秘密のビーフシチュー

やまとゆう

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最終章 隣にいる人

#52

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 「何かさ、日菜さん」
 「うん? 何? 達月くん」
 「部屋に2人きりだと、ずっと前に日菜さんが僕のアトリエに来てくれた頃を思い出すよ」
 「あったね。もう3年くらい前だよね。てか、あの達月くんのアトリエ、この家に雰囲気似てない? ってあの頃、ずっと思ってた」
 「あ、バレた? あそこはね、この家の内装だったり装飾品を真似して僕がアレンジしたんだ。僕もこの家、ずっと好きだから」
 「だよね。今更だけど今頃知ったよ。でも、嬉しかった。達月くんもこの家が好きなんだって改めて分かったし、達月くんと一緒のものが好きだっていう事実が嬉しかった」

彼は自分の顔を隠すように右手で鼻の頭を撫でるように触った。それにつられるように私も恥ずかしくなってきて、わざとらしすぎるくらい大袈裟に髪の毛先を両手でわしゃわしゃ触った。

 「あ、今、すごいいい匂いした」

達月くんはそう言うと、私の頭の上に自分の頭を置くように私に近づいた。私の視界は彼の喉元だけになった。骨の上に1枚だけ皮が貼られているようなごつごつとした喉仏を見ていると、無性に彼が男らしく見えてきて途端に体が発火したかのように全身が熱くなった。

 「わ、達月くん。ち、近いよ」
 「ごめん。ちょっとだけこのままでいさせて。すごい落ち着く」

次の瞬間、彼の優しさを表しているかのような温もりが私の全身を包み込んだ。それと同時に、私の鼻の側に石鹸が置かれたかのようないい匂いも訪れた。さっき彼の言ったいい匂いの正体は彼自身の匂いなのではないかと思うくらい、彼の体からいい匂いがした。

 「しょ、しょうがないな。恥ずかしいから私の限界が来るまでね」
 「さっきも抱きしめてたと思うんだけど」
 「あ、あれはあれだよ……! アドレナリン? みたいな! 興奮と感動で勢いよく、みたいなやつだって……!」

我ながら見事な慌てぶりだ。生まれてこの方、自分でも発したことのない言葉が出る始末。心臓が体の外に飛び出てきそうなほど大きく、強く脈を打っている。彼に伝わっていないだろうか。本当に恥ずかしい。

 「はは。日菜さん、心臓の音デカすぎ。ごめん、大きすぎて笑っちゃった」

しっかり聞かれていた。彼の笑顔を見ることを出来たのは嬉しいけれど、恥ずかしさが半端ないし、近くに隠れる場所があったらすぐにそこに隠れたい。

 「た、達月くんのせいだよ……!」
 「ごめんごめん。僕の方こそ、アドレナリンが出てるのかも。あ、それにちょっとお酒も入ってるし。っていう言い訳をさせて」
 「しょ、しょうがないなぁ……。まぁ今日は達月くんがここへ帰ってきた記念の日でもあるからね」
 「ありがとう」
 「あ、私もこの体勢のまま、ひとこと言ってもいい?」
 「うん。何?」
 「私もずっといい匂いするって思っててね。それが達月くんからいい匂いしてるんだ」
 「はは。そう言われると僕も慌てちゃうよ」

また彼が鼻の先を触った。隙アリ。届きそうだったその瞬間を狙って、私は彼の唇を文字通り奪った。奪ってやった。恥ずかしすぎて閉じていた目をそーっと開けると、彼は豆鉄砲を食らった鳩みたいな顔で無言で私を見つめていた。ほんの一瞬しか触れなかった唇だけど、まるでマシュマロみたいに柔らかかった。自分で自分の体温を高くする地雷を思いっきり踏みながら彼に抱きしめられたまま、その綺麗な目をじっと見つめた。

 「私、じつは負けず嫌いなんだよね。達月くんのこともこれからいっぱいドキドキさせるから覚悟しておいてね!」

彼の体温と匂いに包まれている私は、徐々に熱くなっている体と恥ずかしさを必死に押し殺し、人差し指を彼に向けながら自分史上一番のドヤ顔を彼に見せつけた。すると、彼はふふっと笑って私の唇にキスを返してくれた。彼のキスは私よりもずっと上手で、指先で触れられているような微かな感触がとてもくすぐったくて、とても心地よかった。私の体が一層熱くなり、彼の唇も同じくらい熱を帯びているように思えた。

 「僕も負けず嫌いなの知ってるよね」
 「え? 知らない。達月くん、平和主義だと思ってたけど。でも、生まれて初めてのキスがキミで私はとっても嬉しいよ」

彼はまた驚いたように目を丸くした。

 「待って? 僕もファーストキス」

そう言ってへらっと笑う達月くんの笑顔は、いつまでも見ていたくなる。けれど、さっきオトナの味がしてきそうなキスが初めてとは。私には納得できない。それほど余裕のあるキスに感じたのに。

 「絶対ウソでしょ。達月くんは」
 「いやいや。ほんとだから」
 「ないない。だってこんなにイケメンで、こんなに優しくて、私の唇がとろけてしまうぐらい上手なキスをしていて、それでいて初めては絶対ないでしょ」
 「僕、ウソはつかないよ。それに日菜さん、しれっと自分ですごい恥ずかしいこと言ってる気がするけど大丈夫?」
 「大丈夫じゃないよ! めっちゃ恥ずかしいよ!」
 「おー、2人とも楽しそうにやってるねぇ」

私の大声は、ニケさんのドアを開く音によってかき消された。達月くんと抱きしめ合っている私を見て、2人とも目尻や頬皺あたりに同じような形の皺を刻んで微笑んでいる。達月くんと私は慌てて体を離し、何事もなかったかのようにニケさんと優子さんに「おかえり」と声を揃えて荒げた声を出し、2人を笑わせた。

 「2人とも、息ピッタリだね。僕と優子みたいだ」
 「ニケさん、私も今そう思った」
 「いやいや、ニケさん。優子さん。流石に私たちは2人には負けるよ」
 「あ、日菜さん。僕も今そう思った」

似たもの同士の私たち4人は、似たような言葉を選んで身を寄せ合うように笑い合った。それから私たちは、日付が変わっても変わることなく笑い合いながら語り明かして朝を迎えた。窓から差し込んでくる眩しい光が、私たちの新しい1日を祝ってくれているように思えた。そんな1日が今日も始まりを告げた。
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