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第3章 今生きているこの時間
#25.
しおりを挟む「キミはいつも私の想像を超えることを言ってくれるね」
チハルさんの目からはいつの間にか大粒の涙が滝のように流れていた。僕は浴衣の袖からハンカチを取り出して彼女に差し出した。
「いつからそんな紳士になったの?」
「チハルさんはよく泣くからいつでも渡せるようにしてる」
彼女は涙と一緒に笑顔をこぼしながらハンカチを手に取った。
「とか言いながらおれも泣いてるんだけどね」
「キミのそんな顔初めて見たよ。鼻水も垂れてるのに、私にはとっても愛しく思える。私はもうすでに十分幸せだよ」
「お、おれは……!」
「そろそろ部屋に戻ろうか、カケルくん」
涙を拭いた彼女は、いつもの柔らかくて優しい笑顔と僕のハンカチを向けた。
「キミがこのハンカチを使わないと。可愛い顔がぐしゃぐしゃだよ」
「……」
「ほらほら! せっかく幸せな旅行に来てるのに! こんなに綺麗な景色が目の前にあるのに! 最後まで楽しまないと勿体無いよ」
「……最後なんて言わないでよ」
言葉も出ずに体を丸める僕を見兼ねたのか、彼女はとても優しい力で僕を抱きしめた。そして、僕の唇にチハルさんの唇が触れた。彼女からキスをされるのはこれが初めてかもしれない。そんなことを考えられるくらいには冷静さを取り戻せた。気がする。
「私は、キミと出会えて本当に幸せ。今言ってくれたプロポーズも本当に嬉しい。でもね、やっぱり私はキミと一緒にはなれないんだ」
「……」
「さ!最高の思い出が辛い思い出に変わる前に部屋に戻るよ、カケルくん!」
僕の重い腰を強引に上げるように僕を促した。重力が倍になったみたいに重くなった体を僕はゆっくりと動かした。現実と向き合うことの出来ない僕は彼女と目を合わせることが出来ない。
「カケルくん、手、出して?」
「……はい」
差し出した僕の左手に彼女の右手ががっしりと握られた。その手は、まるで春の日差しがそこに差したように温かい体温になっていた。冬の夜みたいに冷たくなっていた手がいつの間にか季節を超えてそこにあった。
「……チハルさんの手、すごくあったかくなってる」
「当たり前じゃん。今、私とっても幸せで気分良いんだから」
「……おれも、チハルさんの隣にいれるのが幸せ」
「ふふふ。それは光栄だね」
僕らはそれから歩いてきた道を帰った。30分くらいかけて一緒に歩いてきた道は、帰り道になると10分もかからないうちにホテルに戻ってきた。僕らはその間、一言も話さずにエレベーターの前までたどり着いた。それが僕らを出迎えてくれるように開いた。僕らはそこに吸い込まれるように再び足を動かす。チハルさんの顔が見れずに足元に視線をやる。さっきの話を聞き、色んな感情が乱れ合っているのか心の中を整理することができない。
「カケルくん」
「な、何?」
不意に名前を呼ばれた声を聞くと、僕の心の中の感情はまるで号令がかかったように同じ方向を向いたように整った。
「部屋に着いたらさ、もう1回エッチしよっか」
不意の誘いに僕は動揺したのか、エレベーターの自動ドアが開ききる瞬間に右肩を思いっきり強打した。
✳︎
『カケルくん、私はキミをずっと愛してるよ』
耳元でチハルさんの優しい声が聞こえた気がして僕は目が覚めた。窓の外から朝が来た事を知らせてくれたように鳥の鳴き声が聞こえる。しょぼしょぼになっている瞼を少しずつ開き、ぼんやりと見える視界を見渡すと、すでに日は昇っていて窓の外は絵に描いたような夏空が広がっている。真っ青な空と、もくもくと立ち込めているわたあめみたいな入道雲。僕はスマホに手を伸ばし、その景色を写真に収めた。寝る前に動かした腰の骨が軋むように鈍い音が鳴った。いつの間にか浴衣は布団の横に脱ぎ捨ててあり、僕はこのパンツ1枚の姿のまま洗面所へ向かった。これほど贅沢な部屋では蛇口から流れる水ですら高価に感じる。僕は顔を洗い、歯を磨き、ようやく意識がハッキリとしてきた。
「あれ? チハルさん?」
僕の横で眠っていたチハルさんがいなくなっている。その現実を理解すると、僕は一心不乱に部屋中を探し回った。けれど、やっぱり彼女はどこにもいない。慌てて風呂場のドアを開けると、そこのロッカーに彼女が着ていた浴衣が丁寧に畳まれて置かれていた。しかし、風呂場のドアを開けても彼女の姿は無かった。そして、彼女の私物が一切無ければ彼女の靴も無くなっていることに気づいた。僕は一気に血の気が引き、絶望感を感じながらフロントへ電話をかけた。
『フロントでございます』
『あ、あの! この部屋に泊まっていた南チハルってチェックアウトされましたか?』
『南様ですね、少々お待ちください。あ、左様でございますね。1時間ほど前にチェックアウトされております』
彼女は先に帰っていた。寝る前まではあんなにお互いを求めあったのに。むしろ、彼女が求めていた気もしたのに。やっぱり彼女は、これ以上僕と一緒にいないことを望んのだろうか。胸にぽっかりと大きな穴が開いた気分になった。
『そ、そうですか。ありがとうございます』
僕はゆっくりと受話器を元に戻して頭を抱えた。寝る前に見た彼女の笑顔が忘れられない。死神に魂を抜き取られたようにヨボヨボと歩いていると、テーブルに白い封筒が置かれていた。宛名を見ると僕の名前が書いてあり、裏を向けると隅の方に彼女の字でフルネームが書かれていた。僕はその封筒に恐る恐る手を伸ばした。その中には、まるで小動物が踊っているような特徴的で愛嬌のある、彼女が書いた文章がそこに並んでいた。
『おはよう。よく眠れたかな? 今、この手紙を書いている時間は3時40分。隣で寝てるキミはとても気持ちよさそうな顔でイビキをかくこともなく眠ってるよ。私は、さっきキミに言われたことが嬉しすぎて、久しぶりに今日キミと体を重ねて幸せすぎて眠れそうにありません。だから今、手紙を書こうと思いペンを手に取りました。
改めてカケルくん。さっきのプロポーズ、ありがとう。心の底から嬉しかった。好きな人からのプロポーズがこんなにドキドキするものなんだって知ることが出来た。先の短いこんな私でも、幸せになってもいいのかなって考えたりもした。本当にありがとう。でもね、やっぱりキミと結婚することは出来ません。考えに考え抜いたんだけど、終わりの近い私といるとどうしたってキミを悲しませてしまう。まだまだ続くキミの人生を辛くさせてしまう。そう考えるとやっぱり私はYESという返事を出せなかった。キミとはこれまでに色んな時間を過ごして、恋人同士みたいな瞬間もいっぱい味わったね。普段はあんまり笑わないキミが、不意に見せてくれた少年のような可愛い笑顔。仕事のストレスなんかで今にも泣き出しそうになっていた迷子のような表情。車を運転している時やキミの好きなバスケの試合を見ている時の真剣な顔。どんなキミもとても愛おしかったし、とてもカッコよかった。今回のこの旅行で見た浴衣姿も、びっくりするぐらい似合ってて平然としているのに必死だったよ。今はだらしなくはだけてるけどね(笑)。キミと出会って私は、女として生まれた喜びを教えてもらった気がする。誰よりも好きになってキミを愛することが出来たと言いきれる。感謝をしてもしきれない。だから、キミとは素敵な思い出が詰まったままお別れしたいんだ。ワガママばかり言ってごめんなさい。これまでの日々、毎日がとても幸せでした。普段は面と向かって言うのは照れくさすぎるから手紙で伝えるのが精一杯でした。じゃあね、カケルくん。今までありがとう。キミは私の分までいっぱい生きてください。
p.s.すなっく緋色も退職したので、これからはもう私と会うことは出来ません。あ、でも今日はあの公園に行ってお酒を飲みたい気分かも(笑)』
「な、何だよ、この手紙……!」
手紙を持っている僕の手が自分の意思を持ったかのように震えている。涙腺は既に決壊して大量の涙が流れているのが自分でも分かった。
「何で悲しむだけだと思ってんだよ!」
彼女のいなくなった部屋で僕は顔を覆いながら泣き叫んだ。一生に出る涙がこの瞬間に流れ出ているのかと思えるほど泣いた。生きる気力を吸い取られたみたいに干からびた体は、そのまま重力に押し潰されてしまいそうになるほど重くなっていた。すると、部屋に設置されていた電話が僕の意識を目覚めさせるように鳴り響いた。
『おはようございます。フロントでございます。チェックアウト10分前になりますので、お待ちしております』
「分かりました」
起きているか? そろそろ出て行ってくれよ、忙しいから。まるでそう言われているような気がして僕の体はますます重くなった気がした。
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