秘密のビーフシチュー

やまとゆう

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第1章 好きな色は黒。

#13

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 心の方がこんなに耐えられないぐらいボロボロになったのは本当に久しぶりで、このままの状態で電車に乗ると吐きそうな気がするし、家に帰りたくなかった私は無意識に誘われるようにあの場所へと足を進めていた。時刻は18時を少し回った頃。この時間からでも、ある程度は滞在することが出来るだろう。早くあのコーヒーを飲んで落ち着きたい。その一心で歩いていく。見えてきた。いつものお洒落な赤いレンガ作りが特徴的で、店のドアの前には本物とは見間違えそうなほどリアルな黒猫のインテリアのある喫茶店。今日はこの黒猫の丸くて黄色い目が、私を心配してくれているような視線に感じる。

 『黒猫とマネキンのキッチン』

店の名前もインパクトが大きいこの喫茶店のドアを開ける。私を迎え入れてくれるようにドアの上に設置されているベルがちりんちりんと優しい音で店内に響く。この喫茶店の名前の由来が、ここ最近で一番興味のあることだと自分では思っている。

 「いらっしゃいませ。お1人さまですか?」
 「あ、はい」
 「お好きな席へおかけください」

昨日と同じ綺麗な女の人の店員が、私とは比べ物にならないくらい優しい笑顔を向けて案内してくれる。その笑顔が私の廃れた心を洗い流してくれるように思えた。ただ、佐藤達月さんと笑顔で話していた光景も同時に頭の中に浮かんでしまうため、少し自分の中で無意識に壁を作ってしまっている気がする。昨日来た時と同じ窓際の席へ向かった。すると、その席の近くにあるソファの席に前回と同じ人がそこにいた。

 「あ」
 「あ、こんばんは」

私の心臓が大きく動いた。子犬のような目で私を見てソファに座っている人。さっき思い浮かべていた佐藤さんだ。彼の声とほのかに鼻に届くラベンダーのいい匂いが、私を包み込むように迎え入れてくれた。

 「お仕事帰りですか?」

おそるおそる私が聞くと彼はぷるぷると横に首を振った。その仕草は、まるで子犬が体についた水を払うような愛嬌のある動きに見えた。

 「いえ。今、ちょうど仕事中なんです」
 「あ、ご、ごめんなさい……! お邪魔しちゃいましたね」
 「謝らないで。端から見たらリラックスしてるように見えますよ。僕は大体、ここでいつも仕事の仕上げをしているんです」
 「な、なるほど……!」
 「桜井さん」
 「は、はい……!」

不意に呼ばれた彼の声を聞いた私の背筋は、条件反射が起こったようにぴんと真っ直ぐに伸びた。

 「よかったら向かい側にどうですか? 昨日、言ってたから」
 「え、あ、でも仕事中なんですよね?」
 「大丈夫。近くに誰かがいても気が散ったりしないんで。ちょっと沈黙の時間が多いかもしれないですけどそれでもよかったら」

彼はそう言うと、私の首のあたりから目線を外しパソコンをじっと見つめた。

 「さ、佐藤さんがいいならお言葉に甘えて……」
 「はい。甘えてください」
 「し、失礼します……」

ボフッとソファのクッションが私のお尻を受け止めるように沈み込んだ。確かにこれは座り心地がいい。何もしていなくてもこのソファの膨らみが、私の疲れを取ってくれるように思える。

 「柔らかいでしょ。クッション」
 「はい……! 思っていた以上にフカフカでした」
 「ここにいると、5分で疲れが取れますよ」
 「ほ、本当にそんな気がしてきますね」

彼はいつものように無表情でキーボードをカタカタと音を立てて押している。私もコーヒーを頼もうとメニューに手を伸ばし今日の気分を探した。

 「今日、何かありました?」
 「え? どうしてですか?」
 「昨日見た時より疲れてる顔してるなって思ったんで」

心の中にあるドアをノックされたような気持ちになった。誰にも気づかれないようにトイレで気持ちを切り替えたつもりだったのに、彼にはすぐバレてしまった。そんなに酷い顔をしているのだろうか。私はすぐにでもトイレに行って確認したくなった。その間、彼には何も言えなくて少し気まずい沈黙が訪れた。

 「いや、ごめんなさい。僕の勘違いだったかもしれないので何も無かったのなら大丈夫です。すみません」
 「い、いえ。あったと言えばあるんですけど……」
 「……僕でよければ話、聞きますよ」
 「え、で、でも……」
 「ちょうど今、明日使う資料が完成したんでいくらでも聞けますよ」

お待たせしましたと言って、彼はパソコンの電源を切りそれを自分のトートバッグにしまった。彼は話を聞くスイッチを入れたようにゆっくりと手元にあるコーヒーを口にした。

 「ありがとうございます……。じ、実はですね……」

私は半分開き直るように今日の店で佐藤さんの友達に言われたことを全て伝えた。彼は私の拙い説明の合間に、このソファの柔らかいクッションを挟むように相槌を打っていた。そのおかげか、自分にしては伝わりやすい言い方で言えた気がする。

 「なるほど……。あの晴樹がねぇ……」

私よりも細いように見える腕を組みながら、彼は何かを考えているかのように首を傾げた。

 「私、人からあんなに真っ直ぐなことを言われたことがなかったので、どうしようってなってしまったんです! 軽いパニック状態になったので何を言ったかは覚えきれていないですけど……」
 「あいつ、前の彼女がいたのが8年くらい前なんですよ。話せば長い酷いフラれ方をしてて。トラウマみたいになってて、その分好きなバレーボールに打ち込んでたんですけど。よっぽど桜井さんのことが気に入ったのかもしれないですね」
 「そ、そうなんですかね……」
 「桜井さんはどうしたいんですか?」
 「え? 私?」
 「晴樹と食事に行きたいんですか?」
 「い、いえ……。本当に申し訳ないんですけど、食事に行きたいという気持ちは無いです」
 「じゃあそれを伝えるべきです」
 「諦めないって言ってたんですけど……」
 「そこは僕が言っておきます。桜井さんにも迷惑がかかるって」
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