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【第六夜】
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一昨日は眠れずに、昨日も寝付きが悪かったせいか、ひどく眠い。このまま学校をサボって寝ていたい気分になっている。寝てしまえば、何も考えないで済む。でも僕は答えを出さなければならない。
「難しく考えすぎなのよ。死んでも私たちのように第二の人生もみたいのがあるんだから」
部屋に菜々緒ちゃんが入ってきて、そんなことを言う。確かにそうかも知れないけれど、僕には坂城さんという恋人がいる。そう簡単には決められない。僕一人の問題ではないのだ。そのことを菜々緒ちゃんに伝えると、仕方がないと行った顔でこう言い始めた
「どちらが先に死ぬか、ってやつなんだけど、今回のケースはほぼ同時に死ぬわよ。いつかは言えないけれど。だから、どちらかが先に死んで後追いみたいにはならないから、その点は安心して」
死ぬのに安心も何もないと思うけど、一瞬でも死の悲しみに襲われることがないのならそれでいい気もした。
「ほぼ同時か……」
「そ。ほぼ同時。だから先に決めて置かないと、自動的に死ぬってわけ。今日一日、明日のいつかは分からないけどその時間まで。実質、今日一日で決めてちょうだいね。案内人としても準備があるから」
半ば、機械的な感じがして微妙な気になったけども、ここで感情的になられたら余計に考えがまとまらなくなるので、ちょうど良いのかも知れない。朝ごはんを食べながら、自分の家族のことを考える。妹の菜々緒はどう思うのだろう。母親は?父親は?自分が死ぬと言う選択肢を選んだ場合、坂城さん以外に家族も悲しむのだろう。僕と坂城さんだけの問題でもないけど、それは坂城さんも同じだ。
「母さん、もし母さんと父さんのどちらかが死ななきゃならないってなったら、どっちを選ぶ?」
「何、いきなり。そんなの決まってるじゃない。自分が死ぬわよ。自分が死んで父さんが助かるんでしょ?あ、でも私たち二人は死ぬけど、あなたたちが生き残るなら、そっちを選ぶかなぁ。親ですもの」
同時に死ぬ場合に、残された人たちのことを考える。家族のことまで考えると本当に分からなくなる。身支度を整えていた時に、あまりたくさんの人の意見は聞かない方が良いと思った。これは自分で決めることだ。いや、坂城さんと二人で決めることだ。
バス停に到着すると、今日は御坂がいなかった。珍しいこともあるものだ。
「おはよう」
「おはようございます一条先輩。今日は御坂さんはいないんですか?」
「何で僕に聞くのさ」
「いつも一緒ですから」
いささか機嫌が悪いといった感じで聞いてくる。僕が誘ってるわけでもないのに。
「決めました?」
「完全には決めてないけど、やっぱり僕が……」
「まだそんなことを言ってるんですか?残される人が多い方が生き残った方が言いに決まってるじゃないですか。御坂さん、絶対に悲しみますよ?それに私は両親がいませんから」
「え?」
それは初耳だ。坂城さんには両親がいない。僕が今朝考えていたことが解消してしまった。残された人数で単純に考えると、僕が生き残る方が悲しみは少ないことになってしまう。でも……。
「一条先輩は何で死にたいんですか?」
「なんか堂々巡りだな。いっそのこと、こんなこと忘れてパァっと遊びにでも行かないか?」
「学校はどうするんですか?」
「具合が悪いとか何とかいえば大丈夫でしょ。一日くらいずっと一緒に居たいじゃない。この前みたいに」
桜並木を歩きながらそんなことを話している少し後ろを御坂は歩いて話を聞いていた。彼女たちには行動の優先権がある。遊びに行くと決めたのなら学校はどうにでもなる。その場合、自分は坂城さんの案内人としてその行動を見守る必要がある。非常に辛い選択だ。案内人としてではあるが、私は一条くんのことが好きだ。その人が、違う人とデートをするのを遠目に見てなくてはならないのだ。
「御坂」
「分かってるって。その辺はわきまえてるわよ。案内人として見守る」
「それならいいんだけど。絶対に彼女たちの前に出て行ったりしないでよ」
御坂は考えていた。途中で私が彼女たちの前に出て行ったらどうなるのか。坂城さんは私に一条くんを託すのか。いや、何で自分が勝つつもりでいるのだろうか。拒絶される可能性が高いだろうに。
「で?どこに行く?」
僕たちは校門の前に行く直前に学校に電話を入れて、今日は休むことを伝えた。学年が違うので、さして怪しまれることもなく、休みが了承されたけど、これは行動の優先権があるからだなとすぐに気がついた。そうだ優先権があるんだ。今日は何だってできる。僕たちの行動が最優先されるんだ。そう考えると、今日一日は思う存分に楽しまなきゃ損だ、と言う気持ちがより一層に高まってくる。
「そうですね。まずはあの高台に行きませんか?」
あの高台。僕たちが出会った場所だ。いわば、僕たちの始まりの場所。学校から高台まではそんなに遠く離れていない。途中、彼女のアパートの前を通り過ぎて、親戚のおじさんとおばさんと一緒に住んでいると教えてもらった。彼女は陸上部なだけあって高台に向かう階段を軽快に駆け上がる。その度にスカートがひらひらと舞って、思わずそっちの方に視線が向いてしまう。それを彼女はわざとなのか気にする様子もなく、僕にその肢体を見せつける。
高台に到着して彼女はこう切り出した。
「ここで出会ったのは、偶然だったんですかね。それともどちらかが恋人が欲しいって願ったんですかね。願ったのは先輩ですか?」
「いや」
「じゃあ、本当に運命の出会いだったんですね」
「そうなのかもな。僕たちはこんなことにならなくてもであっていたのかも……いや、こんなことがあったから僕はこの場所に来たんだ。」
「そういえば私もです。でもあの時、私が、七日後に死ぬんです。なんて突拍子もないことを言い出したのはなぜなのか、いまだに分からないんですよね。あの時は先輩、そんなこと言ってなかったじゃないですか」
「そんなことないぞ。僕もすぐに七日後に死ぬって言ったじゃないか」
「正確には金曜日に死ぬ、でしたっけ」
「そうだったな。そういえば、時間は聞いてないんだろ?」
「聞いてません。だから、先輩とは明日、一緒にいたいんです。いつその時が来ても良いように」
「それは俺も考えてたよ。どちらかが知らぬ間に、なんて嫌だしね」
「さて。今日はそんなことを考えないで、やり残したことがないようにまさに一生懸命に生きていこう」
「そうですね」
既に日は登っていたけども、この高台からの眺めは最高だった。この場所から始まったのだ。最後の時も、この場所が良いのかも知れない。
「ここですよね。先輩とキスをしたのって」
「そうだな。あの時は正直びっくりしたぞ。ああいうのって男の子からするもんだと思っていたから」
「嫌でした?」
「いや、そんなことはないかな。僕はそんな勇気がなかったから、逆に助かったというか何というか」
意気地のない話ではある。でも、女の子にキスをするなんて、自分の人生では初めてのことだし、嫌われたらどうしようとか色々と考えてしまうことも確かだった。僕たちはボートには乗らずに、その場所が見えるベンチに座って話をする。初夏の木漏れ日が優しく僕たちを照らす。心地の良い風が吹き抜ける。その度に彼女は流れる髪の毛を手で押さえて、その仕草がとても愛おしく思えてならなかった。
「坂城さんは理想のタイプとかあった?こんなことがなければ僕と一緒にはならなかった?」
「そんなことないですよ?結構タイプです。じゃないと最後を一緒になんで思いませんし」
「そうかよかった。っと、その話はなしだったな。でも、そう言ってもらえるのは嬉しいな」
「一条先輩は今までに付き合った人とかいないんですか?」
「いないな。坂城さんが初めてだな」
「じゃあ、あのキスは一条先輩にとってもファーストキスだったんですね。もらっちゃいました」
坂城さんはいたずらっぽうそう言うと、僕の方にすり寄ってきて顎を少しあげた。僕もそれに答えて軽く唇を当てた。
「三回目だな」
「ですね」
「はぁ……こんな時間、自分に訪れるとは思わなかったなぁ。高校生活はずっと一人だと思ってた」
「御坂さんとは教室でお話とかされてなかったんですか?」
「話してはいたけども、恋愛感情はなかったかな。仲は悪くはなかったけども」
僕は、伸びをした後に頭の後ろで両手を組んで彼女の質問に答えた。御坂か。彼女は確かにことあるごとに僕に話しかけてきていたような気がする。いつからだったのかは思い出せないけど。
「そうなんですか。なんか安心しました」
「もし、僕が御坂のことを少しは気にしていたらどうしてた?」
「意地悪な質問ですね。答えなきゃだめですか?」
「無理に答える必要はないけど、ちょっと気になるかな」
「それは、ちゃんと御坂さんに断ってから一条先輩をものにしたんじゃないかと思います」
「勇気あるな。仮にも御坂は二年生だぞ」
「恋に年齢は関係ないですよ」
「坂城さんは強いな」
「一条先輩もそのくらいの気概で私と付き合ってくれると助かります」
「善処する」
女の子はこう言う時に強い気がする。男の方はこう言う時に尻込みして周りの雰囲気に流されるような気がする。仕方がなかったんだって、自分に言い聞かせながら。その場合に御坂が自分のことを先に好きだと分かっていたら、僕は御坂と付き合って、坂城さんとは付き合わなかったのだろうか。互いに死ぬと分かっていても付き合わなかったのだろうか。そんなの答えは出ないな。そう考えながら公園通りを歩く。平日の午前中に制服姿の二人はひどく目立つ。焼き鳥屋のおじさんは学校サボってデートかい?なんて冗談まじりに聞かれたけども、実際にそうだから肯定しておまけをつけてつけてたりもした。
「さて。この後どうする?」
「夏祭り見たいのに行きたいですね」
「この時期にやってる夏祭り?時期が早くない?」
まだ七月の中盤前だ。二学期の期末試験は来週から。その後なら花火大会やら夏祭りやら夏のイベントが目白押しになるのだが。この時期に夏祭りは早い気がする。だが、ネットで調べると、少し離れた場所ではあるけども夏祭りをやっている場所があると出てきた。小さな街の神社で行われる夏祭りのようだ。
「行ってみましょうよ」
「そうだな。ここから電車でそんなに時間はかからなそうだ」
駅前の交番から逃げるように大回りをして駅に向かう。こんな時間に制服姿の二人が警察に見つかったら職務質問必死だからな。でもこう言う時に限ってよくないことは起きるもので。大回りした方向に自転車に乗る警察官に見つかってしまったのだ。
「君たち、ちょっといい?」
親に連絡されて学校に連れ戻されるのだろうか。
「こんな時間にこんなところで何をしてるの?」
やっぱりこうなるのか。優先権ってのはどうなってるんだ。
「デート?」
警察官は僕たちを上から下まで疑うような眼差しで眺めてくる
「はい。そうです。僕たちには時間がないんです。だからこうしてデートをしてます」
僕は正直に答えた。坂城さんも僕の手を握って軽く頷く。
「そうか。離れ離れになるのかい?」
「そうです。だから、この時間が惜しいんです。僕たちは残された時間を一緒に過ごしたいんです」
「親御さんは?」
少々思案したけども嘘をついてもバレるだろうし、素直に内緒です。とだけ答えた。警察官は少し考えた後に学生証の提示を求めてきたので、学校に連絡するのかと思ったけども、そうか、と言った顔で僕たちに学生証を返してくれた。
「見逃してくれるんですか?」
「この時間が惜しいんだろ?どこに向かうんだい?」
「夏原街の夏祭りに」
「そうか。あの夏祭りに、か。私もあの夏祭りには子供の頃に行ったものだよ。思い出を作るのなら良い祭りだと思う。本官は見なかったことにするから言っておいで。この時間は一度しか来ない。僕はそれで後悔したことがあるんだよ。君たちに同じ過ちを犯してほしくないからね」
そう言って警察官は二人を後にした。もしかしたらあの警察官も僕たちと同じような選択をした人なのかも知れないと思ったけども、そのことは口には出さなかった。
この駅はこの時間でも多くの人が行き交っている。近くに大学があるからか、大学生が多い。僕たちを見て、物珍しそうに眺めてくるけど、僕たちはそんなことを気に留めることもなく特急券の切符を買う。いつもはバスで通学しているから、電車に乗ることが少なくて、ちょっとした旅行気分になった。夏原街への乗り継ぎは二回。今いる場所からは西の方角に向かうので、どちらかというと田舎方面と言うことになる。
「なんだか旅行に行くみたい」
「特急電車に乗るんだから、実際に旅行じゃないのか?」
一度大きなターミナル駅に出てから、特急電車で一気に西の方へ向かう。そして目的の駅に到着したらバスで何駅か向かえば目的の場所だ。ターミナル駅に向かう途中に同じように学生服姿で乗ってきた女の子がいた。彼女は一人だったけど僕たちとは違って参考書を読んでいたし、少し早めの期末試験、と言った感じなのかな。先の未来がある彼女を見て少し羨ましくも思ったと同時に、僕たちの儚い人生について深く考えたりもした。
「ねぇ、見て」
車窓に、例の公園がよく見えた。公園の向こうには、あの高台も見える。この電車は、僕たちの思い出も一緒に運んでるのかも知れない。席は空いていたけれど、僕たちはドアの窓から過ぎ去る景色を眺めながら、見えたものについて他愛のない話を繰り返して時間を過ごした。こんな時間がずっと続けばいいのに、と思いながら。
ターミナル駅に到着して特急券を持ってホームに向かう。途中、お弁当を買って行こうと彼女が言い出して、ますます旅行気分が高まる。よくよく考えたら、この食事も後何回目とれるのか。いちいち後何回、とか考えてしまってよくない。彼女も同じようなことを考えているのだろうか。ひどく迷っている。僕はちょっと奮発していくら弁当を買って、彼女は釜飯を買って特急電車の指定席に向かう。乗車券と椅子の番号を確かめて席に着くと、外に見える全てが僕たちを見送るような感覚に襲われてより一層の気分の高まりを感じる。
「坂城さんはこう言う特急電車とかは?」
「おじさんの田舎に帰るときに乗るかな。すっごい田舎で、縁側とかあるの。でね、縁側に座ってたらいに入れた水の中に足を突っ込んでスイカとか食べるの。絵に描いたような夏でしょ?」
「いいなぁ。僕の田舎は僕たちの住んでいる場所よりも都会で周りがビルに囲まれているから田舎に帰ると言うよりも都会に出ていく感じかな」
僕は彼女のいう夏の風景を思い浮かべて、一緒にそんな夏を体験してみたいと思った。縁側に二人で並んで庭から花火なんて眺めっちゃって。死ぬまでは僕たちに行動の優先権があるのなら、そう言うことを願えば、叶うものなのだろうか。でもお願いを叶えてくれるようなものではないだろうしな。
特急電車が走り始めて流れる景色を眺めながら、やはり考えてしまう。僕が死ぬのか、彼女が死ぬのか。なぜかこの時の僕は、二人同時に死ぬと言う選択肢は考えなかった。この思い出はどちらかが心にとどめておくべきだと思った。生きた証を持っていた方が良いと思った。彼女も同じようなことを考えているのか、他のことを考えているのかわからなかったけど、通路の向こう側の車窓を眺めて軽くため息をついていた。
「ねぇ、一条先輩」
「なんだ?」
「この旅行って最後の旅行になるんでしょうか。二人が同時に死ぬって選択、二人が同時に生き残るって選択もあってもいいんじゃないでしょうか」
「二人とも生き残る選択か。あればいいなぁ」
「私たちには優先権があるって言ってたじゃないですか。だから、死ぬことに対して死にたくないって選択をすれば逆らえるんじゃないかって思って」
それは考えもしてなかった。死に争う選択。そうした場合にどうなるのかは案内人は聞いたことがない。七日後に「死ぬ」と言う言葉に気圧されて、生きる選択はどちらかが死ななければならず、二人ともに生きることは考えたことがなかった。
「その選択、できればいいな。同時に生きるって選択をしたらどうなるのか試してみる価値はあるかも知れないな。それでだめで同時に死んじゃったら元も子もないけど」
半分笑いながら僕は答える。そうですね、と彼女も同じような表情で返事を返してくる。車窓は街を離れて緑が多くなってきた。トンネルを抜けるたびに緑が多くなってゆく。あたり一面の畑。その中に固まるようにして建つ住宅。いつもおもうのだが、あの住宅はみんな農家なのだろうか。学校も見える。あの学校にも、僕たちと同じような境遇の人はいるのだろうか。金曜日に死ぬと宣告された人はどのくらいいるのだろうか。彼女と話をすると、運命の話になってしまいそうで、互いに沈黙を保って時間は進んでいった。今の僕たちは一緒にいる時間が全てだ、とでも言うように。
「もう少しで目的の駅ですね」
「ああ」
駅に到着すると、小さな駅舎は他の乗客は誰も降りず駅員が一人いるだけで、初夏の風の音と、走り去る電車の音だけがあたりに響いていた。
「学校サボって夏祭りかい?」
「ええ。学校には秘密にしておいてもらえると助かります」
「そんな野暮なことはしないさ。あの神社、縁結びの神様だからお願いしておくといいよ。いってらっしゃい」
優しい駅員さんにそんなことを言われて駅を出る。駅前にはタクシーが一台。そのほかにはコンビニも何もなかった。本当にこんな場所で夏祭りが行われるのだろうか。そんな気分になるほどに誰もいなかった。バスの時間を確認すると、あと一時間はある。少し離れた場所に喫茶店があるとタクシーの運転手さんに聞いたので、その場所を目指して歩いて行くと途中のシャッターの降りたお店が寂しさを倍増させていた。喫茶店があると聞いた交差点にくると斜め向かいにとても雰囲気のある喫茶店が見えた。その喫茶店だけ、その場の雰囲気から抜け出したような感覚に襲われて特別な場所に見えた。ドアを潜るとマスターが一人。「いらっしゃい」と軽く声を出しただけで僕たちに出すであろうお冷の準備を始めた。天井が高く、古い木材が剥き出しで古めかしい照明が店内を優しく包む。僕たちは奥のボックス席に座ってクーラーの効いた店内で一心地を感じながらあたりを見回す。綺麗なステンドグラスの窓、手入れの行き届いたカウンター。香りの良いコーヒー豆。家の近くにあったら通ってしまいそうな雰囲気の良いお店。
「ご注文が決まりましたら」
店の主人はそう言ってメニュー表をおいてカウンターの中に入っていった。メニューをみると当たり前だけどコーヒー、それに紅茶、かき氷もあった。僕らはアイスコーヒーを注文して夏祭りの様子をスマホで検索する。
「結構な人がくるみたいだな。こんな雰囲気からは考えられないくらいだ」
「そうね。この辺の人たちがみんな来るのかしら」
「夏祭りかい?」
マスターがアイスコーヒーを持ってきながら話しかけてくる。
「はい」
「ここの夏祭りは離れ離れになった神様が年に一度だけ出会うお祭りでね。全国からそう言う人たちが集まるのさ。君たちも誰か会いたい人たちがいるのかい?」
会いたい人。もうすぐ会えなくなる人。ここのご主人なら、僕たちの境遇を話しても良い気がして本当のことを打ち明けた。
「本当かい?それなら今日が一番大事な日になるね。ここのお祭りは会いたい人が居てこそのお祭りだ。君たちは互いに会いたいと思っているのだろう?神様もそれをみてくれると思うよ」
「信じてくれるんですか?」
「信じない理由が見当たらないからね。君たちがわざわざ学校を休んでまでこんな辺鄙な場所の夏祭りに来たんだ。それに……」
店の主人は言うべきか一思案した後にこう切り出した。
「僕にも大切な人がいてね。彼女は病気でこの世を去ったんだけど、その時、神様に代われるものなら代わりたいって願ったものさ。でも変わった場合に残されるのは彼女になるだろう?それはどうだろうって考えたりもしてね。君たちはどちらが生き残るのか、同時に別の世界に行くのか決められるのだろう?それは残酷だけど、幸せなことなのかも知れないよ。運命を自分たちで決められるのだから」
「幸せ、ですか」
「そう。幸せ」
「ご主人は、その大事な人を失って、その後に誰かもっと大事な人と出会ったりしましたか?」
「出会ったよ。今の嫁さんがその人だ。悲しみに暮れる僕をずっと励ましてくれてね。いつの間にか僕にはなくてなならない存在になってた。でも、彼女のことも忘れることはできなかった。そのことを嫁さんは承知で僕と一緒になってくれた。だから、僕もその気持ちに応えるように彼女を精一杯に愛したよ」
過去形なのが気になって、僕は聞いてしまった。今思えば残酷なことをしてしまったのかも知れない。案の定、その店のご主人は、その奥さんも交通事故で亡くしているとのことだった。最愛の人を二度も失うのはどんなに悲しいのか。僕らは選択ができる。幸せ、と言った意味がわかったような気がした。
「坂城さんはやっぱり僕が残る方がいいのかい?」
「ふふ。やっぱりその話、しちゃうんですね」
「ごめん。やっぱり気になっちゃって」
「いいですよ。私も気になりますし。ご主人の話も聞きましたし。幸せかぁ。選択肢があるっているのは幸せなのかなぁ」
坂城さんはさっきの店のご主人の話を聞きながら自分に当てはめたらどうなのか、と考えていたそうだ。僕を失って、さらにその後の人も失う人生。正直、そんな人生には耐えられるか分からないと口にしていた。僕はどうだろう。例えば坂城さんを失って、その後に御坂さんも失う。考えただけで悲しみの念が込み上げてくる。やはり選択できるのは幸せなことなのだろうか。
「僕はやっぱり、坂城さんが残る方がいいと思う。僕が犠牲になって坂城さんが生き残るなら本望というか何というか」
「私は諦めませんよ。二人ともに生き残る方法を探します。だって、どちらかが生き残れるなら、両方とも生き残れる方法ってきっとあると思うんです。案内人もそのことは出来ないって言ってませんでしたし」
「聞いたの?」
「今日思いついたことだから聞けてませんけど……」
「そうだな。それができれば一番の解決方法だ。ここの神様にも聞いてみようか」
どちらかを選ぶ。神様に聞くというのはよくあることだが、両方選ぶ方法を聞くのは少し反則のような気がしたけども、僕たちは反則をしても一緒にいたかったのだ。
「そろそろバスの時間かな?」
店のご主人にお会計を済ませて店を出るときに声をかけられた。
「互いの心を大事にしなさい。そして見せ合いなさい。思っていることを隠したまま別れるとしたらそれは悲しいことだよ」
そうだ。隠し事は何もなしだ。僕たちは全てを曝け出さなければならない。一切の気持ちを隠してはならない。
バスに揺られて、目的の場所まで向かう途中、何人かバスに乗り込んでくる。田舎のバスだからだろうか。移動手段がこれしかないからか結構な人が乗り込んでくる。その度に僕たちを見ては少し驚いた様子を見せるが、すぐに何かを察したような顔で席についてゆく。そのバスの中で一人の女学生が目に入った。制服を着ている。この時間に制服姿の女学生。僕たちと同じ境遇なのだろうか。それとも、誰か会いたい人がいて、この夏祭りに来たのだろうか。目的の停留所に到着すると、ほとんどの人が降りて、その女学生も降りていった。
時間はお昼が終わって十五時過ぎ。夏祭りはまだ準備中といった感じだ。どこか時間を潰す場所がないか探していたら、さっきの女学生に声をかけられた。
「お二人ともどちらから来られたんですか?」
僕たちは素直に場所を説明して、彼女にも同じ質問をしてみた。
「私は帰らなければならない場所に向かうためにここに来ました」
「帰らなければならない場所ですか?それはどういう……」
「私には大切な人がいました。その人は私から離れていってしまいました。だから私もその世界に向かうのです」
直感でこの子は自殺する気だと分かった。僕たちは彼女の話をもっと聞くべきだと確信して神社の公園で話を聞くことにした。すると驚いたことに彼女も案内人に死の宣告を受けたのだという。彼女はあと三日後ということだ。ネットでこの夏祭りを知って期限が来たら彼に会えるように神様にお願いするのだという。こういう境遇の人にはなかなか巡り合わないのではないのか、と思っていたら一人の小さな男の子がこちらに向かってきて話しかけてくる。
「彼女の案内人だ。彼女の言うことは本当だよ。彼女は三日後にこの世を去る。君たちは?」
「明日です」
「二人ともかい?」
「はい」
「それは……」
案内人だけあって事情を知っているのだろうか。どう答えたら良いものか、と言う顔で話を続けてきた。
「それで決めたのかい?」
「まだです。僕たちは両方ともに生き残る方法を探してここまできました。案内人の方なら何かわかりますか?」
「僕は君たちの案内人じゃないから何も言えない、と言うのが本音何だけど、一つだけ。二人ほぼ同時に最後を迎えるのはとても珍しいことだ。正直、僕もどうなるのか分からない。だから……」
希望はあった。どうなるのか分からないのなら、二人とも生き残る可能性だって考えても良いはずだ。案内人の少年からはそれ以上のことは聞き出すことは出来なかったけど、僅かな希望を胸に僕たちは雲ひとつない青空を見上げるのであった。
日が暮れ始めて神社の参道に電灯が灯り、浴衣姿の人たちが参道に吸い込まれるように入ってゆく。参道脇には様々な屋台が並んでて呼び込みをしている。こんな片田舎の小さな夏祭りなのにとても豪華な感じすらあった。僕たちは金魚掬いに射的、くじ引きにわたあめを。夏祭りの定番を楽しんでから神社本殿へと向かう。途中、例の女学生が茶屋の赤いベンチに座ってりんご飴を食べているのが見えた。案内人の男の子と一緒に。僕らの案内人は一緒に行動しないが、彼女の案内人は一緒に行動するようだ。人それぞれなのかな。僕らはそんなことを話しながらお賽銭を投げ入れて互いに生き残る方法を尋ねた。もちろん返事は無かったけれど、神様は僕たちの話を聞いてくれたような気がした。
「はぁ。今頃は母さんたちが僕たちの行方を探し始めてるかも知れないな」
「そうね。連絡だけは入れておいた方が良いかも知れないわね」
「なんて言おうか。駆け落ちしたとでも言おうか」
冗談半分で言ったけど、この時間になって帰りのバス、電車を考えると帰る術がないことに今になって気が付く。
「どうしようか。本当に帰れなくなちゃった」
「私はそのつもりで来たのだけれど?」
こう言う時、女の子は本当に強い。僕なんかの気持ちの数段上を歩いているような気がする。
家に電話を入れて、正直にことの次第を話したら、馬鹿なことを言ってないで明日、必ず帰ってくるように、と強く言われた。そして坂城さんの家の連絡先も聞かれて、しばらくしたら母さんから連絡が入った。帰れないものは仕方がないから、明日も学校を休むと伝えておいたこと、高校生らしく行動すること、何があっても坂城さんを守ること、と念を押された。坂城さんを守ること、か。守れるならそうしたいけど。僕にそれができるのだろうか。
「なんかすんなり行ったけど、これは優先権ってやつなのかな」
「多分ね。でなきゃこんなにすんなり行かないと思う。私のおじさんも一条先輩の親御さんから連絡があった、ってだけですぐに帰ってこいとかそう言うのは無かったもの」
それにしてもこの空間は不思議な場所だ。老若男女、全ての年代が参加している。こんな片田舎の夏祭りなのに。焼きそばを買うときに店のご主人に例年こんなに人手があるのか聞いてみたら、毎年このくらいの人が来るよ、と教えてくれた。それと。この夏祭りはとても特別なもので本当に会いたい人に会えるのが不思議なところだ、と、なにか懐かしいものを見るような遠い目で夜空を眺めた。
「ああ、そうだ。この後、御本尊の舞台で奉納の舞が納められるから見てくるといいよ」
そう言われて、さっきお賽銭を投げ入れた本殿に向かうと、迫り出した舞台の上に能面を被った踊り子が舞を舞っていた。とても不思議な舞で何の願いも聞いてくれそうな。そんな感じの舞だった。案内人を連れた彼女も会いたい人に会えたのだろうか。ここに集まった人たちも会いたい人が居たのだろうか。そう考えているうちも舞は続く。
「やっぱり、僕が逝くことにするよ」
その舞を見てふとそんな言葉が出てきた。
「なんで?二人とも生き残る方法を探すんじゃ無かったんですか?」
「いや、それが無理だった時のこと。その時は僕が逝くことにする」
「残された私はどうなるんですか?」
「ここで会えるさ。きっと」
僕の視線の先には案内人を連れた彼女の姿があった。
舞が終わった直後に色のない和火が打ち上げられて祭りはお開きとなったらしく、会場にいた人たちが参道を抜けて鳥居をくぐり抜けて散り散りになってゆく。僕たちは参道前のバス停の時間を確かめてから茶屋のベンチで時間を待った。
「お嬢ちゃんたちも会いたい人には会えたかい?」
「ええ。僕は彼女に、彼女は僕に」
「へぇ。それは羨ましい限りだ。これからも一緒に居れるのかい?」
「そうですね。そうなるといいと思ってます」
「おっと。そろそろ時間じゃないのかい?」
「あ、そうですね。ありがとうございます」
僕たちは最終バスで街に戻って電話で予約した宿に向かった。
「あの嬢ちゃんたち、どっちが来年の夏祭りにくるのかね」
「二人とも来ないかも知れませんよ?」
「そんなこともあるのかね?」
「僕も初めて聞く内容なので。わかりません」
残った参拝客や祭りに花をそえた屋台の主人たちは片付けを終えてから本殿の中に還って行った。
「あのぉ。予約していた一条ですが」
「はいはい。承ってますよ。あと、親御さんからも連絡きてましたから。ここらで言ったらここしか宿がないですからね。先回り、されたみたいですよ」
親は子供の行動がわかると聞くけど、ここまでわかるものなのか。何にせよ、許しを出してくれるのが嬉しかった。
宿は民宿というよりも農家の旧家といった感じで、玄関の土間に置かれた上り框に靴を置いて磨かれた玄関に上がる。他の宿泊客は居ないようで、玄関の柱時計が刻む音がやけに響いていた。宿の女将さんは僕たちを部屋まで通した後に晩御飯の時間を告げて、部屋から出て行った。畳敷の部屋に座卓がひとつ、それに座椅子が四つ。座卓の上にはお煎餅と急須に電気ポットが置いてあった。隣の寝室であろう八畳ほどの畳間の向こうは障子扉があって開くと左右に伸びた縁側に月明かりがさして薄い影を作っていた。静寂の中で風鈴の音が綺麗に響く。僕は縁側に腰掛けて優しく吹き抜ける風を頬に感じながら伸びをして後ろ手を着いて満月を眺める。
「この月を眺めるのも今日で最後か」
「何か言いましたか?先輩」
「いや。月が綺麗でさ」
「女将さんがお風呂の準備ができたって」
「坂城さん、先に入ってきなよ。僕は月をもう少し眺めてるから」
「そう?じゃあ、失礼して」
後ろで用意された浴衣とバスタオルを持って部屋から出ていく姿を横目で眺めてから、再び満月を眺める。
「会いたい人に会えるお祭りか。仮に僕が逝った場合、坂城さんとはあの神社で年に一回、会えるのだろうか」
そう月に問いかけるも答えは返ってこない。二人ともに助かる方法。それがあれば一番だが、僕にはその方法は無いように思えた。物事には代償が付き物だからだ。片方の命を助けたければ自分の命を差し出すしかない。本来であれば、彼女と出会わなければ僕は僕だけで、彼女は彼女だけであの日から七日後に死んでいたんだ。偶然出会って、片方が生き残るという特別なことが起きたんだ。だから、さらに特別な二人ともに生き残る方法なんていうのはないと思うんだ。
「問題は、坂城さんをどう説得するか、だな」
坂城さんがお風呂から帰ってきたので、かわりに僕がお風呂へ向かう。髪の濡れた坂城さんからはとてもいい匂いがして思わず足を止めてしまった。
「どうしたんですか?」
「ああ、いや、なんかいい匂いだなぁ、と思って」
「リンスの匂いですよきっと。お風呂に入ったら先輩も同じ匂いになりますよ」
そうはならないような気がする。なんて思いながらお風呂を目指す。途中、宿の女将さんに出会ったので、あの夏祭りについて聞いてみた。
あの夏祭りは会いたい人に会える貴重な夏祭りで全国からたくさんの人が訪れる祭りだという。でもその出会いは再びの別れを呼ぶこととなることから一期一憂の祭りと呼ばれている、とも。一期一憂。一生のうちに喜んだり悲しんだりすることか。出会いと別れを繰り返す。それは本当に良いことなのだろうか。お風呂に入りながらもそんなことを考える。仮に僕が逝ったとして。あのお祭りで坂城さんと年に一回会えるとして。それは彼女を完全に縛ることになる。そんなのは僕は望まない。あのお祭りは人生を縛り付けるお祭りなのかも知れない。
「坂城さん、お待たせ。どう?僕もいい匂いがする?」
「ふふ。とっても。お夕飯の準備もできてるから早く食べましょう」
部屋には夕食の準備がされていたので、席について並んだ料理を眺める。なかなかに豪華な料理だ。お櫃のご飯を坂城さんが取り分けて僕に手渡してくる。お櫃に手を伸ばす彼女の胸元が少し見えてしまって目線を逸らしたが、バレていたようでクスリと笑われてしまった。
「一条先輩はこういうの、初めてですか?」
「当たり前じゃないか。坂城さんはこういうの経験あるの?」
「親戚の子達と。田舎がこういう感じだから」
「ああ、そういえば言ってたね。親戚が集まるのなら賑やかな夕飯なんだろうね」
「ちょっとうるさいくらいに」
「楽しそうだなぁ」
僕たちは並んだ料理を食べながら坂城さんの田舎の話で盛り上がった。
「坂城さんはさ、やっぱり死ぬのが怖い?」
僕たちは月明かりの差し込む縁側に座って夏虫の鳴き声を聞きながら月を眺めて話す。
「うーん。死ぬのはそんなに怖くないですね。どちらかというと一条先輩と離れ離れになる方が怖いです。せっかく手に入れた幸せなのに、それを手放す方が怖いです」
「そうか。あの日、僕たちは出会わなければこんな気持ちになることもなかったのかな」
「かも知れませんけど、実際に出会ってしまった。正直なところ、優先権の話を聞いて誰かに出会わないかなぁってランニングしてました。そこで出会ったので、ああ、この人なんだなぁって思ってました」
これは俺もそうかも知れない。じゃないと「僕、七日後に死ぬんだ」なんて突拍子もないことを言わないと思う。この出会いは必然。起きるべくして起こったこと。あの日にああいう風に思った時点で出会いは確実に訪れていたことだろう。
「一条先輩はなんで誰かに出会いたいって思ったんですか?」
「僕かい?うーん、最初は彼女も作ることなく人生が終わるのは悲しいかなって思ったからかな。でもその後すぐに、残された方は悲しいからって思っていたんだけど……。同じ境遇の人ならいいと心の中で思っていたのかも知れない」
「私もそうかも知れません。残された側に立ってみたら、と考えたら」
「結局、こうして残された側について考えることになるとは思わなかったけどね」
「そうですね」
しばしの空白の時間が流れる。彼女は何を思っているのだろう。何を感じているのだろう。
「坂城さん。やっぱり僕が死ぬよ。坂城さんには生きてもらいたい。それが僕の願いだ」
「一条先輩。一条先輩はどうして自分が死ぬって考えるんですか?希望の壊れる私の気持ちは考えた事はありますか?」
「考えた上での事だよ。もちろん。悲しいと思う。とても。逆の立場で考えてたらすぐにわかることだ。でもこの先の人生は長い。僕だけに縛られる事はないと思う。それに……」
「それに、なんですか?」
「どうしても会いたければ、例のお祭りに行けば会えるような気がしてならないんだよ。あのお祭りは特別な気がする」
「ひと夜会えばですか。でもそうしたら、失った悲しみが一層広がりませんか?」
「僕はそう思わないな。お墓参りと同じだと思う。それが具現化されただけというか。そう考えるとしっくりこないか?」
「そうなんですけど……。私はやっぱり御坂さんのことが気になるんです。想い人がいる側の人が残るべきだと思うんですよね。別に御坂さんに一条先輩を渡すためにとかそういうのじゃなくて……。なんていうかなぁ……。残された側の悲しみが二倍になるのが嫌というか」
「やっぱり、一緒に生き残る方法があれば、だな」
「そうなんですけど、今日のお祭りに行ってそれは難しいんじゃないか、って感じました」
「なんで?」
「だって、あそこにいた人たちって半分以上が想い人だった気がします。居た人数と帰った人数の辻褄があってなかった気がします。だから、人生に別れは必ず訪れて、それをどう受け止めるのかが重要なんじゃないかって思いました」
「そうか」
静かな夜に虫の声と風鈴の音だけが響く。軽く息を吐いて両膝についていた肘を離して後ろ手に回し、月を眺めた。この月も見納めかと思うと残りの人生について考えざるを得ない気持ちになるのは当然だ。
「一条先輩?」
「なんだ?」
「一条先輩は私といて楽しかったですか?」
「もちろん」
「私に出会えてよかったですか?」
「ああ」
「私に……」
「大丈夫だから」
何を根拠に大丈夫と言ったのかは分からないけども、嗚咽する彼女を抱きしめて彼女の温もりを精一杯に感じる。生きている。僕たちはここで生きているんだ。
布団に入ってからも考えていた。彼女は何を考えているのか。僕は何を考えているのか。見つからない答えを求めて片腕を天井に伸ばす。何も掴めないのはわかっているのに。
「一条先輩?まだ起きてますか?」
「ん?起きてるぞ」
「そっち、行っていいですか?」
こちらの返事を待つことなく、彼女は僕の布団に潜り込んできた。彼女の温もりを全身に感じると、この一瞬を失いたくないと強く思う。僕たちは両手を重ねてキスをする。
「先輩……」
「ああ。ここにいる」
はだけた浴衣の裾に彼女の温もりを直に感じるといやがおうにも鼓動が高鳴る。僕の胸板の上に彼女のやわかい感触を得てさらに鼓動が高鳴る。僕たちは身体を重ねた。今のこの時間が永遠に続くことを願って。
「難しく考えすぎなのよ。死んでも私たちのように第二の人生もみたいのがあるんだから」
部屋に菜々緒ちゃんが入ってきて、そんなことを言う。確かにそうかも知れないけれど、僕には坂城さんという恋人がいる。そう簡単には決められない。僕一人の問題ではないのだ。そのことを菜々緒ちゃんに伝えると、仕方がないと行った顔でこう言い始めた
「どちらが先に死ぬか、ってやつなんだけど、今回のケースはほぼ同時に死ぬわよ。いつかは言えないけれど。だから、どちらかが先に死んで後追いみたいにはならないから、その点は安心して」
死ぬのに安心も何もないと思うけど、一瞬でも死の悲しみに襲われることがないのならそれでいい気もした。
「ほぼ同時か……」
「そ。ほぼ同時。だから先に決めて置かないと、自動的に死ぬってわけ。今日一日、明日のいつかは分からないけどその時間まで。実質、今日一日で決めてちょうだいね。案内人としても準備があるから」
半ば、機械的な感じがして微妙な気になったけども、ここで感情的になられたら余計に考えがまとまらなくなるので、ちょうど良いのかも知れない。朝ごはんを食べながら、自分の家族のことを考える。妹の菜々緒はどう思うのだろう。母親は?父親は?自分が死ぬと言う選択肢を選んだ場合、坂城さん以外に家族も悲しむのだろう。僕と坂城さんだけの問題でもないけど、それは坂城さんも同じだ。
「母さん、もし母さんと父さんのどちらかが死ななきゃならないってなったら、どっちを選ぶ?」
「何、いきなり。そんなの決まってるじゃない。自分が死ぬわよ。自分が死んで父さんが助かるんでしょ?あ、でも私たち二人は死ぬけど、あなたたちが生き残るなら、そっちを選ぶかなぁ。親ですもの」
同時に死ぬ場合に、残された人たちのことを考える。家族のことまで考えると本当に分からなくなる。身支度を整えていた時に、あまりたくさんの人の意見は聞かない方が良いと思った。これは自分で決めることだ。いや、坂城さんと二人で決めることだ。
バス停に到着すると、今日は御坂がいなかった。珍しいこともあるものだ。
「おはよう」
「おはようございます一条先輩。今日は御坂さんはいないんですか?」
「何で僕に聞くのさ」
「いつも一緒ですから」
いささか機嫌が悪いといった感じで聞いてくる。僕が誘ってるわけでもないのに。
「決めました?」
「完全には決めてないけど、やっぱり僕が……」
「まだそんなことを言ってるんですか?残される人が多い方が生き残った方が言いに決まってるじゃないですか。御坂さん、絶対に悲しみますよ?それに私は両親がいませんから」
「え?」
それは初耳だ。坂城さんには両親がいない。僕が今朝考えていたことが解消してしまった。残された人数で単純に考えると、僕が生き残る方が悲しみは少ないことになってしまう。でも……。
「一条先輩は何で死にたいんですか?」
「なんか堂々巡りだな。いっそのこと、こんなこと忘れてパァっと遊びにでも行かないか?」
「学校はどうするんですか?」
「具合が悪いとか何とかいえば大丈夫でしょ。一日くらいずっと一緒に居たいじゃない。この前みたいに」
桜並木を歩きながらそんなことを話している少し後ろを御坂は歩いて話を聞いていた。彼女たちには行動の優先権がある。遊びに行くと決めたのなら学校はどうにでもなる。その場合、自分は坂城さんの案内人としてその行動を見守る必要がある。非常に辛い選択だ。案内人としてではあるが、私は一条くんのことが好きだ。その人が、違う人とデートをするのを遠目に見てなくてはならないのだ。
「御坂」
「分かってるって。その辺はわきまえてるわよ。案内人として見守る」
「それならいいんだけど。絶対に彼女たちの前に出て行ったりしないでよ」
御坂は考えていた。途中で私が彼女たちの前に出て行ったらどうなるのか。坂城さんは私に一条くんを託すのか。いや、何で自分が勝つつもりでいるのだろうか。拒絶される可能性が高いだろうに。
「で?どこに行く?」
僕たちは校門の前に行く直前に学校に電話を入れて、今日は休むことを伝えた。学年が違うので、さして怪しまれることもなく、休みが了承されたけど、これは行動の優先権があるからだなとすぐに気がついた。そうだ優先権があるんだ。今日は何だってできる。僕たちの行動が最優先されるんだ。そう考えると、今日一日は思う存分に楽しまなきゃ損だ、と言う気持ちがより一層に高まってくる。
「そうですね。まずはあの高台に行きませんか?」
あの高台。僕たちが出会った場所だ。いわば、僕たちの始まりの場所。学校から高台まではそんなに遠く離れていない。途中、彼女のアパートの前を通り過ぎて、親戚のおじさんとおばさんと一緒に住んでいると教えてもらった。彼女は陸上部なだけあって高台に向かう階段を軽快に駆け上がる。その度にスカートがひらひらと舞って、思わずそっちの方に視線が向いてしまう。それを彼女はわざとなのか気にする様子もなく、僕にその肢体を見せつける。
高台に到着して彼女はこう切り出した。
「ここで出会ったのは、偶然だったんですかね。それともどちらかが恋人が欲しいって願ったんですかね。願ったのは先輩ですか?」
「いや」
「じゃあ、本当に運命の出会いだったんですね」
「そうなのかもな。僕たちはこんなことにならなくてもであっていたのかも……いや、こんなことがあったから僕はこの場所に来たんだ。」
「そういえば私もです。でもあの時、私が、七日後に死ぬんです。なんて突拍子もないことを言い出したのはなぜなのか、いまだに分からないんですよね。あの時は先輩、そんなこと言ってなかったじゃないですか」
「そんなことないぞ。僕もすぐに七日後に死ぬって言ったじゃないか」
「正確には金曜日に死ぬ、でしたっけ」
「そうだったな。そういえば、時間は聞いてないんだろ?」
「聞いてません。だから、先輩とは明日、一緒にいたいんです。いつその時が来ても良いように」
「それは俺も考えてたよ。どちらかが知らぬ間に、なんて嫌だしね」
「さて。今日はそんなことを考えないで、やり残したことがないようにまさに一生懸命に生きていこう」
「そうですね」
既に日は登っていたけども、この高台からの眺めは最高だった。この場所から始まったのだ。最後の時も、この場所が良いのかも知れない。
「ここですよね。先輩とキスをしたのって」
「そうだな。あの時は正直びっくりしたぞ。ああいうのって男の子からするもんだと思っていたから」
「嫌でした?」
「いや、そんなことはないかな。僕はそんな勇気がなかったから、逆に助かったというか何というか」
意気地のない話ではある。でも、女の子にキスをするなんて、自分の人生では初めてのことだし、嫌われたらどうしようとか色々と考えてしまうことも確かだった。僕たちはボートには乗らずに、その場所が見えるベンチに座って話をする。初夏の木漏れ日が優しく僕たちを照らす。心地の良い風が吹き抜ける。その度に彼女は流れる髪の毛を手で押さえて、その仕草がとても愛おしく思えてならなかった。
「坂城さんは理想のタイプとかあった?こんなことがなければ僕と一緒にはならなかった?」
「そんなことないですよ?結構タイプです。じゃないと最後を一緒になんで思いませんし」
「そうかよかった。っと、その話はなしだったな。でも、そう言ってもらえるのは嬉しいな」
「一条先輩は今までに付き合った人とかいないんですか?」
「いないな。坂城さんが初めてだな」
「じゃあ、あのキスは一条先輩にとってもファーストキスだったんですね。もらっちゃいました」
坂城さんはいたずらっぽうそう言うと、僕の方にすり寄ってきて顎を少しあげた。僕もそれに答えて軽く唇を当てた。
「三回目だな」
「ですね」
「はぁ……こんな時間、自分に訪れるとは思わなかったなぁ。高校生活はずっと一人だと思ってた」
「御坂さんとは教室でお話とかされてなかったんですか?」
「話してはいたけども、恋愛感情はなかったかな。仲は悪くはなかったけども」
僕は、伸びをした後に頭の後ろで両手を組んで彼女の質問に答えた。御坂か。彼女は確かにことあるごとに僕に話しかけてきていたような気がする。いつからだったのかは思い出せないけど。
「そうなんですか。なんか安心しました」
「もし、僕が御坂のことを少しは気にしていたらどうしてた?」
「意地悪な質問ですね。答えなきゃだめですか?」
「無理に答える必要はないけど、ちょっと気になるかな」
「それは、ちゃんと御坂さんに断ってから一条先輩をものにしたんじゃないかと思います」
「勇気あるな。仮にも御坂は二年生だぞ」
「恋に年齢は関係ないですよ」
「坂城さんは強いな」
「一条先輩もそのくらいの気概で私と付き合ってくれると助かります」
「善処する」
女の子はこう言う時に強い気がする。男の方はこう言う時に尻込みして周りの雰囲気に流されるような気がする。仕方がなかったんだって、自分に言い聞かせながら。その場合に御坂が自分のことを先に好きだと分かっていたら、僕は御坂と付き合って、坂城さんとは付き合わなかったのだろうか。互いに死ぬと分かっていても付き合わなかったのだろうか。そんなの答えは出ないな。そう考えながら公園通りを歩く。平日の午前中に制服姿の二人はひどく目立つ。焼き鳥屋のおじさんは学校サボってデートかい?なんて冗談まじりに聞かれたけども、実際にそうだから肯定しておまけをつけてつけてたりもした。
「さて。この後どうする?」
「夏祭り見たいのに行きたいですね」
「この時期にやってる夏祭り?時期が早くない?」
まだ七月の中盤前だ。二学期の期末試験は来週から。その後なら花火大会やら夏祭りやら夏のイベントが目白押しになるのだが。この時期に夏祭りは早い気がする。だが、ネットで調べると、少し離れた場所ではあるけども夏祭りをやっている場所があると出てきた。小さな街の神社で行われる夏祭りのようだ。
「行ってみましょうよ」
「そうだな。ここから電車でそんなに時間はかからなそうだ」
駅前の交番から逃げるように大回りをして駅に向かう。こんな時間に制服姿の二人が警察に見つかったら職務質問必死だからな。でもこう言う時に限ってよくないことは起きるもので。大回りした方向に自転車に乗る警察官に見つかってしまったのだ。
「君たち、ちょっといい?」
親に連絡されて学校に連れ戻されるのだろうか。
「こんな時間にこんなところで何をしてるの?」
やっぱりこうなるのか。優先権ってのはどうなってるんだ。
「デート?」
警察官は僕たちを上から下まで疑うような眼差しで眺めてくる
「はい。そうです。僕たちには時間がないんです。だからこうしてデートをしてます」
僕は正直に答えた。坂城さんも僕の手を握って軽く頷く。
「そうか。離れ離れになるのかい?」
「そうです。だから、この時間が惜しいんです。僕たちは残された時間を一緒に過ごしたいんです」
「親御さんは?」
少々思案したけども嘘をついてもバレるだろうし、素直に内緒です。とだけ答えた。警察官は少し考えた後に学生証の提示を求めてきたので、学校に連絡するのかと思ったけども、そうか、と言った顔で僕たちに学生証を返してくれた。
「見逃してくれるんですか?」
「この時間が惜しいんだろ?どこに向かうんだい?」
「夏原街の夏祭りに」
「そうか。あの夏祭りに、か。私もあの夏祭りには子供の頃に行ったものだよ。思い出を作るのなら良い祭りだと思う。本官は見なかったことにするから言っておいで。この時間は一度しか来ない。僕はそれで後悔したことがあるんだよ。君たちに同じ過ちを犯してほしくないからね」
そう言って警察官は二人を後にした。もしかしたらあの警察官も僕たちと同じような選択をした人なのかも知れないと思ったけども、そのことは口には出さなかった。
この駅はこの時間でも多くの人が行き交っている。近くに大学があるからか、大学生が多い。僕たちを見て、物珍しそうに眺めてくるけど、僕たちはそんなことを気に留めることもなく特急券の切符を買う。いつもはバスで通学しているから、電車に乗ることが少なくて、ちょっとした旅行気分になった。夏原街への乗り継ぎは二回。今いる場所からは西の方角に向かうので、どちらかというと田舎方面と言うことになる。
「なんだか旅行に行くみたい」
「特急電車に乗るんだから、実際に旅行じゃないのか?」
一度大きなターミナル駅に出てから、特急電車で一気に西の方へ向かう。そして目的の駅に到着したらバスで何駅か向かえば目的の場所だ。ターミナル駅に向かう途中に同じように学生服姿で乗ってきた女の子がいた。彼女は一人だったけど僕たちとは違って参考書を読んでいたし、少し早めの期末試験、と言った感じなのかな。先の未来がある彼女を見て少し羨ましくも思ったと同時に、僕たちの儚い人生について深く考えたりもした。
「ねぇ、見て」
車窓に、例の公園がよく見えた。公園の向こうには、あの高台も見える。この電車は、僕たちの思い出も一緒に運んでるのかも知れない。席は空いていたけれど、僕たちはドアの窓から過ぎ去る景色を眺めながら、見えたものについて他愛のない話を繰り返して時間を過ごした。こんな時間がずっと続けばいいのに、と思いながら。
ターミナル駅に到着して特急券を持ってホームに向かう。途中、お弁当を買って行こうと彼女が言い出して、ますます旅行気分が高まる。よくよく考えたら、この食事も後何回目とれるのか。いちいち後何回、とか考えてしまってよくない。彼女も同じようなことを考えているのだろうか。ひどく迷っている。僕はちょっと奮発していくら弁当を買って、彼女は釜飯を買って特急電車の指定席に向かう。乗車券と椅子の番号を確かめて席に着くと、外に見える全てが僕たちを見送るような感覚に襲われてより一層の気分の高まりを感じる。
「坂城さんはこう言う特急電車とかは?」
「おじさんの田舎に帰るときに乗るかな。すっごい田舎で、縁側とかあるの。でね、縁側に座ってたらいに入れた水の中に足を突っ込んでスイカとか食べるの。絵に描いたような夏でしょ?」
「いいなぁ。僕の田舎は僕たちの住んでいる場所よりも都会で周りがビルに囲まれているから田舎に帰ると言うよりも都会に出ていく感じかな」
僕は彼女のいう夏の風景を思い浮かべて、一緒にそんな夏を体験してみたいと思った。縁側に二人で並んで庭から花火なんて眺めっちゃって。死ぬまでは僕たちに行動の優先権があるのなら、そう言うことを願えば、叶うものなのだろうか。でもお願いを叶えてくれるようなものではないだろうしな。
特急電車が走り始めて流れる景色を眺めながら、やはり考えてしまう。僕が死ぬのか、彼女が死ぬのか。なぜかこの時の僕は、二人同時に死ぬと言う選択肢は考えなかった。この思い出はどちらかが心にとどめておくべきだと思った。生きた証を持っていた方が良いと思った。彼女も同じようなことを考えているのか、他のことを考えているのかわからなかったけど、通路の向こう側の車窓を眺めて軽くため息をついていた。
「ねぇ、一条先輩」
「なんだ?」
「この旅行って最後の旅行になるんでしょうか。二人が同時に死ぬって選択、二人が同時に生き残るって選択もあってもいいんじゃないでしょうか」
「二人とも生き残る選択か。あればいいなぁ」
「私たちには優先権があるって言ってたじゃないですか。だから、死ぬことに対して死にたくないって選択をすれば逆らえるんじゃないかって思って」
それは考えもしてなかった。死に争う選択。そうした場合にどうなるのかは案内人は聞いたことがない。七日後に「死ぬ」と言う言葉に気圧されて、生きる選択はどちらかが死ななければならず、二人ともに生きることは考えたことがなかった。
「その選択、できればいいな。同時に生きるって選択をしたらどうなるのか試してみる価値はあるかも知れないな。それでだめで同時に死んじゃったら元も子もないけど」
半分笑いながら僕は答える。そうですね、と彼女も同じような表情で返事を返してくる。車窓は街を離れて緑が多くなってきた。トンネルを抜けるたびに緑が多くなってゆく。あたり一面の畑。その中に固まるようにして建つ住宅。いつもおもうのだが、あの住宅はみんな農家なのだろうか。学校も見える。あの学校にも、僕たちと同じような境遇の人はいるのだろうか。金曜日に死ぬと宣告された人はどのくらいいるのだろうか。彼女と話をすると、運命の話になってしまいそうで、互いに沈黙を保って時間は進んでいった。今の僕たちは一緒にいる時間が全てだ、とでも言うように。
「もう少しで目的の駅ですね」
「ああ」
駅に到着すると、小さな駅舎は他の乗客は誰も降りず駅員が一人いるだけで、初夏の風の音と、走り去る電車の音だけがあたりに響いていた。
「学校サボって夏祭りかい?」
「ええ。学校には秘密にしておいてもらえると助かります」
「そんな野暮なことはしないさ。あの神社、縁結びの神様だからお願いしておくといいよ。いってらっしゃい」
優しい駅員さんにそんなことを言われて駅を出る。駅前にはタクシーが一台。そのほかにはコンビニも何もなかった。本当にこんな場所で夏祭りが行われるのだろうか。そんな気分になるほどに誰もいなかった。バスの時間を確認すると、あと一時間はある。少し離れた場所に喫茶店があるとタクシーの運転手さんに聞いたので、その場所を目指して歩いて行くと途中のシャッターの降りたお店が寂しさを倍増させていた。喫茶店があると聞いた交差点にくると斜め向かいにとても雰囲気のある喫茶店が見えた。その喫茶店だけ、その場の雰囲気から抜け出したような感覚に襲われて特別な場所に見えた。ドアを潜るとマスターが一人。「いらっしゃい」と軽く声を出しただけで僕たちに出すであろうお冷の準備を始めた。天井が高く、古い木材が剥き出しで古めかしい照明が店内を優しく包む。僕たちは奥のボックス席に座ってクーラーの効いた店内で一心地を感じながらあたりを見回す。綺麗なステンドグラスの窓、手入れの行き届いたカウンター。香りの良いコーヒー豆。家の近くにあったら通ってしまいそうな雰囲気の良いお店。
「ご注文が決まりましたら」
店の主人はそう言ってメニュー表をおいてカウンターの中に入っていった。メニューをみると当たり前だけどコーヒー、それに紅茶、かき氷もあった。僕らはアイスコーヒーを注文して夏祭りの様子をスマホで検索する。
「結構な人がくるみたいだな。こんな雰囲気からは考えられないくらいだ」
「そうね。この辺の人たちがみんな来るのかしら」
「夏祭りかい?」
マスターがアイスコーヒーを持ってきながら話しかけてくる。
「はい」
「ここの夏祭りは離れ離れになった神様が年に一度だけ出会うお祭りでね。全国からそう言う人たちが集まるのさ。君たちも誰か会いたい人たちがいるのかい?」
会いたい人。もうすぐ会えなくなる人。ここのご主人なら、僕たちの境遇を話しても良い気がして本当のことを打ち明けた。
「本当かい?それなら今日が一番大事な日になるね。ここのお祭りは会いたい人が居てこそのお祭りだ。君たちは互いに会いたいと思っているのだろう?神様もそれをみてくれると思うよ」
「信じてくれるんですか?」
「信じない理由が見当たらないからね。君たちがわざわざ学校を休んでまでこんな辺鄙な場所の夏祭りに来たんだ。それに……」
店の主人は言うべきか一思案した後にこう切り出した。
「僕にも大切な人がいてね。彼女は病気でこの世を去ったんだけど、その時、神様に代われるものなら代わりたいって願ったものさ。でも変わった場合に残されるのは彼女になるだろう?それはどうだろうって考えたりもしてね。君たちはどちらが生き残るのか、同時に別の世界に行くのか決められるのだろう?それは残酷だけど、幸せなことなのかも知れないよ。運命を自分たちで決められるのだから」
「幸せ、ですか」
「そう。幸せ」
「ご主人は、その大事な人を失って、その後に誰かもっと大事な人と出会ったりしましたか?」
「出会ったよ。今の嫁さんがその人だ。悲しみに暮れる僕をずっと励ましてくれてね。いつの間にか僕にはなくてなならない存在になってた。でも、彼女のことも忘れることはできなかった。そのことを嫁さんは承知で僕と一緒になってくれた。だから、僕もその気持ちに応えるように彼女を精一杯に愛したよ」
過去形なのが気になって、僕は聞いてしまった。今思えば残酷なことをしてしまったのかも知れない。案の定、その店のご主人は、その奥さんも交通事故で亡くしているとのことだった。最愛の人を二度も失うのはどんなに悲しいのか。僕らは選択ができる。幸せ、と言った意味がわかったような気がした。
「坂城さんはやっぱり僕が残る方がいいのかい?」
「ふふ。やっぱりその話、しちゃうんですね」
「ごめん。やっぱり気になっちゃって」
「いいですよ。私も気になりますし。ご主人の話も聞きましたし。幸せかぁ。選択肢があるっているのは幸せなのかなぁ」
坂城さんはさっきの店のご主人の話を聞きながら自分に当てはめたらどうなのか、と考えていたそうだ。僕を失って、さらにその後の人も失う人生。正直、そんな人生には耐えられるか分からないと口にしていた。僕はどうだろう。例えば坂城さんを失って、その後に御坂さんも失う。考えただけで悲しみの念が込み上げてくる。やはり選択できるのは幸せなことなのだろうか。
「僕はやっぱり、坂城さんが残る方がいいと思う。僕が犠牲になって坂城さんが生き残るなら本望というか何というか」
「私は諦めませんよ。二人ともに生き残る方法を探します。だって、どちらかが生き残れるなら、両方とも生き残れる方法ってきっとあると思うんです。案内人もそのことは出来ないって言ってませんでしたし」
「聞いたの?」
「今日思いついたことだから聞けてませんけど……」
「そうだな。それができれば一番の解決方法だ。ここの神様にも聞いてみようか」
どちらかを選ぶ。神様に聞くというのはよくあることだが、両方選ぶ方法を聞くのは少し反則のような気がしたけども、僕たちは反則をしても一緒にいたかったのだ。
「そろそろバスの時間かな?」
店のご主人にお会計を済ませて店を出るときに声をかけられた。
「互いの心を大事にしなさい。そして見せ合いなさい。思っていることを隠したまま別れるとしたらそれは悲しいことだよ」
そうだ。隠し事は何もなしだ。僕たちは全てを曝け出さなければならない。一切の気持ちを隠してはならない。
バスに揺られて、目的の場所まで向かう途中、何人かバスに乗り込んでくる。田舎のバスだからだろうか。移動手段がこれしかないからか結構な人が乗り込んでくる。その度に僕たちを見ては少し驚いた様子を見せるが、すぐに何かを察したような顔で席についてゆく。そのバスの中で一人の女学生が目に入った。制服を着ている。この時間に制服姿の女学生。僕たちと同じ境遇なのだろうか。それとも、誰か会いたい人がいて、この夏祭りに来たのだろうか。目的の停留所に到着すると、ほとんどの人が降りて、その女学生も降りていった。
時間はお昼が終わって十五時過ぎ。夏祭りはまだ準備中といった感じだ。どこか時間を潰す場所がないか探していたら、さっきの女学生に声をかけられた。
「お二人ともどちらから来られたんですか?」
僕たちは素直に場所を説明して、彼女にも同じ質問をしてみた。
「私は帰らなければならない場所に向かうためにここに来ました」
「帰らなければならない場所ですか?それはどういう……」
「私には大切な人がいました。その人は私から離れていってしまいました。だから私もその世界に向かうのです」
直感でこの子は自殺する気だと分かった。僕たちは彼女の話をもっと聞くべきだと確信して神社の公園で話を聞くことにした。すると驚いたことに彼女も案内人に死の宣告を受けたのだという。彼女はあと三日後ということだ。ネットでこの夏祭りを知って期限が来たら彼に会えるように神様にお願いするのだという。こういう境遇の人にはなかなか巡り合わないのではないのか、と思っていたら一人の小さな男の子がこちらに向かってきて話しかけてくる。
「彼女の案内人だ。彼女の言うことは本当だよ。彼女は三日後にこの世を去る。君たちは?」
「明日です」
「二人ともかい?」
「はい」
「それは……」
案内人だけあって事情を知っているのだろうか。どう答えたら良いものか、と言う顔で話を続けてきた。
「それで決めたのかい?」
「まだです。僕たちは両方ともに生き残る方法を探してここまできました。案内人の方なら何かわかりますか?」
「僕は君たちの案内人じゃないから何も言えない、と言うのが本音何だけど、一つだけ。二人ほぼ同時に最後を迎えるのはとても珍しいことだ。正直、僕もどうなるのか分からない。だから……」
希望はあった。どうなるのか分からないのなら、二人とも生き残る可能性だって考えても良いはずだ。案内人の少年からはそれ以上のことは聞き出すことは出来なかったけど、僅かな希望を胸に僕たちは雲ひとつない青空を見上げるのであった。
日が暮れ始めて神社の参道に電灯が灯り、浴衣姿の人たちが参道に吸い込まれるように入ってゆく。参道脇には様々な屋台が並んでて呼び込みをしている。こんな片田舎の小さな夏祭りなのにとても豪華な感じすらあった。僕たちは金魚掬いに射的、くじ引きにわたあめを。夏祭りの定番を楽しんでから神社本殿へと向かう。途中、例の女学生が茶屋の赤いベンチに座ってりんご飴を食べているのが見えた。案内人の男の子と一緒に。僕らの案内人は一緒に行動しないが、彼女の案内人は一緒に行動するようだ。人それぞれなのかな。僕らはそんなことを話しながらお賽銭を投げ入れて互いに生き残る方法を尋ねた。もちろん返事は無かったけれど、神様は僕たちの話を聞いてくれたような気がした。
「はぁ。今頃は母さんたちが僕たちの行方を探し始めてるかも知れないな」
「そうね。連絡だけは入れておいた方が良いかも知れないわね」
「なんて言おうか。駆け落ちしたとでも言おうか」
冗談半分で言ったけど、この時間になって帰りのバス、電車を考えると帰る術がないことに今になって気が付く。
「どうしようか。本当に帰れなくなちゃった」
「私はそのつもりで来たのだけれど?」
こう言う時、女の子は本当に強い。僕なんかの気持ちの数段上を歩いているような気がする。
家に電話を入れて、正直にことの次第を話したら、馬鹿なことを言ってないで明日、必ず帰ってくるように、と強く言われた。そして坂城さんの家の連絡先も聞かれて、しばらくしたら母さんから連絡が入った。帰れないものは仕方がないから、明日も学校を休むと伝えておいたこと、高校生らしく行動すること、何があっても坂城さんを守ること、と念を押された。坂城さんを守ること、か。守れるならそうしたいけど。僕にそれができるのだろうか。
「なんかすんなり行ったけど、これは優先権ってやつなのかな」
「多分ね。でなきゃこんなにすんなり行かないと思う。私のおじさんも一条先輩の親御さんから連絡があった、ってだけですぐに帰ってこいとかそう言うのは無かったもの」
それにしてもこの空間は不思議な場所だ。老若男女、全ての年代が参加している。こんな片田舎の夏祭りなのに。焼きそばを買うときに店のご主人に例年こんなに人手があるのか聞いてみたら、毎年このくらいの人が来るよ、と教えてくれた。それと。この夏祭りはとても特別なもので本当に会いたい人に会えるのが不思議なところだ、と、なにか懐かしいものを見るような遠い目で夜空を眺めた。
「ああ、そうだ。この後、御本尊の舞台で奉納の舞が納められるから見てくるといいよ」
そう言われて、さっきお賽銭を投げ入れた本殿に向かうと、迫り出した舞台の上に能面を被った踊り子が舞を舞っていた。とても不思議な舞で何の願いも聞いてくれそうな。そんな感じの舞だった。案内人を連れた彼女も会いたい人に会えたのだろうか。ここに集まった人たちも会いたい人が居たのだろうか。そう考えているうちも舞は続く。
「やっぱり、僕が逝くことにするよ」
その舞を見てふとそんな言葉が出てきた。
「なんで?二人とも生き残る方法を探すんじゃ無かったんですか?」
「いや、それが無理だった時のこと。その時は僕が逝くことにする」
「残された私はどうなるんですか?」
「ここで会えるさ。きっと」
僕の視線の先には案内人を連れた彼女の姿があった。
舞が終わった直後に色のない和火が打ち上げられて祭りはお開きとなったらしく、会場にいた人たちが参道を抜けて鳥居をくぐり抜けて散り散りになってゆく。僕たちは参道前のバス停の時間を確かめてから茶屋のベンチで時間を待った。
「お嬢ちゃんたちも会いたい人には会えたかい?」
「ええ。僕は彼女に、彼女は僕に」
「へぇ。それは羨ましい限りだ。これからも一緒に居れるのかい?」
「そうですね。そうなるといいと思ってます」
「おっと。そろそろ時間じゃないのかい?」
「あ、そうですね。ありがとうございます」
僕たちは最終バスで街に戻って電話で予約した宿に向かった。
「あの嬢ちゃんたち、どっちが来年の夏祭りにくるのかね」
「二人とも来ないかも知れませんよ?」
「そんなこともあるのかね?」
「僕も初めて聞く内容なので。わかりません」
残った参拝客や祭りに花をそえた屋台の主人たちは片付けを終えてから本殿の中に還って行った。
「あのぉ。予約していた一条ですが」
「はいはい。承ってますよ。あと、親御さんからも連絡きてましたから。ここらで言ったらここしか宿がないですからね。先回り、されたみたいですよ」
親は子供の行動がわかると聞くけど、ここまでわかるものなのか。何にせよ、許しを出してくれるのが嬉しかった。
宿は民宿というよりも農家の旧家といった感じで、玄関の土間に置かれた上り框に靴を置いて磨かれた玄関に上がる。他の宿泊客は居ないようで、玄関の柱時計が刻む音がやけに響いていた。宿の女将さんは僕たちを部屋まで通した後に晩御飯の時間を告げて、部屋から出て行った。畳敷の部屋に座卓がひとつ、それに座椅子が四つ。座卓の上にはお煎餅と急須に電気ポットが置いてあった。隣の寝室であろう八畳ほどの畳間の向こうは障子扉があって開くと左右に伸びた縁側に月明かりがさして薄い影を作っていた。静寂の中で風鈴の音が綺麗に響く。僕は縁側に腰掛けて優しく吹き抜ける風を頬に感じながら伸びをして後ろ手を着いて満月を眺める。
「この月を眺めるのも今日で最後か」
「何か言いましたか?先輩」
「いや。月が綺麗でさ」
「女将さんがお風呂の準備ができたって」
「坂城さん、先に入ってきなよ。僕は月をもう少し眺めてるから」
「そう?じゃあ、失礼して」
後ろで用意された浴衣とバスタオルを持って部屋から出ていく姿を横目で眺めてから、再び満月を眺める。
「会いたい人に会えるお祭りか。仮に僕が逝った場合、坂城さんとはあの神社で年に一回、会えるのだろうか」
そう月に問いかけるも答えは返ってこない。二人ともに助かる方法。それがあれば一番だが、僕にはその方法は無いように思えた。物事には代償が付き物だからだ。片方の命を助けたければ自分の命を差し出すしかない。本来であれば、彼女と出会わなければ僕は僕だけで、彼女は彼女だけであの日から七日後に死んでいたんだ。偶然出会って、片方が生き残るという特別なことが起きたんだ。だから、さらに特別な二人ともに生き残る方法なんていうのはないと思うんだ。
「問題は、坂城さんをどう説得するか、だな」
坂城さんがお風呂から帰ってきたので、かわりに僕がお風呂へ向かう。髪の濡れた坂城さんからはとてもいい匂いがして思わず足を止めてしまった。
「どうしたんですか?」
「ああ、いや、なんかいい匂いだなぁ、と思って」
「リンスの匂いですよきっと。お風呂に入ったら先輩も同じ匂いになりますよ」
そうはならないような気がする。なんて思いながらお風呂を目指す。途中、宿の女将さんに出会ったので、あの夏祭りについて聞いてみた。
あの夏祭りは会いたい人に会える貴重な夏祭りで全国からたくさんの人が訪れる祭りだという。でもその出会いは再びの別れを呼ぶこととなることから一期一憂の祭りと呼ばれている、とも。一期一憂。一生のうちに喜んだり悲しんだりすることか。出会いと別れを繰り返す。それは本当に良いことなのだろうか。お風呂に入りながらもそんなことを考える。仮に僕が逝ったとして。あのお祭りで坂城さんと年に一回会えるとして。それは彼女を完全に縛ることになる。そんなのは僕は望まない。あのお祭りは人生を縛り付けるお祭りなのかも知れない。
「坂城さん、お待たせ。どう?僕もいい匂いがする?」
「ふふ。とっても。お夕飯の準備もできてるから早く食べましょう」
部屋には夕食の準備がされていたので、席について並んだ料理を眺める。なかなかに豪華な料理だ。お櫃のご飯を坂城さんが取り分けて僕に手渡してくる。お櫃に手を伸ばす彼女の胸元が少し見えてしまって目線を逸らしたが、バレていたようでクスリと笑われてしまった。
「一条先輩はこういうの、初めてですか?」
「当たり前じゃないか。坂城さんはこういうの経験あるの?」
「親戚の子達と。田舎がこういう感じだから」
「ああ、そういえば言ってたね。親戚が集まるのなら賑やかな夕飯なんだろうね」
「ちょっとうるさいくらいに」
「楽しそうだなぁ」
僕たちは並んだ料理を食べながら坂城さんの田舎の話で盛り上がった。
「坂城さんはさ、やっぱり死ぬのが怖い?」
僕たちは月明かりの差し込む縁側に座って夏虫の鳴き声を聞きながら月を眺めて話す。
「うーん。死ぬのはそんなに怖くないですね。どちらかというと一条先輩と離れ離れになる方が怖いです。せっかく手に入れた幸せなのに、それを手放す方が怖いです」
「そうか。あの日、僕たちは出会わなければこんな気持ちになることもなかったのかな」
「かも知れませんけど、実際に出会ってしまった。正直なところ、優先権の話を聞いて誰かに出会わないかなぁってランニングしてました。そこで出会ったので、ああ、この人なんだなぁって思ってました」
これは俺もそうかも知れない。じゃないと「僕、七日後に死ぬんだ」なんて突拍子もないことを言わないと思う。この出会いは必然。起きるべくして起こったこと。あの日にああいう風に思った時点で出会いは確実に訪れていたことだろう。
「一条先輩はなんで誰かに出会いたいって思ったんですか?」
「僕かい?うーん、最初は彼女も作ることなく人生が終わるのは悲しいかなって思ったからかな。でもその後すぐに、残された方は悲しいからって思っていたんだけど……。同じ境遇の人ならいいと心の中で思っていたのかも知れない」
「私もそうかも知れません。残された側に立ってみたら、と考えたら」
「結局、こうして残された側について考えることになるとは思わなかったけどね」
「そうですね」
しばしの空白の時間が流れる。彼女は何を思っているのだろう。何を感じているのだろう。
「坂城さん。やっぱり僕が死ぬよ。坂城さんには生きてもらいたい。それが僕の願いだ」
「一条先輩。一条先輩はどうして自分が死ぬって考えるんですか?希望の壊れる私の気持ちは考えた事はありますか?」
「考えた上での事だよ。もちろん。悲しいと思う。とても。逆の立場で考えてたらすぐにわかることだ。でもこの先の人生は長い。僕だけに縛られる事はないと思う。それに……」
「それに、なんですか?」
「どうしても会いたければ、例のお祭りに行けば会えるような気がしてならないんだよ。あのお祭りは特別な気がする」
「ひと夜会えばですか。でもそうしたら、失った悲しみが一層広がりませんか?」
「僕はそう思わないな。お墓参りと同じだと思う。それが具現化されただけというか。そう考えるとしっくりこないか?」
「そうなんですけど……。私はやっぱり御坂さんのことが気になるんです。想い人がいる側の人が残るべきだと思うんですよね。別に御坂さんに一条先輩を渡すためにとかそういうのじゃなくて……。なんていうかなぁ……。残された側の悲しみが二倍になるのが嫌というか」
「やっぱり、一緒に生き残る方法があれば、だな」
「そうなんですけど、今日のお祭りに行ってそれは難しいんじゃないか、って感じました」
「なんで?」
「だって、あそこにいた人たちって半分以上が想い人だった気がします。居た人数と帰った人数の辻褄があってなかった気がします。だから、人生に別れは必ず訪れて、それをどう受け止めるのかが重要なんじゃないかって思いました」
「そうか」
静かな夜に虫の声と風鈴の音だけが響く。軽く息を吐いて両膝についていた肘を離して後ろ手に回し、月を眺めた。この月も見納めかと思うと残りの人生について考えざるを得ない気持ちになるのは当然だ。
「一条先輩?」
「なんだ?」
「一条先輩は私といて楽しかったですか?」
「もちろん」
「私に出会えてよかったですか?」
「ああ」
「私に……」
「大丈夫だから」
何を根拠に大丈夫と言ったのかは分からないけども、嗚咽する彼女を抱きしめて彼女の温もりを精一杯に感じる。生きている。僕たちはここで生きているんだ。
布団に入ってからも考えていた。彼女は何を考えているのか。僕は何を考えているのか。見つからない答えを求めて片腕を天井に伸ばす。何も掴めないのはわかっているのに。
「一条先輩?まだ起きてますか?」
「ん?起きてるぞ」
「そっち、行っていいですか?」
こちらの返事を待つことなく、彼女は僕の布団に潜り込んできた。彼女の温もりを全身に感じると、この一瞬を失いたくないと強く思う。僕たちは両手を重ねてキスをする。
「先輩……」
「ああ。ここにいる」
はだけた浴衣の裾に彼女の温もりを直に感じるといやがおうにも鼓動が高鳴る。僕の胸板の上に彼女のやわかい感触を得てさらに鼓動が高鳴る。僕たちは身体を重ねた。今のこの時間が永遠に続くことを願って。
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