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第十八話

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 王都の街外れにあるペトラの屋敷は、暁天の陽差しを受けて、昨夜の雨露が点々と輝き、綿のような霧の中に姿を現わした。朝の涼風は中庭の植木を揺らし、振りこぼされた草露は散らばる瑠璃のようである。
 屋敷にいる使用人達も起き始め、掃除や朝餉の準備などで、にわかに邸内は騒ぎ始めた。そんな一日の始まりも余所に、深い眠りに落ち、昏々と醒めざる人はルークであった。

 ああ、この醒めざる人、この人は何を夢見ているのであろうか。敢えて憶測するのであれば、雄敵コジロウ・ミヤモトのかたちか、片想いに想い続けているナタリーの姿か。だが今朝のルークの顔は、ペトラが用意させた異国の睡眠薬の効能が、ちと効き過ぎたと見え、死んだように眠っているのだ。
 無論、彼自身はそんな事を思いもしないし、その張本人であるペトラが昨夜遅く、ルークの部屋に忍び込み、うっとりと自分を見つめ何をしていたのかも、既に彼女が空が白み始めると共に、入って来た時と同じく音無く去って行った事も悟らずにいるのだ。
 やがてルークは、うーん、という呻き声にも似た寝覚めの声を上げて起き上がり、黄泉の国から帰って来た者の如く、しばらく辺りの朝を見渡していた。
 
「ああ、今日こそは出発する日だ…」

 と、いつものつもりでルークは牀から降りたが、その弾みにくらくらと眼が回り、顳顬《こめかみ》を押さえて前のめりに倒れた。それが睡眠薬の効能だと知らないルークは、眩暈を堪えてまた起き直り、蹌踉と部屋から出た。
 すると外には、待ち構えているかのようにペトラがいた。彼女は、眼鏡の内に心配するような眼差しを見せ、

「あらルークさん、お目覚めですか。ですが、大丈夫ですか? 顔色が悪いですよ。足取りも覚束ないようですね」
「いや、ちょっとふらつくだけです…」
「いけませんね。もう少し我が家で休んでいかないと。でもこう言うだけでは聞かないでしょうね」

 そう言うや否、ペトラはルークの佩剣を奪い取り、預かっておきます、と言って足早に去っていってしまった。
 ルークは驚いて追い掛けようとしたが、使用人の一人がやって来て、

「ご安心下さい。お嬢様が剣をお預かりしたのは、決して悪意からではありません。ルーク様の剣がだいぶ痛んでいる様子ですので、お嬢様のお心遣いで研師に出す事にしたのです。手入れが終わる頃にまたご出立なさいませ」

 ルークはこの歳になるまで、殆ど世間という物に触れず、人に疑いという物を持っていない。これもペトラの純粋な親切と思い、礼を言伝し、また部屋に戻った。
 
 一方でペトラは、研師に出す、と言った筈の剣を抱いて、うっとりと部屋で恋の夢に浸っていた。生まれてこの方、恋と言えば本の中にいる「王子様」「騎士様」相手にしかした事の無い、文学少女が初めて患う恋の病。それは、ルークを川の中から引き上げた時から始まったと言う他無い。
 こうして彼の剣に頬ずりしていると、汗の臭いや彼の心すら感じられる気がする。あれだけ可憐な面をしておいて、身体の方は打ち身や生瘡だらけというのも、ペトラの恋心を刺激する。(あんな可愛い子に剣なんて似合わない。私が一生そばにいないと)という思いで胸がいっぱいであった。

 ――この頃、王都では奇怪な見世物が流行っていた。時代に迎合した物か、民衆の趣向に適したものか、とにかく大変な人気である。
 しかし奇怪というのは、面白おかしい大道芸でも異国の祭り衒いでも無い。武道の観点から見ての奇怪至極な見世物小屋。何かと思って覗いて見れば、人波人波掻き分けて、中心で行われているのは、飛び入りの武芸天狗同士の賭け試合。

「何だこれは…武術を賭け事にするだけでなく、白昼堂々と見世物にするとは何たること」

 そう苦々しげに呟いた青年がいる。人波の中でも、流れる水の如く爽やかにくぐり抜けるのは、他ならぬコジロウ・ミヤモトであった。何気なく人集りに入ったが、武芸を俗世の穢らわしい賭け事の道具とする様子に、舌打ちを禁じ得ない様子である。
 一本の看板を持った男が気狂い染みた声を上げて、

「さあさあ、ハーラ殿を打ちのめす達人はおらんかねっ。出ないか出ないかっ。腕に覚えがある人ならば、騎士様庶民奴隷、誰でも彼でも飛び入りご勝手っ。長年の修行の成果は無双の剣術、これを破れば山になっている金貨、高々となった銀貨、散らばっている銅貨が攫っていけるよっ。銀貨一枚で億万長者、相手構わず八百長なし、名人上手が来ようとも、決して後ろを見せぬが場の掟。さあさあさあ! 」

 この長文句を一切淀まず閊えず、滔々と叫び続けるので、それに酔った観客は銀貨銅貨、金持ちは金貨を投げつけ、犇めき合って賭け試合を待ち望んでいた。うだるような夏の暑さにも劣らぬ群衆の熱気は、広い王都の中でも異様なものがあった。
 そんな賭け小屋を主催しているのは、街の荒くれ共とハーラ・グーロである。彼は食い扶持稼ぎの手段として、とうとう自身の武芸を見世物にし始めたのだ。
 ハーラは、控え室の裏木戸を全開にし、いつでも飛び出せる備えではあるのだが、流石に熱気むんむんたる室内には嫌気が差すらしく、窓から身を乗り出すようにして涼風を受けている。

「それにしても今日は良い相手が来ないな。まだ二、三戦しかしていない」
「そうですね。しかもハーラさんが一瞬で打ち込むもんだから、観客も盛り上がらないですよ」

 ハーラと数人の荒くれ共は、いぎたなく大胡坐、互いにつまらぬ愚痴を言い合って止まない。
 一人が革袋を振って、空しい顔で、

「これっぽちじゃ酒代にもなりゃしない。小屋の賃料、親分への上納金、ハーラさんへの手当を引いたら何にも残らないですよ。流行り物にしたって、余り廃りが過ぎますよ。一時期はこの革袋が破けるくらいは稼いでいたのに」
「ははは。そうぼやくな」

 ハーラは彼らの繰り言を笑い、水杯を傾けた。アメルンの指南役であった事もあり、心はともあれ、下衆な荒くれ共とは一線を画す威風は争えない。
 すると、客呼びの男が、先生ご支度を、と呼びに来た。さてこそ、とハーラは控えから出て、挑戦者に見《まみ》えた。
 瞬間、彼は跳び上がらんばかりに驚愕した。南無三、涼やかな眼元に白皙の美、風に靡く一本結びの黒髪は一目で知れるコジロウ・ミヤモト。
 (悪い奴に…)と、心の底で怯えたハーラは、流石に面に色を失い、顔を背けた。コジロウは、それを見て一礼するや否、

「お久し振りですな、ハーラ・グーロ殿。二、三ヶ月前にギョーム男爵領でお会いし、十数日前には王都の一角でお手合わせ頂きましたね。実は拙者、貴殿を見つけ次第に捕らえるようにと、ナタリー嬢やギョームご家中の者達と約しております。ハーラ殿、貴殿も剣士の端くれでしょうっ」
「…」
「かつては名剣客と呼ばれた貴殿が、数々の卑怯な振る舞いをし、挙句の果てには見世物小屋の芸猿と成り果てるなど、恥ずかしくはないのですかっ。諸士の模範足る剣士が、見下げ果てたる下衆根性とは何事ですかっ」

 コジロウの威圧と理論に、ハーラは返す言葉も無く悄然と項垂れた。観客共は何事かとざわめき、早く試合をしろ、と喚く者もいる。ハーラが如何にも神妙な面持ちなので、コジロウも不憫を感じた。
 尋常の人であれば、善悪は別として、天命を知り終わりを悟れば名誉に殉ずる。泥水を啜るが如き、生き恥を晒す者は至極稀である。しかし、そんな畜生の性質がハーラは殊に強かった。

 笑止なっ、と彼は近くにあった真剣を抜き払った。あっと驚いたは運営の荒くれや群衆達、豹変の抜き打ちに騒ぎ出す。しかし、かねてより油断の無いコジロウは、応変自在、躍り掛かって来るハーラの凶刃を、戛然、咄嗟の抜刀で防いだ。
 ぱっと跳び退き、騒がず迫らず陽光に煌めく刀の光を脇に、ハーラを睨み付けて言い放つ。

「惨めなりハーラ! 意地汚しや、この似非剣客っ」
「黙れ黙れ若造っ。言わしておけば大言壮語、このハーラも聞き捨てならぬ。お前達、手を貸してくれっ」

 ばらばらと四人ばかりの荒くれが控えから躍り出し、手に手にと長剣を抜き払った。
 助太刀の一人、覚悟っ、と斬り掛かるがコジロウの一閃の下、血煙となって崩れ落ちた。ハーラも振りかぶった長剣を斬り込んだが、身体も崩さぬコジロウが、刀で電光を描いたかと思うと、ハーラの刃は中段から斬り折られていた。
 空しく閃光の輪を描いたハーラは、矢も盾も無く転がり、萎えきった勇気を捨てて無様に逃げまくった。

 待て! と呼ばわるコジロウは、ハーラの上襟に手を伸ばしたが、彼の手に残ったのはハーラの上着であった。ハーラは脱兎の如く群衆の中に消え失せ、同時にコジロウの後ろから、一人が横斬りを見舞った。しかし、全く油断の無いコジロウは身を窄めて躱し、振り向きざまに両断した。
 ハーラは逃げ失せ、仲間を喪った残る荒くれ、槍を取って投げつけた。穂先の閃光、流星の如くコジロウに刺さるかと思われたが、発止と彼は刀の峰でそれを弾き、風を切った投げ槍は柵の外の群衆の中に流れていった。
 この騒動すら面白がって、先刻から囂々と沸く鼎のように揉み合い叫び合っていた群衆は自分達の中に飛び込んで来た閃光の槍に仰天して、右往左往、周章狼狽、津波のように小屋の外へ逃げ崩れた。

「よくも神聖なる武術を穢らわしい賭け事の道具にし、民衆に悪害を為すばかりか、見世物小屋の芸技にしたなっ。武門の神に代わって、拙者が天誅を下してくれるっ」

 と、言うや否、斬り掛かって来る二人の白刃を神速妙変の剣技で叩き落とし、逃げるを斬り伏せ、小屋柱を両断し、それをと振って桟敷や控えの間、筵囲いを叩き壊し、濛々とした土煙が晴れた後には瓦礫の山しか無かった。
 コジロウは、見世物小屋の跡地に書き置き看板を立てて、悠然と立ち去った。

 堕落至極の似非武芸者共、剣槍を用いて下賤なる博打売芸の沙汰有りて武術の穢罪これ明白なり。遂に醒めざりければ、即ち天誅かくの如し。
 東国の一剣士 筆
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