上 下
1 / 1

届かない手紙-愛したあの人へ伝えたかった大切で切ない言葉

しおりを挟む
これは手紙です。
届くことのない手紙です。
私は届くことのない手紙を毎日ずっと書いています。
普通は日記を人は書くのでしょうけど、私は日記とは言えないものを書いています。
大好きな人へ、届くことのない、誰にも届くことのない気持ちを書き綴っています。
寂しいのです。でも、届かないんです。誰にも。
私の発する言葉も、書く日記も、誰かに届けたいのに届かない。だけどずっと書いてます。
そしてこれはきっと忘れてしまうだろう私の気持ちで、
忘れてしまうだろうある心療内科の先生への、私の主治医だった先生への手紙です。

本日退院して参りました。
40日間の入院生活でした。
何の病気で心療内科へ入院していたのか、自分でもよくわかりません。
私はただ、歯がかゆかったんです。歯と歯茎の間、歯茎が尋常ではなくずっとかゆくて、歯をくいしばって生活していました。
あまりにかゆいもので、1日の仕事の終わり頃には何も考えられなくなるほどでした。
食いしばるから顎が疲れて、頭が疲れてしまうんです。
私は困っていました。何年も歯医者に通いました。
歯医者さんも困ってしまいました。原因がわからずに。
親不知ずを抜いてみたり、口の中の金属らしきものを全部取ってみたりしてもらいましたが、どうしようもなく、大学病院を紹介してくれました。
まずは大学病院歯医者を受診しました。
もう身体が億劫で仕事の休みをつぶして受診することもなかなか出来なかったのですが、行ってみました。
やはり大学病院の歯医者でもここではすることはないとの診断でした。
そこで一つ選択肢をもらいました。
「心療内科への受診も可能ですが、それとも、もうよいですか?」と。
私は心療内科がどういうものかわからずでしたが、ここまで来たんだから、とことん診てもらおうと、受診を希望しました。
心療内科を受診の日、行くと、まずは心理テストを書きました。しばらく。名前が呼ばれ、診察室へ行きました。
朝倉先生という人にお会いしました。
朝倉先生はとてもよくしゃべる先生で、こちらが話す隙もない話しぷりでした。
私はいつ鬱になってみおかしくない状態で、それに関しては東大合格レベルだと診断されました。
「は?私がですか?」
と思いました。私はそういうものには無縁だと、そんなの気持ちの持ちようでしょ、自分でどうにかするしかないでしょと思う人間だったからです。
全く自覚がありませんでした。
「私は歯がかゆいだけなんですが」と先生に言うと、人の良さそうな朝倉先生が丁寧に教えてくれました。
口は敏感で外から入ってくるものを察知しやすい所だと。
抑えつけている気持ちがあるから口に異常が出ているのだと。いろんなたとえ話や、実際あった症例等を交えながら、たくさんお話ししてくれました。
そして幼少期からの私の生い立ちをざっくりと聞いてくれました。
聞かれるがままお話ししました。
先生は時折、驚いたような表情もされていました。
そしてその日は自分で全く自覚のないまま、お薬も断り、帰りました。
だいぶ丁寧に説明してもらったのに全く理解せず、出来ず。入院まで薦めてもらったのに。
次の受診日だけ決めてもらい帰りました。
「なんか心療内科の先生が言ってる…。」くらいにしか思いませんでした。
というか何の感慨もいだいていなかったように思います。
私はその頃、仕事でいっぱいいっぱいでした。いや、常にいつも自分のことで精一杯でした。
「誠心誠意」仕事をして、人間関係にも丁寧に向き合って、毎日苦しんで生きていました。
「苦しんで生きる」それが私の有り方だと理解していました。
私は完璧な偽善者で、誰にでも好かれ、仕事にもいつも懸命で、そしてそれを望んですることが私に課せられた人生の義務だと、自分の中に芯のようなものがありました。
それで苦しむのなら、自分で望んでやっていることたから、誰のせいでもない、自分で決めた道、貫いてやると確固たる何かがありました。
自分を犠牲にして、自分を痛めつけるように苦しんで、それを美徳としていた節があります。
たから職場では、私は「いい人」「根性のあるやつ」という評価がされていたことでしょう。
みんなに慕われていました。ただの平社員ですが、よく働いていたと自分でも思います。

ねえ、日置先生、私、凄く頑張っていたんですよ。きっともう知ってらっしゃいますね。

2度目の受診の日、朝倉先生にまた同じように切々と入院を薦められました。
9月の始めでした。
「ん?私ってそんなにキツいのか?」とその時少し思い、入院できる仕事の状況であれば入学させてもらおうかなと思いました。
朝倉先生に、
「会社に言ってみるから、少し待って」と言いました。
自身で心を病んでいることも自覚していなかったため、
「会社に何という病名を言えばいいですか?」と聞きました。
「自律神経失調症って言えばいいよ」と教えてくれました。
正確には「口腔内異常感症」っていうんだということも。
きっと日々が辛かった私は、入院したいと思ったのです。
朝倉先生がこう言いました。
「若いからまだやり直せる」と。
私はやり直したかったのでしょう。今でもそう思ってる。その言葉で入院を決めました。

診察が終わった後、大学病院のロビーから会社に連絡を入れました。診断ですぐにでも入院した方がいいとのことだった旨を伝えました。
私はいつもタイミングの悪い人生を送っていました。
やはりここでもタイミングが悪く、職場の人が2人辞めることをその電話で聞きました。
そこで私の中で何か仕事のスイッチのようなものが入ってしまいました。
人が2人も辞めるのであれば、私はすぐに入院する訳にはいかないと。
朝倉先生からは「最低でも1ヶ月は入院した方がいい」とのことだったので、私がいない1ヶ月、私がいなくても大丈夫なように、職場のみんなを成長させなければならない、そう思いました。
職場のみんなは私に頼り過ぎるほどでした。私は頼られるがまま、すべてを抱え込んでしまっていました。
好きで「いい人」を演じていた私。
私がどうにかしなければ。そう思いました。

それから入院するまで3ヶ月かかりました。
月に一回診察を朝倉先生にしてもらいながら、私は毎日それまで以上に懸命に仕事に取り組みました。
時に上司に意見し、時には部下に説教をし、淡々と仕事をこなし、一生懸命、「人」と「人の気持ち」と向き合いました。
自分の事は、「自分の気持ち」「自分の体調」は棚に上げて働きました。
1ヶ月も休ませてもらうのだから、それが「ケジメ」だと思ったからです。
何事も自分の中で「ケジメ」をつけなければイヤだったのです私は。

しかし全力投球していた私は2ヶ月程で危険な状態に陥りました。物事が考えられなくなったのです。
「いい子」「いい人」を演じていたそんな私は、職場の人の不平不満、ちょっとした愚痴など、全てに耳を傾けていました。
上司の愚痴も、部下の愚痴も。
みんな「あの人なら聞いてくれる」そう思っていたし、私も「聞くよ。出来ることはやるよ」と言っていたし。
しかし、それはとても辛いことだったのです私にとっては。
「愚痴」や「不満」は私にとっては相手に対する敵意のように感じとれていたからです。
人は不満を言葉にする時、目線が鋭くなります。その目線の鋭さを私に向けられた敵意のように感じて、私はそれが実のところとても怖かったのです。
そう私は「人」が怖い。それはもうずっと子どもの頃からそうなのです。
「臆病者」で「ビビり」の私は他人の感情の動を敏感に察知します。
人の喜怒哀楽が手に取るようにわかります。
「喜」と「楽」ならば良いのですが、「怒」「哀」には、それを感じることは物凄く怖い。
私の心はきっと悲鳴でもあげていたのでしょう。
「怒り」を私に向けられると縮こまり、「悲しみ」「辛さ」を聞くと私のせいかな、いや、すべての悪い事象は私のせいだと何故か思ってしまうんです。
全部私の責任だと。
私がうまく立ち回れなかったからだと。
人と人との調整役が出来なかったから、悪い感情に人がなってしまわなければならなかったのだと。
どうしても自分のせいにしてしまっていました。
私は辛かった。苦しかった。そんな自分が嫌いで仕方なかったのです。
好きで自分で勝手に調整役をやっているのに、それに苦しむ自分がイヤでした。
自分をどれだけ責めたかわからない。

入院を決めて2ヶ月が経った頃のある日、フル稼働していた私の心と頭はものが考えられなくなりました。
それはちょっとした「愚痴」を聞いた後でした。
凄くどうでもいい愚痴だったのですが、それを言っている人の視線の鋭さと口調が、とても強く感じられました。
実際のところはそうでもなかったのでしょうけれど、その時の私は心が限界だったようです。
その後、数が数えられない自分に気付き、頭が重く、仕事が手につかなくなりました。
自分でも驚きました。
自分が信じられないくらい使い物にならなくなりました。
そんな自分が怖くて。
そんな自分を人に気付かれるのも、
どんな風に見られているのかも、
いろんなことが怖くて仕方なくなりました。
誰か助けて。本気で思いました。
先生、朝倉先生。早く入院した方がいいってこういうこと?
助けて。
そう思いました。
心に作っていた防御の壁が崩されたようでした。
壁が崩れて隠してた心が全開してて、そこに冷たい風が吹くようなそんな感じでした。
苦しかった。
何とも言えない気持ちでした。
入院まで残り1ヶ月の頃でした。

何度となく考えました。
朝倉先生に電話しようかと。
何度となく考えました。半月でも仕事休ませてもらえないか会社に言うかと。
しかし、私は私を許さなかった。
自分のそういう甘えた考えを許さなかったのです。
人に甘えてはいけない。自分で決めたこと。
残り1ヶ月、ちゃんと最後まで仕事をやり遂げなければと必死で思いました。
そして必死で自分を取り戻しました。
私は大丈夫。
私ならやれる。
ちゃんと生きていける。
何度も自分に言い聞かせ、私は日々を自分の足でしっかりと立っていました。
そして入院前の最後の受診の日がきました。
やっと朝倉先生に会える、そう思いました。
朝倉先生に会いたくてしょうがなかった。
朝倉先生はとう表現すればいいのかな。
優しげでよく喋って、人が良さそうで、50代くらいでしょうか。背が高く大柄でお腹がぽっこり出ているそんな先生。

朝倉先生に話しました。心の壁が崩れたようだったと。
後頭部に何かあるかのようにぼんやりしてて重い感じがする、動悸が止まらなくて苦しいと。
でも残り半月、入院まで絶対ちゃんと仕事をしなければならないと。ならないから、どうにか自分を取り戻した。私は取り戻せると。
先生は「その状態でまだ仕事してたの?」と少し驚かれていました。
「本当に後半月仕事するの?今のままでは寝てる間に死んだっておかしくないんだからね、本当に大丈夫?」
「大丈夫。」と私は言いました。
大丈夫。私だからやれる、そう思いました。
「死ぬかもしれない」そう言われてもそれでも決めたことは最後までやる。それが私の中の「ケジメ」だったのです。
苦しい、助けて、そう思いながらも、どうしてか私は「助けて」と言えないのです。
今思えば「死んだっておかしくない」という先生の言葉は、私を早く入院させてあげたいという「心」だったのかもしれません。きっとそうだったのでしょう。優しい朝倉先生のことだから。
気の強い私には、そういう言い方でもしなければ、入院を早めたりはしないなと思われたのでしょう。
私は先生の気持ちを汲むことが出来ませんでした。
言葉をそのまま受けとってしまいました。
私は「死ぬかもしれない」。
それは入院まで半月残した私の心の支えになったのかもしれません。
入院を早める希望もせず、仕事を休むこともせず、ただカウントダウンをし始めました。残りの出勤日数を。
時期が12月であったため、年末の最後の日までを区切りに私は休職することになっていました。年末を乗り切れば入院。それまで死なないように。
死なないように私はほぽ寝ませんでした。
「寝てる間に死ぬかも」そう思うとさすがの私も怖くなったのでしょう。
どれだけ疲れても1~2時間しか横になっていられません。
しかもその間毎回ひどい悪夢を見るのです。
色んな夢を見ました。その度に汗がびっしょりで起きるのです。
半月、その状態で過ごしました。
人はなかなか死なないものです。
いや、私に限っては死ねないのです。
私はずっと死にたいと思って、死ねないから、生き抜いてやろうと思って必死で。
この思いは伝わりましょうか?
意味わかんないでしょうか?
でもずっとそうやってきたんです。

そしてやっと最後の1日が終わり、もうぐったりで。
ぐったりだけど眠ることも出来ず、年が明け、無事にニューすることが出来ました。
これで朝倉先生とたくさんお話しすることができる。いろんな話を聞いてもらえる、そう思っていました。
安心していました。

入院の日、病院で朝から手続きを済ませ、病棟へ行きました。
看護士さんに病棟でのルールや、どこに何があるか等の説明を受け、それから先生との面談とのことで部屋へ案内されました。
その面談室には看護士さん1人と朝倉先生ともう1人40代くらいの若めの少しの目が据わった感じの男の先生がいました。
朝倉先生が入院にあたっての説明をいろいろとされ、最後にその若めの先生を紹介して下さいました。
「日置と申します。宜しくお願いします。」
日置先生の声を初めて聞いたのはその時でしたね。
日置先生が私の入院中の主治医であるとのことでした。
私ははっきり言ってがっかりしました。
「朝倉先生が主治医じゃないの?」と。
私は朝倉先生と話したくて、朝倉先生ならと思っていたのに、と。
でも私は何も言いませんでした。
「いい子」で「いい人」な私は、物分かりも良く、そういうシステムなのかなとも思ったし、「朝倉先生がいいです」なんてこと言ったら、日置先生が気を悪くなさるだろうとも思ったし。
朝倉先生が言いました。
「最初の1週間は行動を観察させてもらいます」と。
そして私は病室へ案内されました。
個室でした。
とりあえず落ち着いて、部屋の造りを見渡したりしていると監視カメラを見つけました。
ああ、行動を観察するとはこういうことかと思いました。
しばらくすると、日置先生が来ました。
「少し面談を宜しいですか?」と。
私はその時日置先生と何を話したのか全く覚えていません。
おそらく挨拶程度だったのでしょう。
「どんな治療をするのか朝倉先生から聞いてる?」と聞かれ、「はい。」と答えたくらいのことしか思い出せません。
ただ予想外に丁寧に対応してもらったことは意外でした。
日置先生も話しやすい方のように感じました。
その時の私の日記には日置先生のことは何も書いていません。
ただただ体調が悪かったようです。
「ここはここで地獄かもしれない。わかってはいたけど。病院に来てずっと耳鳴りがしてる。軽く貧血の感覚」とその日の日記に書いています。
入院してしばらくは睡眠が2~3時間、寝てもすぐ起きてしまい、ベッドに横になるのが苦痛で、椅子に座っていたり、座ったまま寝てあたりが続きました。
「どんな治療をするか」私は朝倉先生から伺っていたのでしょうが、実際のところ、聞いたことすら覚えていませんでした。
頭が疲れていました。
しばらくまともに寝ていなかったせいもあるでしょう。
ぼんやりしていて、入院した理由もよく分からなくなっていました。
ただ言われるがまま検査を受け、聞かれるがまま自分の幼少期からの話をしました。
日置先生はじっくりと私が話しやすいように問いかけてくれました。

私は現在は1人暮らしで家族もありませんが、子どもの頃は、父、母、兄、祖母、私の5人家族でした。
私には家族のことはこれ以上は語れません。
思い出すことが苦痛です。
何も書けない。
書くことも語ることも1人では出来ない話を先生は聞いてくれました。じっくりと。
私はおそらく淡々と感情を含めず語りました。
やはり日置先生も朝倉先生同様、途中驚いたような表情をされていました。
すべての感情を思い出させることは先生達はされませんでした。
どのような意図があったのか私にはわかりません。
ただ私は40日間、ゆっくり休まされたように思います。
「人生の休憩だと思って」といつか朝倉先生が言っていたように思います。
入院は人生の休憩だと思って。
苦しかったり、辛かったりを吐き出して、私はたくさん泣きたかった。
でも日置先生の前で泣くことはありませんでした。
人前で泣くことはありませんでした。
一生懸命思い出して病室で1人泣いてみたりするのですが、泣きやむとすぐわすれてしまうのです、気持ちを。
私は入院中、いろんなことをすぐ忘れてしまっていました。
1日がとても長く、日置先生が恋しかったのでしょうね。
朝倉先生のことも待っていました。
週に1~2回病室に来てくれていたように思います、朝倉先生は。
そして週に1~2回日置先生の面談を受け、いついらっしゃるかわからない朝倉先生ともお話ししていました。
もっとたくさん話がしたかった。たくさんたくさん話がしたかった。40日間の途中、私は自分でもわかるくらい、他人にもわかるくらい、少しおかしくなりました。
今日の日付がわからない、少し前のことを覚えていない、そして殺してほしくなりました。自分のことを。
「私を殺して」それにとらわれました。
そんな私に日置先生は、呼吸方を教えてくれました。
気持ちと身体が苦しくなった時の呼吸方を。
マインドフルネスというそうです。
歩くマインドフルネスも教えてくれました。
日置先生の心が見えました。
私に何かを伝えようと、大切な何か大事なものを届けようとしてくれていたように思います。
ある時は私の発する言葉を促すような優しい表情で待ってくれたり、例え話を交えながら励ましてくれたり。
日置先生には私の気持ちは届いていたでしょうか。
私は日置先生に懐いていたんですよ。
たった40日間でしたが、日置先生は私の大切な人になっていたのですよ。
退院したらもう会うことの出来ない大切な人。
通院時は朝倉先生の診察で、入院時は日置先生が主治医だと聞かされていました。
そう何度も入院は仕事上できません。
ですから、退院したら日置先生にはもう会えなくなる、それはわかっていたことなのです。
退院は日置との「今生の別れ」なのでした、私にとって。
私は結局、歯も未だかゆいままですが、40日で退院して参りました。
「寂しい」と。伝わったでしょうか。
「日置先生に会えなくなるのが一番寂しい」。
ちゃんと言葉にして言えたけど、先生に伝わりましたでしょうか。
私にはちゃんと伝わっているように見えました。日置先生の表情やしぐさ、行動で。
日置先生も寂しいと思ってくれているように感じました。
先生、ありがとう。
先生、私は日置先生にちゃんとお礼を伝えたでしょうか。
「今生の別れってわけでもないでしょ」って先生はおっしゃいました。
ではまたお会いできますように。
お会いできる日まで、日置先生を忘れませんように。
私は祈っております。
日置先生へ。
ありがとう。
しおりを挟む
感想 0

この作品の感想を投稿する

あなたにおすすめの小説

花嫁は叶わぬ恋をする

柴咲もも
恋愛
恋した相手は婚約者の弟だった―― 森と湖の国ラプラシアの王女マナは、隣国リンデガルムの王子である婚約者との対面を控えた十七歳の誕生日、街外れの丘で漆黒の飛竜に乗った騎士と出会う。漆黒の翼竜は王族の騎竜と聞き、期待に胸を膨らませるマナだったが、宴の席で思わぬ事実が明かされて―― 生まれ変わって尚惹かれ合うふたりの切ない恋の物語。 ※小説家になろう、エブリスタにも掲載

ヤクザの若頭は、年の離れた婚約者が可愛くて仕方がない

絹乃
恋愛
ヤクザの若頭の花隈(はなくま)には、婚約者がいる。十七歳下の少女で組長の一人娘である月葉(つきは)だ。保護者代わりの花隈は月葉のことをとても可愛がっているが、もちろん恋ではない。強面ヤクザと年の離れたお嬢さまの、恋に発展する前の、もどかしくドキドキするお話。

どうやら夫に疎まれているようなので、私はいなくなることにします

文野多咲
恋愛
秘めやかな空気が、寝台を囲う帳の内側に立ち込めていた。 夫であるゲルハルトがエレーヌを見下ろしている。 エレーヌの髪は乱れ、目はうるみ、体の奥は甘い熱で満ちている。エレーヌもまた、想いを込めて夫を見つめた。 「ゲルハルトさま、愛しています」 ゲルハルトはエレーヌをさも大切そうに撫でる。その手つきとは裏腹に、ぞっとするようなことを囁いてきた。 「エレーヌ、俺はあなたが憎い」 エレーヌは凍り付いた。

愛されない女

詩織
恋愛
私から付き合ってと言って付き合いはじめた2人。それをいいことに彼は好き放題。やっぱり愛されてないんだなと…

夫に元カノを紹介された。

ほったげな
恋愛
他人と考え方や価値観が違う、ズレた夫。そんな夫が元カノを私に紹介してきた。一体何を考えているのか。

貴方の事なんて大嫌い!

柊 月
恋愛
ティリアーナには想い人がいる。 しかし彼が彼女に向けた言葉は残酷だった。 これは不器用で素直じゃない2人の物語。

【完結】君の世界に僕はいない…

春野オカリナ
恋愛
 アウトゥーラは、「永遠の楽園」と呼ばれる修道院で、ある薬を飲んだ。  それを飲むと心の苦しみから解き放たれると言われる秘薬──。  薬の名は……。  『忘却の滴』  一週間後、目覚めたアウトゥーラにはある変化が現れた。  それは、自分を苦しめた人物の存在を全て消し去っていたのだ。  父親、継母、異母妹そして婚約者の存在さえも……。  彼女の目には彼らが映らない。声も聞こえない。存在さえもきれいさっぱりと忘れられていた。

エリート警察官の溺愛は甘く切ない

日下奈緒
恋愛
親が警察官の紗良は、30歳にもなって独身なんてと親に責められる。 両親の勧めで、警察官とお見合いする事になったのだが、それは跡継ぎを産んで欲しいという、政略結婚で⁉

処理中です...