喉笛を見事に斬られた男は、瘡から血飛沫を吐いて、全く息が絶えていた。
「ほほほ。君達の互いを思いやる心、よく見させて貰ったよ」
「あ、お爺さんっ」
ソフィアが向いた方向で、先の老翁、即ち山荘の主リーシェンが、鶴氅を纏い、藜の杖を持って山荘の柴門の下で笑っている。
リーシェンはソフィアに近付いて、
「一睡の内に、神雲と碧玉とが、茅屋に来ていようとは夢にも思わなかった。真に無礼な様を見せたね」
「いえ、それよりアクィナスさんから、あなたが古代語を解るようにしてくれるって聞いたんです。どうかランレイの言葉が解るようにしてくれませんか」
「ほほほ。あのようにお互いの事を思い合っている様子を見せられては断れんのう。まあ、あれを見なさい」
と、彼は一方を杖で指した。ソフィアが見てみると、クラウスとランレイが、何やら親しげに話しているではないか。
「クラウス、だいじょぶか? 」
「ああ、ランレイこそ怪我は無いか? 」
「はいなっ。ランレイ、だいじょぶ」
ソフィアは唖然とした表情のまま、ランレイに駆け寄って肩を揺さぶるようにして、あれこれ問いかける。
ランレイはその度に笑顔で返し、喜色満面で諸手を挙げている。クラウスは、
「何だよソフィア、そんな怖い顔して。ランレイが何かしたのか? 」
「そうじゃなくてっ。ランレイがあたし達にも解る言葉で話してるじゃないっ。まったく鈍いんだから」
「…あっ! そういえば…ランレイ、俺らが言ってる事解るか? 」
「はいなっ。ランレイ、二人の言ってる事解る。お話出来る、嬉しーよ」
ランレイが跳ねながら喜んでいると、リーシェンの声が聞こえる。微声低吟して曰く、
並ブ世界の存ハ危急ニ瀕シ
求ムルハ昔日ノ神子ガ神力
今神子ガ世二生マレ変ワル時
只神子ガ知ルハ己ガ使命
吟じ終わると、リーシェンはまた笑い出した。
はっとソフィアがリーシェンの方を見ると、彼は白長髯を撫でながら、良し良し、とだけ言うと、神韻縹渺たる姿を返して、また山荘に戻っていってしまった。
クラウス達は急いで後を追ったが、山荘の中はもぬけの殻、人影は一切見当たらなかった。
もう陽も暮れかけて来て、天は紫紺の線に満ち、陽は彼方の山に姿を隠している。下山道は鬱蒼と晦冥に包まれ、不気味な口を開けている。
暗がりを下山するのは危険なので、一行は山荘で夜を明かす事にし、ランレイが自分の旅の目的について語り始めた。
-この世界、ヴァークリヒラントと丁度同じ大きさの異世界、シュピーゲルラントがある。そこでは数千年前、二つの世界が地続きであった時代の言語を話す人間が住み、ヴァークリヒラントとはまるで異なる風俗や生活習慣を持っている。
具体的には、ヴァークリヒラントで人間の姿である創造神は、雄々しい龍の姿で信仰されているので、人々が纏う衣服や武人の甲《よろい》には、龍の紋様がほどこされている。また髪を切るのは親不孝とされているので、巾でまとめている。
創造神に選ばれた、徳を持つ者が民を導く、という考えが支配的であり、為政者は世襲では無く徳を失えば放伐される。時には殺される事もあり、前の支配者の記録は徹底的に焚書される。そんな世界がシュピーゲルラントである。
十二年前、何処からかやって来た女が、謎の力を用いて世界を闇に閉ざし、シュピーゲルラントを支配する魔女として君臨した。魔女は、深紫の光弾や黒霧のようなものを放ち、光弾に当たった者は瞬く間に消滅し、黒霧を吸った者は彼女の意のままに動く木偶人形となった。
十五歳のランレイも、その世界で暮らしていたが、ある日、彼女と知り合いで、創造神から啓示を受けたという預言者が、
「このままあの魔女に支配させていてはもう一つの世界、ヴァークリヒラントと衝突し、二つの世界はどちらも消滅する。今こそあの女を斃して世界の崩壊を止めなくてはいけない」
と喧伝し始めたが、魔女を恐れる民衆は耳を貸さなかった。
ランレイは、真実か否かを確かめる為に王城に忍び込んだ。玉座の間に行った彼女は、魔女を見て攻撃する前に、放たれた闇に包まれて気絶してしまった。
地下牢に放り込まれたランレイは、膝を抱えて暗澹としていた。すると鉄格子が軋む音がした。
「やあランレイ、久し振り…だね」
「あ、あんた誰? 」
ランレイが顔を上げると、そこには透き通った水のような声を放つ、白皙の美青年がいた。彼は、ランレイを見て微笑みを浮かべ、彼女の前に屈み込んで目線を合わせ、
「俺? 俺は…フェイロン、リー・フェイロンだ。俺達は、ずっと昔に会って、俺は君の事を何でも知ってるよランレイ。君は預言者の言葉を信じ、此処に来て信じられないものを見て、攻撃出来なかった。違うかい? 君という人間は、まだ彼女に縋っている」
「…」
「ふふふ。君がいくら期待していても、相手は何とも思っていないだろうね。此処で待っていても、いつか殺されるよ。それよりは、君を助けてくれる人を捜した方が良い。此処から北にあるタイ山に小さな祠があるんだ。そこからもう一つの世界に行って、君を大切にしてくれる仲間を捜すんだ。彼らと一緒に、ヤタノ鏡の欠片を集めて、この世界に戻ってくるんだ」
ランレイは信じられないといった顔で、怯えるようにして青年を見ながら、何も言えなかった。青年は彼女の顔を見て、なお微笑みを崩さず、
「大丈夫さ、希望は残っている、どんな時も。そこに行けば解るさ。君が頼るべき仲間、君を見捨てず、大切にしてくれる仲間はきっといる」
そう言って青年は立ち上がり、またね、とだけ言って飄々と去っていった。ランレイは、急いで後を追ったが、青年の姿は忽然と消えていた。
ランレイは青年の言う通り、タイ山にある祠から、この世界にやって来た。
語り終わってランレイは二人に、
「ランレイ、初めて二人見た時、助けてくれる思った。だからお願いする。ランレイと一緒にヤタノ鏡、集めて二つの世界助けて欲しい」
「それって…世界を救う英雄になれる…ってコト?! 凄いよ、大冒険じゃないっ。行こう行こうっ」
ソフィアは悩む素振りも無く、二つ返事で快諾し、ランレイと一緒に地図を見て、もう四精霊の祠、即ちヤタノ鏡の欠片が隠されているであろう場所を確認している。
クラウスは、話の壮大さに辟易したらしく、慌ててそれに水を差す。
「おいおいおい、ちょっと待てよ。俺達がやるんじゃ話が大き過ぎるって。取り敢えずウンデルベルクに行こうぜ。国王ならきっとやれる事も多いだろうし」
「王都に? …確かにそうだけど信じてくれるかな? いきなり、世界が崩壊します! なんて言っても信じて貰えないよ」
「それは大丈夫だろ。ランレイが何よりの証拠になる。相談してヤタノ鏡を集めて貰おうぜ」
「そうだね。ランレイ、次はねこの国で一番大きな街に行くよ。偉い人達が沢山住んでるから、お行儀良くしないと駄目だよ」
「はいなっ。ランレイ良い子、良い子にしてるよ。大きな街、楽しみだよ」
「本当に大丈夫なのかよ…。とにかく、明日からは王都を目指そうぜ」
その夜は山荘で明かし、翌朝、朝陽と共に一行は山を下りていった。今度は三人の言葉が通じ合い、一層旅も賑やかとなり、一行は王都への旅足を早めて行くのであった。
道行く草原は昼になれば、天色の空の下、見渡す限りの若葉色の絨毯を広げ、夜になれば藍色の空に浮かぶ月の光を受けて夜露に輝き、深碧の丘陵となる。雨が降れば薄墨色の曇天から、小珠が草叢に振り撒かれる。
旅情を慰めるのは美しい景色、気の合う仲間である。人生という旅路においても、楽しみを添えるのは、脇道と途中で出会う友人や様々な人間である。
クラウス達は、今日でもう五日も東への旅路を続けている。春先のそよ風と麗らかな陽差しを受け、クラウスは欠伸をしながら、昼寝でもしたい、と言わんばかりな面持ちで脚だけを気怠そうに右、左、右と動かしている。
ランレイはケルバー村を出て以来、草叢や青空を見ては、初めて人間界に出た野人のように眼を輝かせ、一人で彼方此方走り回って喜んでいた。夜になれば星に向かって手を伸ばしてその場で跳んだり、木に登ったり、星が取れないものかと思案している様子。
ソフィアは、ランレイの気狂いにも近い行動を見て、訝しげにクラウスに小声で、
「ねぇあの子、どうしたんだろうね。星が綺麗なのは解るけど、あそこまで喜ぶかな? 何だか初めて見たような、そんな感じ」
「うん、そうか? 誰かさんは小さい頃、こっそり真夜中に家から抜け出して、村の近くの山に俺を引っ張っていったよな? 山の上でクラウスに乗れば星が取れる、とか言って。お陰で俺だけひどく怒られたっけ」
「あれそうだっけ? クラウスを連れていったのは覚えてるけど…」
「ソフィアはな、すぐに寝ちまって、何をされても起きなかったんだよ」
ソフィアはそれを聞くと、赤面して眼を泳がせ、あはは、と笑いに誤魔化して恥をその場に残すように、ランレイと並んで歩き出していった。
さてその後五日、ヘルネの街から発って十日後、クラウス達は孔雀石を盛り上げたような山の麓に辿り着いた。周囲に民家は無く、大陸の東端でもあるので、何処からか潮騒も聞こえる。
深緑の山は風が吹けば木々が揺れ、不気味な笑い声にも似た響きを上げる。鬱蒼とした山林は昼間だというのに、どんよりと薄暗い。白霧濛々と立つ滝壺の脇には、山頂に続いているであろう獣道が山林の中に続いている。
「思ったより高い山だな…何処か別の道無いのか? こんな狭くて険しい道、俺は耐えられないぜ」
「大丈夫だよ。だってほら、鹿とか兎だって走ってるじゃない。行こう行こうっ」
「――? 」
「ランレイ、此処を、登るの。大丈夫、あたしが手繋いであげるから。クラウスも早く。皆で行った方が安全だし楽しいよ」
「遠足じゃないんだぞ…ああ、早く終わらせてのんびり暮らしたいぜ」
ぼやきながらもクラウスは、剣を引っ提げ先頭へ、ランレイは鞍馬天狗のように木の枝から枝へ、跳び渡って行く先を警戒する。
まるで森の中に住んでいたように、手慣れた様子で身軽な跳躍を見せるランレイを見て、ソフィアもクラウスも瞠目するのみであった。
やがて一行は山の中腹、清水湧く小池の近くで小休止、麓の滝は此処から急になっているらしく、山道の下の方からは轟々と急流の音が聞こえる。
クラウスが剣を枕に寝転がり、ソフィアが腰を下ろして休んでいると、ランレイは彼らの近く、茂みの中で何かと争っている様子。やがて蠢く革紐のようなものを持ってきた。ソフィアが、何それ、と言い掛けたが、すぐに眼を皿のようにして青冷めた顔で、きゃっ、と跳び退いた。
「ら、ランレイッ。手を離しなさいっ」
「――? 」
「どうしたどうした…って、なんで蛇なんて持ってるんだよっ」
「――! 」
と、ランレイは生きたままの蛇を口に突っ込み、ぐいと食い千切った。旨そうに口を動かす彼女を見て、ソフィアは信じられないといった顔を見せ、クラウスは、野人だな、と呟いた。
そうしている内に、一行は山頂に辿り着いた。
春の梢は蕭々と風に揺れ、陽光がちらちらと覗く。鳥の声は良く澄み通り、淙々と螺鈿細工のような湧き水の水源が音を奏でる。颯々とした一本の巨松の下、渓橋の脇に、捜している高士の山荘はあった。
簡素至極な編み竹の垣を廻らした柴門をくぐり、茅葺き屋根の小さな庵に入ると、中では一人の老翁が座禅を組んで座っている。
「あの、すみません。あたし達、アクィナス教授からあなたが古代語を解るようにしてくれるって聞いて来ました」
「…」
「寝てるんじゃないか? すみません爺さんっ。ちょっと起きてくださいっ」
クラウスは、軽く老翁の肩を叩きながら言うが、老翁は眼を閉じたまま、僅かに口を動かし、詩でも吟ずるような寝言を唱えている。
老翁は岩のように瞑目し、何も言わない。ソフィアは、眉を顰め、語気を強めて彼に詰め寄るが、啞かつんぼの如く緘黙したままである。
是非無く一行は、溜息交じりに山荘を出て、これからどうするかと思案していると、空の一角、彼方に小さな黒点が生じ、それは真っ直ぐにランレイ目掛けて飛んで来る。
はっと気付いたクラウスが、危ない、と彼女を押し倒す。黒点は地面に隕石のように落ち、黒い閃光を放った。クラウス達が眼を開けると、そこには龍頭の盔を戴き、龍紋の甲を纏う男がいた。
彼の手には、長い鎖の先に鉄球を付けた、これまた奇怪な武器がある。
「ワン・ランレイッ。――――! 」
「――――! 」
と、二人は古代語で言い争いを始めたが、やがて男がランレイ目掛けて、神速自在の鉄球を飛ばした。
ソフィアが咄嗟に割って入り、発止とそれを受け払う。しかし敵の力は凄まじく、思わず浮くはソフィアの身。どうと地面に落ちた彼女を見て、クラウスも颯然、剣を抜いて躍り掛かるが、戛然、鎖と刃は火華を散らし、風車のように男は鉄球を回して、クラウスを寄せ付けない。
ぶうん、と男が飛ばす鉄球が、ランレイ目掛けて一直線、しかし猿の如く敏捷な彼女は、それを躱し躱し、クラウスとソフィアも横合いから縦横無尽、斬り掛かって打ち掛かる。剣と甲と八角棒、鏘々と火華が散り、戛々と、それらが触れ合う音がする。
しかし敵も手練れ、乱撃二本の光を掻い潜り、甲の袖や鉄球の鎖で受け止める。隙を見計らったランレイが、男の手元に躍り掛かった――が、彼女よりも早く男の脚が彼女を蹴飛ばした。ランレイは背中から落ち、すかさず男は渾力を込めた鉄球を飛ばす。ランレイッ、クラウスとソフィアが同時に叫ぶ。
「――?! 」
次の瞬間、男の口から出たのは、ひどく狼狽した叫びであった。ランレイは倒立し、後ろに跳んで鉄球を躱し、地面に深々と刺さったそれは、如何に男の力を持ってしても容易に抜けないのである。
その隙にランレイは鎖をつたって彼に駆け寄り、面への骨をも砕く脚の技! 堪らず男は倒れ伏す。
今だっ、とクラウスは彼に躍り掛かって、起き上がろうとする喉元に、ぐさっと剣を突き立てた。喉笛を見事に斬られた男は、瘡から血飛沫を吐いて、全く息が絶えていた。
「ほほほ。君達の互いを思いやる心、よく見させて貰ったよ」
「あ、お爺さんっ」
ソフィアが向いた方向で、先の老翁、即ち山荘の主リーシェンが、鶴氅を纏い、藜の杖を持って山荘の柴門の下で笑っている。
リーシェンはソフィアに近付いて、
「一睡の内に、神雲と碧玉とが、茅屋に来ていようとは夢にも思わなかった。真に無礼な様を見せたね」
「いえ、それよりアクィナスさんから、あなたが古代語を解るようにしてくれるって聞いたんです。どうかランレイの言葉が解るようにしてくれませんか」
「ほほほ。あのようにお互いの事を思い合っている様子を見せられては断れんのう。まあ、あれを見なさい」
と、彼は一方を杖で指した。ソフィアが見てみると、クラウスとランレイが、何やら親しげに話しているではないか。
「クラウス、だいじょぶか? 」
「ああ、ランレイこそ怪我は無いか? 」
「はいなっ。ランレイ、だいじょぶ」
ソフィアは唖然とした表情のまま、ランレイに駆け寄って肩を揺さぶるようにして、あれこれ問いかける。
ランレイはその度に笑顔で返し、喜色満面で諸手を挙げている。クラウスは、
「何だよソフィア、そんな怖い顔して。ランレイが何かしたのか? 」
「そうじゃなくてっ。ランレイがあたし達にも解る言葉で話してるじゃないっ。まったく鈍いんだから」
「…あっ! そういえば…ランレイ、俺らが言ってる事解るか? 」
「はいなっ。ランレイ、二人の言ってる事解る。お話出来る、嬉しーよ」
ランレイが跳ねながら喜んでいると、リーシェンの声が聞こえる。微声低吟して曰く、
並ブ世界の存ハ危急ニ瀕シ
求ムルハ昔日ノ神子ガ神力
今神子ガ世二生マレ変ワル時
只神子ガ知ルハ己ガ使命
吟じ終わると、リーシェンはまた笑い出した。
はっとソフィアがリーシェンの方を見ると、彼は白長髯を撫でながら、良し良し、とだけ言うと、神韻縹渺たる姿を返して、また山荘に戻っていってしまった。
クラウス達は急いで後を追ったが、山荘の中はもぬけの殻、人影は一切見当たらなかった。
もう陽も暮れかけて来て、天は紫紺の線に満ち、陽は彼方の山に姿を隠している。下山道は鬱蒼と晦冥に包まれ、不気味な口を開けている。
暗がりを下山するのは危険なので、一行は山荘で夜を明かす事にし、ランレイが自分の旅の目的について語り始めた。
-この世界、ヴァークリヒラントと丁度同じ大きさの異世界、シュピーゲルラントがある。そこでは数千年前、二つの世界が地続きであった時代の言語を話す人間が住み、ヴァークリヒラントとはまるで異なる風俗や生活習慣を持っている。
具体的には、ヴァークリヒラントで人間の姿である創造神は、雄々しい龍の姿で信仰されているので、人々が纏う衣服や武人の甲《よろい》には、龍の紋様がほどこされている。また髪を切るのは親不孝とされているので、巾でまとめている。
創造神に選ばれた、徳を持つ者が民を導く、という考えが支配的であり、為政者は世襲では無く徳を失えば放伐される。時には殺される事もあり、前の支配者の記録は徹底的に焚書される。そんな世界がシュピーゲルラントである。
十二年前、何処からかやって来た女が、謎の力を用いて世界を闇に閉ざし、シュピーゲルラントを支配する魔女として君臨した。魔女は、深紫の光弾や黒霧のようなものを放ち、光弾に当たった者は瞬く間に消滅し、黒霧を吸った者は彼女の意のままに動く木偶人形となった。
十五歳のランレイも、その世界で暮らしていたが、ある日、彼女と知り合いで、創造神から啓示を受けたという預言者が、
「このままあの魔女に支配させていてはもう一つの世界、ヴァークリヒラントと衝突し、二つの世界はどちらも消滅する。今こそあの女を斃して世界の崩壊を止めなくてはいけない」
と喧伝し始めたが、魔女を恐れる民衆は耳を貸さなかった。
ランレイは、真実か否かを確かめる為に王城に忍び込んだ。玉座の間に行った彼女は、魔女を見て攻撃する前に、放たれた闇に包まれて気絶してしまった。
地下牢に放り込まれたランレイは、膝を抱えて暗澹としていた。すると鉄格子が軋む音がした。
「やあランレイ、久し振り…だね」
「あ、あんた誰? 」
ランレイが顔を上げると、そこには透き通った水のような声を放つ、白皙の美青年がいた。彼は、ランレイを見て微笑みを浮かべ、彼女の前に屈み込んで目線を合わせ、
「俺? 俺は…フェイロン、リー・フェイロンだ。俺達は、ずっと昔に会って、俺は君の事を何でも知ってるよランレイ。君は預言者の言葉を信じ、此処に来て信じられないものを見て、攻撃出来なかった。違うかい? 君という人間は、まだ彼女に縋っている」
「…」
「ふふふ。君がいくら期待していても、相手は何とも思っていないだろうね。此処で待っていても、いつか殺されるよ。それよりは、君を助けてくれる人を捜した方が良い。此処から北にあるタイ山に小さな祠があるんだ。そこからもう一つの世界に行って、君を大切にしてくれる仲間を捜すんだ。彼らと一緒に、ヤタノ鏡の欠片を集めて、この世界に戻ってくるんだ」
ランレイは信じられないといった顔で、怯えるようにして青年を見ながら、何も言えなかった。青年は彼女の顔を見て、なお微笑みを崩さず、
「大丈夫さ、希望は残っている、どんな時も。そこに行けば解るさ。君が頼るべき仲間、君を見捨てず、大切にしてくれる仲間はきっといる」
そう言って青年は立ち上がり、またね、とだけ言って飄々と去っていった。ランレイは、急いで後を追ったが、青年の姿は忽然と消えていた。
ランレイは青年の言う通り、タイ山にある祠から、この世界にやって来た。
語り終わってランレイは二人に、
「ランレイ、初めて二人見た時、助けてくれる思った。だからお願いする。ランレイと一緒にヤタノ鏡、集めて二つの世界助けて欲しい」
「それって…世界を救う英雄になれる…ってコト?! 凄いよ、大冒険じゃないっ。行こう行こうっ」
ソフィアは悩む素振りも無く、二つ返事で快諾し、ランレイと一緒に地図を見て、もう四精霊の祠、即ちヤタノ鏡の欠片が隠されているであろう場所を確認している。
クラウスは、話の壮大さに辟易したらしく、慌ててそれに水を差す。
「おいおいおい、ちょっと待てよ。俺達がやるんじゃ話が大き過ぎるって。取り敢えずウンデルベルクに行こうぜ。国王ならきっとやれる事も多いだろうし」
「王都に? …確かにそうだけど信じてくれるかな? いきなり、世界が崩壊します! なんて言っても信じて貰えないよ」
「それは大丈夫だろ。ランレイが何よりの証拠になる。相談してヤタノ鏡を集めて貰おうぜ」
「そうだね。ランレイ、次はねこの国で一番大きな街に行くよ。偉い人達が沢山住んでるから、お行儀良くしないと駄目だよ」
「はいなっ。ランレイ良い子、良い子にしてるよ。大きな街、楽しみだよ」
「本当に大丈夫なのかよ…。とにかく、明日からは王都を目指そうぜ」
その夜は山荘で明かし、翌朝、朝陽と共に一行は山を下りていった。今度は三人の言葉が通じ合い、一層旅も賑やかとなり、一行は王都への旅足を早めて行くのであった。
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たとえ、その心の奥底に邪心を孕んでいたとしても。
セクスカリバーをヌキました!
桂
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とある世界の森の奥地に真の勇者だけに抜けると言い伝えられている聖剣「セクスカリバー」が岩に刺さって存在していた。
国一番の剣士の少女ステラはセクスカリバーを抜くことに成功するが、セクスカリバーはステラの膣を鞘代わりにして収まってしまう。
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ナイナイづくしで始まった、傷物令嬢の異世界生活
天三津空らげ
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日本の田舎で平凡な会社員だった松田理奈は、不慮の事故で亡くなり10歳のマグダリーナに異世界転生した。転生先の子爵家は、どん底の貧乏。父は転生前の自分と同じ歳なのに仕事しない。二十五歳の青年におまるのお世話をされる最悪の日々。転生チートもないマグダリーナが、美しい魔法使いの少女に出会った時、失われた女神と幻の種族にふりまわされつつQOLが爆上がりすることになる――
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日本列島、時震により転移す!
黄昏人
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2023年(現在)、日本列島が後に時震と呼ばれる現象により、500年以上の時を超え1492年(過去)の世界に転移した。移転したのは本州、四国、九州とその周辺の島々であり、現在の日本は過去の時代に飛ばされ、過去の日本は現在の世界に飛ばされた。飛ばされた現在の日本はその文明を支え、国民を食わせるためには早急に莫大な資源と食料が必要である。過去の日本は現在の世界を意識できないが、取り残された北海道と沖縄は国富の大部分を失い、戦国日本を抱え途方にくれる。人々は、政府は何を思いどうふるまうのか。
グラディア(旧作)
壱元
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ネオン光る近未来大都市。人々にとっての第一の娯楽は安全なる剣闘:グラディアであった。
恩人の仇を討つ為、そして自らの夢を求めて一人の貧しい少年は恩人の弓を携えてグラディアのリーグで成り上がっていく。少年の行き着く先は天国か地獄か、それとも…
※本作は連載終了しました。
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