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最終章 隣にいる人
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「お待たせしました。当店自慢の秘密のビーフシチューです」
「わぁ! これが! やっぱり実物が一番美味しそうね!」
母さんのはしゃぐ姿を見るのは10年ぶりくらい久々に思えた。そもそもここ3年ほど会うこともなければ、連絡もすることのなかった母さんを私はここへ呼んだ。私のお腹の中に新しい命が宿ったことを報告するために来てもらった母さんは、私がこれまでに見てきたどんな笑顔よりも幸せそうに笑っている。椅子に座りながら子どもみたいに足をぷらぷら交互に揺らしているこのクセを見るのも本当に久しぶりだ。
「今日は来てくれてありがとう。それと、色々報告が遅れてごめんね」
いつも被っている仕事用のクリーム色の帽子が脱げないように私がゆっくりと頭を下げると、私の肩を温かくて優しい手のひらがそっと撫でてくれた。
「いいのよ! 日菜が元気に過ごしているのなら。それに、こんなに美味しそうな料理を作れるようになって、こんなにカッコいい旦那さんと結婚して、それでいて赤ちゃんまでできただなんて。こんなにサプライズが上手だったのは意外だけど、嬉しい報告が聞けて私も幸せだよ」
ニシシと口がDの形になりそうなくらい口角を上げて母が笑顔になってくれている。物心ついた頃からお父さんのいない私を全力で愛してくれた母さんが涙ぐんでそう言ってくれる。今日は泣かないと決めていた私だったけれど、母さんのそんな顔を見ると、やっぱり我慢できなかった。隣にいてくれている達月くんがそっと私にハンカチを渡してくれた。ふわっと香った石鹸のいい匂いが私の心を落ち着かせてくれた。
「ありがとう。達月くん」
「達月くん、改めまして。日菜の母です。この度は日菜と結婚していただいて本当にありがとうございます。まさか日菜の横にこんなに優しい旦那さんがいてくれて、その日菜からこんなにも嬉しい結婚報告を聞きながら、全国的にも有名な、ここのビーフシチューを食べられるなんて夢にも思わなかったです」
「そう言っていただけて光栄です。僕の方こそ、実家の方へ挨拶も行かないままこの場所へお義母さんをお呼びし、今この瞬間が挨拶のようになってしまいまして申し訳ありません」
椅子に座っている母さんにゆっくりと頭を下げる達月くんと、それに応えるように椅子に座ったまま頭を下げる母さん。あまりにも新鮮なその光景を見ていると、私の感情は一周して笑いが溢れた。
「え? 日菜、今笑うところ?」
母さんが不思議そうに目を丸めて私を見つめた。
「ごめん。何だかほっこりして逆に笑えてきちゃって。目の前で母さんと達月くんが話をしてるっていう現実が夢みたいに思えてきて。それでさ、何か、感情が一周しちゃったみたいな気持ちになって」
「ごめんなさいね。この子、たまに変なこと言ったりするでしょ」
「いえ。僕は彼女のそういうところも好きなので。あと、僕も変なこと言ったりするので」
「達月くん、それちょっと、私のこと貶してない?」
「そんなことないよ。いつも通りだよ」
「まぁ2人が仲良さそうで良かった。一目見たら分かるわ。あなたたちがお互いを信頼しきっているのがね。達月さん、ふつつかな娘ではありますが、どうぞこれからもよろしくお願いいたします」
「こちらこそ。頼りない男ではありますが、生涯を共に日菜さんと歩んでいきます。よろしくお願いします」
お互いが頭を下げ合っていて、いつしか頭を下げる勝負みたいになってしまっている空間を、そろそろ私が引き分けにしてあげようと私はその間に割って入った。
「ほ、ほら。2人とも。料理、冷めちゃうから。母さん、食べてみて」
「日菜は相変わらずせっかちね。私は昔から猫舌だからちょっと冷ましてたのよ」
そんなことを言ってスプーンを手に取った母さんが、スプーン一杯にルウをすくい、3回軽く息を吹きかけて口の中に入れた。何かに驚いたように目を見開いて、母さんは次々とルウをすくってはそれを口の中に入れていく。
「美味しい……。本当にこのシチュー、日菜が作ったの?」
「もちろん。当店の鉄板料理ですから」
「使っているのは陶器だけどね」
「達月くん、上手いこと言わなくていいから」
「……本当に美味しい。日菜、立派になったわね」
「それはね、私の周りにいる人が私を成長させてくれたんだよ。今、私のもうひとつの家族みたいに思ってる人たち、つれてくるね」
顔を合わせる前にドキドキと慌ただしく動いていた心臓が、いつの間にか全く慌てることなく落ち着いていた。穏やかな気持ちのまま、ニケさんと優子さんを呼び出して、私は再び母さんの座っているテーブルへ戻った。
「母さん、こちら店長のニケさん。で、隣にいる美しい人がニケさんの奥さんの優子さんだよ。私の師匠でもあり、お兄さんやお姉さんだと思って接してる」
「初めまして。ニケと申します。この度は、日菜さんのご結婚、おめでとうございます」
「あ、ありがとうございます……。ニケさんと言ったかしら。達月くんのお兄さんではないの? よく似てますけど」
「あはは。よく言われます。一緒にいる時間が長いので、顔も似てきたのかもしれませんね」
へらへらと笑って母さんと会話をするニケさんも新鮮すぎる。
「初めまして。お母さん。優子と申します。おめでとうございます。厚かましいかもしれませんが、自分のことのように日菜さんのこと、嬉しく思っています」
「あ、ありがとうございます……。いやぁ、女優さん? 優子さん」
「ふふふ。違いますよ。ニケさんの妻であり、この店の副店長です」
「こんなに綺麗な人、生まれて初めて見たよ。日菜」
「母さん、私が初めて優子さんを見た時と同じ反応してる」
「僕もそう思ってます。妻は本当にこの世界で一番美しい人です」
「ニケさん」
あははと大きな口を開けて笑う母さんを見るのも本当に久しぶりだ。母さんの色んな笑顔を見るたびに、私の感情が大きく動かされる。
「日菜、こんなに素敵な人たちが周りにいてくれてよかったね。私も本当に嬉しく思ってる。おめでとう。それと、こんなに美味しい料理を作ってくれてありがとうね」
「う、ううん。こちらこそ、今日はありがとぅ……」
だめだ。やっぱり感情を抑えきれない。達月くんが貸してくれたハンカチに顔を埋め、溢れ出る涙を必死に拭う。すると、達月くんの大きくて優しい手のひらが私の背中をゆっくりと撫でてくれる。
「日菜と達月くんを見てると、なんか私まで泣けてきちゃったな」
そう言って目元を拭う母さんの声も徐々に震え出した。今まで会えていなかった分、それを埋め合わせていくように母さんの色んな表情が見える。達月くんの真似をするように私は母さんの背中に手を添えてみた。母さんの体温を知るのも久しぶりだった。私の手よりもずっと温かい、優しさがそのまま背中から滲み出ているような体温だった。
「日菜、私、達月くんに撫でてもらいたいなぁ」
「いやいや、そこは私にさせてよ、母さん!」
「あはは。冗談だよ。ありがとうね、日菜」
「むー」
結局は、私と達月くんが一緒に母さんの背中をゆっくり撫でる形になり、それを見ているニケさんと優子さんが私たちを目を潤ませて笑っていた。達月くんを見ると、彼も両目から涙が零れ落ちていた。あまりにも静かに涙を流していたものだから、彼が泣いているのを見て驚いた。
「た、達月くん、大丈夫!?」
「うん。いやぁ、僕ね。生きててよかったなって思った」
気づけば全員が涙を流して笑い合っている空間。彼の言葉を借りる形になるけれど、私も本当にこの時間を、この人たちと一緒に生きてきてよかった。そして、これからもこの人たちと一緒に生きていきたいと思った。今度はこの場に佳苗と晴樹さんも絶対に呼ぼうと決めた。私はこれからもこんな素敵な瞬間と出会うために、1日1日生きていこうと思う。
___________
『人生には、太陽と月が交互に空へ昇っているように、明るい気持ちになったり、1人になって自分を慰めたい気持ちになったりする時がある。はたまた、その気持ちが浮いたり沈んだりすることもある。けれど、それが人生なんだ。僕たち、私たちはそんな人生を繰り返して明日に向かっていく。その明日を自分たちらしく生きていく。それが出来ることに感謝して、一歩ずつ歩いていこう』
頭の中には『早乙女達月』が書いた、私の好きな小説の文章が浮かんだ。その言葉を抱きしめるように、私は達月くんに力いっぱい抱きついた。びっくりしている様子の彼は、目を大きく見開きながらもそんな私を受け入れて優しく包み込むように抱きしめてくれた。私たちの側からニケさんと優子さん、母さんの笑い声が聞こえてきた。彼の胸元で深く息を吸うと、彼から香る優しい石鹸のいい匂いと、私の食欲を刺激する香ばしいビーフシチューの匂いが一緒になって私の鼻をくすぐった。つられるように私も彼の胸元で力一杯笑った。
Fin.
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