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第五話

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「何、第二試合の申し込みだとっ」

 ギョーム男爵は、驚き半分怒り半分の声を上げて、床几から立ち上がった。そして正面に居並ぶ臣下達を見て、

「全く奇怪千万なアメルン方の致し方、憚らずに言えば卑劣だ」

 と、非常に不快な色で言った。一人の老臣が曰く、

「いかにも御意でございます。私も余りの理不尽に憤りまして、先程伝令役を通して、アメルン伯爵に掛け合いました所、ハーラ・グーロは持病のてんかんを引き起こした故、試合を中止させたが代わりの剣士を呼んだので、改めて勝敗を決しよう、と虫の良い大言を吐き散らしております」
「うーむ。本当ならば、突っぱねてやりたいが、断れば当家の不戦敗となり、アメルン伯爵はそれに輪を掛け連ねて増長するだろうな」

 と、帷幄の中で一同が善後策を講じていると、一人の家臣が喘ぎ喘ぎ帳を払って躍り込んで来た。

「大変ですっ。外の桟敷に控えていた若武者共やロスバーグ殿の門弟達が、卑怯な振る舞い許し難し、と決死隊を組んで斬り込もうとしておりますっ」
「すわや、早く鎮めに行かなくてはっ」

 と、ギョームは家令に命じて凶行を止めに行かせ、自身はフロリアン・ロスバーグを呼びに行った。

 横暴極まるアメルン方の専横に勃然の怒り心頭、怒髪天を衝くの気勢を上げた覇気満溢《はきまんいつ》の若武者達は、煌めく剣を抜いて大木の緑葉を巻き上げる熱風一陣、津波のようにアメルンの桟敷目掛けて斬り込まんとしていた。
 その出会い頭、取る物も取り敢えず駆け込んで来た家令が大手を広げて、

「逆上するな、一同っ。この醜態は何事か、お家の大事を考えろっ」

 声を励ましての大喝に、若武者達も大声で、

「お止め下さるなっ。如何にご家令のお言葉でも奴らの無礼は言語道断、見過ごしては天下の笑い草、主君の恥辱を雪ぐは臣下の務め、卑怯極まる蛆虫共に一泡吹かせて、見事自刎する覚悟ですっ」

 と、閃々と義憤の長剣を輝かせて一歩も退かない。ひしめき合う一同を見て、家令は、

「成る程、忠義の程、お見受け致した。だが、そのような血の雨を降らせて王国のお咎めは何とある? 最悪の場合、我らの主は所領没収の上、賜死だぞっ」

 そこへ、フロリアンもすわこそと駆け付けて来て、一同を宥めて、ひとまず鎮圧した。

 一方、アメルン伯爵の桟敷では、旅の剣客を前に群臣達が疑惧に覆われた眼をしていた。帳を払って入って来たハーラは、彼を一目見て、あっと驚いた。なんぞ測らん、今朝ここに来る途中に一悶着起こした旅人だったのだ。
 伯爵は、ハーラを一瞥したが、すこぶる不機嫌な顔で一言も与えない。ハーラは主君に近付こうとしたが、近臣に止められ、末席で悄然と項垂れた。

 旅の剣客は、黒漆の艶やかな長髪を一結びにし、切れの長い涼やかな眼元、痩身長躯の美丈夫で、歳頃は十八、九。粗末な黒装束に飾り気の無い少し弧を描く長剣を佩いていた。青年は、アメルン伯爵を見上げ、

「相手方はご承知ですか。そうとあらば、早速先の強者と一戦交え、逗留のご恩に報いて参ります。それでも代表である指南役殿の恥雪ぎにはなり得ませんが」

 と、低すぎず高すぎず艶のある声で言った。その声は清水の如き透明さを含み、その語韻は流れる水の如く諸人の耳に入る。その言葉を聞いて、ハーラは小さくなって前後の者の中に隠れた。

 その後、一時間ほどが過ぎた。敵も味方も囂々ごうごうと釜湯の沸くように騒然としていたが、静まれっ、という大声と共に姦しく天に響く鐘の音に、驟雨を受けた野火の如く寂と静まりかえってしまった。

 乾坤一擲、二人の剣客は相対した。一方は扮装変わらぬフロリアン・ロスバーグ、反対から悠然と出てくるは、未だ名乗りを上げぬ怪剣客。

「拙者は、アメルン伯爵の家臣ではありませぬが、恩に報いるため、試合に参加致す、コジロウ・ミヤモトと申す者。不鍛錬ではありますが、お見知り置き下さい」

 と、美剣客コジロウの礼譲ハーラの比では無い。フロリアンも礼儀正しく、

「申し遅れました。私はフロリアン・ロスバーグと申す者です。お手柔らかに…」

 と、礼を返した。
 勝負開始の会釈を交わした後、二人は長剣を払った。龍虎相打つの言葉通り、両雄の間に一寸の隙も無い。

 フロリアンは、横翳しの長剣からコジロウの構えを見て、剣を握って以来、体験した事の無い驚異を感じ取った。
 相手の縦翳しの長剣は奇怪そのもので、弓の如く反っている上に片刃である。相手の構えは堅牢な金城の如く、全身須臾の隙も無い。そよ風に靡く一本結びの髪、土を噛む爪先にも周密な錬磨の後が見える。曇り無い夜空に浮かぶ名月の如く、一寸の欠も隠れも無い。真に剣聖と言うべき人物である。
 しかし、フロリアンの心に恐怖の怯みは微塵も無い。たとえ天魔鬼神がここにあろうとも、自分の双肩にある主家の名誉と固唾を飲んで見守る決死隊の面々の信頼、そして心にある二人の家族。勝たねばならぬ、勝たねばならぬ。沈思決然、死も辞さぬ騎士の真骨頂が彼の心にはあった。

 一方のコジロウは、フロリアン以上の驚嘆を持って相手を端倪たんげいしていた。今の自称剣客には無い慥《たし》かさ、まさに古の名人上手を一身に集めたかのようだと思った。相手の長剣、相手の気概を見て取った彼は、勝負の結果にある不幸を思わずにはいられなかった。恐るべし恐るべし、と思わず百錬鉄の如く鍛えた心身に怖気を震わせた。

「――ルーク、こんな所にいたの。どうしたの」

 フロリアンの娘ナタリーが、大木の丘の麓で木に身を凭せ掛けて座る少年に声を掛けた。彼女も父の試合の行く末を見守っていたが、ルークが一人で蹌踉とした足取りで群衆から離れて行くのを見て、後を追って来たのだ。

「どうしたのってば、ねぇルーク」

 と、ナタリーは、彼が答えないのを焦れったく思い、膝を曲げてその顔を覗き込んだ。ルークは、やっとその顔を上げて、

「あ…ナタリー。どうしたの? 」
「どうしたのって言いたいのはこっちよ。いきなり何処かに行こうとするんだもの」
「ちょっと気分が悪くなっちゃって…」 

 ルークは恥じ入るように微笑を浮かべるが、その顔は如何にも苦しげで、しかも白金のように青白い。ナタリーは、それを見て

「凄く顔色が悪い。あたしが肩を貸すから、家に帰ろう」
「だ、大丈夫だよ…。余り激しい試合を見たり、皆が大声出しているのを聞いたりして気分が悪くなっただけだから、少し休めば良くなるよ」

 と、ルークは額の冷や汗を拭う。その時丁度、二戦目開始を告げる鐘が丘の上で鳴った。ナタリーは、父の試合にも心惹かれたが、ルークの身も案じられるので

「此処だと木が一本しかないから、あっちの雑木林に行こう。そこなら涼しいから」

 と、彼を立たせて肩を貸しつつ歩いていった。
 
 初夏の木漏れ日を通す雑木林の木陰に、二人は腰を下ろした。ナタリーは笑いながら、土気色のルークを見て、

「本当に剣とかが嫌いなんだね。気分はどう? 」
「少しは良くなったよ。…でも自分が情けないよ。男なのに武芸が全然性に合わないんだ」
「そんな事、前から知ってたよ。気にしてたの? 」

 程よく茂る野垣は二人を隠すのには丁度良い。瑠璃色の空に背を伸ばして蛇のうねりのように続いていく尾根や、群青の画布に彩りを添える中天の太陽、河の流れは煌めく絹糸のように山裾を下っている。
 広い野原から蕭々とした風が二人に向かって吹き、ナタリーの紅髪は牡丹桜のように靡いた。木に休む野鳥もしばし鳴くのを止めた。

「どうしたの、ルーク。何であたしの事そんなに見てるの? 」

 えっ、とルークは驚いた。自分でも知らぬ間にナタリーに見惚れていたらしい。ルークは、慌てて顔を背けて、

「な、何でもないよっ」
「嘘よ。この間だってあたしの絵を描いていたじゃない。…もしかして何か言いたい事でもあるの? 」

 ナタリーは、ぐいと詰め寄ってルークの肩を掴み、自分の方へ向き直らせた。ルークは、顔を伏せたまま白皙を真っ赤にして目の前の佳人の美貌に全ての世界を忘れていた。
 何とか言いなさい、とナタリーは呆れ顔で彼の顔を覗き込んだ。ルークは、不意に視界に飛び込んで来た彼女の顔に胸が早鐘を打ち、若い血はときめいた。

「…ナタリー、僕は…」

 ルークは言い掛けて、ぐっと言葉をつぐんだ。ナタリーが訝しんでいると、彼方から山津波のように人の声がした。大木の下での真剣勝負が終わったのだろう。引きも止まぬ群衆が、興奮冷めやらぬ様子で騒ぎながら丘から煙の如く降りていく。
 その後から、一隊の騎士達が悄然と滅失の色濃く、滂沱の涙を拳で拭う者、面伏せに暗涙を流す者もいた。見れば、白布を人の死骸に被せている様子。

「もしかして…行こうっ」

 と、ナタリーとルークは、騎士達目掛けて駆け出していった。
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