秘密の血判状

アラビアータ

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序章

第八話

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 小一時間ばかり経って、カーラはすっかり旅装束、髪も梳き直し、全く別人のようになって、散々遊興の限りを尽くした足取りぶらぶら歩いている。丁度、何処かの粋なお嬢様といった具合である。しかしそれを、道中稼ぎの人力車夫は見逃さない。
 嬢ちゃん、と忽ち蠅のように一人が言う。カーラは振り向きもせずに、佩剣錚々と鳴らして歩いていたが、余りに相手がしつこいので、舌打ちして振り向き、煩いよ、と柳眉を逆立てる。街道には乗り合い馬車の他に人力車もあるのだが、この人力車夫共が曲者、無理矢理旅人を掻き乗せて、後から法外な金をせびるのだ。
 それで今、この車夫もカーラにしつこく声を掛けている。やれ此処からなら宿場までひとっ走りだの、道中女の子一人じゃ危険だの、とにかく諦めが悪い男で、やや暫くの間、横合いから話し掛けて止まない。ふと、カーラーは揶揄ってやろうと不敵に笑って、

「そうだねぇ・・・帝都まで乗せていってくれるなら、乗ってあげても良いよ」
「おう。泊まりさえあれば、帝国の端まで行きますぜ」
「ただし! タダでだよ。この通りあたしは一文無し、地獄への渡し賃分も無いからね」

 そう言って彼女は澄ました様子で去っていく。その後ろ姿にどうやら車夫はとしたらしく、腕まくりをして、ふざけるない、とばかりに躍り掛かっていく――と見る間にその身体はカーラに届く前に、何者かに襟髪を掴まれて、ブーンと子供のように振り回される。
 車夫を掴んでいるのは一人の男、上下に麻の黒ぞっき、腰には同田貫どうだぬき一本差し込んで、夏であるのに、眼出し頭巾に顔を包んだ痩せ浪人――ジンナイ・コウサカであった。
 カーラはと振り返って、

「あら、あなたはジンナイさん」

 二足三足で戻ってくるカーラを見、掴んでいた車夫をドンと突き放した。カーラは、いつの間にか掏っていたのか、車夫の銭袋をポンポンと手の上で弾ませながら、

「こんな雀の涙より少ないのは痛々しいから返してあげる。油断してると足元掬われるよ。あはは」

 と嘲りながら、それを車夫の顔目掛けて投げ渡してやった。車夫はジンナイの眼光も怖ろしく一目散に逃げ出した。カーラはその口ほどにも無い背中を、明るく笑いながら見送った。
 そこへジンナイがすっと彼女の肩に手を置いて、

「それにしてもすばしっこいな。流石は女掏摸だよ」
「どういたしまして。それにしてもジンナイさん、妙な場所で落ち合ったね」
「お前は不思議に思うだろうが、拙者はあの船小屋での騒ぎ以来、どんなに跡を捜していたか知らないぜ」

 と、何か一物肚にありそうなジンナイは、同田貫の刃金はがねのように、妖しく光る眸でカーラを見た。

 曇ったかと思えば暑い陽差し、彼方の空には入道雲、頭上に広がる青空は、今日も大海のように輝く。初夏を過ぎた、夏本番である。木漏れ日注ぐ松並木をカーラとジンナイが並んで歩いて行く。二人の背中は、玻璃のような陽光に点々と照らされている。
 ジンナイはどうやらカーラと共に、帝都へ進出するつもりらしい。それで彼は、彼女に居候を願い出た。カーラは特に嫌がる様子も見せず、彼の願いを承諾した。
 ジンナイは自嘲気味に、

「いや住まないな。十二も歳下の女のところに男が転がり込むなんて。本当なら逆だけど」
「お安い事だよ。帝都の下町では、あたしも多少は顔が利くんだから安心して」
「有難い」

 と、ジンナイは口では如何にも神妙そうではあるが、内心ではカーラの白皙や風に靡く銀髪に、一々心に穢らわしい情炎を起こしていた。息詰まるような眼を迷わせる好色家、もう情心に淫らな妄想を起こして、勝手な想像を頭の中で幾重にも廻らせる。
 (この女、近くで見るとやはりい。十五といえば、そろそろ男が欲しいに違いない。ちょっと口説けば案外拙者に惚れてくれるかも・・・)と、密かに彼女の薫風を嗅ぎ、今宵の牀での夢まで思い描いている。今こうして並んで歩いているという事自体、彼の情操を掻き乱す。今にも触れそうなカーラの手を、幾度かギュッと握りそうになる。
 きっとこの女、世間に擦れていて男には初心であろう、というのがジンナイの見通しである。歩きながら彼は、如何にしてカーラを自分の物にしてやろうかと情心妄想果てしない。彼に言わせれば、同田貫に辻斬りの血を吸わせるより、澄ました女の虚勢を全て引っ剥がす方が、その魔情を悦ばせるのである。

 暫く歩いていると、街道側の並木や草叢がざわめきだして、冷たい風が吹き始めた。いつの間にか、真っ黒な雲が天を覆っている。カーラは雲足の迅い空を見つめ、夕立が来ると悟った。
 仕方がないので早泊まりにしよう、と二人は俄に走り出した。彼女達を追うように本降りの雨がザーッと斜めに降って来た。と、二人の隣を一人の少年が、傘を挿して通り掛かった。
 カーラは横目に彼を見て、何処かで見たような、と思ったが風と雨とに吹き別れ、街道筋の者達も散り散りに影を潜めてしまった。

 カーラとジンナイは宿場端の宿屋に落ち着いた。雨は夜半になっても降り続き、雨樋をを溢れる水音と青光りの稲妻に窓蓋を閉じて、カーラは静かに寝息を立てている。その顔は日中の不敵さとは全く違う、歳相応に穏やかなものである。
 薄壁隔てた隣には、カーラの酌に酔ったジンナイが、これまたグッスリ眠っている。だが、本当に心から安臥しているか? とにかく、眼には見えないあるものが、薄い板壁の間を通っている。

 次の朝、雨は止んだが雨模様。湖水の色や山の雲、それらを見るにもう一降り来なければ、この天候は晴れるまい。なので、宿屋には逗留伸ばしの手続をする者や雨具を求める者が見える。
 するとそこへ、緑髪の少年が一人、受付嬢の前に立った。どうやら泊まりでも食事でも無いらしい。
 少年は受付嬢に、

「昨日此処に、全身真っ黒な服を着た男と銀髪の女の子が来ませんでしたか? 」
「はい。お泊まりですが」
「ああ良かった。これを女の子の方に渡してくれませんか? この間は命を助けてくれて有難う、って言伝も頼みます」
「お呼びしましょうか? もう起きておいでですから」
「えっ。あ、いや、それはちょっと・・・僕は急ぐのでっ」

 と、頬を赤らめた少年は、背中に負っていた剣を受付嬢に手渡し、外で待っている母親らしき女の下へ、腰の両側にある佩剣を錚々と鳴らしながら走っていった。
 嬢はトントンと階段を上がっていき、客室の戸を叩いて、中に入った。そこではカーラが、もうすっかり支度を済ましてある。隣の部屋ではジンナイが、宿酔ふつかよいでもしたのか、蒼白い面を枕につけ、もう朝方は過ぎたというのに昏々と前後不覚に寝入っている。

「おや、お連れ様はまだ眠っておられるのですか。そう言えば、朝食も召し上がっていませんでしたね。大層よく眠っていらっしゃるようで」
「そっとしておいてくださいね。夕べちょっと持病を起こして苦しんだみたいで・・・夕方まで眠っていれば良くなりますよ、きっと」
「解りました。それからお客様、こちらの剣を渡して欲しいと旅の方が仰っていましたよ。この間は命を助けてくれて有難う、とも仰っていました」

 受付嬢は緑髪の少年からの言伝を添えて、粗末な剣をカーラの前に差し置いた。それが紛れもない自分の物だったので、彼女は思わず眼を瞠り、それを届けてきた少年の眼力の鋭さに驚いている様子。
 だが、嬢の言伝を聞いていると、別段彼に悪意は無い。否、悪意どころか感謝までしている。
 もう用事はありませんか、と嬢が言うと、今度はカーラが問いかけた。

「あの・・・昨日の夜、笛の音が聞こえてきましたけど、何処から聞こえてきたか解りますか? 」
「そう言えば、最近この近くのお堂から時々、笛の音が聞こえてきますね。此処から少し掛かりますが、行けばすぐに解りますよ」
「そうですか。有難う」

 受付嬢が出て行った後で、カーラは黙って眼を閉じた。昨日の夜、雨音に混じって喨々と響いてきたあの美しい旋律を、再び耳の底に聞くように。
 そして彼女は隣室で寝穢く寝入っているジンナイを捨て置いて、宿からそっと抜け出した。(きっとあの夜、魚料理屋で見たあの人は、きっとそのお堂にいる)という一念で、せめてあの横顔だけでも、という恋慕が心を支配する。
 蹌踉と歩きながら彼女は自分の気持ちを不思議に思う。どうかしてる、と思ってみても足は止まらない。

 (どうかしてるよ。そろそろあたしもが回ったのかも。今まで男の人なんて何とも思わなかったけど、どうしてもあの人、あの楽士さんが忘れられない・・・)はっきりと、自分の気心の訝しさを自覚しながらも、足と心だけは惹かれる方へと引かれていく。教えてもらったお堂へと。
 世間に笛上手は多い。昨夜枕元へ細々と聞こえてきた旋律も、曲としてはよくあるものである。決してあの楽士とは限るまい。だが、余りによく似た音色であった。魚料理屋の二階で聞いたあの音色。自分の胸を叱ってみても、やっぱり早鐘は止まらない。
 
 あの晩、ジパングの侍達が何か密議して庭先に出て行ったので、何気なく覗いていると、忽ち月下に剣が煌めきだした。一人が危うい、と思われた時に、眉目秀麗な一人の楽士が飛び込んで来て、女侍に鉄笛を向けたのだ。
 その女侍の刀の鋭さを見ていたカーラは、やにわに小皿を取ってと女侍目掛けて投げつけた。しかし彼女は後になって少し後悔した。
 あれは余計な事であった。あの時、楽士が構えた鉄笛は八面鉄壁青眼構え、磨き抜いた腕の冴えがみえ、素人目にも力量が開いていた。カーラは、皿を女侍に当てた事が却って迷惑になった気がして、何だかはしたない気持ちになったのである。

 その後暫く、庭先でひそひそ話している、その楽士の琅玕のような面を欄干からと見つめている内に、どうやら彼女は夢とうつつの境にいるような気分となって、骨の髄までぞっとするような恋慕の寒気に取り憑かれてしまった。
 今まで擦れた生活の寂しさを紛らわすために遊興の限りを尽くしてきた彼女は、恋というものを知らない。それでいつまでも楽士の顔が心に浮かぶのを、

「あたしは月夜の風邪を引いたみたいだね・・・」

 と自嘲した。月夜の風邪は重くなり、それから二度も三度もハーフンの歓楽街であの楽士を待ってみたが、それきり影すら見かけもしない。ハープシュタットで金貨一千枚をやけ遣いしたのも、その華やかさで寂しさを忘れるためであったが、いよいよ以て月夜の風邪は骨の髄まで沁み込んだ。
 ふとカーラは辺りを見回した。うっかりして妙な場所に来てしまったらしい。お堂の石段を通り過ぎてしまったとみえ、道は緩やかな上り坂に差し掛かっている。鬱蒼とした雑木林が両脇に繁茂し、何処からかは淙々と流れる川の音がする。

「あたしったら、こんな所に出てしまったよ」

 カーラが踵を返そうとすると、しく、しく・・・という啜り泣きが聞こえてきた。彼女が見回すと、街道から外れた茂みの中で、女が泣いている。木に凭れて泣いている。曇り空が銀燻しのように木の間から覗き、林の中は薄暗い。樅や松や雑草の、湿っぽい暗緑に包まれた影の中。
 そこでさめざめ泣いている女は、泣いている顔を袖で拭いながら、細道を二歩、三歩蹌踉めくように歩いた後、魔魅にでも取り憑かれたように、木の枝に結わえてある麻紐に首を通した。
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