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【第四夜】
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「お兄ちゃん、昨日の夜は随分と長電話してたけど、彼女でもできたの?」
「ああ。可愛いぞ」
「どんなの?」
「黒髪のセミロングで……陸上部の活発な感じの子かな」
「へぇ。意外。もっと地味な子と付き合うと思ってたのに」
「お前、兄をどんな目で見てたんだ。引きこもり体質だったのは否めないけども」
今日は四日目の朝。そう、あと三日しかないのだ。その三日目もお昼頃だろしたら実質二日半しかない。この時間をどう過ごすのか考える時間すら惜しい。最初に七日後に死にます、なんて言われた時はこんなこと思いもしなかったのに。想う人が出来るとこんなにも変わるものなのか。これも人生のシナリオライターが書いたものなんだろうが、なんて残酷なシナリオを書くものだ。誰にも出会わなければこんな気持ちになることもなかっただろうに。でも僕は出会ってしまった。かけがえのない人が出来てしまったのだ。そんな気持ちで残りわずかな朝ごはんを味わいながら思う。この朝ごはんを食べるのも残り二回だ、とか。
朝ごはんを食べ終わって自室で学校に行く準備をしていた時に菜々緒ちゃんが部屋に入ってきた。
「惜しくなってきた?」
「ん?菜々緒?ちゃんの方か」
「そうです。菜々緒ちゃんです。死ぬの、惜しくなってきました?死にたくないですか?」
「そんでわざわざそんなことを聞くのさ。彼女が出来てしまって死にたいって思う方が普通じゃないだろ」
「でもその彼女も同じ日に死ぬんですよね?先に死なれる方が辛くないですか?」
「そりゃ……、そうだけど。彼女の方が先に死ぬのかい?」
「それは、彼女のシナリオによるから私はわからないけど」
「向こうの案内人に聞いても分からないのか?」
「案内人はどうやって死ぬのかも分からないって言ったでしょ?だからいつどうやって死ぬのかも分からないわよ」
「そうか。そうだったな。で、今更になって聞くんだが、死なない方法ってのはないのかい?」
「案内人が派遣されるってことは、それはないんじゃないかな」
「菜々緒ちゃんってやっぱり死神じゃないか」
「そうかも知れないわね」
「そういえば、菜々緒ちゃんってこうして案内人をやるのは初めてなの?」
「そう。初めて。だからどうなるのか分からないのよ。本当に。見たことないから」
そういうことか。経験豊富な案内人ならもう少し詳しく分かるものなのかな。でも死を回避できないのならそれが分かってもどうということはないか。詳しく分かる方が精神的に辛いかも知れない。死のカウントダウンが目に見える方が。
「そういえば、菜々緒ちゃんは僕が学校に行っている間って何をしてるの?」
「見てるわよ。結構近くで。一応見つからないようにね。他の人からは私、見えないから」
「ええ……見てるのかよ。なんか恥ずかしいな」
「何?見られてずかしいことでもしようと思ってるの?」
「そういうわけじゃ……なくもないかも知れないだろ?」
「いやらし~。でもそういう時は流石に見てないわよ。向こうの案内人もそうだから。安心して良いわよ」
「そうか。それは助かるな」
菜々緒ちゃんとそんな話をしながら学校へ行く準備を整えて坂城さんとの待ち合わせ場所に向かう。女の子、それに彼女と待ち合わせて学校に向かうこの新鮮な気持ち。いつも見ている景色が違って見える。気のせいかも知れないけど、本当に違って見えるんだ。一歩進むたびに彼女に近づいているのかと思うと。
数本の道を進んだ時に、御坂と出会った。昨日のことがあって、なんか気まずい。僕のことが好きだったなんて言い出したものだから。本当にそうだとしたら、どうというのだろうか。このまま一緒に登校するのだろうか。坂城さんはどう思うのだろうか。細かいことをいちいち考えるようになってしまったな。
「おはよう」
「ああ、おはよう。あのさ昨日のことなんだけどもさ」
「ああ、あれ。真に受けた?冗談に決まってるじゃない。彼女がいる相手に好きだったなんて言ったってしょうがないじゃない。気にしてた?だとしたら悪かったって」
表情に声を聞くと強がりなのが見て取れて余計に辛い。本気だったんだなって。なんでもっと早く言わなかったのかって。坂城さんと出会う前なら何か変わっていたかも知れない。でも僕の方が先に死ぬと分かったらどんな気分だっただろうか。悲しむと思って僕は取り乱していただろうか。彼女にそのことを伝えていただろうか。
「何?考え事?ああ、彼女と待ち合わせ?じゃあ、私はいない方が良いわね。先に行ってるね!」
そう言って御坂は手を振りながら駆け出してゆく後ろ姿からなんだか寂しさを感じた。僕の心の中でも一抹の寂しさを感じてしまうほどに。
坂城さんとは、この食べごろの夏みかんの木が生えた生垣の向こうにあるバス停だ。高校まではバスで三つ目。校舎の前までは行かずに、用水路の入り口、桜並木のところまでしか行ってくれない。春は綺麗な桜並木を潜れるので嬉しいサービスだと思うが、こう暑いと校門の前まで行ってくれればと思ったものだ。
「やあ、おはよう」
「おはようございます。一条先輩」
「あ、おはよう」
先に行った御坂は結局、同じ時間のバスになってしまったようだ。坂城さんが誰?と言った顔をしていたので、クラスメイトだと簡単に説明した。しかし、女の子の勘は鋭いもので、俺と御坂の間に何かあると感じ取ったようで、少し僕との距離と縮めてきた。
「大丈夫よ。取ったりしないから」
御坂がそんなことをいうものだから、余計に警戒心が強くなってしまったようで。夏服の短い袖を摘まれてしまった。そんな仕草がたまらなく愛おしく感じる。バスが来て満席の座席を眺めながら吊革に掴まって話を続ける。
「えーっと」
「ああ、こっちは坂城さん。一個下の後輩だ」
ここで彼女と言えない自分は生地がないと思ったけども、周りの目線もあって、ここで堂々と自分の彼女です、なんて言える人はどのくらいいるのだろうか。
「で、こっちがクラスメイトの御坂」
「それはさっき聞きました」
坂城さんの機嫌が少し悪い気がする。やっぱり彼女と紹介しなかったのが悪いのか。バスの車窓に流れるいつもの景色を眺めながらそう思う。
「あのさ、御坂とは本当に何もないからさ」
「そうそう。私と一条はただのクラスメイトだから」
言わなくても良いことを言うものだから、坂城さんのほっぺたがさらに膨れる。その表情を見て更に可愛いなと思ってしまったのは意地悪なのだろうか。バスが用水路入り口に到着して桜並木を三人で歩く。御坂は先に行ってるね、と少し駆け出して先に進む。その後ろを僕と御坂さんは続いて歩く。先に駆け出したと言ってもそんなに先に進むわけでもなく。会話はギリギリ聞こえない程度だろうか。
「一条先輩。この桜並木の桜、一緒に見ながら歩きたかったですね」
「そうだな。さぞかし綺麗に見えただろうな。俺たちはもう見ることができないから、余計に見たくなる」
用水路に流れる水の音を聞きながら話を続ける。
「あと実質二日半だけど、金曜日のお昼頃はどうする?」
「お昼ですか?私は案内人の方は夕方に来たので、夕方かと思って……」
「ああ、時間が違うのか。僕の方が先に逝く可能性が高いってわけだ」
「そうですね。私、看取ってあげることが出来るんでしょうか」
「あのさ、今日はそう言う話はなしにしない?なんか暗くなっちゃう」
「そうですね。やめましょう」
残り少ない二日半、そんなしみったれた話ばかりしていたらもったいない。彼女ができた高校生活を目一杯楽しまないと。そんな姿を後ろ目に眺めていた御坂は自分の行動の遅さに後悔の念を抱いていた。
「おはよ」
「お?なんだ?一条が朝の挨拶をしてくるなんて珍しい」
いつもと気分が違うのか、自転車で投稿してきたクラスメイトの男子にまで朝の挨拶をしてしまった。まぁ、悪い気はしない。多くの人と関わりを持つのも良いかも知れない。あと二日半、自分の人生を詰め込む思いで一挙手一投足を気に掛ける。
坂城さんとは下駄箱でお別れ。上履きに履き替えるその姿にまた見惚れていたら、今度は軽く微笑みかけられて更に見惚れてしまった。
「ヒューヒュー妬けるねぇ」
「御坂はそう言うところがよくないぞ」
「あら。ごめんなさい。でもなんか羨ましいなぁ。そう言うふうに見られる相手がいるって」
そう言うものだろうか。でも、ああやって微笑みかけられるのは嬉しいものだ。相手からして見ても同じような気分なのかも知れない。
「ん?なんだなんだ?一条に彼女でもできたのか?」
さっきのクラスメイトが坂城と僕を見比べながら御坂に聞いている。
「さあね。本人に聞いてみれば良いんじゃないかな?」
「ん?なんだ??」
やっぱりさっきからの態度を見るに、あの日の冗談は本気だったんだなって確信に変わった。そして僕は一抹の罪悪感に囚われるのだった。
「ねぇ、一条」
「なんだ?」
「ううん。なんでもないや」
机にカバンを掛けて席に座ろうとした時に先に座っていた御坂が片腕に突っ伏しながら声を掛けてきた。呼び掛けた先の言葉はなんとなく想像がつく。ここははっきりさせてあげたほうが後々の後悔がないような気がして。このまま僕が先に逝ったら御坂はなんて思うのだろうか、って。
「御坂、昨日のことだけど、僕には彼女がいるから……」
「なーに本気にしてるのよ。冗談だって言ったでしょ?」
冗談。その顔で言ってもリアリティがないっての。僕の心にちくりと痛みが走った。午前中の授業は校庭で体育を行っている坂城さんを目で追う。後ろからの視線を感じたが、僕はそれを気に留めないようにと言い聞かせながら校庭を眺め続ける。
「やっぱり本気なんだなぁ。なんか可愛い。一条」
「なんだよ。可愛いって」
「だって彼女をずっと目で追い続けるなんて可愛い以外の何者でもないでしょう」
御坂に言われて少し恥ずかしい気分になって少し意地悪を言ってしまって後々になって後悔することになるのだが、この時に、はっきり言っておけばよかったって今ではそう思う。
「お弁当、一緒に食べませんか?今日は日陰の席を確保しました」
坂城さんからのメールを見て、席を立とうとした僕に御坂は何か話しかけようとしたらしいが、僕はそれを見なかったことにして中庭に向かった。教室を出るときに横目で御坂を見て目があってしまってまた罪悪感を感じる自分がいて僕は何がしたいのかと自ら問いかけるのであった。
「お待たせ。おお。今日はベストポジションだ。日陰でお風が通って涼しい」
初夏の日差しが木々の隙間から差し込んできらきらと煌めいている。昼休みの中庭はカップルが多くて、いつもの自分は近寄り難い空間だったのに、今ではその空間の一員になっている。ほんの数日前までは信じられなかったことだ。
「今日のお弁当は私が作ったの」
「へぇ。なんか力が入ってる。もしかして、僕に何かくれたりする?」
「欲しい?」
「ちょっとね」
「ちょっと?」
「いや、かなり欲しい」
「じゃあ、交換ね」
卵焼きと卵焼きを交換する。僕の母親に対抗意識を燃やしてどうするんだとか思ったのは内緒にして、坂城さんの作った卵焼きを箸でつまんで口に運ぶ。出汁が効いてて少し甘めの卵焼き。僕の母親の作る卵焼きとは違った味がする。当たり前だけど。
「あれ。一条さん、こういう薄めのほうが好みだった?」
「ううん。こっちの卵焼きの方が好きかな。出汁が効いてて」
「本当?よかった。他にも食べてみる?」
結局、おかずのほとんどを交換して食べてしまった。流石に食べさせてもらうというイベントは発生しなかったけども。
「何見てるんだ?御坂」
「なんでもないって」
「あー、一条、彼女ができたのか。良いのか御坂」
「良いも何もないでしょ」
「それはそうなんだけどさ。ま、本人がそう言ってるのならこっちは何も言わないけどさ。あんまり見てると目の毒になるぞ」
実際にそうだった。仲の良さそうなカップル。お弁当のおかずを交換しあっちゃったりして。なんで私があそこに居ないんだろう。そう思うと本当に目の毒だなって思った。
「ねぇ、午後の授業、サボっちゃわない?」
「ん?また大胆なことを言うね。せめて体調が悪いとかそう言うのしにしない?」
「うーん、それでも良いけど、サボるって一回やってみたかったんだ」
授業をサボる。普段ではそんなこと考えたこともなかった。先生はどう思うのか、っていうか、学校的にどう言うことになるのか。また、母さんに連絡が行くのだろうか。結局、彼女はサボって僕は体調が悪いと言うことで早退としたわけだけど。校門の外で待ち合わせて、僕らは街にくり出した。
「一条先輩は身体の具合が悪いんですよね?」
「すごく悪いぞ。なんてったって早退するくらいだ。すごく悪い」
「私は元気なんで連れ回しますよ?」
「ふふ。具合が悪いのが移らないといいな」
軽い冗談をいいながら用水路の桜並木を抜けてバス停まで向かう。いつもの帰り道とは反対方向に向かってバスに乗ると、運転手が、物珍しそうに僕らを見てきた。まぁ、こんな時間にカップルがバスに乗ってくるんだ。なんらかの事情があると思われても仕方がない。この時間のバスはガラガラで後ろの二人がけの席に座ってバスに揺られる。
「一条先輩は受験、どこを受けるとか決まってたんですか?」
「まだかなぁ。まだ二年生だし。来年の春には決まっていた感じなのかな」
「そうなんですか。一緒の大学に通いたかったな。花の大学生、なんか聞こえがよくないですか?」
「そうか?彼女のいる高校生活の方が、僕にとっては貴重だと思うけど」
「じゃあ、今はとても貴重な時間なんですね」
実際にそう思う。大学は時間が結構あると聞く。高校生はそんなに時間がない。朝の登校、帰り道、それに休日くらいしか時間が取れない。短い時間だからこそ、その時間が大切に思えてならないのだ。バスはそんな会話をしている僕らを終点の繁華街まで運んでくれた。繁華街は昼でもたくさんの人で賑わっていて制服を着た高校生が浮いて見えた。バス停の反対側には交番があるので、それを避けて池のある大きな公園通りの方に向かう。池に行くまでに自分の高校でも有名な買い食いスポットが立ち並んでいるのだ。焼き鳥にコロッケ。それにおにぎりまで。僕らは弁当を食べているから焼き鳥だけ頼んで、食べながら公園を目指す。コンビニ以外の場所での買い食いなんて初めての経験だ。それに学校をサボって。すれ違う大学生くらいのカップルが僕たちを珍しそうに眺めて会話をするのが聞こえた。
「学校サボってデートかな」
「なんかロマンチックね」
ロマンチック。確かにそうかも知れない。こんな二人だけの時間、なかなか感じる機会は少ないだろう。
公園通りを抜けて公園に到着すると池の中央の弁天様が見えたけど、カップルで行くと弁天様がヤキモチを焼くとかなんとか聞いたことがあったので、遠巻きに眺めていると、ボートのりばが目に入ってきた。
「乗る?」
「乗っちゃおうか」
手漕ぎボート。何気に乗るのは初めてだったりする。スワンボートは昔、家族で来た時に妹の菜々緒と乗った……?ん?なんだ?記憶が曖昧で思い出せない。菜々緒?そんな妹、僕には居ただろうか。
「あーもう。なんであんたなのよ」
「仕方ないだろ?彼女の案内人になっちゃたんだから」
物陰で菜々緒ちゃんと坂城さんの案内人が会話をしている。二人に見つからないように。
「だからなんで本当にあんたなのよ。死んでもシナリオライターっているのかしらね」
「さあね。偶然なのか、神様のいたずらなのか、じゃないのか」
二人は生前の恋人同士だった。僕らと同じように死の宣告を受けたカップルで、互いにそれを隠しあっていたことを後悔している。だから、僕たちが隠さなかったことを羨ましく思っていたようだ。
それを聞いたのも後になってのことだが。
「手漕ぎボートって結構疲れるのな」
「ふふ。男の子でしょ。頑張って」
向かい側で坂城さんが体育座りで腰掛けているものだから、下着が見えそうで集中できない。右手に力が入って真っ直ぐに進まない。坂城さんはそんなことを気に留めない様子で、風になびく黒髪を手櫛を通していた。陸上部なのに長い黒髪なのは珍しいと会った時から思っていたけど。
「ねぇ、坂城さんは陸上部で活動するときは、髪の毛どうしてるの?邪魔にならない?」
「ん?短い方が好みだった?御坂さんだっけ?彼女みたいに」
「そんなのじゃなくてさ」
御坂は確かに短い。どっちが陸上部か聞かれたら御坂って答える自信がある。
「んーっとね。後ろで縛り上げてるかな。こう、ポニーテールにした後に、さらに上にこう……」
「なんだかチョンマゲみたいだな」
「あー、ひどい!」
「嘘だって」
実際に嘘で、はっきりと見えるうなじがひどくセクシーに見えた。坂城さんは、風になびく黒髪が少し邪魔に思えたのか、そのままポニーテールのままになって僕の方をみた。僕の視線が少し下の方を見ているのがバレたのか、恥ずかしそうに足を斜めにしてから話を切り出した。
「ここも桜が綺麗なのかな。あの辺、全部桜でしょ?」
「ああ、そうだな。春に乗れば桜のトンネルを潜る感じなるな」
死の宣告を受けてから、やたらと桜が気になる。ドラマで次の桜が見れるかどうか、なんてよく聞くけども、実際にそう思うのが人間の性なのだろうか。僕たちは青々と茂った桜の枝葉のトンネルにボートを止めて初夏の日差しを遮った。公園側のベンチに座っていた大学生くらいのカップルが気を利かせてくれたのか、見られるのが嫌だったのかはわからないけど、席を立ってくれたので、二人しか居ない空間が出来上がった。
「ちょっとそっちに行っていい?」
「いいけど、危なくない?」
「ゆっくり行くから」
坂城さんが僕の隣に向かってゆっくりと歩を進める。が、案の定、バランスを崩したので、僕はそれを支えた。顔が近い。ここは僕がリードすべきなのだろうか、と思った矢先に彼女の方が先に僕にキスをしてきた。顔が熱い。軽く唇を当てた程度のキスなのに、全身に何かが走って顔が物凄く熱くなった。彼女も膝をつきながら下を向いて今の一瞬を顧みているようだった。案内人はこう言うときは見ていないとか言っていたけど、あの一瞬は目を背ける時間なんてなかったに違いない。そう思って誰かに見られていたと考えると、さらに顔が熱くなった。
「坂城さん……」
今度は僕の方から彼女の顔に手を当ててキスをした。自分からキスをするなんてそんな勇気はなかったけれど、坂城さんにその勇気があったのだ。自分にもその勇気があってもいいじゃないか。あとのことは考えないで、今だけを見つめて坂城さんにキスをした。しばらくあって唇を離して二人感触を確かめ合う。
「キス……しちゃったね」
「ああ」
「もう、後戻りできないね」
「ああ」
後戻りできない。なかったことにできない。この二人の関係はなかったことにできないのだ。実際に巡り合い、キスをした。自分の中でかけがえの無い存在になった。この燃え上がるような気持ちはもう抑えようがない。案内人がなんと言おうとも。
ボートを降りた後も僕たちは公園のベンチに座って話に夢中になっていた。案内人が見ていることなんて忘れて。夕方になって、学校が終わる時間、寄り道をしたとしても、そろそろ家に帰る時間になったので、僕たちは家路に着くことにしたのだけれど、その横を人組のカップルとすれ違った。僕たちを懐かしそうに眺めるように見つめられながら。
「あの二人ももう戻れないわね」
「そうだな。私たちと同じ運命を辿るとしたら、神様はなんて残酷なことをするんでしょうね」
菜々緒と坂城さんの案内人はそんな会話をしながらすれ違った二人を見送る。
家に帰ると、菜々緒はまだ帰ってきてない様子で部屋に行ってもまだいない様子だった。珍しい。僕よりも遅くなるなんて。机の上には、今日は町会の会合があるから先にご飯を食べてて。おかずは冷蔵庫にあるから、と母さんからの置き手紙が置いてあった。
「ただいまー。あれ?お兄ちゃんの方が早く帰ってるなんて珍しくない?」
「菜々緒が遅いんだよ。何時だと思ってるんだ」
「そんな不健全な時間じゃないと思うけど」
十八時過ぎ。確かにそんなに遅い時間じゃないかも知れない。坂城さんともっと一緒にいても良かったのかも知れない。
「はぁ。もう戻れないところまで行っちゃったのね」
「菜々緒?」
「菜々緒ちゃんの方です。さっきの公園のこと、見ちゃてて。目をそらす暇がなかったから。ごめん」
「いいさ。こっちもそう思っていたから。で、戻れないところまでってのは?」
「別れのタイミングが取れないでしょ?戻れる?最初の時の気持ちに」
「無理だろうな」
「でしょ?」
ああ、そうか。もう戻れないんだな。実感が湧いてくる。もう戻れない。最初の投げやりな気分には。死にたくない。そう思えてたまらない。
「なぁ、菜々緒ちゃん、死ぬのは避けられないにしても、もうちょっとだけ時間を先延ばしにすることはできないの?」
「先延ばしにすればするほど、辛くなると思うけど」
「できるの?」
「できない」
「なんだよ。思わせぶりに」
確かに時間が経過すればするほどに深い関係になって別れが辛くなるだろうと思う。でもあの時間はいつまでも続いて欲しい。
「お兄ちゃん、ちょっと私の部屋まで来てくれる?」
「なんだ?」
「ちょっと話したいことがあるの」
自分の部屋に呼ぶのは菜々緒ちゃんとして話がしたいと言うことだろう。一体なんの話なのか。
「あのさ。本当に死にたくない?」
「ああ。死にたくない。死なない方法があればなんでもする」
「なんでもする、か。そうね。例えば、彼女がいなくなっても?」
「どう言う意味だ?僕は死なないけど、彼女だけ死ぬとかそう言うのか?それだったら僕も生きている希望がない」
「そうなるでしょ?」
「だから何が言いたいんだって」
「二人の思いを合わせればどちらかは死なないで済むわ」
それは残酷な選択だった。二人同時に死ぬのか、片方を生きながらえさせて、片方の命を差し出すのか。
「なぁ、それって、向こうの案内人も坂城さんに同じことを説明してるのか?」
「いや、多分してない。あの人はそういうことをしないと思う」
「知り合いなのか?」
「ちょっとね。生きてる時の知り合いなのよ」
「偶然だな」
「ほんっとに偶然ね……」
死んだ後に私たちのように出会う可能性も考えられる。そうすれば永遠の出会いになる。案内人の仕事はあっても、ああやって二人の時間が取れるかも知れない。例えば、私たちが片方だけ生き長らえていたとしたらどうなっただろう。片方が悲しみに暮れるのは分かる。でも、自分のせいで死んだんだって考えたらどうなるのだろうか。耐えられるのだろうか。私はそんな選択肢を彼に与えてしまった。
その日の夜は菜々緒ちゃんの言葉が頭を離れなかった。「片方だけ生きながらえさせることができる」でも片方は死ぬ。仮に僕の命が助かったとして、彼女の死を受け入れることができるだろうか。当然にできない気がする。逆に、坂城さんの命が助かったとして、彼女は僕の死を受け入れてくれるのだろうか。僕は、坂城さんを死なせたくはない。でも、死よりも辛い思いをさせるとしたら……。生死与奪権を僕が持っているような気がして、その日は眠ることができなかった。
「ああ。可愛いぞ」
「どんなの?」
「黒髪のセミロングで……陸上部の活発な感じの子かな」
「へぇ。意外。もっと地味な子と付き合うと思ってたのに」
「お前、兄をどんな目で見てたんだ。引きこもり体質だったのは否めないけども」
今日は四日目の朝。そう、あと三日しかないのだ。その三日目もお昼頃だろしたら実質二日半しかない。この時間をどう過ごすのか考える時間すら惜しい。最初に七日後に死にます、なんて言われた時はこんなこと思いもしなかったのに。想う人が出来るとこんなにも変わるものなのか。これも人生のシナリオライターが書いたものなんだろうが、なんて残酷なシナリオを書くものだ。誰にも出会わなければこんな気持ちになることもなかっただろうに。でも僕は出会ってしまった。かけがえのない人が出来てしまったのだ。そんな気持ちで残りわずかな朝ごはんを味わいながら思う。この朝ごはんを食べるのも残り二回だ、とか。
朝ごはんを食べ終わって自室で学校に行く準備をしていた時に菜々緒ちゃんが部屋に入ってきた。
「惜しくなってきた?」
「ん?菜々緒?ちゃんの方か」
「そうです。菜々緒ちゃんです。死ぬの、惜しくなってきました?死にたくないですか?」
「そんでわざわざそんなことを聞くのさ。彼女が出来てしまって死にたいって思う方が普通じゃないだろ」
「でもその彼女も同じ日に死ぬんですよね?先に死なれる方が辛くないですか?」
「そりゃ……、そうだけど。彼女の方が先に死ぬのかい?」
「それは、彼女のシナリオによるから私はわからないけど」
「向こうの案内人に聞いても分からないのか?」
「案内人はどうやって死ぬのかも分からないって言ったでしょ?だからいつどうやって死ぬのかも分からないわよ」
「そうか。そうだったな。で、今更になって聞くんだが、死なない方法ってのはないのかい?」
「案内人が派遣されるってことは、それはないんじゃないかな」
「菜々緒ちゃんってやっぱり死神じゃないか」
「そうかも知れないわね」
「そういえば、菜々緒ちゃんってこうして案内人をやるのは初めてなの?」
「そう。初めて。だからどうなるのか分からないのよ。本当に。見たことないから」
そういうことか。経験豊富な案内人ならもう少し詳しく分かるものなのかな。でも死を回避できないのならそれが分かってもどうということはないか。詳しく分かる方が精神的に辛いかも知れない。死のカウントダウンが目に見える方が。
「そういえば、菜々緒ちゃんは僕が学校に行っている間って何をしてるの?」
「見てるわよ。結構近くで。一応見つからないようにね。他の人からは私、見えないから」
「ええ……見てるのかよ。なんか恥ずかしいな」
「何?見られてずかしいことでもしようと思ってるの?」
「そういうわけじゃ……なくもないかも知れないだろ?」
「いやらし~。でもそういう時は流石に見てないわよ。向こうの案内人もそうだから。安心して良いわよ」
「そうか。それは助かるな」
菜々緒ちゃんとそんな話をしながら学校へ行く準備を整えて坂城さんとの待ち合わせ場所に向かう。女の子、それに彼女と待ち合わせて学校に向かうこの新鮮な気持ち。いつも見ている景色が違って見える。気のせいかも知れないけど、本当に違って見えるんだ。一歩進むたびに彼女に近づいているのかと思うと。
数本の道を進んだ時に、御坂と出会った。昨日のことがあって、なんか気まずい。僕のことが好きだったなんて言い出したものだから。本当にそうだとしたら、どうというのだろうか。このまま一緒に登校するのだろうか。坂城さんはどう思うのだろうか。細かいことをいちいち考えるようになってしまったな。
「おはよう」
「ああ、おはよう。あのさ昨日のことなんだけどもさ」
「ああ、あれ。真に受けた?冗談に決まってるじゃない。彼女がいる相手に好きだったなんて言ったってしょうがないじゃない。気にしてた?だとしたら悪かったって」
表情に声を聞くと強がりなのが見て取れて余計に辛い。本気だったんだなって。なんでもっと早く言わなかったのかって。坂城さんと出会う前なら何か変わっていたかも知れない。でも僕の方が先に死ぬと分かったらどんな気分だっただろうか。悲しむと思って僕は取り乱していただろうか。彼女にそのことを伝えていただろうか。
「何?考え事?ああ、彼女と待ち合わせ?じゃあ、私はいない方が良いわね。先に行ってるね!」
そう言って御坂は手を振りながら駆け出してゆく後ろ姿からなんだか寂しさを感じた。僕の心の中でも一抹の寂しさを感じてしまうほどに。
坂城さんとは、この食べごろの夏みかんの木が生えた生垣の向こうにあるバス停だ。高校まではバスで三つ目。校舎の前までは行かずに、用水路の入り口、桜並木のところまでしか行ってくれない。春は綺麗な桜並木を潜れるので嬉しいサービスだと思うが、こう暑いと校門の前まで行ってくれればと思ったものだ。
「やあ、おはよう」
「おはようございます。一条先輩」
「あ、おはよう」
先に行った御坂は結局、同じ時間のバスになってしまったようだ。坂城さんが誰?と言った顔をしていたので、クラスメイトだと簡単に説明した。しかし、女の子の勘は鋭いもので、俺と御坂の間に何かあると感じ取ったようで、少し僕との距離と縮めてきた。
「大丈夫よ。取ったりしないから」
御坂がそんなことをいうものだから、余計に警戒心が強くなってしまったようで。夏服の短い袖を摘まれてしまった。そんな仕草がたまらなく愛おしく感じる。バスが来て満席の座席を眺めながら吊革に掴まって話を続ける。
「えーっと」
「ああ、こっちは坂城さん。一個下の後輩だ」
ここで彼女と言えない自分は生地がないと思ったけども、周りの目線もあって、ここで堂々と自分の彼女です、なんて言える人はどのくらいいるのだろうか。
「で、こっちがクラスメイトの御坂」
「それはさっき聞きました」
坂城さんの機嫌が少し悪い気がする。やっぱり彼女と紹介しなかったのが悪いのか。バスの車窓に流れるいつもの景色を眺めながらそう思う。
「あのさ、御坂とは本当に何もないからさ」
「そうそう。私と一条はただのクラスメイトだから」
言わなくても良いことを言うものだから、坂城さんのほっぺたがさらに膨れる。その表情を見て更に可愛いなと思ってしまったのは意地悪なのだろうか。バスが用水路入り口に到着して桜並木を三人で歩く。御坂は先に行ってるね、と少し駆け出して先に進む。その後ろを僕と御坂さんは続いて歩く。先に駆け出したと言ってもそんなに先に進むわけでもなく。会話はギリギリ聞こえない程度だろうか。
「一条先輩。この桜並木の桜、一緒に見ながら歩きたかったですね」
「そうだな。さぞかし綺麗に見えただろうな。俺たちはもう見ることができないから、余計に見たくなる」
用水路に流れる水の音を聞きながら話を続ける。
「あと実質二日半だけど、金曜日のお昼頃はどうする?」
「お昼ですか?私は案内人の方は夕方に来たので、夕方かと思って……」
「ああ、時間が違うのか。僕の方が先に逝く可能性が高いってわけだ」
「そうですね。私、看取ってあげることが出来るんでしょうか」
「あのさ、今日はそう言う話はなしにしない?なんか暗くなっちゃう」
「そうですね。やめましょう」
残り少ない二日半、そんなしみったれた話ばかりしていたらもったいない。彼女ができた高校生活を目一杯楽しまないと。そんな姿を後ろ目に眺めていた御坂は自分の行動の遅さに後悔の念を抱いていた。
「おはよ」
「お?なんだ?一条が朝の挨拶をしてくるなんて珍しい」
いつもと気分が違うのか、自転車で投稿してきたクラスメイトの男子にまで朝の挨拶をしてしまった。まぁ、悪い気はしない。多くの人と関わりを持つのも良いかも知れない。あと二日半、自分の人生を詰め込む思いで一挙手一投足を気に掛ける。
坂城さんとは下駄箱でお別れ。上履きに履き替えるその姿にまた見惚れていたら、今度は軽く微笑みかけられて更に見惚れてしまった。
「ヒューヒュー妬けるねぇ」
「御坂はそう言うところがよくないぞ」
「あら。ごめんなさい。でもなんか羨ましいなぁ。そう言うふうに見られる相手がいるって」
そう言うものだろうか。でも、ああやって微笑みかけられるのは嬉しいものだ。相手からして見ても同じような気分なのかも知れない。
「ん?なんだなんだ?一条に彼女でもできたのか?」
さっきのクラスメイトが坂城と僕を見比べながら御坂に聞いている。
「さあね。本人に聞いてみれば良いんじゃないかな?」
「ん?なんだ??」
やっぱりさっきからの態度を見るに、あの日の冗談は本気だったんだなって確信に変わった。そして僕は一抹の罪悪感に囚われるのだった。
「ねぇ、一条」
「なんだ?」
「ううん。なんでもないや」
机にカバンを掛けて席に座ろうとした時に先に座っていた御坂が片腕に突っ伏しながら声を掛けてきた。呼び掛けた先の言葉はなんとなく想像がつく。ここははっきりさせてあげたほうが後々の後悔がないような気がして。このまま僕が先に逝ったら御坂はなんて思うのだろうか、って。
「御坂、昨日のことだけど、僕には彼女がいるから……」
「なーに本気にしてるのよ。冗談だって言ったでしょ?」
冗談。その顔で言ってもリアリティがないっての。僕の心にちくりと痛みが走った。午前中の授業は校庭で体育を行っている坂城さんを目で追う。後ろからの視線を感じたが、僕はそれを気に留めないようにと言い聞かせながら校庭を眺め続ける。
「やっぱり本気なんだなぁ。なんか可愛い。一条」
「なんだよ。可愛いって」
「だって彼女をずっと目で追い続けるなんて可愛い以外の何者でもないでしょう」
御坂に言われて少し恥ずかしい気分になって少し意地悪を言ってしまって後々になって後悔することになるのだが、この時に、はっきり言っておけばよかったって今ではそう思う。
「お弁当、一緒に食べませんか?今日は日陰の席を確保しました」
坂城さんからのメールを見て、席を立とうとした僕に御坂は何か話しかけようとしたらしいが、僕はそれを見なかったことにして中庭に向かった。教室を出るときに横目で御坂を見て目があってしまってまた罪悪感を感じる自分がいて僕は何がしたいのかと自ら問いかけるのであった。
「お待たせ。おお。今日はベストポジションだ。日陰でお風が通って涼しい」
初夏の日差しが木々の隙間から差し込んできらきらと煌めいている。昼休みの中庭はカップルが多くて、いつもの自分は近寄り難い空間だったのに、今ではその空間の一員になっている。ほんの数日前までは信じられなかったことだ。
「今日のお弁当は私が作ったの」
「へぇ。なんか力が入ってる。もしかして、僕に何かくれたりする?」
「欲しい?」
「ちょっとね」
「ちょっと?」
「いや、かなり欲しい」
「じゃあ、交換ね」
卵焼きと卵焼きを交換する。僕の母親に対抗意識を燃やしてどうするんだとか思ったのは内緒にして、坂城さんの作った卵焼きを箸でつまんで口に運ぶ。出汁が効いてて少し甘めの卵焼き。僕の母親の作る卵焼きとは違った味がする。当たり前だけど。
「あれ。一条さん、こういう薄めのほうが好みだった?」
「ううん。こっちの卵焼きの方が好きかな。出汁が効いてて」
「本当?よかった。他にも食べてみる?」
結局、おかずのほとんどを交換して食べてしまった。流石に食べさせてもらうというイベントは発生しなかったけども。
「何見てるんだ?御坂」
「なんでもないって」
「あー、一条、彼女ができたのか。良いのか御坂」
「良いも何もないでしょ」
「それはそうなんだけどさ。ま、本人がそう言ってるのならこっちは何も言わないけどさ。あんまり見てると目の毒になるぞ」
実際にそうだった。仲の良さそうなカップル。お弁当のおかずを交換しあっちゃったりして。なんで私があそこに居ないんだろう。そう思うと本当に目の毒だなって思った。
「ねぇ、午後の授業、サボっちゃわない?」
「ん?また大胆なことを言うね。せめて体調が悪いとかそう言うのしにしない?」
「うーん、それでも良いけど、サボるって一回やってみたかったんだ」
授業をサボる。普段ではそんなこと考えたこともなかった。先生はどう思うのか、っていうか、学校的にどう言うことになるのか。また、母さんに連絡が行くのだろうか。結局、彼女はサボって僕は体調が悪いと言うことで早退としたわけだけど。校門の外で待ち合わせて、僕らは街にくり出した。
「一条先輩は身体の具合が悪いんですよね?」
「すごく悪いぞ。なんてったって早退するくらいだ。すごく悪い」
「私は元気なんで連れ回しますよ?」
「ふふ。具合が悪いのが移らないといいな」
軽い冗談をいいながら用水路の桜並木を抜けてバス停まで向かう。いつもの帰り道とは反対方向に向かってバスに乗ると、運転手が、物珍しそうに僕らを見てきた。まぁ、こんな時間にカップルがバスに乗ってくるんだ。なんらかの事情があると思われても仕方がない。この時間のバスはガラガラで後ろの二人がけの席に座ってバスに揺られる。
「一条先輩は受験、どこを受けるとか決まってたんですか?」
「まだかなぁ。まだ二年生だし。来年の春には決まっていた感じなのかな」
「そうなんですか。一緒の大学に通いたかったな。花の大学生、なんか聞こえがよくないですか?」
「そうか?彼女のいる高校生活の方が、僕にとっては貴重だと思うけど」
「じゃあ、今はとても貴重な時間なんですね」
実際にそう思う。大学は時間が結構あると聞く。高校生はそんなに時間がない。朝の登校、帰り道、それに休日くらいしか時間が取れない。短い時間だからこそ、その時間が大切に思えてならないのだ。バスはそんな会話をしている僕らを終点の繁華街まで運んでくれた。繁華街は昼でもたくさんの人で賑わっていて制服を着た高校生が浮いて見えた。バス停の反対側には交番があるので、それを避けて池のある大きな公園通りの方に向かう。池に行くまでに自分の高校でも有名な買い食いスポットが立ち並んでいるのだ。焼き鳥にコロッケ。それにおにぎりまで。僕らは弁当を食べているから焼き鳥だけ頼んで、食べながら公園を目指す。コンビニ以外の場所での買い食いなんて初めての経験だ。それに学校をサボって。すれ違う大学生くらいのカップルが僕たちを珍しそうに眺めて会話をするのが聞こえた。
「学校サボってデートかな」
「なんかロマンチックね」
ロマンチック。確かにそうかも知れない。こんな二人だけの時間、なかなか感じる機会は少ないだろう。
公園通りを抜けて公園に到着すると池の中央の弁天様が見えたけど、カップルで行くと弁天様がヤキモチを焼くとかなんとか聞いたことがあったので、遠巻きに眺めていると、ボートのりばが目に入ってきた。
「乗る?」
「乗っちゃおうか」
手漕ぎボート。何気に乗るのは初めてだったりする。スワンボートは昔、家族で来た時に妹の菜々緒と乗った……?ん?なんだ?記憶が曖昧で思い出せない。菜々緒?そんな妹、僕には居ただろうか。
「あーもう。なんであんたなのよ」
「仕方ないだろ?彼女の案内人になっちゃたんだから」
物陰で菜々緒ちゃんと坂城さんの案内人が会話をしている。二人に見つからないように。
「だからなんで本当にあんたなのよ。死んでもシナリオライターっているのかしらね」
「さあね。偶然なのか、神様のいたずらなのか、じゃないのか」
二人は生前の恋人同士だった。僕らと同じように死の宣告を受けたカップルで、互いにそれを隠しあっていたことを後悔している。だから、僕たちが隠さなかったことを羨ましく思っていたようだ。
それを聞いたのも後になってのことだが。
「手漕ぎボートって結構疲れるのな」
「ふふ。男の子でしょ。頑張って」
向かい側で坂城さんが体育座りで腰掛けているものだから、下着が見えそうで集中できない。右手に力が入って真っ直ぐに進まない。坂城さんはそんなことを気に留めない様子で、風になびく黒髪を手櫛を通していた。陸上部なのに長い黒髪なのは珍しいと会った時から思っていたけど。
「ねぇ、坂城さんは陸上部で活動するときは、髪の毛どうしてるの?邪魔にならない?」
「ん?短い方が好みだった?御坂さんだっけ?彼女みたいに」
「そんなのじゃなくてさ」
御坂は確かに短い。どっちが陸上部か聞かれたら御坂って答える自信がある。
「んーっとね。後ろで縛り上げてるかな。こう、ポニーテールにした後に、さらに上にこう……」
「なんだかチョンマゲみたいだな」
「あー、ひどい!」
「嘘だって」
実際に嘘で、はっきりと見えるうなじがひどくセクシーに見えた。坂城さんは、風になびく黒髪が少し邪魔に思えたのか、そのままポニーテールのままになって僕の方をみた。僕の視線が少し下の方を見ているのがバレたのか、恥ずかしそうに足を斜めにしてから話を切り出した。
「ここも桜が綺麗なのかな。あの辺、全部桜でしょ?」
「ああ、そうだな。春に乗れば桜のトンネルを潜る感じなるな」
死の宣告を受けてから、やたらと桜が気になる。ドラマで次の桜が見れるかどうか、なんてよく聞くけども、実際にそう思うのが人間の性なのだろうか。僕たちは青々と茂った桜の枝葉のトンネルにボートを止めて初夏の日差しを遮った。公園側のベンチに座っていた大学生くらいのカップルが気を利かせてくれたのか、見られるのが嫌だったのかはわからないけど、席を立ってくれたので、二人しか居ない空間が出来上がった。
「ちょっとそっちに行っていい?」
「いいけど、危なくない?」
「ゆっくり行くから」
坂城さんが僕の隣に向かってゆっくりと歩を進める。が、案の定、バランスを崩したので、僕はそれを支えた。顔が近い。ここは僕がリードすべきなのだろうか、と思った矢先に彼女の方が先に僕にキスをしてきた。顔が熱い。軽く唇を当てた程度のキスなのに、全身に何かが走って顔が物凄く熱くなった。彼女も膝をつきながら下を向いて今の一瞬を顧みているようだった。案内人はこう言うときは見ていないとか言っていたけど、あの一瞬は目を背ける時間なんてなかったに違いない。そう思って誰かに見られていたと考えると、さらに顔が熱くなった。
「坂城さん……」
今度は僕の方から彼女の顔に手を当ててキスをした。自分からキスをするなんてそんな勇気はなかったけれど、坂城さんにその勇気があったのだ。自分にもその勇気があってもいいじゃないか。あとのことは考えないで、今だけを見つめて坂城さんにキスをした。しばらくあって唇を離して二人感触を確かめ合う。
「キス……しちゃったね」
「ああ」
「もう、後戻りできないね」
「ああ」
後戻りできない。なかったことにできない。この二人の関係はなかったことにできないのだ。実際に巡り合い、キスをした。自分の中でかけがえの無い存在になった。この燃え上がるような気持ちはもう抑えようがない。案内人がなんと言おうとも。
ボートを降りた後も僕たちは公園のベンチに座って話に夢中になっていた。案内人が見ていることなんて忘れて。夕方になって、学校が終わる時間、寄り道をしたとしても、そろそろ家に帰る時間になったので、僕たちは家路に着くことにしたのだけれど、その横を人組のカップルとすれ違った。僕たちを懐かしそうに眺めるように見つめられながら。
「あの二人ももう戻れないわね」
「そうだな。私たちと同じ運命を辿るとしたら、神様はなんて残酷なことをするんでしょうね」
菜々緒と坂城さんの案内人はそんな会話をしながらすれ違った二人を見送る。
家に帰ると、菜々緒はまだ帰ってきてない様子で部屋に行ってもまだいない様子だった。珍しい。僕よりも遅くなるなんて。机の上には、今日は町会の会合があるから先にご飯を食べてて。おかずは冷蔵庫にあるから、と母さんからの置き手紙が置いてあった。
「ただいまー。あれ?お兄ちゃんの方が早く帰ってるなんて珍しくない?」
「菜々緒が遅いんだよ。何時だと思ってるんだ」
「そんな不健全な時間じゃないと思うけど」
十八時過ぎ。確かにそんなに遅い時間じゃないかも知れない。坂城さんともっと一緒にいても良かったのかも知れない。
「はぁ。もう戻れないところまで行っちゃったのね」
「菜々緒?」
「菜々緒ちゃんの方です。さっきの公園のこと、見ちゃてて。目をそらす暇がなかったから。ごめん」
「いいさ。こっちもそう思っていたから。で、戻れないところまでってのは?」
「別れのタイミングが取れないでしょ?戻れる?最初の時の気持ちに」
「無理だろうな」
「でしょ?」
ああ、そうか。もう戻れないんだな。実感が湧いてくる。もう戻れない。最初の投げやりな気分には。死にたくない。そう思えてたまらない。
「なぁ、菜々緒ちゃん、死ぬのは避けられないにしても、もうちょっとだけ時間を先延ばしにすることはできないの?」
「先延ばしにすればするほど、辛くなると思うけど」
「できるの?」
「できない」
「なんだよ。思わせぶりに」
確かに時間が経過すればするほどに深い関係になって別れが辛くなるだろうと思う。でもあの時間はいつまでも続いて欲しい。
「お兄ちゃん、ちょっと私の部屋まで来てくれる?」
「なんだ?」
「ちょっと話したいことがあるの」
自分の部屋に呼ぶのは菜々緒ちゃんとして話がしたいと言うことだろう。一体なんの話なのか。
「あのさ。本当に死にたくない?」
「ああ。死にたくない。死なない方法があればなんでもする」
「なんでもする、か。そうね。例えば、彼女がいなくなっても?」
「どう言う意味だ?僕は死なないけど、彼女だけ死ぬとかそう言うのか?それだったら僕も生きている希望がない」
「そうなるでしょ?」
「だから何が言いたいんだって」
「二人の思いを合わせればどちらかは死なないで済むわ」
それは残酷な選択だった。二人同時に死ぬのか、片方を生きながらえさせて、片方の命を差し出すのか。
「なぁ、それって、向こうの案内人も坂城さんに同じことを説明してるのか?」
「いや、多分してない。あの人はそういうことをしないと思う」
「知り合いなのか?」
「ちょっとね。生きてる時の知り合いなのよ」
「偶然だな」
「ほんっとに偶然ね……」
死んだ後に私たちのように出会う可能性も考えられる。そうすれば永遠の出会いになる。案内人の仕事はあっても、ああやって二人の時間が取れるかも知れない。例えば、私たちが片方だけ生き長らえていたとしたらどうなっただろう。片方が悲しみに暮れるのは分かる。でも、自分のせいで死んだんだって考えたらどうなるのだろうか。耐えられるのだろうか。私はそんな選択肢を彼に与えてしまった。
その日の夜は菜々緒ちゃんの言葉が頭を離れなかった。「片方だけ生きながらえさせることができる」でも片方は死ぬ。仮に僕の命が助かったとして、彼女の死を受け入れることができるだろうか。当然にできない気がする。逆に、坂城さんの命が助かったとして、彼女は僕の死を受け入れてくれるのだろうか。僕は、坂城さんを死なせたくはない。でも、死よりも辛い思いをさせるとしたら……。生死与奪権を僕が持っているような気がして、その日は眠ることができなかった。
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