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第二十一話

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 コジロウは、いと静かに自若として刀を構えた。中秋の名月の如く、一点の曇りも淀みも無いその構えに、見物している道場の者達は、思わず厳粛な空気に凍り付いた。
 対するルークは、片手に持った剣を伸ばし自得の構えではあるが、見る目の無い三下共から見れば、この上無く覚束ない。彼らは肚の内で、ルークの身の程知らずを唾棄し、彼の剣の構えを笑っている。ただ愚劣なる嘲笑を浮かべている。

 えい、とルークは自身を励ますように気合いの声を上げる。
 此処でコジロウを斃さなければ、何の気概、何の面目、何の生き甲斐。弱音を吐く者はその時、負けが決まるのだ。大願成就が目の前にあるのに、戦う前から怖気を震っている場合では無い。このような気合いがルークの中にはあった。
 コジロウもそれを感じているのか、一歩半歩と、あたかも月が昇るかの如き静けさ遅さで、ルークに向かって行く。諸人は冷や汗を拳に握り、誰もが双眸を二人に向けている。

 真っ向、コジロウは刀を上段に振りかぶった。両腕で組まれた円の内から、いよいよ炯々たる眼光をルークに向ける。
 コジロウは、心の内で、(何と…磨けば光る名玉だ)と思わず舌を巻いて驚嘆していた。しかし彼には、こんな事を考えるほど余裕があり、ルークは一念に必死である。修行の多寡、錬磨の差は争われぬもので、ルークの五体は大山の前にある小石のようである。
 だが、大山の如きコジロウの眼は、眩い光を捉えていた。ただ一つ、閃々と光るは怖ろしい天才の煌めき! コジロウの眼は、僅かに見開かれ、その煌めきに見惚れている。

「…はっ…」

 その時、ルークは思わず気息を乱し、剣を持つ手も震え始めた。彼はまだ一太刀の交えもしない内から、冷たい汗を額や頬に伝わせる。
 面は蒼白とし、緊張と恐怖から全身を震わせる。焦っても慌てても、コジロウには一寸の隙も無い。ルークは土気色になり、此処に精根尽き果てて、枯れ木のように立ち竦んでしまったかと思われた。

 刹那、あっとコジロウは驚いた。ルークの瞼には一点の露、即ち必死無念の涙が浮かんでいた。そのまま静かに、涙は彼の頬を伝う。
 男が剣を取って、敵と向かい合いながら見せた涙! しかも諸人の見ている前で、男子たる者が涙を浮かべたのだ。これほど悲壮な涙は無い。
 コジロウは、彼の涙に心打たれた様子。心の中で、わざと負けてやろう、とさえ思ったが、

「いや! 」

 と、気合いでその憐愍を打ち消した。ルークは、危うく跳び上がらんばかりに驚き、ひっ、と微かな声を上げた。
 コジロウは、(磨けば光る名玉、豈情けの曇りを掛けようか。それは情けに見せ掛けた堕落の切っ掛け作りだ。真の情けは、ルーク殿の敵であり続ける事だ)と、思い直し、同時に左手ゆんで右手めてをぐっと気構え、柄を強く握りしめた。
 最早勝敗は誰の眼にも歴然、ルークが無惨な血飛沫を上げるか、真っ二つにされるか、剣を捨てて降伏するか、この内一つより他には無い。

「ええい! 」

 切羽詰まった絶体絶命、引くに引けぬ死中救生、この時初めて、ルークの口から死に際しての気合いが飛び出した。その恐るべき声量と気合いには、さしものコジロウも、思わず攻撃の機を逃した。
 途端に飛び込んで来たルークの剣が、風を切ってコジロウの眉間に振り下ろされるが、より速く、コジロウは刀の斬り上げでそれを止め、逆にルークが、うわ、と押し返された。あっと見る間に、その頭上目掛けて流星の白刃。

「未熟者! 」

 と、狙い澄ましたコジロウの刀がルークの肩口でぴたりと止まり、彼は冷たい刃の感触を首筋に覚えた。
 くそっ、と再び強情に立ち向かおうとしたが、その先に、またもや激しい刀の唸りがルークの肩を峰打ちし、彼は肩を押さえて蹲ってしまった。

「――出しゃばり者め。ざまを見ろ」
「片腹痛いぞ、身の程知らず」
「良い気味なり、良い見せしめなり」

 コジロウが納刀し、一礼すると門下の大衆達は、一斉にルーク目掛けて四方八方から罵倒嘲笑し始めた。見ている分には気楽なものである。何の覚悟も気概も無い人間は、挑戦し失敗した者を莫迦にするものだ。
 コジロウは、きっと眉を上げて、

「静まれ、下郎共! お前達は何もせずに見ていただけでは無いかっ。ルーク殿は十三の弱冠だが、立派に拙者へ向かって来たではないかっ。笑う者からまず拙者に打ち掛かって来い! 」

 痛いところを突かれた上に、コジロウの怒鳴り声を浴びた門弟達は、顔を赤くしてすごすごと退場していった。
 コジロウは、大丈夫か、とルークに手を伸ばしたが、彼は肩を震わせたまま面を伏せたきりで、あらん限りの呵責と無念を堪えていた。
 声を掛け続けるのも失礼か、と思ったコジロウは一礼を残して、飄然と道場の門から出て行った。

「ルーク…ルークッ」

 と、誰やら彼を呼ぶ声がする。ルークが顔を上げてみると、もう広場には自分一人と、忍び込んできたルイーゼしかいなかった。ルイーゼは、心配顔で、

「大丈夫? いつまでも起き上がらないから怪我でもしたの? 」
「大丈夫…。それよりどうして残ってるの、ルイーゼ」
「だって心配だもの。そうだ、気晴らしにでも行こうよ」

 と、ルイーゼはルークの手を取った。彼女はルークと同じ歳で、ナタリーには及ばないものの男勝りの気性である。ルークは苦も無く手を引かれて、外の川岸まで連れ出された。
 
 ルークとルイーゼは、川岸で座り込み長々と話し込んでいた。
 ルークの方は、彼女の少し薄色の紅髪からナタリーの姿を思い出し、心の安らぎを得ているようである。何処まで行っても純情と言うか盲目と言うか、とにかく彼が一途に想っているのはナタリーただ一人なのである。
 ルイーゼは心配そうに、彼の肩を撫でている。昔ナタリーともこんな事があったな、とルークは幼年時代の回想などしている。

 ――彼がまだ六歳か七歳の頃、彼は近所の悪童共に苛められ、頭目気取りの者に肩を強かに打たれた。そもそも喧嘩の原因は、いつもナタリーに付いて離れないルークを妬ましく思った頭目が、彼を懲らしめようとしたものだった。
 その頃には、もうルークの臆病極まる性質は極まっており、無理矢理屋敷から連れ出された時点で涙など浮かべていた。それに腹を立てた悪童共は、寄って集って彼を罵倒し、終いには頭目が木杖で彼を打ち据えたのだ。
 子供の力とは言え、手加減を知らぬ打擲である。骨にひびを入れられたルークは火が付いたように泣き出し、駆け付けて来たナタリーに助けられた。

「大丈夫。泣かないで、ほら」
「うう…痛いよ…」

 ナタリーは、何度もルークを慰め、肩を撫でてやったり眠れぬ彼を寝かしつけたりした。その頃から、ルークの情炎は始まったと言って良い。

 ――そんな事を思い返しながらルークは、ルイーゼと会話していた。要するに、彼女とナタリーを重ね合わせ、自分の傷心を慰めているのである。
 
 しかし、ルイーゼは彼と正反対の感情を抱いていた。初めて会った時は、姉を喪い悄然とする自分を慰めてくれる良い人、としか思っていなかったが、日を追うごとに抱いたことの無い別な感情が胸に燃え上がっているのだ。
 暇を見ては、住居のある下町で塞ぎ込んでいる彼女に対して優しく接し、しかも大願を胸に抱く鉄血の男子。ルイーゼがルークと共に居る時間が長くなっていったのは、蓋し自然と言えよう。
 ルークはルイーゼにナタリーの姿を重ね、ルイーゼは瞳いっぱいに彼の姿を捉えている。完全にすれ違ってはいるのだが、互いの利害が偶然一致し、ルークが逗留を始めて以来、暇さえあれば、二人は殆ど一緒にいるのだ。

「ねえルーク。さっきのがコジロウだよね。本当に勝てるの? 手も足も出なかったじゃない」
「今はそうだけど、きっと強くなってみせるよ。そしてコジロウさんに勝つんだ」
「その後は…? 」

 と、ルイーゼはルークに近付いた。顔立ちは異なるが、ナタリーもやりそうな行いである。ルークは、一瞬口を噤んだが、

「…解らない」
「そうなの? じゃあ家に来なよ。そこなら剣も思う存分振れるよ」
「今は後の事なんて考えられないよ。それに、ナタリーだって僕を捜しているんだ」

 こんな二人の会話を、妬ましげに見ている人物がいる。剣術道場の師範が息子、マルコである。マルコは、ルークを迎え入れたは良いものの、自分が偏愛を向けているルイーゼと親しげに会話する彼を見、何処の馬の骨とも知れぬ男が生意気な、と密かに彼を放逐しようと考えていたのだ。
 しかし今回、思わぬ機会が舞い込んで来たので、父親に有ること無い事を讒言した。師範は数日後、ルークを呼び出し、

「先日は、よくも我が道場の看板に泥を塗ってくれたな、弱小輩の匹夫っ。先輩達や私を蔑ろにするなど言語に絶する僭越、これ許し難い」
「すみませんっ。これにはわけが…」
「黙れ黙れっ。笑止な言い訳聞く耳持たぬ。呆れ果てた痴れ者め、貴様は破門するっ。最早その女のような面を見ているだけで虫酸が走る! 」

 絶望の晦冥へと叩き落とされたルークは、くらくらと眩暈を感じたかと思うと、師範に上襟を掴まれ、裏門から外に放り出されてしまった。
 夢寐にも修行を忘れずにいたのに、此処で破門されては大望の蹉跌、豈他に名師を求め得ようか。
 許して下さいっ、とルークに縋り付かれた師範は、小癪な、と彼を鞠のように蹴飛ばした。

「お願いですっ。一生のお願いですっ。これからは掟を守って、勝手な事はしませんから、許して下さい! 」

 と、声を嗄らせど門を叩けども、門の向こうは啞の如く寂として答えない。ああ、何と言う無情な仕打ち、人情というものを知らない鬼畜といえるであろう。
 ルークは、またさめざめと泣き出し、そこに立ち尽くしていた。

「ルーク、ルークじゃないっ」

 と、彼に声を掛けた者がいる。びっくりしてルークが振り返って見ると、旅装束姿に紅髪を戴く少女がいた。
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