秘密のビーフシチュー

やまとゆう

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第2章 人が嫌いだった

#28

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 「それで仕事がなくなった俺は家でダラダラと過ごした。一昨日なんか朝起きてから布団の上で何もせずにボーッとしてて気がついたら夕方になって日が沈んでた。文字通り抜け殻になってたよ。食欲も湧かなければ眠りたいと思うこともない。エロい本やそういう動画を見ても何も反応しやしない。この生活を続けてたら本当に人間じゃなくなりそうな気がしてた」

自分の心の中を曝け出すようにゆっくりと話す彼は、さっきみたいに暴れる様子は無いように思えた。彼の言葉を受け止めるようにニケさんと優子さんが同じタイミングで頷いて相槌を打っている。

 「そんで昨日、流石に何か行動しようと思ってSNSを開けたら、たまたまこの店の料理と風景がアップされていた。その写真に写っている食い物と飲み物を見ていると、たまらなく店に行きたくなった。コメントにはリーズナブルな値段でとても美味しい料理と素敵な空間を楽しむことが出来たと記されていた。あと、これはとても不思議なことなんだが、数ある宣伝されている写真のなかで俺はダントツでここに行きたくなった。未だに理由は自分でもイマイチ分からない。ただ、俺にはそこへ行くと、これからの何かが変わるかもって思えたんだ。そう思っていたのに実際ここへ来た俺は……。はは、あの有様だよ。自分が嫌になる」

人にはそれぞれの事情がある。改めてそう考えささせられる瞬間だった。反省しているこの人を見ると、ニケさんと優子さんの言った通り、情のある人なんだと思う。ただ、さっきこの人が優子さんを怒鳴っていた瞬間を思い出すと、やっぱり体が固まってしまうほど怖いと思うのが正直なところではある。一方で、ニケさんの優しい声色は変わらず男の人に届いている。

 「そうやって僕たちの店を魅力的に考えていただいたのは本当に嬉しい話です。お客様にそう思っていただけるのが僕たちの一番の幸せです」
 「……俺さ、何かの拍子ですぐに顔に態度が出てしまうんだ。さっき態度に出た原因を今正直に言うと、お前たちの店には無い。何も悪くないんだ。転職活動がさ、全然引っかからないんだよな。夕方までに色んな会社に問い合わせをしまくった。これから、それを受け入れてくれる会社は結局見つからなかった。そのストレスをぶちまけるようにアンタにつっかかってしまった。本当に悪いことをしたと思っている。すまなかった」

男の人が優子さんの顔をじっくり眺めてから深々と頭を下げた。頭を下げる前、男の人が目を潤ませ歯を食いしばっている顔が見えて胸の辺りにちくりと痛みが走った。そんな彼を優子さんは聖母みたいに優しい顔でその人を見つめてその人の肩に優しく手を置いた。

 「顔を上げてください。あなたが暴れていた理由も分かりましたし。もし私がそんな状況だったら、大袈裟かもしれませんが自分で命を終わらせるように考えていると思います。それでもあなたは命を捨てずにここへ来ました.それだけで大きな前進です。私たちは生きているだけで頑張っているんです。だから疲れるし苦しいな、楽をしたいと思うのは当然です。長い年数を生きているとはまだまだ言い難い私が言うのも僭越ですがね」 
 「……なぁ、アンタに聞きたいことがある」
 「私が答えられるものでしたら何でも」

静かに涙を流すその人を受け止めるように優子さんはゆっくりと頷いて彼を見つめる。

 「今の俺みたいに、人生でどん底に沈んだことってあるか?」
 「……えぇ。どうやって死のうか考えた時期がありました」
 「……その時ってどうやって立ち直った?」

男の人に尋ねられた優子さんの目も感情が動いているのか、少しずつ光るものが見えているように私には思えた。

 「命を救ってくれた人と出会いました。私の人生の中で2人の命の恩人がいます。そのうちの1人が隣にいるこちらのニケさんで、もう1人がその人です。もしもそのどん底にいた私の元にその人が来てくれていなかったら、今私はこうしてここにいないと思います」
 「……そうか。アンタもそんな経験があったんだな。だとしたら、俺の命の恩人はアンタとアンタだ」

男の人が指先を向けた先にいるニケさんと優子さんは全く同じタイミングで微笑んだ。そして、全く同じタイミングで頭を下げた。

 「そんな風に言っていただいてありがとうございます。私たちはまだまだ半人前ですが、あなたにそう言っていただけて心底嬉しいです。今後も、この店があなたの憩い場になってくれましたら幸いです」
 「ビーフシチュー、完食していただいてありがとうございました。僕たちはある合言葉を言っていただけましたらいつでも作ります。なので、また食べたくなったらいつでもいらしてください。合言葉はですね……」

ニケさんはそう言うと、男の人に近づいて耳元に手を自分の手を添えようとした。

 「ニケさん、そんなコソコソしなくても日菜さんも達月くんも知ってるよ」
 「分かってる分かってる。いやぁ秘密の合言葉だから声は小さくして言おうと思って」

はははと笑うニケさんの顔を見ていると、やっぱりここが私にとっても心の拠り所で人生の憩い場なんだと改めて思える。ニケさんにつられて私の顔も緩んだ。佐藤さんは相変わらず表情は無いけれど、普段よりも穏やかな雰囲気を纏っている。気がしなくもない。

 「それと。俺が怒鳴ったせいで客がこの2人以外いなくなってしまってごめんな」
 「いえ。お客様の悩みが少しでも晴れたなら僕たちは嬉しいです」
 「……本当に優しいのはアンタたちだと俺は思うぞ」
 「ふふ。そう思っていただけたのなら、私の命の恩人のおかげです。そう言っていただけてありがとうございます」
 「アンタたち2人も悪かったな。こんなむさ苦しいオッサンが怒鳴ってて気分悪かったろ」

男の人が私と佐藤さんを見つめて軽く頭を下げた。その人の目は、まるでさっきとは人が変わったかのように穏やかなものに見えた。私はも彼を真似するように私も軽く頭を下げた。隣にいる佐藤さんを横目で見るとぴくりとも動いていなくて少し笑えた。

 「私は接客業をしているのでこう言う場に立ち会うのはわりと慣れているのでそこまで悪くなかったです。それに今は反省されてるみたいですし」
 「僕は久々に人が怒っているところを見ました。気分は良くなかったです」
 「……だろうな。すまなかった」
 「でも、僕自身も過去に死にたくなった時期がありました。だから、さっきあなたの話を聞いて共感するところもありました。そして、あなたもこれからこの店を利用するべきだと僕は思いました」
 「俺が利用してもいいのか?」
 「この店を経営しているのはニケさんと優子さんです。そこはお2人に聞いてください」

佐藤さんがニケさんと優子さんの方に手を向けると、2人ともこの人を抱きしめるような笑顔でゆっくりと首を縦に振った。

 「……やっぱり俺は今日、ここに来てよかった」
 「そう思っていただけましたら、僕と優子も嬉しいです」

            ✳︎

 男の人が店を出ようとドアノブに手を伸ばした頃には、今日ここであった出来事が全て夢のように思えた。けれど、この男の人がこんなにも穏やかな顔で私たちを見つめているのだから間違いなく夢ではない。

 「ニケさん。優子さん。佐藤くん、そして桜井さん。アンタたちは俺にとって命の恩人だ。今日は本当にありがとう。あと、あのビーフシチュー、結局タダでいただいてしまったが、次はぜひ金を払わせてくれ。そして、また近いうちに絶対食べに来る。明日からの人生、俺なりに少しずつ頑張ってみようと思う」
 「はい。ですが無理のしすぎは禁物ですよ。いつでもいらしてください」
 「あ、お客様。お名前、伺ってもよろしいですか?」

ニケさんがへらっと笑顔を見せて男の人にそう尋ねると、その人も満更ではないように顔を緩ませて笑った。この人の笑顔を見たのはこの瞬間がおそらく初めてだ。ニケさんや優子さんにはもちろん敵わないけれど、この人の笑顔も素敵だと私は思った。彼のこの先の人生、私以外にも絶対この笑顔を素敵だと言ってくれる人がいると確信している。

 「日村だ」
 「日村様。ご来店ありがとうございました。またのご来店、僕と優子はいつでもあなたを歓迎します。またあの味を作りますので」
 「あぁ、ありがとうな。本当に心強い。楽しみにしてる。じゃあまたな」
 「またお越しくださいませ」

日村と言ったその人の姿が見えなくなるまでニケさんと優子さんは頭を下げて彼を見送っていた。日はすっかり落ちていて、空を見上げるとまん丸の満月が私たちのちょうど真上ぐらいの場所に浮いていた。夜の時間になっていたのに、今日の夜空はいつもより明るく感じた。空気も普段よりも暖かく感じた穏やかな気持ちになれる時間を私はニケさんと優子さん、そして佐藤さんと一緒に過ごした。佐藤さんの方をちらっと見ると、彼も私の目を見ていたものだから私は慌てて視線を逸らした。すると、佐藤さんの方から笑い声のようなぷっと何か噴き出したような音が聞こえた。つられて私も笑えた。
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