10億人に1人の彼女

やまとゆう

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第2章 唯一の宝物

#13.

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 「ごめんね! お待たせしました」

声のした方から薔薇のような花の匂いが僕の鼻を柔らかくくすぐる。チハルさんは彼女の膝くらいまで丈のある黒色のコートを羽織って現れた。僕はその匂いを嗅いだだけで、ボコンと大きく心臓が動いた。

 「い、いえ。今日もお疲れ様でした」
 「ふふ。ありがとう。カケルくんも久しぶりに店に来てくれてありがとう」

チハルさんは頭を軽く下げ、彼女が少しずつ頭を上げる時に上の方に向いた目線としっかり目が合った。彼女の目は暗い場所にいてもそれを感じさせないくらいに輝いている。お世辞でも何でもなく本当に綺麗な目をしている。

 「いえいえ。今日も本当に楽しかったです」
 「良かった。あ、メッセージも届いてて良かったよ」
 「はい。ハンカチの中に連絡先があったのはビックリしましたけど」
 「ふふ。床に落ちてるハンカチを見た時、今だ! って思ったよ。見てくれてありがとうね」
 「い、いえいえ」
 「あ、タクシー来たね」

運転手は遠目のライトにしているのか、異様に眩しいそれを僕らに向けながら黒色のタクシーが僕らの目の前に止まった。後部座席のドアがゆっくりと開き、彼女は先に僕を乗せるように促した。僕はそのまま流されるようにタクシーの中へ入った。運転手とはバックミラー越しに目が合ったので軽く会釈をした。深々と被っている帽子の下から鋭い目つきで僕を捉えていた。

 「よ、よろしくお願いします」
 「お願いします。トシユキさん、久しぶり。よろしくね」

チハルさんの知り合いだったようで彼女はその運転手にそう言うと、その人は鋭い目つきのまま彼女に挨拶をするように右手を上げた。

 「おう。先月ぐらいにやっとこの街に帰ってこれたから1年ぶりぐらいだな。今日はお客さんと帰るのかい?」
 「うん。お客さんだけど、大切な人だよ」
 「おぉ。チハルがそんなに言うなら大したやつだな。坊主」

鋭い目が再び僕の方を見た。僕はたじろぎながらトシユキさんという運転手と目を合わせた。

 「そ、そうなんですか?」
 「トシユキさん。この子はカケルくん。ちょっと前に知り合った人なんだけど、見ての通り魅力だらけの人。カケルくん、この人はトシユキさん。私があの店で働きだしてからずっとお世話になってるタクシーの運転手さん。見た目はヒデさんみたいにいかついけど、とてもいい人だよ」
 「カ、カケルです。よろしくお願いします」
 「トシユキだ。よろしくな。カケル坊」
 「トシユキさん、今日も家までよろしく。私の家、ずっと変わってないけど覚えてるよね?」
 「当たり前だろ。そこまでまだボケてねえよ」
 「ふふ。良かった。じゃあよろしくお願いします」
 「はいよ」

トシユキさんが運転するタクシーは、この人しか知らないような狭い道を通り抜けていき10分もしないうちに目的地に着いたようで黒い色が特徴的なマンションの前にハザードランプを付けて停まった。

 「悪いな。もっと色んな話を聞きたかったが、もう着いちまった」
 「ううん。いいの。また呼ぶから」
 「おう。とりあえずしばらくはまたこの街にいるから、いつでも呼んでくれ」
 「ありがとう。トシユキさん。また呼ぶね」
 「あ、ありがとうございました」
 「カケル坊もまたな。次に会うの楽しみにしてる」
 「は、はい。またよろしくお願いします」

チハルを任せたぞと、そう伝えられたように派手なエンジン音を鳴らしながらトシユキさんのタクシーは走り去っていった。

 「怖い顔してたでしょ、トシユキさん」
 「は、はい。すごい威圧感でした」
 「ふふ。いかつい顔してるし、あんまり笑わない人だから結構恐れられてるみたいなんだけど、実際接してみるとすごく優しい人なんだ」
 「人は見た目じゃ分からないですもんね」
 「そうそう。またここに来る時は乗せてもらおうよ。今度はわざと遠回りしてもらおうか」

しししと笑うチハルさんは、カツンカツンとヒールの音を真夜中の月明かりに照らされている街中に響かせる。前を歩く彼女は振り向いて手招きをした。

 「おいで。今日は泊まっていきなよ」
 「え!?」

僕は本当に心臓が口から飛び出そうになった。慌てて引っ込めた代わりに自分史上一番大きな声を出したかもしれない。それもこんな真夜中に。ダイキとそういう会話をしていたけれど、まさかチハルさんから誘われるとは思わなかったから尚更驚いた。

 「カケルくん、時間考えて。声でかすぎ」
 「ご、ごめんなさい。ちょっとビックリしちゃって」
 「私の家まで送ってもらったんだからもうキミの帰る手段も無いだろうしね。明日、仕事何時から? あ、もう今日か」
 「ゆ、夕方からです。17時からですね」
 「じゃあ大丈夫だよね。おいで」
 「ほ、本当にいいんですか?」
 「めっちゃ聞くじゃん。いいんだよ。自分で言うのも何だけど、結構過ごしやすい部屋だと思うよ」
 「じゃ、じゃあお言葉に甘えて……」

僕とチハルさんはマンションの中へ入っていく。ロビーへ入ると、チハルさんは慣れた手つきで自分の部屋番号を押していく。真夜中にも関わらず、天井の照明が僕らを眠らさないようにしているのかと思うほど輝いている。僕はこの空間を見ただけで、チハルさんの暮らしに圧倒されそうだった。とんでもない所へ足を踏み入れたなと本気で思った。1分もしないうちにエレベーターが降りてきて僕らを乗せると再びせかせかと動き出した。3階で降り、いそいそと歩いていくチハルさんの後をついていく。そして部屋にたどり着くと、彼女は財布の中からカードキーを取り出して、それをセンサーの方へかざしたのかすぐに扉のロックが解除されて彼女はその扉を開けた。

 「ようこそ、我が家へ」

チハルさんがドアを開けると、そこはあの『すなっく緋色』の世界観に近い空間が僕を迎え入れてくれた。黒い壁にかかる茶色や灰色のドライフラワー、窓際の真っ赤なカーテンが異様な存在感を放つ。ソファやテーブルも黒い色で統一されていて僕の部屋とは比べ物にならないぐらいオシャレな空間が目の前に広がる。チハルさんの自宅ということもあり、彼女から香る薔薇のような匂いも一層強く僕の鼻に届いている気がする。

 「お、お邪魔します……」
 「スナックの店内に似てるでしょ?」
 「は、はい」
 「あの店内はね、何てったって私の部屋をモデルにして優子さんが作ったんだ。優子さん、私のこと大好きだからさ」
 「な、なるほど。薔薇みたいな匂いは、あの壁にかかってる花から香っているんですか?」
 「あはは。あれから匂いはしないよ。あのテレビの横にある、フレグランススティックからしてるんじゃない?」

チハルさんの指差す僕の家の2倍はありそうなほどの大きさのテレビの隣に、花瓶のような黒いガラスの筒のような置き物から細長い棒のようなものが3、4本ほど飛び出している。僕は恐る恐るそれに近づいていく。鼻も近づけてみて、勢いよく鼻から息を吸ってみるとその匂いが勢いよく鼻の中を刺激してむせるように咳をした。思った以上に強烈なそれに、僕は既に恐怖感を抱いた。それは薔薇というよりもお香という表現の方が相応しいように思えた。

 「あはは。そんな近くで吸ったらそうなるよ」
 「は、初めて見た物なので」
 「雑貨屋さんとかによく売ってるよ。あんまり行ったりしない?」
 「そ、そうですね。買う目的の物が思いつかなくて」
 「そうなんだ。見た目はすごく行ってそうだけどね」
 「お、おれがですか?」
 「うん。お洒落に気をつけてそう」
 「全然そんなことないですよ」

チハルさんの家。入るまで死ぬほど緊張していたのに、いざ入ってみて彼女と言葉を交わしていると緊張感はいつの間にか無くなっていて部屋の飾り付けなんかも確認出来ている自分がいる。我ながら驚いた。

 「それを言うならチハルさんの方が断然オシャレですよ」
 「いやいや、私は雑誌を参考にしてるだけだし。あ、ごめん。とりあえず飲み物入れるね。お酒飲む? 梅酒ならあるよ」
 「じゃあいただきます」
 「ふふ。そうこなくちゃ」

チハルさんはそう言うと、慣れた手つきで台所の上に設置されている黒色の天板に逆さまでぶら下がっているグラスを2本取り、その中に冷蔵庫から取り出したパック状の梅酒を注いだ。とくとくと聴こえる液体の音が僕の喉を条件反射のように乾かした。

 「梅酒はロック派?」
 「は、はい」
 「ふふ。私と一緒だね」

2人分のグラスに梅酒を注ぎ終えたチハルさんは満面の笑顔で目の前のグラスを掴んで僕に向けた。紅潮している頬は酔っているからだろうか。僕は今更気がついた。

 「じゃあ、乾杯」
 「か、乾杯」

ぐいっとひと口それを飲むと、冷たい梅酒は僕の体の火照りを冷ますように体全体に流れ込んだ。そして少しずつ、アルコールと甘い梅のジュースのような味が僕の口の中に訪れる。これまで人生で1回しか飲んだことがなかったのに余計な見栄を張ってしまった。

 「うん、美味しい。やっぱり冷たい方が飲みやすい」
 「そ、そうですね。てかチハルさん、顔赤いですよ? 大丈夫ですか?」
 「そう? 至って平常だよ。強いて言うなら部屋の中にキミがいるから緊張してるのかもね」
 「え、えぇ?」

チハルさんはそう言うと、そのままグラスの残り分も一気に飲み干して急に立ち上がった。

 「私、メイク落としてくるからカケルくんはそのまま飲んでて。あ、テレビのリモコン、そこのテーブルの下にあるから好きに使ってね。Watflixって動画サービスに加入してるから色んなドラマとかアニメとかも見れるよ」
 「マ、マジすか……! ちょっと使ってみます...!」
 「ふふ。うん、ゆっくりしててね。あと、すっぴんを見ても引いちゃダメだよ」
 「ひ、引きませんよ! じゃあお言葉に甘えてテレビ見てますね」
 「うん、ごゆっくり~」

映画みたいに綺麗な映像で派手な技をかます少年マンガの主人公の姿も、それを迎え撃つ大型バスぐらいの大きさがありそうなボスキャラの姿も全く僕の頭に入ってこない。入ってくるのは顔を洗っているのか、パシャパシャと彼女がたてる水の音だけだ。この音が止んだ時、彼女は再び僕の前に姿を見せる。緊張してどうにかなりそうだったけれど、オフの状態の彼女を見てみたいという気持ちも同じぐらい強かった。

 『お前を倒してオレはこの国を救ってみせる!』
 『救ってみろよ! ひよっこがぁ!!』
 「ラグナロクバスタぁー!」

僕は反射的に背中を丸めた。急に洗面所からそんな叫び声が聞こえたものだから。すると、テレビの画面に映る主人公もその技名を叫んでいた。水の音が止まり、チハルさんの笑い声が聞こえてきた。

 「カケルくんも好きなんだ、ワンクローズ」
 「は、はい。昔から好きで」
 「それも私と一緒じゃん」

ガチャンとドアが開く音と一緒に彼女の声が聞こえてきた。振り向くと、そこにはいかにも寝る直前の彼女がそこにいた。彼女が着ていると、高級店のセットアップにも見える全身真っ白なパジャマ。前髪をゴムで上げて、ちょんまげを作っていて、顔は洗顔料を塗っているのだろう。健康的な光沢が肌を包み込んでいるようだった。目元だけは何も変わることなく、くりっとした二重瞼とキラキラに光る黒目の部分が僕を見つめていた。

 「お、おかえりなさい」
 「ただいま。私もこのシーン好きなんだ。長年国に君臨していた理不尽な独裁政治をしていたボスキャラを主人公の拳でをねじ伏せる。もう何回も見てるけど、いつでも感情移入しちゃう」
 「ここの必殺技、めっちゃカッコいいのにこれ以降、使われてないですもんね」
 「そうなのよね。まぁルビーの最終奥義みたいなところがあるんだろうからそんな頻繁には描かれないのかもしれないね」
 「チ、チハルさん、すごく熱量が伝わってきますね」
 「だって好きだって言ったじゃん。多分、キミよりもファン歴は長いよ」
 「お、おれだってルビーめっちゃ好きですからっ」
 「ふふ。ここは張り合ってくるね。カケルくん」
 「というよりも、少年漫画読んでいることが意外でした」
 「私、漫画は少年漫画しか読んだことないよ。少女漫画みたいなピチピチフレッシュみたいなやつ見ると、ちょっと拒絶反応起こしちゃう」
 「そ、そうなんですね」
 「てかさ、カケルくんはもう寝るだけ?」
 「え?あ、あぁ、そうですね」
 「そっか。じゃあこれのキリいいところまで見たら電気消そっか」
 「は、はい……」

電気消そっか。僕はチハルさんのその言葉とは裏腹に、まるで体全体に電源が入ったように熱くなった。今の今まで好きな漫画の話で盛り上がっていたのに、それを聞いた途端、体全体にやたらと力が入った。
 
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