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第3章 今生きているこの時間
#28.
しおりを挟む「チハル、体は大丈夫か?」
「優子さん、ごめん。多分大丈夫じゃないかな。でも、こうしてみんながここに来てくれたから嬉しい。カケルくん、ハルカと優子さんに手紙を見せたんだね」
「うん。みんなと考えたら、またチハルさんに会えるかなって思って」
「そこのみんなにオレも入ってるよな? カケル」
「もちろん。ここに行こうって言ったのはダイキだからね」
淡い光を放っている街灯が彼女の姿を幻想的に映す。やっぱり彼女は夜がよく似合う。僕らはそんなチハルさんの元へ集まった。昨日も見ていた彼女の顔。なのに僕はじっと見つめているとすぐにでも泣いてしまいそうになる。けれど、僕は絶対に涙を流さないように必死に堪えた。
「ふふ。ありがとう。みんな。正直に言うとね、ここ最近ずっと私の命がもうすぐ終わるんだろうなって思ってたんだ。優子さん。私が店を辞めた日から。カケルくん、キミと昨日過ごしていた時間の時もね。実際に自分の口から私の病気のことを伝えられて良かったとは思ってるけどね」
「チハル、どうして自分の命の終わりが分かるようなこと言うの?」
ハルカさんは普段よりも声を和らげて彼女に聞いた。
「夢を見るんだ、最近」
「夢?」
「そう。今みたいに誰かと一緒にいる時にね。不意に発作が起きるの。心臓が押し潰されそうになるぐらいの圧迫感。それで私は救急車で運ばれてそのまま目を閉じる。他には心臓のリズムが徐々に遅くなっていく時もあった。バッテリーが切れていくみたいに徐々に私の心臓が止まっていくの。それと同時に私は呼吸をすることが出来なければ声を出すことも出来ない。それでそのまま目を閉じる。こういう夢を最近、よく見るんだ。実際、心臓が重たく感じたり息切れをすることも前より多くなった。だからね、前よりも怖いんだ。今この時も不意に発作が起きたりするんじゃないかって」
「医者から心臓の活動を正常にする薬はもらってるだろ?」
優子さんが腕を組んで彼女を見つめる。彼女は悟ったように笑って優子さんの方を向いた。
「もらってるよ。ちゃんと毎日飲んでるけど薬には限界があるの。薬は多分、昔ほど体に効いてないと思うんだ。今になって改めて分かったけど、この病気の一番辛いところは、いつ自分に終わりが来るか分からないところだね」
これまでに見てきた彼女の笑顔のなかで、ダントツで一番辛そうに笑う彼女を見て僕も胸の真ん中が鋭い針が刺さったみたいにズキッと痛みを感じた。
「でもチハルはまだちゃんと生きてる。こうして今もオレたちの前にいる。それは夢じゃなくて確かな現実だぞ!」
ダイキも感情が揺れているのか、普段よりも上ずった声で彼女に言った。
「ダイキくん、キミは名言製造機で詩人だよね。嬉しいことばかり言ってくれるから私も生きなくちゃっていつも思えてた。今みたいに寂しくない時は、不思議と病気のことも忘れられるのに」
彼女は何かを諦めたかのように口を閉ざして地面の方を見て俯いた。
「チハルさん、おれ、ずっと思ってたことがあるんだけどさ」
「ん? 何を思っていたの?」
彼女が僕を見つめるその目は、世界のどこにも見つけることのできない宝石のように僕には改めて見えた。そんなことを思いつく僕もダイキに負けない詩人になれるかもしれない。本人には恥ずかしすぎて伝えることは出来ないけれど。
「寂しくない時は病気のことを忘れられる。じゃあさ、これからずっと一緒にいさせてくれないかな? ずっとっていうのは家も一緒。寝る時も一緒。朝起きる時も一緒。ごはんを食べる時も一緒だよ。おれが絶対に寂しい思いをさせないし、病気のことを忘れさせる。ていうかいつまでもチハルさんの隣にいさせてほしい」
言葉を届けた時には今言ったことも恥ずかしすぎる発言だったかもと、徐々に僕の顔が熱くなっているのを感じた。でも、やっぱり僕は彼女に僕の気持ちが届くまでそれを伝え続けたいと思った。チハルさん以外の3人はわざとらしくニヤニヤした顔で僕を見つめている。
「おい、カケル。プロポーズは他所でやれよ! って言いたいところだけど、超カッコいいぞ! 今のお前!」
「ダイキから聞いてたけど、カケルくん、意外と大胆なところ初めて見たよ! 何か私までドキってしちゃったな!」
『すなっく緋色』の店内にいるようにワイワイと騒ぐダイキとハルカさん。優子さんは逞しい両腕を組んで何も言わずに真剣な表情で僕を見つめている。その鋭さに僕は思わず背筋が伸びた。チハルさんはキラキラに輝く目をじっと僕に向けて、ふふっと小さく笑った。
「キミも懲りないね。こんな命があとどれくらい続くか分からない女が近くにいたら不安でたまらなくなるよ? いつ緊急事態になるか分からないんだよ? 目が覚めたら隣で死んでるかもしれないんだよ? キミはそれでもいいの?」
僕を煽るように言うチハルさんの声は、いつになく荒っぽかった。僕はその声を受け止めるように彼女を見つめた。そんな僕を彼女は苦虫を噛み潰したような顔で見ている。僕の心臓は、彼女と目を合わせていても何も動揺することなく動いている。我ながら成長したなと、心の中で自分を褒めた。
「昨日も言ったのにどうしてキミはそんなことを言うの? 私たち、いつ別れが来るか分からないんだよ? なのに、どうしてキミはいつまでも私を追いかけてくるの?」
「分かりきってることじゃん。チハルさんが大好きだから」
頭で考えるよりも先に声が出た。僕はいつになく落ち着いて彼女を見つめることが出来ている。いつになく落ち着いて言葉を届けることが出来ている。彼女の目がさっきよりも潤っている。今にもそこから涙が零れ落ちそうだった。彼女の呼吸が荒くなっているのが分かった。
「私だってキミのことが大好きだよ! 好きで好きでたまらない! 昨日の旅行だってすごく楽しかった! またカケルくんと一緒に行きたいとも思った! でも、またがないかもしれない! そう思うと怖いんだよ!」
チハルさんの怒号が公園の近くを走り去っていく車のエンジン音と一緒に街の喧騒に溶けていく。僕はこの瞬間しかないと思った。そして、今なら出来ると思った。僕は泣き叫ぶチハルさんに覆い被さるように彼女の体を抱きしめた。彼女のピンク色の髪からは、いつもより強く薔薇の香りがした。それも含めて彼女の全てを抱きしめた。彼女の鼻のすする音が次第に強くなっていく。
「おれはダイキみたいに男らしくないし、ハルカさんみたいに優しくない。優子さんみたいに包容力も無ければまだまだガキだなって自分でも思ってる。頼りないところがいっぱいあるのも自覚してる。それでもおれは、チハルさんのことが大好きだしずっと一緒にいたい。何一つ自信があるものなんておれには無いけど、チハルさんのことをずっと好きでいる自信は胸を張ってあると言える。隣で笑って話を聞いてくれるチハルさんも、お酒でべろべろになって顔が真っ赤になってるチハルさんも、気持ちよさそうに眠っているチハルさんも、声を荒げて怒るチハルさんも。全部大好きなんだ。だからさ、ずっとおれと一緒にいて」
彼女は僕の心臓の辺りで顔を埋めて声を漏らしながら鼻をすすっている。すると、僕の背中に両腕を回した彼女は力強く僕を抱きしめ返した。その強い力に僕も思わず声が少し漏れた。
「キミはいつまでもバカだよねっ! いつ終わるか分からない生活をこれから続けていこうとしてるの? 終わりが来た時、キミがどんな気持ちになるか分かる? 私がもし、キミの立場なら立ち直れないと思うよ? その生活が終わった時、それまでの時間が全部無駄になるんだよ? 時間は戻らないんだよ? それでもいいの?」
「チハルさん。無駄じゃないんだよ。おれはチハルさんと一緒にいられるその時間が欲しいんだ。1秒でも長くチハルさんと一緒にいたいんだよ」
「どうしてキミはそこまで私にこだわるの?」
「チハルさんじゃないとダメなんだ。おれ、こうやって言葉で伝えてるよりもチハルさんのことが好きだから多分、上手くは言い表せない」
「な、何それ……。全然分からない」
「いつも口ベタでごめん」
僕は彼女のピンク色の髪の毛をゆっくりと撫でた。昨日触れた時よりもサラサラしているような気がして驚いた。僕の動揺か彼女に伝わらないように優しく彼女の髪を撫で続ける。
「チハル。アンタも自分の気持ちを素直に言いな」
「優子さん?」
僕の背後から優子さんの声が届く。優子さんの優しくも包容力のある力強い声が彼女の呼吸と声色を整える。
「アタシがどれだけアンタのことを見てきたと思ってんだ。周りに遠慮してることなんざお見通しだよ。ここにいるアタシたちにはそんなことをする必要なんてない。アンタが仕事を辞めてアタシたちの前からいなくなる前に言うべきだと思ったけどね。アタシも今、こうして目の前にチハルがいてくれていることが心底嬉しいよ」
「ふふ、やっぱり優子さんには敵わないな」
彼女はそう言って僕の胸の中で優しく笑った。いつもの彼女の柔らかい笑顔がそこに戻った。それに呼応するように僕の目頭がじんと熱くなった。
「特にカケルにはもう遠慮しなくていい。チハル、アンタの思うままを伝えな。ダイキ、ハルカ。一緒に店に戻るぞ」
「あ、ううん。優子さん。2人もそこにいて。私の本当の気持ち、今からそれぞれみんなに伝えるね」
彼女がそう言った途端、まるでこの場をリセットするかのように強い風がこの公園を駆け抜けていった。それと一緒に彼女から香る薔薇の匂いが僕を包み込んだ。それは普段よりも一層甘く、優しい匂いだった。
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