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それから……

それから……

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            ✳︎

 最期の時間を家で過ごすことに決めた師匠は、それから半年後に天国へ旅立った。余命宣告の時期はとっくに過ぎているのに、僕らには一切それを感じさせずに明るく優しく、時にはふざけて過ごしていた師匠。家で過ごしていた師匠は、まるで癌が治ったかのように昔と変わらない笑顔を僕らに向けていた。最期の最後まで師匠は師匠だった。

 蝉がけたたましく鳴く暑い8月の日。葬式で見た、声が聞こえてきそうなほど豪快に口を開けて笑っていた師匠の遺影写真。棺桶の中で気持ちよさそうに眠る顔。式の途中で読まれた、僕らそれぞれに向けられた内容の手紙。僕はその全てを心の一番奥にしまった。いつまでも大切にしまっておくよ。絶対に忘れないからね。葬式に行ったのは初めての経験だったけれど、あんなにみんなが笑顔になる葬式は絶対珍しいと思う。師匠との最期の別れだからもちろん泣いた。僕は一生分の涙が出たんじゃないと思えるほど泣いた。師匠と関わりがあったのであろう喪服を着た参列者の人たちも、優子たちバーのみんなも僕と同じように泣いていた。けれど、式が終わる頃には僕の涙は止まっていた。理由は分からないけれど、台風が過ぎ去った後の空模様のように清々しい気持ちになっていた。あと、師匠がこの真っ青な空の上から見守ってくれている気がした。それは僕だけでなく、式に参加していたみんなが同じように明るい表情になっていた。本当に不思議な時間を過ごした。

 「ニケさん。涙の跡、くっきりだよ」
 「優子も。アイメイク落ちてるよ」
 「2人とも泣きすぎだよっ! 私よりも絶対泣いてた!」
 「いやいや。京子の泣いてる声が一番大きかったから。絶対」
 「うん。真希に1票!」
 「けど、何でかスッキリしてるんだよね。何かこう、心が洗われたっていうか。暖かくなった」
 「美咲、それ僕も思った」
 「私も」

こんな話をしながら僕らは笑顔のまま、僕らの、師匠の家に帰ってきた。

 「ただいま」

僕らは家に帰ると、師匠の好きだったコーンスープやビーフシチューを作り、僕が17歳になった時にみんなが祝ってくれた誕生日会みたいに賑やかな食事をした。時間を忘れ、僕らは思いっきり楽しんで過ごした。

 「みんな。またね」
 「うん、ニケくん。師匠、今日は天国まで移動距離が長くて疲れてるだろうからあんまりうるさくしちゃダメだよ」

真希が師匠みたいにニヤニヤしたムカつく顔をして僕の耳元でそう囁いた。

 「な、何言ってんだよ!」
 「ふふ。冗談だよ。じゃあまたね」
 「おやすみ!」
 「おやすみなさい!」
 「おやすみなさーい! お幸せにっ!」

ガヤガヤと帰る見慣れない黒い服の4人の後ろ姿を、僕と優子は姿が見えなくなるまで見つめ続けた。

 「今日がお葬式とは思えない程、楽しい1日で終わったね」
 「うん。でもそれが師匠の最期の日って思うと、何か師匠っぽいなって納得する」
 「ふふ。そうだね」

僕と優子は手を繋いだまま家の中へ戻った。そして、そのまま師匠が使っていた部屋に入り2人でベッドの中に潜り込んだ。

 「師匠、怒るかな?」
 「うん、多分ね。でも師匠のことだから、何だかんだ言いながら見守ってくれるよ。てか、師匠が怒っても今日はここで優子と一緒にいたい」
 「おぉ? ニケさん珍しく積極的だね」
 「だめ?」
 「ううん。私も一緒にいたいよ」

優しく僕を包む優子の声は、師匠に祈りを捧げる天使の声のように聞こえた。ふと机の上にある写真立てが僕の視界に入った。そこには昔の師匠と、師匠と同じくらいの背丈の女性が肩を組んで写っていた。いつか師匠が話してくれた師匠の師匠だろうと僕は確信した。そこに写る2人の顔は、この世界にいる誰よりも幸せそうに笑っている。2人とも笑顔がよく似ていた。

 「おやすみ。優子、師匠」
 「おやすみ。ニケさん、師匠」

僕らはお互いの体をくっつけ合って瞼を閉じた。やっぱり優子から師匠と同じ匂いがした。

 「ニケさん」

もぞもぞと動きながら僕の腕の中で不意に優子が僕を呼んだ。

 「なに?」
 「ニケさんの体、師匠と同じくらい暖かいや」

そう囁き、ぎゅっと力を入れて僕を抱きしめる優子を僕も優しく抱きしめて僕は優子と唇を重ねた。

 「僕が優子を幸せにする」

恥じらいを心の奥にしまい、体を重ねた。優子の体は驚くほど温かかった。すると、僕の両腕の間から優子が驚いた様子でひょこっと顔を出した。

 「どうしたの?」
 「ううん。何でもない」
 「なんだよ。気になる。頼りないとか知ってるよ。僕だってたまには男らしいことを言わせてよ」
 「ふふ。違うよ。やっぱり私はこことニケさんが大好きだなって思ったんだよ」

見ているだけで幸せになる優子の笑顔を見て僕と優子は、再び唇を重ねた。

 「ふふ、僕も」

その夜、僕は優子と師匠と3人であの公園で笑い合う夢を見た。とても暖かくて優しい時間だった。遠くの方で3匹の猫が僕らの様子を見守っているのが見えた。

            ✳︎

 『師匠へ

 天国でも大声で笑っていますか。師匠のことだから、すぐにそっちでも友達ができるだろうなと思っています。けれど、師匠の笑い声はうるさいから少し空気を読みながら声量を調整してください。僕が思う師匠が苦手にすること断トツの1位、場の空気を読む。これが出来たら師匠は完璧だと思います。まぁ読んじゃったら師匠っぽくなくなるかもしれないけどね。と、上から目線で言ったけれど、僕は師匠から1から10まで全てのことを教えてもらった。まずは一言言わせて。

 師匠。今まで僕のそばにいてくれて、僕を育ててくれて本当にありがとう。僕の師匠でいてくれてありがとう。

 普段は照れくさくて、面と向かって言えなかった。可愛い弟子の恥じらいをどうか許してください。師匠が公園で拾ってくれた日から20年以上が経った。僕の身長も、いつの間にか師匠より大きくなっていた。嫌いだったコーンスープも好きになった。そして、友達や大切な「人」ができた。こんな僕でも「人」が好きになったよ。師匠と過ごした日々が僕を育ててくれた。僕も「人」になることができた。本当にありがとうございました。これ以上褒めると師匠が調子に乗ってしまうだろうからもう言わないでおくね。

 そういえば、葬式で聞いた師匠の手紙で納得したことが1つあった。それは僕が黒猫になれたこと、そしてなれなくなったこと。確かに昔の僕は「人間」が嫌いだった。数え出すとキリがないくらい嫌な所があり、歳を重ねても学校へはもちろん行かなかったし、師匠以外の「人間」と話をするのが嫌いだった。そんな感情を常に抱いていた僕は、気がつくと黒猫になっていた。突然に始まった猫の世界はのんびりとしていて、とても気に入っていた。好きな時にゴロゴロ出来るし、面倒くさい関係性なんてもちろん無い。公園に行けば白猫と仙猫さんともゆったり過ごせた。黒猫だからほとんどの「人間」は気味悪がって近づかなかったから、僕は1匹の時間を存分に楽しんだ。たまに小学生の子たちに骨を折られそうになるぐらい抱きつかれたりもしたけどね。

 そんな時期に師匠が持ちかけてきたバーの手伝い。楽しいはずのない時間を無理しながら過ごしていると、気がつくと僕の周りには「人」がいた。そんな「人」たちから、「人」というものを教えてもらった。理由は分からないけれど、僕はそれを教えてもらった代わりに黒猫になれなくなったんだと思う。黒猫の時に作った思い出もあったし、今でもたまに黒猫になりたいと思う時もある。でも、今の僕は「人」である僕も大切になった。この生活を手放したくないと思うようになった。だから僕は、黒猫だったボクと「人」である僕の両方を引っ提げてこれからも生きていこうと思う。僕の隣にいてくれる「人」を師匠が見る度に、あのムカつくニヤケ顔を向けられるのが頭に浮かぶけどね。

 さて、話は長くなったけれど師匠。手紙、どうもありがとう。少し距離はあるけれど、これからも僕や優子、他のみんなのことをいつまでも見守っていてください。僕らはみんな、ずっと師匠が大好きです。こんなことは金輪際言わないつもりだからこの手紙は大事にとっといてね。じゃあ師匠、たまには僕の夢の中で一緒に酒でも飲もう。最近日本酒の美味さが分かるようになったから、もちろん師匠の奢りであの時みたいな晩酌をしよう。楽しみにしてるよ。じゃあまたね。     ニケ』

いつもより早い時間に目が覚め、師匠宛てに書いた長めの手紙を写真立ての横に置いた。しばらくすると優子も目を覚まし、うーんと体を伸ばしゆっくりとベッドから体を起こした。

 「おはよう」
 「おはようニケさん。あれ?」

目を擦りながら話す優子の視線の先には、屋根の上にいる3匹の猫が窓の外から僕らを見ていた。1匹は全身真っ白な毛で覆われた猫、1匹は茶色と白が混じった毛むくじゃらで落ち着いた様子の猫。そしてもう1匹は、全身真っ黒で大きくて黄色い目がくりっとした猫がそこにいた。そこに黒猫がいたことに、僕は優子に気づかれないように驚いた。

 「あの公園の猫たちだね。絶対」

優子はそう言うと、窓を開けて3匹を部屋に迎え入れた。3匹とも吸い込まれるように部屋に入ってきた。

 「キミ。久しぶりだねぇ。どこ行ってたんだよ」

そう言って優子は黒猫を抱きしめた。優子に毛並みを優しく撫でられて気持ち良さそうに鳴く黒猫。その黒猫の表情を見ていると、頭の中に師匠の顔が浮かんだ。その黒猫からは金木犀のような優しい匂いがした。

 「おかえり」

そう言って僕も黒猫の頭を撫でた。2人して黒猫を撫でていたものだから、白猫と仙猫さんはヤキモチが聞こえてきそうな顔で僕らを見つめていた。

 窓の外を見てみると、もくもくと立ち込めた入道雲が真っ青な空を独り占めして太陽が見えたり隠れたりする、まるで絵に描いたような夏の朝だった。部屋に吹く涼しく心地良い風と一緒に、ふと師匠のうるさい笑い声が聞こえた気がした。それに反応した僕と優子は、全く同じタイミングで師匠の写真を見た。そして、全く同じタイミングで目を合わせて笑い合った。        
 
             fin.
            
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