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1章

3話:涙腺コントロール不能

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 ヤクルはいじめを受けて引きこもりながらも高校に籍を置いているため、まだ学生の身分ではあるが、既に自分はエリート街道から外れてしまっているのだと捉えていた。

 学歴不問で実績主義のプロ小説家という職業ジョブに強い憧れはあるものの、彼は自身の携帯できる魔法固有スキルと知能に限界を感じてしまっている。その憧れからか、あるいは劣等感からか、彼は時折小説家の没原稿を覗き見ていた。

 本来許されない行為であるが、それを経ていたからこそ、ヤクルのはのゐるを心配する感情を抱いていた。自らの才能を嘆く彼女を拾い上げたい・・・・・・気持ちが芽生えたのはこのためだ。

 のゐるはそれを受け、初めは気持ち悪いと捉えたものの、すこし落ち着いてきたところで、自身が抱える葛藤についてヤクルへと話してみることにした――。

「……なんででしょうね……一年前、あのUSBメモリ・・・・・・・・が空に現れてからというもの、以前みたいに書けなくなってしまって……すごくロジカルな、難しい作品しか書けないんです……」

「うまく書けないんですか……」

「えぇ……アレ以来、私のなかでなにかいろいろ変わってしまったような気がしています。きっと今度も・・・USBメモリがなにかを大きく変えてしまったんでしょうね……ひょっとすると私が小説を書けなくなってしまうようななにかが起きて……って、それはあてつけかもしれないですけど……」



 空にUSBメモリが現れるたび、いつも世界は大きく変わってきた。やがてその奇怪な物体は、世界が変わるきっかけを齎すとして人々から崇められるようになってきていた。

 文化の誕生、科学の誕生、魔法の誕生……人の歴史の分岐点にはいつもUSBメモリがあった。USBメモリが一体なにをもたらしているのか。それは誰にもわからないが、毎度そうなのだからそういうものだと受け取るしかない。

 ただのゐるは、理由もわからないまま、あるいは理由がわからないからこそだろうか、この現状に葛藤してきた。いつしかパキッと心が折れて、そのままになってしまっていた。

 彼女はどう考えるのが正しいのかわからなくなってしまっていた。以前と同じように小説が書けるようになりたい。そう願うあまり、たまたま現れたUSBメモリに自分が書けないことを当て付けしているのではないかと、さらに自分を責めていた。

 それだけ彼女は、自分がこれまで得てきた成功と努力を、取り戻したいと強く願っていた。

「私なんて小説が書けなかったら誰かの足を引っ張って生きていくしかありませんから、これ以上生きていたって仕方がないかもしれませんね……」

「そ、そんなことないですよ! 少なくとも俺にはとても需要のある作品をお書きになっています! それに、生きていたって仕方ないなんて考えちゃダメですよ! 無駄な命なんてありません!」

 のゐると対比する語気でヤクルはそう押した。

「……」

 しかし、のゐるの表情は曇ったままだった。

「ヤクルさん……でしたね。ヤクルさん、私は小説を書くことしかできない人物です。これまで学校で虐められて、すがるように小説に挑んできました……ヤクルさんが褒めてくれることを嬉しいとは感じますが、最早自分のこれまでの作品がどんな風に面白かったのか、思い出すこともできません」

 のゐるは作家として生きる以外の人生を知らない。書けない絶望のあまりすら考えていたこともある。やがて飛行船への乗船が決まったが、彼女は爆発を経たあとの新世界を生き抜く自信もないままこの場に集まっていた。

「ですから、いまとなってはこの身体はただの燃え残りです。この飛行船に乗らずに、死ぬことを受け入れようと、今日までそう思ってきました。そんな風に思いながらも、ただ送り届けられるままにこの場に来てしまいました。この先の新世界で求められているのが、新しい歴史を紡ぐ小説を書く能力なのだとすれば、私はそれを持ち合わせてはいないでしょう」

 自身の葛藤について、のゐるは零さずにはいられなかった。

 滅亡を迎えた先の未来で小説を書く能力が必要とされているかはわからないが、彼女はそれよりもいまこの瞬間、小説を書くことができない自らを恥じており、そこから抜け出せずにいた。

「ヤクルさん……私は私が、この飛行船に乗るに相応しい人物ではないと思っています。無理して生き延びず、この滅びの日をもって生涯を終えてもいいと思っています。むしろ、死んでしまったほうが……みなさんの足を引っ張らずに済むと思っています。死に場所を求めているんです・・・・・・・・・・・・・

 のゐるの考え方はあまりに合理的過ぎて、私心がどこにも存在していなかった。自分がどうしたい、どうあれば幸せか……などといった人間らしい思考が、頭から消え去ってしまっていた。

 最早自分は忘れられてしまった人物なのだと、存在する必要のない人物なのだと、彼女は自らの価値を見失っていた。すべてを放棄して小説へと逃げた自分が、これから新世界で生きていくなどできるはずがない。そう自己否定感のなかに堕ちていた。

 ……とはいえのゐるは、おそるおそるではあるが、尋ねずにはいられなかった。

「ヤクルさん、あなたがそうやって私の作品の価値を見出してくれたというのなら、教えてください」

 彼女は言ってみなさいと言わんばかりの、煽るような口調でヤクルへ尋ねた。

「私の小説の、一体どんなところがよかったのでしょうか?」

 これまで彼女を否定してきた言葉や評判を払拭するだけの温かみに満ちた言葉を言えるものなら言ってみなさいと……まるで当て付けのようにそう聞いていた。

 のゐるはそれを尋ねるまでは死ぬに死ねないと思っていたが、尋ねることが目的であり、別に返事がなくてもよかった。

 これで批判されるなら生きることを諦められるし、気を遣われて濁されるなら同じこと。

 のゐるは生きることを諦めるために、こうして尋ねていたのだった。

 応じて、ヤクルは吠えた。

「はい! デビュー作の魔眼のレフティーから最新作のノーPC・オンラインまで全部読んでいます! 最初魔眼を読んだときはあっと驚く世界観に感動しました! 魔眼の主人公が最終章の伏線回収で眼帯から潰れた左目を開放し、涙が出ない自分の心の冷徹さに憤って、倒れた仲間の血で左目にスッと線を引くシーンは本当に心震えました! 最新作のノーPC・オンラインの中盤、いじめられて生きてきた主人公が脳に置かれていたデータパッチを引き抜くシーンはネタがアングラ過ぎて世間の評判こそイマイチでしたが、その残酷さを余すことなく描いた様と、自己犠牲の葛藤は見事としか言いようがありません! きっとのゐる先生自身が大人になって、自分の功績は人に自慢するものではないとわかりこのような描写になられたんだと解釈しています! 慈愛の心に溢れていて素敵でした!」

 だばー。のゐるは号泣した。



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