秘密のビーフシチュー

やまとゆう

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第1章 好きな色は黒。

#10

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 こんな時間が来るなんて予想だにしなかった。偶然にしてはドラマのような展開すぎて心の中は今も落ち着かない。いつの間にか私は彼と会話をしている。それに、私のこのお気に入りの喫茶店のお気に入りの席で。お互い探り探りでぎこちないところがあるのは否めないけれど、ちゃんと言葉のキャッチボールが出来ている。少なくとも私はそう思っている。彼の顔はやっぱり表情が無いし、声のトーンも一定で、私と視線が合うことなく話をしているけれど、私にはそのある程度の距離感が丁度いいように思えた。

 「僕、人と目を合わすことが苦手なんです」
 「はい。何となくわかってました! この人はいつも、どこを見てるんだろうなって思いながら今もいます。何なら、この前のスポーツショップに来ていた時もそう思ってました」
 「あれは本当にボールの状態が気になってて。っていう言い訳をさせてもらいます。ていうか、今更のこと聞いてもいいですか?」
 「は、はい! 何でしょう?」

改まって彼がそう言うものだから、私は自然と背筋がまっすぐに伸びた。肩にも普段よりも余分に力が入っている。彼は何を言うのだろう。あまりにため込むものだから足元がソワソワしてきた。

 「お待たせしました。チビチキとミックスジュースですね」

沈黙が訪れた彼と私の間に割って入るように例の綺麗な店員さんが彼の頼んだ物を持ってきた。絶妙なタイミングに、私の体に入っていた力が自然と抜けていったように体が軽くなった。

 「ありがとうございます」
 「今日もお仕事ですか?」
 「いや、今日は単純に休息日です。最近、ちょっと寝れてなくて」
 「そうなんですね。ここはいつまでも居ていただいてかまいませんので。体、壊さないでくださいね」
 「ありがとうございます」

店員さんは柔らかい笑顔を彼に向けて足早に去っていった。去っていく顔を覗くと、やけに赤みを帯びているように見えて私は全てのことを知ったように納得した。心の中でそんなことを考えていると、彼が再び私の首元をじっと見つめている。

 「あ、ごめんなさい。さっきの途中でしたよね。今更の聞きたいこと」
 「あ、いえいえ。何でしたか?」

私は店員さんに気を遣うようにさっきよりも声を小さくして再び彼の目を見つめた。

 「お名前、聞いてもいいですか?」
 「あ、そうか。言ってませんでしたもんね。桜井日菜(さくらいひな)です。桜の木に井戸の井。日の出の日に菜葉の菜です」
 「……やっぱり」
 「……え? 何のやっぱり?」

彼の左目がその瞬間、じっと私を見つめた。そして私と目が合った瞬間、すぐに視線は私の首元の方に戻った。この人と会ったことがあるのだろうか。頭の中にある引き出しをひとつずつ開けていくように記憶を探った。けれど、絶対に出てこない気がした。まさかの同級生だろうか。

 「……フルネーム、とっても明るい人ですね。苗字も名前も」
 「あ、あぁ。そ、そうですよね。桜も日も。ちょっと張り切りすぎかも」
 「人との接し方を見ていて思いました。この人は太陽みたいな人だなって。だから今お名前を聞いて納得しました。やっぱりって。あ、もちろんいい意味で言ってますからね」
 「あ、ありがとうございます……。なのかな? 何と言えばいいか分かりませんが……」

心臓の鼓動だろうか。どくんという強い音が耳の近くで聞こえてくる。こんな音が聞こえるのは生まれて初めてだ。私の記憶探りは見事に見当違いの形で終わった。私は返答に困りながら彼に言葉を返した。ふと彼の目線は窓の方を向いていて、私の返答には何も返さずにいる。店内に流れている静かな音楽が逆に私を焦らせてくるように強引に耳に入ってくる。

 「あの……!」
 「なんですか?」

思い切ってみようと声をかけると、彼の目線は再び私の首元の方に戻ってきた。私は焦らないようにゆっくりと呼吸をしながら彼の目を見た。

 「私もお名前、聞いてもいいですか?」
 「……佐藤達月(さとうたつき)です。佐藤は日本一名字の数が多いさとうで、達成の達にお月さまの月でたつきです」
 「達成の達にお月さまの月でたつき……」
 「早乙女達月と一緒の字ですよね」

彼の名前を聞いた私の心臓は、彼の声を聞いているうちにどんどん速く脈を打っている。そう思えるほど私の心臓が激しく動いている。これは何の感情に対して心臓が動いているのか自分でも分からず心の中が混乱する。

 「ま、まさか……!」
 「いや、本人ではないです」

私は再び見当を間違えた。あまりにもあっさりと否定され、彼は顔色ひとつ変えずに私の首元を変わらずじっと見つめている。

 「僕も同じ字のたつきくんには会ったことなくて。早乙女達月と同じ字なのは個人的にもすごく嬉しく思ってます。早乙女と佐藤も音がちょっと似てたりしますしね」
 「……いやぁ、本当に本人かと思っちゃいました……! 佐藤さんの持つ独特な雰囲気とかが余計に小説家さんみたいだと思っちゃったし……」
 「よく何を考えてるか分からないって言われます」

うん。それは私も確かに思った。何なら今でも思っている。というか、本当に本人じゃないのか。彼の選ぶ言葉がどことなく早乙女達月の小説に出てきても違和感がないように感じてしまう。

 「そ、そうなんですね……。あ! 独特な雰囲気ってもちろんいい意味で言ってますからね! 私の方も!」
 「ありがとうございます。いい意味でって言われるの、ちょっとくすぐったいですね。さっきあなたにそう言った僕が言うのも何ですけど」
 「あはは、私もさっきくすぐったいような気持ちになりました」

笑顔で彼の顔を見ると、彼の目線が私の目を向いていた。目が合った瞬間、私の心臓がまたひとつ大きく跳ねた。すると、彼のスマホが突然大きな音を立てて振動した。彼の目線はすぐにスマホの方へ向いた。画面には『常連』と書かれているように見えた。彼はため息を吐きながら素早くスマホを取って席を立った。

 「あ、ごめんなさい。電話だ」
 「あ、はい! ごゆっくり!」
 「すいません。ちょっと離れます。もしもし……。あぁ、大丈夫です。はい……」

彼は小さな声で喋りながら喫茶店の入り口のドアを開けて外へ出ていった。私の心の中は嵐が去ったように落ち着き、あんなに激しく聞こえていた心臓の音もいつの間にか聞こえなくなっていた。そんな私を落ち着かせるように店内にはピアノのアレンジで演奏されている、去年流行ったバラードの曲が今にも演奏が止まりそうなほどゆっくりなリズムで流れていた。
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