10億人に1人の彼女

やまとゆう

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第2章 唯一の宝物

#17.

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 「え?」

謝られた。ということはそういうことだ。自惚れているつもりは毛頭無かったけれど、彼女も僕のことを気に入ってくれている気はしていた。これまでの人生、人と付き合ったことは無いけれど、この人は好感を持ってくれていると勝手に思っていた。僕の心臓は空気が抜けていくようにゆっくりと脈を打つように戻っていた。
 
 「私もね、キミのことは好きだよ。キミと同じで初めて会った時から」
 「……」

彼女は僕の胸のところでオルゴールが鳴っているような優しい声を出した。僕はそれを受け止めるように耳を傾ける。

 「けどね、私にはまだ秘密があるの」
 「秘密?」

彼女はその秘密を吐露するように大きく息を吐いて僕を見つめた。

 「私ね、キミぐらいの歳の時に結婚を考えている人と暮らしていたんだ」
 「ってことは、5年くらい前ですか?」
 「そうだね。それぐらい。その人とは私が高校生の頃に出会って、私が成人式を迎えた日に付き合い出したんだ」

彼女の声が少し震えているのが分かった。鼻をすする音も聞こえ出した。

 「チハルさん、思い出したくないことなら言わなくていいですよ」
 「ううん、大丈夫。カケルくんこそ聞きたくなかったら言わないよ」
 「いや、おれはチハルさんが言ってくれるなら聞きます」
 「ふふ、やっぱりキミは優しいね」

チハルさんが僕の背中に回している腕がさっきよりも熱くなっていた。

 「じゃあ続きを話すね。その人はどんな時も私のことを優先してくれて過ごしてくれた。私より2つ歳上で大きな会社に勤めている人だったんだけど、私が体調悪くなった時は仕事を休んですぐに飛んできてくれて看病をしてくれた。休みの日は、私が行きたい所ばっかり行かせてくれた。食事も私が食べたい物をいつだって選ばせてくれた」
 「すごい人ですね、その人」

彼女の頭の中にいるその人は、僕には到底追いつくことの出来ない雲の上にいるような存在だというイメージが強くなっていく。それと同時に心の中がむず痒くなるような気持ちがあることに気づいた。

 「2人で過ごす時間もどんどん増えていってね、付き合って3年くらい経った時から同棲も始めたんだ。もうこの時点で私は新婚生活みたいな気分になってて舞い上がってた」

僕は彼女の言葉を自分の中でイメージした。顔も知らないその相手とチハルさんが一緒に笑っている光景がとても羨ましく思えた。

 「2人で住むには狭い部屋だったけど私はとっても幸せだった」

彼女の声が少しずつ小さくなった。僕は彼女を励ますように彼女の背中と頭をゆっくりと優しく撫でた。

 「でもね、彼は出張だって言って家に帰らない日が少し目立つようになったんだ。月に1回、多い時は2週間に1回くらいかな」
 「……はい」
 「私はね、浮気されてるんだろうなーってその時は考えてた。けど、いつも笑顔で帰ってきてくれる彼の顔が見れるから大丈夫だって自分に言い聞かせてた」

僕の胸に雫が一滴零れ落ちた感覚がした。それは異様に冷たくて彼女の感情が一緒に流れていっているように思えた。僕の胸の中も締めつけられているようにきゅっと狭くなる。彼女が話し出すまで僕はずっと彼女を撫で続けた。

 「突然彼は海外出張が決まって2年くらいブラジルへ行くって話になってね。それでも私と彼は遠距離でも続けられる自信があったし、出張が終わればまた一緒に過ごせるって考えてた」
 「うん」
 「けどね、彼を空港まで見送ったきり、二度と彼と会うことはなかった」
 「え、まさかブラジルで事件に巻き込まれて?」
 「私もそう思ってた。でもね、実際は全く違ってね」

彼女の目からは次々と涙が溢れ落ちている。堪らず僕はティッシュに手を伸ばし彼女の顔を傷つけないように優しく拭いた。

 「ありがとう。カケルくん」

彼女の笑顔を見ると、薄暗くて見にくいのに頬がほんのり紅潮しているように見えた。

 「実際はね、彼、ブラジルには行ってなくてね、この国で一番医療技術のある病院にいたんだって。空港まで送ったのにそこから病院に行ってたんだって。信じられる話じゃないでしょ?私がそれを手紙で知る頃には彼はもうこの世にはいなかった」

彼女の話す物語は僕の想像を超えて僕の耳に届いた。僕は彼女に触れたまま思考と一緒に手が止まった。名前も顔も知らないその人のことを僕は何故か他人事のようには思えなかった。

 「そ、そんな……」
 「彼ね、私と一緒にいる時は全くそんな素振りを見せなかったのに、ずっと体の中に病気を抱えていたんだ。それも一生治らない不治の病。彼が15歳の頃に脳に腫瘍ができたみたいでね。それも絶対に治せない箇所に」

彼女は僕の背中に回している両手に力をこめた。無意識なのか、その力は少しずつ強くなっていく。

 「私と一緒にいる間にそれを治すつもりだった彼は、頻繁に病院に通っていた。出張だって嘘ついて病院に通ってたの。回数が増えたのは病状が悪化していたから。私は全くそれに気がつかなかった」
 「び、病院から帰ってきたその人は、いつも笑顔だったんですか?」
 「うん。それこそ病気が治ったみたいな明るい笑顔を私に向けてさ。あんな笑顔の人が不治の病なんて絶対に分からなかった」

彼女が再び口を閉じた。彼女の鼻のすする音だけが部屋に響く。とてつもない話を聞いた僕は、ただ話を聞くことしか出来ないでいた。

 「だからね、それから私は大切な人が側にいてくれるのが怖くなったの。側にいてくれる人がいつかいなくなってしまうって考えると、私はいつも怯えてしまうようになった。キミに勘違いしてほしくないのはね、キミのことはさっきも言ったけど好きだよ。それは間違いなく。けどね、これ以上距離の近づく関係性になることは出来ない。エッチまでしてこんな自分勝手な最低な事言ってごめんね」

彼女の言うことは理解出来た。けれど、それをどう受け止めたらいいのか僕には全く分からなかった。ただ、チハルさんも僕のことを好きでいてくれている。その事実だけが僕の平常心を保ってくれているように思えた。

 「い、いえ。そんな辛い過去を話してくれてありがとうございます。質問はしてもいいですか?」
 「うん。私に答えられることだったら何でも」
 「チハルさんの抱いてるその、いつか自分の側から大切な人がいなくなってしまうのが怖いっていう感情はずっと消えないんですか? おれは絶対チハルさんの側からいなくならないって言いきれますけど」
 「ふふ。私ももしキミと付き合ったなら、すごく大切にしてくれるって思うしすごく幸せになれると思うんだ。でもね、ダメなんだ。少なくとも今の所はね」

儚くか細い彼女の声は、今まで聞いたどんな彼女の声よりも切ない気持ちが乗っているように聞こえた。彼女がそう思っているのなら無理に自分の意見を通すのはダメだ。けれど、どうしても聞きたいことがもう1つある。

 「じ、じゃあチハルさん、何でおれとセックスしたんですか?」

ど真ん中のストレートで思いっきり聞きに来たね、と彼女の声が明るくなりながら僕の腕の中で笑った。
 
 「私だって人間だし女だよ。自分のしたいって思う相手としたいって素直に思ったんだ。側からいなくなる前に好きな人の体温を知っておきたかったの。人間の本能的な部分かもね」
 「…...」
 「矛盾しているようなこと言ってごめんね」
 「お、おれはむしろ、これからもチハルさんの体温を感じたりしたいんですけどダメですか? ごめんなさい、諦めが悪くて」

僕の声を聞いた彼女は、さっきよりも声を震わせて「やっぱりだめだ」と一言だけ言って僕の体を強く抱きしめた。

 「その返事さ、いつか絶対にするから今はお互い友だちのままでいてくれる?」

何がだめなのかは分からなかったけれど、僕は彼女とこれからも繋がっていられるのなら答えは1つに決まっている。

 「はい。これからもおれがチハルさんの近くにいてもいいなら、おれは充分です」

ありがとう。彼女は過呼吸になりそうなほど激しく涙を流して僕の体を抱きしめた。彼女が落ち着くまで僕はゆっくりと彼女の背中を撫で続けた。体を合わせながら彼女の涙を拭くことが出来ている今の状況を、僕はとても幸せだと思った。泣き止んでから静かに眠りについた彼女の顔。僕は彼女に気づかれないように涙を流した。
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