秘密のビーフシチュー

やまとゆう

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最終章 隣にいる人

#51

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            ✳︎

 出来上がりを知らせるタイマーの電子音が厨房の中でけたたましく鳴り響いた。クリスマスの時に使うような赤と白が混ざり合った色の鍋つかみを右手にはめて、鍋の蓋をゆっくりと開けた。それを開けた瞬間、まるでビーフシチューのお風呂に入っているのかと錯覚するほど濃厚で美味しそうなにおいが広がった。鍋の中を覗くと、ぐつぐつと煮込まれたルウは程よく焦げ目のついたチーズと混ざり合っている。その中に浸かっているじゃがいもとブロッコリー、人参が食欲をそそり、サイコロステーキのように四角い牛肉がほろっと溶けながらその顔を覗かせる。うん、出来栄えは完璧だ。鍋の中にスプーンを入れ、ルウをすくいそのまま口の中へ入れる。同じように小さく解けた牛肉の破片と小さなじゃがいもを順番に口の中へ入れていく。

 「やば……。これは美味しい……」

一通り味見を終え、無意識に言葉が出た。自分の味に満足することは今まで無かったけれど、このビーフシチューだけは確信を持って言える。とても美味しい。隣で見守ってくれている優子さんとニケさんも笑顔で私を見た。

 「じゃあ私もひと口」
 「僕も」

優子さんとニケさんも鍋の中へスプーンを入れる。ニケさんのスプーンだけ私たちのより3倍くらい大きいものを選んでいて、何だかそれがニケさんらしいなとも思えた。2人とも、私のビーフシチューの味見を終えるとゆっくりと首を縦に1回大きく振って頷いてくれた。それに応えるように私も頭をゆっくり縦に振った。彼が意外と大食いなことを知っている私は、2~3人前で注文された時に使う大きな白い皿に、これでもかとビーフシチューを流し込んだ。湯気とともに湧き上がったにおいが再び私の食欲を誘いながらそれを彼の元へ運んでいく。優子さんとニケさんは気を利かせてくれているのか私をキッチンから見つめてくれている。背筋をぴんと伸ばし綺麗な姿勢で座っている彼は、私の足音に気づき、彼がこのビーフシチューを見た瞬間、まるで少年がカブトムシを見つけた瞬間のようなキラキラとした笑顔を私に向けた。おまけに、いつも星空のように綺麗な瞳が一際綺麗に光っている。

 「来た! 秘密のビーフシチュー! もう既に美味しそうだね」
 「うん。今日が一番美味しく出来たかもしれない。では、改めまして。当店の裏メニュー、ビーフシチューでございます」
 「待ってました。ずっと前から」
 「ふふ。やっと食べてもらえる時が来たから、私も本当に嬉しいよ」
 「日菜さん」
 「はい、何ですか?」
 「これ、日菜さんの分もある?」
 「え? あると思うよ」
 「じゃあさ、一緒に食べようよ。みんなで」

うずうずと顔に書かれているような表情で私を見る達月くんの目を見ていると、「しょうがないなぁ」と口には出しながらも私も一緒に食べたくなってキッチンの方へ戻ろうと振り返った。すると、キッチンから優子さんとニケさんが3人分のビーフシチューを運んできた。

 「ニケさんがさ、達月くんはみんなで食べようって言うだろうからって。すぐに持ってきちゃったよ」

えへへと笑う優子さんの手には1人分のビーフシチュー、後ろにいるニケさんが2人分のビーフシチューを持っていて、そのうちのひとつを達月くんの向かい側の席へ置いてくれた。

 「ていうか、僕もみんなで食べたかったからさ。じゃあ食べちゃおう」
 「あれ? 佳苗さんは?」
 「佳苗ちゃんはね、さっき職場から急用でって電話がかかってきてて、ちょっと前に出て行っちゃった。だから今はこの4人で全員」
 「佳苗には悪いけど、私と達月くん、ニケさんと優子さんで改めて乾杯しようよ」
 「そうだね。じゃあみんな、手元にあるジンジャーエールをお持ちください」

優子さんの声に促され、ニケさんと達月くんと同じように私もジンジャーエールの入ったグラスに手を伸ばした。誰が言うのでもなくみんな席から立ち上がり、グラスを片手に持った。すると、3人の視線が一気に私の方を向いた。

 「え? こういう時ってニケさんが言わない?」
 「日菜ちゃん、ごめん。緊張しちゃって。代わりに言ってもらっていい?」
 「えぇー? 全然、そうは見えないけど」
 「あ、でも僕も日菜さんに言ってかも。このビーフシチュー作ってくれたのも日菜さんだし。日菜さんの声で祝ってもらいたし」
 「そういうことだ。日菜ちゃん、達月くんも『日菜さん』を連呼するぐらい言ってほしいんだよ。というわけで、お願いします」

不意に訪れた何も音のしない空間。期待が込められている3人の視線。私はもうどうにでもなれという思いで開き直って「じゃあ!」と明らかに声量を間違えながら右手に持ったジンジャーエールを高く掲げた。

 「達月くんの完治祝いを祝し、これからの達月くんの健康、それから個人的にはなりますが、達月くんと私の明るい未来を願って!」

『か』と言いかけて口を開けた瞬間、店のドアが勢いよく開き、銃でも発砲されたのかと思うほどのクラッカーの乾いた音がパンパンっと2発部屋に響き渡った。驚きのあまり、ジンジャーエールをこぼしそうになりながら左手で左耳だけ塞ぎながらドアの方を見た。

 「かんぱあぁーい!!」
 「乾杯。達月くん、改めておめでとう。日菜も改めておめでとう」

そこには本当に久々に見た晴樹さんと、さっき職場へと向かった佳苗がいた。ありえないかもしれないけれど、晴樹さんはまた身長が大きくなっているように見えた。ありえない話だけれど、佳苗はさっきよりもお腹が大きくなっているように見えた。うん、さすがに佳苗の方はありえない。けれど、さっきよりも妊婦感というか、1人の妻としてそこにいるように見える。やっぱり2人は良い夫婦だ。それでいて、こんな粋なことをしてくれる、とっても素敵な2人だ。

 「達月、久しぶりだな。本当によく頑張ったな」
 「ありがとう。晴樹も足の完治、おめでとう。あと、日本代表、おめでとう。なんかデカくなった? 前よりさらに」

やっぱりそうだよね。口より先に心の声が達月くんの声に反応した私は、それに同意するようにわざとらしく首をこくこくと縦に振る。

 「そうなんだよ。怪我した足に普段をかけないように安静にしていただ
ろ。んで、その後、リハビリで日少しずつ足に刺激を与えて、バランスの良い食事をしてっていう日々を繰り返してたら3センチ伸びててさ。今、2メーター3センチ。まさかこの歳になって身長が伸びると思わなかったよ」

やっぱり伸びていたんだと思えて、少し笑えた。手を伸ばせば私に届く距離にいる晴樹さん。久々にこんな近くで晴樹さんを見たけれど、威圧感がすごい。まるで大きな壁が迫ってきているみたいだった。けれど、顔を覗くと、達月くんやニケさんと同じで優しい青年という表現が相応しい無邪気な笑顔を見せてくれる。

 「日本代表って感じの身長だね、晴樹さん」
 「ありがとう、日菜ちゃん。でもね、外見だけじゃなくてプレーも日本代表になってるからね。ついでに言うと、パパっていう競技種目でも日本代表になれると思ってるから」
 「日菜、晴樹さんのそういうのに付き合わなくていいからね。晴樹さん、日本代表って言いたいだけだから。何? パパの日本代表? あるわけないでしょ。そんな競技」
 「分かってる分かってる。俺のボケが面白くないのは俺が一番よく分かってる」
 「よく分かってんじゃん。でもね、これから生まれてくるこの子と私にとっては、世界で一番のパパになってね。期待してるから」

飄々と言い放つ佳苗の言葉には、その言葉と裏腹に佳苗なりの想いが込められていて、私はやっぱり佳苗はすごいなと素直に彼女を尊敬した。晴樹さんがそれに気づいているのかは疑問に思える顔でへらへらと笑っているのを見ていると、目の奥の方がまた熱くなってきてそれを落ち着かせようと大きく息を吸って長めの息を吐いた。

 「日菜ちゃん、これ、晴樹くんと佳苗ちゃんの分」
 「あ、優子さん。ありがとう。佳苗、晴樹さん。これ、当店自慢の裏メニュー、秘密のビーフシチューです」
 「おぉ! これが! 佳苗から聞いてたんだ。いつか食べたいと思ってたからめちゃくちゃ嬉しいよ! あー、良い匂いしてんなぁ」
 「確かにすっごく美味しそうな匂い。牛肉ももう既に美味しいのが伝わってきそう。でも待って。当店自慢の裏メニューって日本語、この国に存在するの?」
 「あはは。どうだろうね。ちょっと勢いで言っちゃった」
 「そういうところ、昔の日菜っぽいね。あ、良い意味でね」
 「それ本当に良い意味?」

何年ぶりに揃っただろう、私が好きな人が全員同じ場所にいるこの瞬間。加えて、私の好きな場所にいる全員がいる、いてくれるこの瞬間。1人ひとり違う楽器を鳴らし合っているような、けれど、それでいてみんなで一緒の曲を奏でているような感覚。そんなたくさんの笑い声が部屋を覆う。私の笑い声もみんなと同じように部屋の一部になって溶けていった。
 さっきまで窓から明るい日差しが差し込んでいたのに、気づくと部屋の中に電気をつけないと暗く思えるくらいの時間帯になっていた。私たちの手元にあるビーフシチューの入っていた皿は、全員が一切食べ残しのない状態で置かれている。私を含め、全員がビーフシチューを堪能してくれていて、心の底から嬉しく思った。そんな私の表情に気づいたのか、隣に座っている達月くんが、みんなには気づかれないくらいの小ささでふふっと笑って私の方を見た。

 「いやぁ、飲んだなぁ。佳苗。俺、顔赤いか?」
 「赤いわけないじゃん。晴樹さんはお茶だけでしょ。この後、運転してもらわないといけないんだし」
 「ハハ。ちょっと俺も久々に酒飲んだ気分、味わいたくなってな」
 「え? 2人とも帰っちゃうの?」

佳苗がそんなことを言うものだから、私の胸の中がまるで誰かに握られたようにきゅっと狭くなった。

 「ごめんね。日菜。この後は本当に行かないといけない場所があるんだ。晴樹さん関係の事情でね。だから、また近いうちに晴樹さんと一緒にここに泊めさせて」
 「そっか……。寂しいけどしょうがないね。うん、私はもちろん、ニケさんと優子さんも歓迎してくれるだろうからいつでも来てよ」
 「うん。僕も優子も、もちろん大歓迎だよ。今度は僕がナポリタンでも振る舞おうか」

へへへと笑うニケさんの顔は、お酒が入っていて林檎みたいに頬が赤くなっている。それを見兼ねた優子さんがニケさんの肩を撫でながら佳苗に柔らかい笑顔を向けた。

 「ニケさん、酔ってるけど本心だから安心してね。もちろん、私も大歓迎だから」
 「ありがとう。ニケさん、優子さん」
 「あ、優子。僕も優子を連れて行きたい場所があるんだけど」
 「え? 今から?」
 「うん。2人ともお酒入ってるから夜の散歩になるけど」
 「どこに?」
 「ふふふ。内緒だよ。だからごめん、達月。日菜ちゃん。ここの鍵は持ってくから施錠だけ頼むね。しばらくしたら戻ってくるから。急に2人にさせてごめんだけど」

ゆっくり2人の時間を楽しんでね。鍵は僕も持ってるし、しばらく家には戻らないから。私にはニケさんがそう言っているようにしか聞こえなかった。私が思うに、ニケさんは多分酔ってない。優子さんもそれに気づいたようにわざとらしいため息を吐いてゆっくり頷いた。

 「じゃあこんな時間だけど案内してもらおうかな。久々に夫婦2人で散歩っていうのも悪くないだろうし」
 「そうこなくっちゃ。じゃあ晴樹くん、佳苗ちゃん。僕たちと一緒に出るか」
 「はい。そうしましょう」
 「日菜。達月くん、またね。今度は私がアップルパイ作ってくる」
 「あ、それはぜひ食べたい。絶対すぐに作ってきて」
 「分かったよ。じゃあね、日菜。おやすみ。達月くんもおやすみ」
 「おやすみ。佳苗。晴樹さん」
 「おやすみ。2人ともありがとうね」

2人ともやっぱり夫婦だ。笑った時のくしゃっと顔に刻まれる皺の場所が全く同じだった。ドアを出る際に見せた2人のその笑顔がとても鮮明に頭の中に残った。
 
 「じゃあ日菜ちゃん。達月。僕らもちょっと行ってくるね」
 「はーい。楽しんできてくださいね。ニケさんも。優子さんも」
 「ありがとう。日菜ちゃん。達月くんもほどほどにね」
 「何をですか。優子さん」
 「ふふ」
 「早く行ってください」
 「はーい。私たちも楽しんできまーす。戸締まりよろしくね」

ドアを出て行った4人の声が次第に遠くなっていく。それと同時に、私と達月くんだけがいるこの空間には、さっきまでの時間が嘘のように静寂が訪れた。達月くんと私の呼吸をする音だけが耳に届く。

 「日菜さん」
 「は、はい……!」
 「ちょっと飲み直しませんか?」
 「よ、喜んで……!」

達月くんが急に丁寧な言葉遣いになるものだから、私も慌てて敬語で返した。2人きりになった空間。嬉しくもあり、緊張する空間。そんな私を落ち着かせてくれるように、彼は優しい笑顔を向けながら手に持っているジンジャーエールの入ったグラスを私に差し出した。彼につられるように私も頬が緩み、体に入っていた力が嘘のように抜けていた。

 「じゃあ改めて日菜さん、ただいま」
 「うん、おかえり。達月くん」

かちんと音を立ててグラスを鳴らし、くっとひとくちそれを口に入れると、炭酸が抜けていたのか普段よりも優しい味がして、続けてもうひとくち、グラスに口をつけた。それを見た彼が、「炭酸抜けて飲みやすかった?」と笑って私に聞いた。ふふ。やっぱり彼には敵わないなぁ。私は笑いながら頷いた。
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