秘密のビーフシチュー

やまとゆう

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第1章 好きな色は黒。

#5

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            ✳︎

 『今日は迷惑な客が1人も来なかった。大体1日に5人くらいは理解不能なことを言ったりしてくるヤツがいるけど、珍しい日もあるものだ。それに、今日は印象的で対照的な人たちが来た。1人はガッチガチのアスリート体型の人。首太すぎだし腕太すぎだし身長デカすぎ。色んなものが規格外って感じの人だった。もう1人はもやしみたいに細い男の人だった。隣にいた人がデカかったから余計に細く見えたのかもしれないけれど、腕は私の半分くらいしかないくらい細かったし、肩幅も隣にいた男の人の半分くらいしかないように見えた。おまけに顔が私の掌くらいの大きさに見えた異常に小さな顔。性格なんかも全然違うくて、大きな人は昼間の太陽みたいに明るい人で、細い人は夜中の空に浮かぶ月のように静かな印象を持った』

カチンとボールペンの芯をしまい、自分の中の活動するスイッチもオフになった気持ちになった。今日も寝る前に今日あった印象的な出来事を日記にまとめた。いつからか習慣になっているこの作業も、普段よりも長めの文章になった。いつも書きながら睡魔が襲ってくるのに、今日は自分でも驚くほど目が冴えてペンを走らせた。よっぽど印象に残ったのだろう。

 『人のことは言えないけれど、あの大きな人は心の中に大きな闇を抱えていそうに思えた。私がそうであるように、過剰に明るい人は必ず自分にしか分からない顔があるものだ。そういう意味ではあの人と私は少し似ているところがあるのかもしれない。ただ、もう片方の人は本当に分からない。喋っていた時も表情は変わらないし、目が合っていた時も私のことは何も見ていないように見えた。まるで遠くにある景色を眺めているようだった。もしもまた会うことがあれば、彼のことをもう少し観察してみたいと思う。もちろんその人の生態に興味があるだけだ。男性的な目線というわけではもちろんない。そんなわけで今日もいい1日だった。おやすみ。今日の太陽の私』

気づけば日記の内容がポエムがかった痛めの文章になっていた。明日の自分がこれを見ると鼻で笑ってしまいそうだ。まぁいいかと半ば開き直って日記帳を閉じ、毎日持ち歩いているトートバッグに入れてからベッドへ潜り込んだ。今日は普段よりも気温が暖かかったからか、布団の中もいつもより冷たくなくて心地の良い気持ちのまま瞼が閉じていった。

            ✳︎

 そんな次の日は大抵地獄だ。いいことばかりは起こらず、この世界の決まりみたいに悪いことも起こる。スヌーズ機能を無意識で自分で止めていて、起きる時間が普段よりも40分も遅れたところから全ての歯車は狂い出していた。いつも乗っている電車に間に合うように全速力で走っていると、道の曲がり角で自転車に乗っている男子高校生と出会い頭に正面から衝突した。普段とは違う時間にいるからか、この男の子は初めて見る顔だった。坊主頭で判断するのはよくないかもしれないけれど、野球部の朝練に向かう途中といったところか。彼が咄嗟にブレーキを効かせてくれたので、大した痛みもなく大きな事故にはならなかったけれど、トートバッグの中に入っていた持ち物が全部飛び出てしまい、財布の中のお金が飛び散り小銭やお札が何枚か溝の中に入ってしまった。

 「本っ当にすみません! 今すぐ病院へ連れて行きます!」
 「いや、本当に大丈夫です! 体が丈夫なのが私の唯一の取り柄なので! むしろ、私の方こそ注意不足でごめんなさい! 怪我してませんか?」
 「大丈夫です! 僕も体だけは丈夫なので!」

このやりとりを5回ほど繰り返してから私はしびれを切らして駅の方へ再び本気で足を動かし始めた。せめて駅まで送ります! と言われて再び足止めされたが、この子の荷台に乗せられた、黒色でやたらと光沢のある大きなエナメルバッグがここは俺の特等席だと言わんばかりに鎮座している様子を見ると、彼の自転車には私の乗る場所はどこにもなかった。その後、姿が見えなくなるまでお互い頭を下げ続けてその場を離れた。再び全速力で走り続けて着いた駅のホームにはすでに電車は発車した後だった。観念して北山さんに遅刻するということをメッセージで送ってから電車を待っていた。20分後に着いた電車には、ため息が漏れそうなほど多くの人が中にいた。車内を見渡してみたけれど、本当に私の入るスペースがあるのだろうか。乗る電車が1本ズレただけで、こんな地獄絵図のような車内にいないといけないのか。私は今日起こっている全ての出来事に嫌気がさしながらなるべく人の少ない車内の隅を探しながら電車に乗った。奇跡的に乗れた。

            ✳︎

 「そりゃあ日菜。今日は大人しくしてた方がいいね」
 「でしょ? お金も落としちゃうし最悪だよ」
 「お金が溝の中に入っちゃったのはヤバいね。取れないの?」
 「まぁ管理会社に連絡を入れたりしたらいいんだろうけど、色々しないといけないって考えると色々面倒なんだよね。多分、お札も1000円ぐらいだろうし小銭も数えるぐらいだろうからさ」
 「私ならそれでも連絡するけどなぁ」
 「意外とめんどくさがり屋なのは昔から知ってるでしょ?」
 「うん。十分ね」
 「あはは! さすがだよ」
 「かわいそうだから、今日バイト終わったらコーヒー1杯奢ってあげるよ」
 「ホント!? それなら今日も頑張れちゃうなぁ!」
 「逆にそれでスイッチ入る日菜も流石だよ」

佳苗のおかげで今日の地獄のような負の連鎖は断ち切られた。佳苗とカフェに行くことを楽しみにしていると、今日はあっという間にバイトが終わった。何だ、いいことも起こってくれるじゃん。私は普段よりも達成感を感じながら仕事を終えて佳苗と一緒に店を出た。雨上がりなのか、オレンジ色の夕焼け空に大きなアーチをかける虹を見た。虹を見るのなんて何年ぶりだろうか。空が今日頑張った私を労ってくれているようだった。うん、悪いことの後は良いことも起こる。
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