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第22章 消えたランプ星
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その頃、北の天文所は大混乱に陥っていました。極夜まであと二週間しかないのに、ランプ星が忽然と消えてしまったのです。しかし彗星でもないランプ星が消えることなど、まずありえません。この由緒ある天文台が計算間違いをして見失ったか、観測装置がいかれてしまったのか。いずれにせよ責任者であるアムンセン所長の沽券に関わる問題です。所長は真っ白なあごひげを撫でながら、大きなため息をつきました。
王様の提案で、レネを探しがてらオーロラを見に行くことになったエレンは、狭い飛行船での生活に早くも限界を感じていました。飛行船は王室のものだけあって非常に贅沢な作りで、四人それぞれの個室のほかに、ダイニング・キッチン、リビングを兼ねた展望室、それに比較的使いやすいバスルームまで完備していました。しかしここは空の上。いくら居心地のよくても、ここから出られないというのが最大の弱点でした。
たしかに王様にキルステンを連れて行きます、と伝えたのはエレンでした。しかしここまで手がかかるとは、予想だにしませんでした。
旅行が決まるやいなや、王女は両手を打って、まるでピクニックに行くかのようにそわそわしだしました。あれもいるし、これも用意しなきゃとというわけです。これまで友達がいなかったわけですから、初めての友達との旅行に、胸を踊らせるのは仕方ありません。しかしさして違いのないことに、いちいち答えなければならないのは非常に苦痛でした。
王女の相談が、予備の燃料や食料といった本当に検討すべきことなら、エレンだって真面目に付き合います。しかし王女の「ねえ」が始まるのは、どの色が私に似合うかしらといった、どっちでもいいことの類いか、本当は私といるのは楽しくないのよねといった、行きどころのない不安を言いたいときだけなのです。しかもほとんどの場合、答えはもう自分の中で決まっていて、ただ他の人に後押ししてほしくて話しかけてくるのです。最初は根気づよく付き合っていたエレンも、いつからか聞く事もなおざりになって、いまではキルステンがやってくるのが見えると、狸寝入りを決め込むようになっていました。直接聞いたわけではありませんが、他の二人もキルステンが見えるとさっとどこかへ行ってしまうので、考えていることはエレンと大体同じなのでしょう。
やっとひとりきりになったエレンが料理をしているときのこと。いつものようにノックもなく、キルステンが駆け込んできました。
「ねえエレン! リンを見なかった?」
完膚無きまでに振られたのに、キルステンはまだリンが気になっていて、表向きは悪口でしたが、口を開けばリンのことばかり言っていました。しかも最近のリンはプレイボーイぶりを遺憾なく発揮して、振ったはずのキルステンの頭をよしよししたり、今日も可愛いねと言ったりするのです。リンの呪いのことを知らないキルステンが、いつか思いあまってリンにキスをするのではないかと、エレンは気が気でなりませんでした。
「ねえエレン。リンのネックレスって変わっているわよね」
「ネックレス?」
エレンはまたどうでもいい話がはじまったのだと思いました。しかしキルステンが、液体が入った小瓶と木の実のネックレスだと言ったので、エレンは無視することができなくなりました。
リンは自分の時が閉じ込められた薔薇の実と、蜜蜂にもらった毒の小瓶を革ひもで結んで首から下げていました。大事なものは身につけるのが一番というわけです。皮肉にもこれは、妖精の女王やクリーニング屋のケーニヒから学んだことでしたが。
「あぁ、あれか」
エレンが思わず呟くと、キルステンは机に手をかけたまま、兎みたいに後ろ足を跳ねさせました。
「エレンは知っているのね。あれは誰にもらったのかしら。大切な人? だっていつも身につけているし」
エレンは薔薇の種を隠し、蜜蜂たちに守らせていた妖精の女王のことを思い出しました。きっとリンもネックレスを見るたびに彼女のことを思い出し、その来訪に怯えているに違いありません。もしかしたら女王に毒を飲ませることだって、リンは想定しているかもしれません。
「君はそのことについて勿論根掘り葉掘り聞いただろうし、リンがそれでも話さなかったのなら、僕が言うべきじゃないよ」
エレンがこう言うと、キルステンはむっと膨れて、その体はまた小さくなりました。
「エレンのケチ! いいわよ、別に教えてくれなくて。モテモテのリンのことだからどうせ女にもらったんでしょ。あぁ、もう! あんなもの海に捨ててやりたい!」
キルステンが分かりやすく地団駄を踏んだので、エレンは心配になって、切りかけのじゃがいもを置きました。苦労して取り戻した薔薇の種を、キルステンが捨てたりしたら大変です。エレンはタオルで手を拭くと、リンを一緒に探してあげるよ、とキルステンをなだめました。
リンはフラッフィと操縦室にいました。太陽の光を動力源としているこの飛行船は、普段は自動操縦にしてあるのですが、機械に目のないリンがときどき手動に切り替えて舵を握ることがあるのです。
「さっきはいなかったのに。一体どこにいたの」
リンに抱っこされて舵を握っていたフラッフィを引き摺り下ろすと、キルステンの体はまた縮みました。
「自分の部屋、かな」
リンは操縦をオートに切り替えると、さっさと部屋を出ようとしました。
「嘘よ。私、部屋も見たんだから」
「おい。僕は鍵をかけていたんだぞ」
リンが反論すると、キルステンはちょっと分が悪そうに、ここは私の船だからマスターキーを持っているんだと白状しました。
「なんだって! そんなものをデリカシーのない奴に渡しておけるものか」
リンはそう言って、キルステンを追い回しはじめました。しかしキルステンは嬉しそうにきゃっきゃと声を立てましたし、リンはリンでまんざらでもない様子です。エレンがどっと疲れを感じ、退散しようとしたその瞬間、伝声管に置き去りにされていたフラッフィが叫びました。
「あれを見て!」
眼下に広がっていたのは、一面雪に覆われた山の斜面と、その上に立つ半球型の大きな建物。細く開いたドームの隙間からは、丸や四角の枠で囲まれた太い筒が顔を覗かせています。
「あぁ、北極天文台のこと」
キルステンは事も無げに言い放つと、ついでに最近発見された星に自分の名前がつけられたことを、さりげなくつけ加えました。
雲をも見下ろす天文台からの眺めは壮観でしたが、エレンは天文台の内部にいたく感動しました。象ほどもある巨大な望遠鏡は、上空からは太い一本の筒にしか見えませんでしたが、こうして間近で見ると何本もの望遠鏡が集まってできたもので、まさに科学の集大成といったところ。望遠鏡は、王都のアイアンタワーような鉄骨に支えられた大きな台に載っていて、実際にそれを覗くには長く優美な螺旋階段を昇らなければならないのですが、そこに行ったからといってすぐに星を見られるわけではありません。巨大な望遠鏡の下に据えられた、ロボット操縦室のような半個室によじ上り、ピントを合わせる無数のレバーやハンドル、それに望遠鏡を動かしたり、ドームを開閉したりするボタンを、何一つ間違えることなく手順通りに操作しなければ、星を拝むことはできないのでした。
天文台を訪れた四人は、きびきび働く研究員たちになかなか声をかけることができませんでした。しかし何人もの声を掛けやすそうな人たちを見送ったのち、エレンはようやく一番下っ端らしき、ぺらぺらな白衣を来た研究員を呼び止めることに成功しました。
「この大混乱で誰も彼もが忙しいんだ。手短に頼むよ」
いかにも煩わしそうに足を止めた生っ白い痩せた研究員が、戦隊ヒーローの変身シーンのように腕を伸ばして腕時計を見ると、胸につけた「ジョシュ」の名札はぽろりと落ちました。
「偉大な事業に携わる方のお時間を拝借して忍びないのですが、何かあったのでしょうか」
リンが丁重に尋ねると、本当は嬉しいのに、ジョシュはわざともったいぶって説明しました。
「いやね。極夜まであと数日なのに、ランプ星が消えてしまって。こんなことは初めてだから、何かの間違いに違いないと古参の研究員たちまでおおわらわなのさ」
ランプ星というのは、まもなくやってくる極夜の間、唯一ずっと空に出ている一等星だ、とキルステンは補足しました。
「それでランプ星がないとどうなるの?」
エレンがキルステンに聞いたのに、科学者はご丁寧にも答えてくれました。
「それは誰にも分からない。なにせ観測史上初なんだ。しかし僕はこれが新発見に繋がるのではないかと睨んでいる。じじい連中はあくまで星を見落としただけだと信じているようだけど」
エレンはこれ以上この人を恍惚とさせたくなかったので、無理やり話題を変えました。
「あの、人を捜しているんです。正確には猫なんですが、見かけませんでしたか」
「人なの? 猫なの? そのへんはっきりしてもらわないと。僕は科学者なんだ」
ジョシュはしゃくれた顎をわざと突き出して、エレンに詰め寄りました。
「お兄さんが猫を見かけたか、見かけなかっただけ教えてよ、ジョシュさん」
落ちた名札を、フラッフィが仏頂面で突き出すと、彼は金魚みたいに口をぱくぱくやりました。しかしやがて名札を引ったくると、彼は大きな声でフラッフィに訂正しました。
「見ているか、見ていないかなら、見ていないし、僕は正、研、究、員、だっ!」
言う事だけ言ってジョシュが去ってしまうと、エレンたちは呆然とその場に立ち尽くしました。しかしまもなくゴミ箱が派手に転がる音がしたので、一同は慌てて出口へ向かいました。
そんなことがあったので、天文所を出てすぐ誰かに呼び止められたことは、エレンの心臓をきゅっとさせました。しかしエレンの肩を掴んだのは、厄介ごとは無縁そうな白衣を着た柔和な老紳士でした。
「先ほどはうちの所員が失礼をいたしまして」
いかにも賢そうな額の広い老人が頭を下げたので、エレンは恐縮してしまいました。
「いえ。忙しいところ、邪魔をした僕たちが悪かったんです」
「天文所のみんながみんな、ああだと思わないでくださいよ。ジョシュはとても変わっているんです」
老人が声をひそめてこう言ったので、一同はくすりと笑いました。
先ほどの老人のお誘いで、エレンたちはコンテナを改造したカフェに来ていました。アムンセンと名乗った老人は、実は天文台の所長で、部下の非礼を詫びたいから、と四人に温かい飲み物をごちそうしてくれることになったのです。
「ジョシュは入所したときは本当に助手だったんだ。だからみんな、名前とも役職とも区別なくジョシュと呼んでいた。いまだって呼び捨ての分には問題ない。ただジョシュさんとなると話は別だ。あそこでは『助手さん』というのは見習いの研究員を意味する。だから正研究員になったいまでも『ジョシュさん』と呼ぶと逆鱗に触れる。わしもたまに忘れてひどい目に遭う」
アムンセン所長は熱いブラック・コーヒーをすすりました。
「それでは彼のことはみんななんて呼んでいるんです」
染まってもいいように、自分と同じ色のミルクティを飲みながらフラッフィが聞きました。
「先輩研究員は前と同じ『ジョシュ』だ。しかしルールを知らない新米研究員は必ずさんづけしてひどい目に遭う。そのあとは学習してジョシュ研究員と呼ぶがね」
所長はジンジャービスケットを口に放り込むと、うまいから食べなさいとみんなにもすすめてくれました。そしてエレンたちが知りたかったことは分かったのか、と尋ねました。四人は顔を見合わせました。いまだレネの行方は何も掴めていません。
「僕たち、流氷船に紛れ込んだ猫を探しているんです。でも何も分かっていなくて」
「猫か。猫が含まれているかは分からないが、動物たちが南に向かっているという報告はある」
なんでも所長であるアムンセンには、北極で起こった様々な事象が日々報告されるのですが、その中に、動物たちの南下という項目があったというのです。
「最初はウサギやキツネといった小動物だったんだが、二、三日前には北極熊が移動するのを見たという者が出た。動物には人間には分からない機微を感じ取る能力があるからな。君の猫ももしや南に向かっているかもしれぬ」
「動物たちはなぜ南下しているんです? ランプ星と関係があるんですか」
リンが身を乗り出すと、所長はひげについたビスケット片を払いました。
「あるいはそうなのかもしれん。しかしそれは生物学者の仕事。我々天文学者が扱うのはあくまで空や星だけ。しかし君たちが追い求めるのは自由だし、応援するよ」
そういうとアムンセン所長は、動物たちの生息域と天文所を書いた地図をくれました。
王様の提案で、レネを探しがてらオーロラを見に行くことになったエレンは、狭い飛行船での生活に早くも限界を感じていました。飛行船は王室のものだけあって非常に贅沢な作りで、四人それぞれの個室のほかに、ダイニング・キッチン、リビングを兼ねた展望室、それに比較的使いやすいバスルームまで完備していました。しかしここは空の上。いくら居心地のよくても、ここから出られないというのが最大の弱点でした。
たしかに王様にキルステンを連れて行きます、と伝えたのはエレンでした。しかしここまで手がかかるとは、予想だにしませんでした。
旅行が決まるやいなや、王女は両手を打って、まるでピクニックに行くかのようにそわそわしだしました。あれもいるし、これも用意しなきゃとというわけです。これまで友達がいなかったわけですから、初めての友達との旅行に、胸を踊らせるのは仕方ありません。しかしさして違いのないことに、いちいち答えなければならないのは非常に苦痛でした。
王女の相談が、予備の燃料や食料といった本当に検討すべきことなら、エレンだって真面目に付き合います。しかし王女の「ねえ」が始まるのは、どの色が私に似合うかしらといった、どっちでもいいことの類いか、本当は私といるのは楽しくないのよねといった、行きどころのない不安を言いたいときだけなのです。しかもほとんどの場合、答えはもう自分の中で決まっていて、ただ他の人に後押ししてほしくて話しかけてくるのです。最初は根気づよく付き合っていたエレンも、いつからか聞く事もなおざりになって、いまではキルステンがやってくるのが見えると、狸寝入りを決め込むようになっていました。直接聞いたわけではありませんが、他の二人もキルステンが見えるとさっとどこかへ行ってしまうので、考えていることはエレンと大体同じなのでしょう。
やっとひとりきりになったエレンが料理をしているときのこと。いつものようにノックもなく、キルステンが駆け込んできました。
「ねえエレン! リンを見なかった?」
完膚無きまでに振られたのに、キルステンはまだリンが気になっていて、表向きは悪口でしたが、口を開けばリンのことばかり言っていました。しかも最近のリンはプレイボーイぶりを遺憾なく発揮して、振ったはずのキルステンの頭をよしよししたり、今日も可愛いねと言ったりするのです。リンの呪いのことを知らないキルステンが、いつか思いあまってリンにキスをするのではないかと、エレンは気が気でなりませんでした。
「ねえエレン。リンのネックレスって変わっているわよね」
「ネックレス?」
エレンはまたどうでもいい話がはじまったのだと思いました。しかしキルステンが、液体が入った小瓶と木の実のネックレスだと言ったので、エレンは無視することができなくなりました。
リンは自分の時が閉じ込められた薔薇の実と、蜜蜂にもらった毒の小瓶を革ひもで結んで首から下げていました。大事なものは身につけるのが一番というわけです。皮肉にもこれは、妖精の女王やクリーニング屋のケーニヒから学んだことでしたが。
「あぁ、あれか」
エレンが思わず呟くと、キルステンは机に手をかけたまま、兎みたいに後ろ足を跳ねさせました。
「エレンは知っているのね。あれは誰にもらったのかしら。大切な人? だっていつも身につけているし」
エレンは薔薇の種を隠し、蜜蜂たちに守らせていた妖精の女王のことを思い出しました。きっとリンもネックレスを見るたびに彼女のことを思い出し、その来訪に怯えているに違いありません。もしかしたら女王に毒を飲ませることだって、リンは想定しているかもしれません。
「君はそのことについて勿論根掘り葉掘り聞いただろうし、リンがそれでも話さなかったのなら、僕が言うべきじゃないよ」
エレンがこう言うと、キルステンはむっと膨れて、その体はまた小さくなりました。
「エレンのケチ! いいわよ、別に教えてくれなくて。モテモテのリンのことだからどうせ女にもらったんでしょ。あぁ、もう! あんなもの海に捨ててやりたい!」
キルステンが分かりやすく地団駄を踏んだので、エレンは心配になって、切りかけのじゃがいもを置きました。苦労して取り戻した薔薇の種を、キルステンが捨てたりしたら大変です。エレンはタオルで手を拭くと、リンを一緒に探してあげるよ、とキルステンをなだめました。
リンはフラッフィと操縦室にいました。太陽の光を動力源としているこの飛行船は、普段は自動操縦にしてあるのですが、機械に目のないリンがときどき手動に切り替えて舵を握ることがあるのです。
「さっきはいなかったのに。一体どこにいたの」
リンに抱っこされて舵を握っていたフラッフィを引き摺り下ろすと、キルステンの体はまた縮みました。
「自分の部屋、かな」
リンは操縦をオートに切り替えると、さっさと部屋を出ようとしました。
「嘘よ。私、部屋も見たんだから」
「おい。僕は鍵をかけていたんだぞ」
リンが反論すると、キルステンはちょっと分が悪そうに、ここは私の船だからマスターキーを持っているんだと白状しました。
「なんだって! そんなものをデリカシーのない奴に渡しておけるものか」
リンはそう言って、キルステンを追い回しはじめました。しかしキルステンは嬉しそうにきゃっきゃと声を立てましたし、リンはリンでまんざらでもない様子です。エレンがどっと疲れを感じ、退散しようとしたその瞬間、伝声管に置き去りにされていたフラッフィが叫びました。
「あれを見て!」
眼下に広がっていたのは、一面雪に覆われた山の斜面と、その上に立つ半球型の大きな建物。細く開いたドームの隙間からは、丸や四角の枠で囲まれた太い筒が顔を覗かせています。
「あぁ、北極天文台のこと」
キルステンは事も無げに言い放つと、ついでに最近発見された星に自分の名前がつけられたことを、さりげなくつけ加えました。
雲をも見下ろす天文台からの眺めは壮観でしたが、エレンは天文台の内部にいたく感動しました。象ほどもある巨大な望遠鏡は、上空からは太い一本の筒にしか見えませんでしたが、こうして間近で見ると何本もの望遠鏡が集まってできたもので、まさに科学の集大成といったところ。望遠鏡は、王都のアイアンタワーような鉄骨に支えられた大きな台に載っていて、実際にそれを覗くには長く優美な螺旋階段を昇らなければならないのですが、そこに行ったからといってすぐに星を見られるわけではありません。巨大な望遠鏡の下に据えられた、ロボット操縦室のような半個室によじ上り、ピントを合わせる無数のレバーやハンドル、それに望遠鏡を動かしたり、ドームを開閉したりするボタンを、何一つ間違えることなく手順通りに操作しなければ、星を拝むことはできないのでした。
天文台を訪れた四人は、きびきび働く研究員たちになかなか声をかけることができませんでした。しかし何人もの声を掛けやすそうな人たちを見送ったのち、エレンはようやく一番下っ端らしき、ぺらぺらな白衣を来た研究員を呼び止めることに成功しました。
「この大混乱で誰も彼もが忙しいんだ。手短に頼むよ」
いかにも煩わしそうに足を止めた生っ白い痩せた研究員が、戦隊ヒーローの変身シーンのように腕を伸ばして腕時計を見ると、胸につけた「ジョシュ」の名札はぽろりと落ちました。
「偉大な事業に携わる方のお時間を拝借して忍びないのですが、何かあったのでしょうか」
リンが丁重に尋ねると、本当は嬉しいのに、ジョシュはわざともったいぶって説明しました。
「いやね。極夜まであと数日なのに、ランプ星が消えてしまって。こんなことは初めてだから、何かの間違いに違いないと古参の研究員たちまでおおわらわなのさ」
ランプ星というのは、まもなくやってくる極夜の間、唯一ずっと空に出ている一等星だ、とキルステンは補足しました。
「それでランプ星がないとどうなるの?」
エレンがキルステンに聞いたのに、科学者はご丁寧にも答えてくれました。
「それは誰にも分からない。なにせ観測史上初なんだ。しかし僕はこれが新発見に繋がるのではないかと睨んでいる。じじい連中はあくまで星を見落としただけだと信じているようだけど」
エレンはこれ以上この人を恍惚とさせたくなかったので、無理やり話題を変えました。
「あの、人を捜しているんです。正確には猫なんですが、見かけませんでしたか」
「人なの? 猫なの? そのへんはっきりしてもらわないと。僕は科学者なんだ」
ジョシュはしゃくれた顎をわざと突き出して、エレンに詰め寄りました。
「お兄さんが猫を見かけたか、見かけなかっただけ教えてよ、ジョシュさん」
落ちた名札を、フラッフィが仏頂面で突き出すと、彼は金魚みたいに口をぱくぱくやりました。しかしやがて名札を引ったくると、彼は大きな声でフラッフィに訂正しました。
「見ているか、見ていないかなら、見ていないし、僕は正、研、究、員、だっ!」
言う事だけ言ってジョシュが去ってしまうと、エレンたちは呆然とその場に立ち尽くしました。しかしまもなくゴミ箱が派手に転がる音がしたので、一同は慌てて出口へ向かいました。
そんなことがあったので、天文所を出てすぐ誰かに呼び止められたことは、エレンの心臓をきゅっとさせました。しかしエレンの肩を掴んだのは、厄介ごとは無縁そうな白衣を着た柔和な老紳士でした。
「先ほどはうちの所員が失礼をいたしまして」
いかにも賢そうな額の広い老人が頭を下げたので、エレンは恐縮してしまいました。
「いえ。忙しいところ、邪魔をした僕たちが悪かったんです」
「天文所のみんながみんな、ああだと思わないでくださいよ。ジョシュはとても変わっているんです」
老人が声をひそめてこう言ったので、一同はくすりと笑いました。
先ほどの老人のお誘いで、エレンたちはコンテナを改造したカフェに来ていました。アムンセンと名乗った老人は、実は天文台の所長で、部下の非礼を詫びたいから、と四人に温かい飲み物をごちそうしてくれることになったのです。
「ジョシュは入所したときは本当に助手だったんだ。だからみんな、名前とも役職とも区別なくジョシュと呼んでいた。いまだって呼び捨ての分には問題ない。ただジョシュさんとなると話は別だ。あそこでは『助手さん』というのは見習いの研究員を意味する。だから正研究員になったいまでも『ジョシュさん』と呼ぶと逆鱗に触れる。わしもたまに忘れてひどい目に遭う」
アムンセン所長は熱いブラック・コーヒーをすすりました。
「それでは彼のことはみんななんて呼んでいるんです」
染まってもいいように、自分と同じ色のミルクティを飲みながらフラッフィが聞きました。
「先輩研究員は前と同じ『ジョシュ』だ。しかしルールを知らない新米研究員は必ずさんづけしてひどい目に遭う。そのあとは学習してジョシュ研究員と呼ぶがね」
所長はジンジャービスケットを口に放り込むと、うまいから食べなさいとみんなにもすすめてくれました。そしてエレンたちが知りたかったことは分かったのか、と尋ねました。四人は顔を見合わせました。いまだレネの行方は何も掴めていません。
「僕たち、流氷船に紛れ込んだ猫を探しているんです。でも何も分かっていなくて」
「猫か。猫が含まれているかは分からないが、動物たちが南に向かっているという報告はある」
なんでも所長であるアムンセンには、北極で起こった様々な事象が日々報告されるのですが、その中に、動物たちの南下という項目があったというのです。
「最初はウサギやキツネといった小動物だったんだが、二、三日前には北極熊が移動するのを見たという者が出た。動物には人間には分からない機微を感じ取る能力があるからな。君の猫ももしや南に向かっているかもしれぬ」
「動物たちはなぜ南下しているんです? ランプ星と関係があるんですか」
リンが身を乗り出すと、所長はひげについたビスケット片を払いました。
「あるいはそうなのかもしれん。しかしそれは生物学者の仕事。我々天文学者が扱うのはあくまで空や星だけ。しかし君たちが追い求めるのは自由だし、応援するよ」
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